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2017年10月04日(水) 20時57分24秒

乗り越えてきたこととか。人生観とか。

テーマ:日常

音楽食堂創業より14年、いろんな困難を乗り越えてきたけど、由佳の心の病が深刻だった凡そ7年間に及ぶ日々が何より苦しかったな…って思う。

 

そして、幸せになる夢を叶えることなく逝ってしまった由佳が、何よりも悲しくて切なかった。

 

涙ってこんなに出るんだ…って思うくらい泣いた。

 

 

 

 

今、振り返るとなんだけれど、音楽食堂を始めてから幾つもの試練を乗り越えることが出来たのは、30代前半で経験した、悔しくて、辛くて、絶望まみれだった日々が知らず糧となっていて、幾らしんどくたってあの頃よりはマシだろ…って思わせてくれてたからかなぁ…。

 

 

思えば、中学1年生で不登校になって、敷かれたレールを踏み外してからというもの、心の安定なんてモノを感じた時期などない気がする。…いや、大袈裟でも何でも無くて。

 

ひと時の成功に酔いしれた時も、結婚してた時期も、不安で仕方がなかったし、このままで良いんだろうか…という気持ちが、いつも胸から離れなかった。

 

 

 

今日までの自らの人生については、まぁ、こんなんもアリなのかな…とは思うけれど、幸せだったのかな…と考えると、そうではなかった気がしてる。

 

何しろ、我が人生において、戻りたい時期などないのであって、同じ人生をやり直したいなんてことはただの一度も思ったことがない。

 

幸せとは、愛する人がいて、守りたい家族がいて、毎日帰りたくなる家があって、一日三度の飯に困らない…つまりは、そいういうことだのである。

 

 

 

まぁ、勝ち組だとか、負け組だとか、そんなことには一切興味が無い。

 

野心などいつの間にやら無くなった。

 

偉ぶる人など裸の王様にしか見えなくなった。

 

努力は必ずしも報われず、正義が打ちのめされることだってあるけど、諦めず、信じ続けるなら、大概のことはそれなりに何とかなって行くものだよ。

 

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2017年10月03日(火) 10時45分44秒

音楽食堂14年。何故ライブハウスじゃなかったのか。

テーマ:日常

14年前、長岡で産声を上げた音楽食堂は、当初、ライブハウスではなかった。

 

まぁ、14年が経過しようとしている今、飲食店だった頃の音楽食堂を知っている人は少ないのかも知れない。

 

そんなんで、丸14年を明日に控えた今日、そのことについて少し触れてみようと思う。

 

 

2003年104日、音楽食堂は、ダイニングバーとライブハウスの融合をコンセプトに、「食事をしながらライブを楽しめる飲食店」としてスタートした。

そのような趣旨の店を立ち上げるのには、やはり、それなりの理由があったのであって、端的に言うならば、ライブハウスの現状に疑問を感じ、その方向で進み行く未来に希望が持てなかったから。

 

何故、その選択をし、入口を飲食店にしたのか?…については、過去に何度か書いているし、再び同様の文章を認めるのも何なので、2011年に書いた下記blogをご参照頂けると幸いです。

長文で、誤解が生じる可能性もあって、今となっては正直怖いですが、知って欲しい気持ちを優先、曝け出してみようかと思います。

 

 

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周知の通り、全国にあるライブハウスの殆どは、「チケットノルマ」により成り立っている。

それは、利益の対象が出演者に向けられている事を如実に示しているのであって、いつのまにやら集客力を失墜させたライブハウスのそもそもの在り方が、もはや、「趣味の店」と成り下がってしまった事の顛末である。

