またまたご無沙汰しております。
今、私達親子は愛媛県に滞在していますが、長らくお世話になった場所から移動する事になり、移動先ホテルのチェックインまで時間があるので、Oさんの提案で息子と共に、とても考えさせられる出会いのご縁でとある場所へ導かれました。
あまり詳しく書いてしまうと、その方たちの生活が窮屈なものへと変わってしまう事になるので所々省略させていただきます、そして写真の貼り付けもいたしません。
午前11時、私達親子は滞在場所から出て、Oさんの提案で、山を登ることになりました。
山の頂上には1件の家があり、そのご家族は自給自足の生活を20年近くされていて最低限の生活の中でもお子さん3人を立派に育てているとの説明だけうけ山のふもとから出発しました。
急な提案だったのでなんの用意もなく、でも「絶対会ってみたい」と心の声に従い、私たちは山を登り始めました。「すぐ着くだろう」そんな甘い気持ちで登り始めたんですが、1.6キロの道のりだとは知るはずもなく、私も息子も坊ちゃん下駄で(笑)過酷な山をスタートしました。Oさんもサンダル(笑)なんて山をなめている3人なんでしょう(笑)今、思い返すとおかしくておかしくて笑がこみ上げてくる(笑)
沢蟹がいたり、大木を倒しただけの橋を渡り、橋もない川辺を横断し、福島県の阿武隈鍾乳洞の冒険コースを思い出し、私と息子は楽しくて楽しくてわくわくがとまらなくて、目をキラキラさせながら頂上を目指しました。
頂上まで後数百メートルのところでOさんが
「叫んでみぃ、返ってくるから」
と言うので息子と私が
「おぉ~い!!」
「〇〇くぅ~~ん!!!!」
と叫ぶと
最初はなかった返答も頂上に近づくにつれ
「〇△☓〇△△~!!!!」
と返答が
「わっ!!!!返答あったよ!!!!」
「おぉ~い!!」
「〇△☓〇△△~!!!!」
ε=ε=ε= ヾ(*~▽~)ノ
人の声~!!!!
「〇△☓〇△△~!!!!」
「こ〇△こ☓☓△!!!!」
「こけっ!〇△けっ!!」
∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
「こけっ!!こけーーーーーー!!!!」
∑(゚Д゚)ひ・・・人じゃない!!!!
にっ!にっ!!にわとりさんだ!!!!(3人で爆笑)
爆笑しながら頂上に着きご夫婦と、お子さんたちが笑顔でお出迎え。
「サンダルで来たんですか?しかも3人共(笑)」
と笑顔で対面。
人里離れた山の頂上に、自然に放たれているたくさんのニワトリ達。
味のある素敵な古民家の横の岩にはたくさんのニワトリたちが「コケッ!コケー!!」と私たちを出迎えてくれる。
!!!!
なんだこのホッと感!!
そして中学生の長男、長女はイケメン・美人さん、次男はマイナスイオン全開!!
奥さんの笑顔は神々しく、旦那さんの存在感は神がかっているというか、「長老ですか!?」と思う位に皆素敵な存在感。
「涼んで来てください」
と言われ、敷地内から少し離れた所へ行くと、山水を竹で流した小さな貯水場にスイカが冷やしてある。古い木材で作った椅子、あちら側に行ける様に丸太を倒しただけの橋。
素朴で自然と共存している生き方に激しく胸を揺すぶられ、心からホッとした瞬間だった。
家に戻り茶の間で皆でご飯、長男君が貯水場で冷やしてくれていた素麺がご飯、そして美味しそうな魚や野菜のおかずたち。どれも私には、とてつもないご馳走に見えた。
最初は警戒していた子どもたちも、息子が持っていった人生ゲームをするうちにうちとけ緊張感がとける。小さなおかしな事にも、大爆笑できる。なんて、純粋で素敵な子供たちなんだろう・・・今は皆でくったくのない笑いの渦が巻き起こっているけれど、ここまで来るには様々な問題もあった事を知る。でも、本当に素直でよい子達で一緒に遊んでいると私まで無邪気に笑える時間を与えてもらえる。
旦那さんから
「中田さんの事を聞きたいんですが」
と声かけしてもらい、人生ゲームを私だけ中断して旦那さんと奥さんと今までの経緯を軽く話し、これからの生き方や、人との繋がりあいについて話す。
まさに、私が考えている人との繋がりの余計な窮屈さや子育て感とどんぴしゃで本当に驚いた。「あぁ、自分と似ている感性や生き方だな・・・」と思った事は30年生きてきて多々あるけれど、ここまで「あぁ・・・全部一緒だ・・・」と思う人と会ったのは初めてだった。しかもご夫婦の価値観や思想が本当に私の行き着いた所と合致していた。ご夫婦と話して、本当に心がホッとしていた。奥さんが「いつも平均的に来訪者が来るんですが午前中にドバッと殺到したのは珍しい事なので、変だねって話していたんですよ。それで中田さん達が来たのはお導きなのかなって、午後誰も来ないのも珍しいんですよ」と言われ、私もなんだかわからないけれど必然的だった出会いなのかなと思った。
たくさんの話をして、子どもたちの笑い声がする山道を歩って行くと
長男君が手作りの弓矢で手作りの的に矢を放っていた。
キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!
