美しい日本語とは
「美しい日本語」とは何かを明らかにしたものはなく
この語は極めて観念的なものにすぎないが、あえてそれを明らかにしないと、
この課題ととりくむことはできない。
そこではじめに、私の主観をもとに「美しい日本語」についてその枠作りを
してみたいと思っている。「美しい日本語」を捉えるには、「美しくない日本語」を知ることによって
明らかになるように思われる。
私の経験から「美しくない日本語」として次のものが上げられるように思われる。
1.言い憎い言葉。
2.音響的に無駄がある言葉。
3.言葉の音響が意味的内容(コンセプト)を適切に表現していない言葉。
すなわち、美しい言葉について論ずるにあたっては、これまでほとんど不問に付されてきた「語音」の面からの取組みがない限り「美しい言葉」の実体を捉えることは不可能のように思うのである。
美しい言葉についての議論はこれまで多くの人によっておこなわれてきたが、常に不問に付されてきたのが「語音」との関係からみた評価ではなかったかと思われる。
だが、大衆の音響感覚が高度に発達した現代において、音との関係を無視し
て言葉の評価は成り立たない。
現代語について、ラ抜き言葉や鼻濁音の消滅現象が種々言われているが、現代語において「食べられる」を「食べれる」となるのは、難音感を救済するうえで必要な措置であるし、また1音でも省略しようとする日本語の音用慣習から生れた必然のものなのである。1および2からの救済策として必要なものであったのである。
また、鼻濁音の消滅現象は、日本語の 性化(最近の音用慣習である語音を強める傾向)がもたらした必然のものだといえるのである。(木通)