主観的見解の多い専門家の評論や評価 | 日本語好きな人、寄っといで

主観的見解の多い専門家の評論や評価

 ことばの音がもっているイ具体的なメージや表情についての研究は、言語関係の学問ではどこでも行われていないため、イメージのことになると実用面でことばと取り組んでいる作家や評論家の論評などにも、抽象的で隔靴掻痒のものや、見当外れなものに遭遇することが少なくありません。



 ある新聞の俳句欄で、

まじり合ひて 濁らぬ泡や 冬泉

とうい投稿句がありました。これに対して高名な俳句作家が次のように論評していました。
「前半にある濁音が、この句から清澄な印象を奪ってしまった」と。

 確かにこの句は、表現しようとしている意図とは裏腹に、清澄感の表現に欠けていることは指摘されたとおりですが、その原因は「全半にある濁音」(じ)だけのあるのでなく、それ以外の原因となるものが多く見落とされているのです。
 「清澄感」を作るには、
1、濁音を少なくする。
2、有声音を少なくする。
3、無声摩擦音を多く使う。
4、「イ列音」を多く使う。
が必要ですが、この句が満たしているのは4、の「イ列音」が多い(注、18音中6音)だけで、濁音は前半の1音(じ)のほか「ご、ず」の3音あることが大きな原因ですし、少なかるべき有声音はこの句では「て」以外の17音(94%)と異常に多いこと、また無声摩擦音は、「冬」の「ふ」ただ一音しかないことなど清澄感を作る大事なものが見落とされていることの指摘がないことです。

 このように専門家の論評でも、ことばのイメージのことになると、客観的裏づけのない個人の主観によって論じているものがたいへん多いのです。