これっ!!
これっ!!!!
これなの!!!!
息子がじゃなく私がしたかったの、こーゆうのです!!!!笑
なんて素敵な生き方してる子達なんだぁ!!
息子もお兄ちゃんの傍から離れず目を輝かせていたけど、息子より私目がキランキランですよ。
なんて素敵な生き方してるのー!!
そこから少し離れた本当の頂上に子ども達4人で登ったら、子ども達が神様の名前について「違うわ」「そう、それだわ」と話している。なんて賢い子達なんだろう、学校にあまり行ってないと聞いていたけど、普通に学校行ってる子より賢いぞ。生きていく力が備わっている、力強い子達の1つ1つの言葉に耳を傾け「凄いな、この子達!」と頂上で大感動。
でも、この子達にも色々な葛藤があってここで生きているんだな・・・というのも思い知らされました。便利な生活と、不便な生活の狭間での葛藤。私が思う以上に様々な葛藤に今まで苦しんできたんだなと思いました。それでもこの子達の目は澄んで輝いていて、私が坊ちゃん下駄で不安定な道をおそるおそる下山している姿を心配し適度な距離をとって見守って待っていてくれている長男君、「下駄だと滑りますよね」と言った言葉に、荒んでいた心が洗われたような気がしました。長女ちゃんは、しきりに私達の顔色を窺がっていました。きっと、純粋で優しいからこそ今までたくさん人に傷つけられてきたんでしょう。それでも、とっても素直で優しい。次男君は警戒心が解けてしまえば天真爛漫、性格がうちの息子にとても似ていて可愛くて可愛くてしかたなかった。
便利な場所からあえて離れ、自然と寄り添って生きているこの家族に、とても胸を打たれました。
弓矢横の五右衛門風呂がとっても素敵で
「可愛いね~素敵だね~」
と言ったら
「そんな事、言った人初めてだよ」
と笑われた。山をおりたら都会、その狭間で子ども達は葛藤しているんだなと思ったけれど、あなた達の両親が実行されている生活は誰でもできる生活じゃない、大変な生活だけれど、そんな素敵な生活をさせてもらっているあなた達は胸を張ってね。便利な生活をしている人間より遥かに素敵だよ。と強く思った。
きつきつの生活ながら旦那さんから
「私も何かしてあげたいんですが」
と言われる。
また胸を打たれる。私が出来ることで何かしてあげたいのに。
時間はあっというまに流れ帰りの時間になる。
私はこの先、ずっとこの家族を微力ながら見守りたいと心に強く思っていた。長女ちゃんと連絡先の交換をする。そして玄関に出たら旦那さんが
「また来て下さい」
と言う。
「ご迷惑じゃなければ、また来てもいいですか?」
と言うと
「はい」
と笑顔で返してくれる。
帰り際、ご家族全員が見送ってくれる。
「〇〇君、〇〇君、〇〇ちゃん、またね。」
と言うと皆笑顔で
「またね」
「気をつけて」
と言ってくれる
坊ちゃん下駄で足元をとられながら、無言で下山の最中に色々な事を考える。
今まで少し歩けば息切れして、人ごみの中に入れば数十分で眩暈に襲われていた私なのに、不思議な事に下山してからも息切れもしないし、疲れもなく、ホッとした空気に包まれたままだった。
旦那さんが言った言葉が頭から離れない
「思い描く所に必ず人間はたどり着くんです」
本当に本当に遠回りだったけれど、はい、たどり着きそうです。
またお会いしたいです。
坊ちゃん下駄で。
必ず。
純粋なお父さん・奥さん・子ども達に会いに。
3つの頭(放射能の体内被曝に思う)内田千寿子
私の誕生日は7月9日である。88才近い6月終わり頃、単調な麦こぎをしている時、「首を挿げ替えるなら、予算の話し合いに乗る」と言うのが、私の心を叩いた。
するとその時、過去に読んだ、「王様と、知識者と、暇人の頭を三つ、大きな釜でぐだぐだと炊いて、出して見たら、暇人の頭か、王様の頭か、知識者の頭か、区別が付かなくなっていた。」と言うのが思い出された。
先の3月11日の、大地震と津波、それに福島原発の事故も起き、放射能の飛散が、何処まで拡がるのか、分からない状態になった。それは日本中の国民の意識を、「何とかしなければ」と思わせた。
私を知っている多くの方が、「残留放射能に苦しんだ、内田さんなら、自分の思いを持っているだろう」と福島と私を結びつけている。
被爆者一人ひとり、違う被爆体験の中で、あの人なら、放射能のもたらす、様々な体内被曝の実相を、把握してきた筈だから、今まで生きた証の何かを、文章化出来るだろう。そう思われている。
私としては「東電の対応の遅れが、はがゆく、何処まで放射能飛散が拡がるのか、気が気ではない。終わりの見えない今日、私の気持ちを、現地の人に伝えることは、勇気付にも、癒しにも成らないから。静観の一途を守るしかない。」そう思って来た。
しかし、この三つの頭を、三つの命に置き換えるなら、原点の広島の焼け跡に戻れるのである。
原爆の被害者を、広島の日赤で介護した当時、自分の病気が放射能の為であるなど、思いもしなかった。
今、福島の放射能が、ぐぐる事も、飛び越える事も出来ない、拡散の場所は、何も分からなかった広島と、同等ではないか。私にはそう思えてきた。
この放射能に対する怯えは、これから先の自分の命・家族の命。友達の命・知り合いの命に、どう係わってくるのか、それが分からない恐怖である。
まずは三つの叩き台の一つを私にする。二つ目は、福島原発の故障部分を、整理に入った技術者。三つ目は、放射能が怖くて、遠くから指示だけしている、知識者とする。
私はすでに体験者であり、次は濃度の高い放射能の中で働いた人、この方はすでに自分の命と毎日向き合って、どう生きて行くかを、模索され、本音で生きて行かれるだろう。
今一人の遠隔操作者。この方は全く安全であるかを、飛散した放射能に聞いてみると、弱いところには入りやすい。と言う。
今怖れられているのは、原発に遭うと、癌にかかり易いと言うのがあって、その癌は、現在では三人に一人が、発病する時代であり、それと如何向き合うかは、その人その人の考えで、手術するか、放射能の治療するか、自分で決めて生きて行くのである。
私の場合は、貧血がひどくて、この熱が下がらなければ、命の保障はないと言われたことも有り、血液が放射能障害認定数で、血液不足が続き、22年経った時、小さな子宮筋腫を摘出したが、経過は好転せず、少ない収入の中で、やっと食いつないできて、40年過ぎた時、貧血状態はこれまでの、全身に青い斑点が出来るのと、心筋梗塞的発作が続いていた。
そこで自分で決めた、放射能除去法(汗をかいて毒素を追い出す、ナイチンゲール覚書)を熱心に、実行・継続した。それは私の自慢の所業でもある。これらは、年代を追って様々だけれど、生きてきた証は、原爆で亡くなった無数の人達の魂によるもので、今、生きている命こそ、語り継ぐ命にしたいと思っている。
2011 7 27
(現在89才、私より体力がおありです。)
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