おれが音楽の夢を携え生きていた少年時代、「チケットノルマ」なる妙なシステムは、確実に存在していなかった。

利益の対象を出演者に求めるライブハウスの佇まいは、おれが音楽業界より離れていた20年の間に「当たり前」となってしまった成れの果て的悲し過ぎる現実だのである。


再び、音楽を生業とする事を決意した9年前の事・・・。

20年のブランクを埋める事の難しさに早々気付き、ミュージシャンを輩出する側の人間になると決めた。

ミュージシャンを見る目の絶対的自信は、世に出た何人ものミュージシャンを身近で見てきた若かりし日々の経験に基づくものであった。



その際、ミュージシャン発掘の目的のため、様々な場所を見て回った。

ライブハウスにも、およそ20年ぶりに足を運んだ。



今も、あの時の事は鮮明に記憶している。


そこは、某ライブハウス・・・。

ホール入口のドアを開け中に入ると、ステージでは、175ライダーのコピーを演奏するバンド・・・その演奏はともかくとして、鼓膜が破れる程の音量に愕然とする・・・。

その場所にいる事を3分と我慢できず退散するおれ。

たったさっき払った入場料のことなどもうどうでもよくなる程の失望がそこにあった・・・。



そして思った。



「こんな不快なものが社会に受け入れられる筈がない!」・・・と。



その後、徐々に、おれが知らない間に起きてしまった20年間の出来事を理解して行く。

そして、既存するライブハウスには夢も未来もない!・・・と、心底より湧き上がる感情を堪えきれず、それが後のライブハウス否定の過激発言に繋がって行った。

いや、しかし、そもそも、店舗経営をするつもりなど一切なかった。

会社を起こす際、定款の目的欄には、将来的に展開して行く可能性のある事業を全て記入したが、そこに、「ライブハウス経営」、「飲食店経営」を書き込む事はしなかった。

店舗経営が、どれほどのリスクを持ち、失敗の可能性が高いものであるのかは、20年に及ぶ社会経験から理解していた。

極端に言ふならば、店舗経営など、大資本の会社以外が参入してはならん危険な選択と考えていた。


だのにだ・・・現実を知る度に「この状況を甘んじて受け止めていていいのだろうか」・・・といふ疑問が沸々と湧き上がり、その感情は、共闘をしようとした友人との激情的喧嘩により、遂に爆発した。

子供じみた感情的勢いは、ミュージシャンの立場に立ったミュージシャンのための店を創る・・・といふ目的を明確にさせた。

そして、早速、長岡市内において、空き店舗を探し始め、会社の定款にも「飲食店」を付け加えた。



ところがだ・・・。



「ライブハウス的なものをやりたい」といふ文言に対しての不動産屋の対応は、「そんなものに紹介できる物件はないです」といふ、実に冷徹なものだった。

それは、自らが進もうとする道の先に待ち受けている困難を予測させたが、一度決めたら後には退けぬ性格ゆえ、躊躇の欠片さえも過ぎらずのおれは、「全てを変える」過信を胸に携え盲目だった。

おれが音楽をやめていた20年の間に、ライブハウスの利益の対象が出演者に移行したのは何故だろうか・・・?

あの頃、おれなりに理解した答えがある。

現実に屈してしまった今も同様、その答えは間違えではないと考えている。



こうなった事の原因は、バンドブームの到来により、ライブハウスが増え過ぎた事に端を発しているのだと思う。

一定レベルのバンド及びアーティストの不足により、出演者の足りなくなったライブハウスは、質を落とさざるを得なくなった。

質が落ちれば客は減る。

待ち受ける当然の結果に、店の売上を確保しなければならんライブハウスは、出演者にリスクを求め始めた。

それがそもそものチケットノルマの始まりだと思う。



利益の対象を出演者に移行させたライブハウスは、出演者の需要と要望に応えねはならんのは当然の措置、お客様に満足して頂かねばならんライブハウスは、箱にそぐわぬ必要以上の爆音を施し、それを当然として行ったのだろう。



一般のお客様を蔑ろにしたライブハウスは、一般の人との間の溝を作り始める。

そこに創造されたのは、課せられるチケットノルマに基づく友人たちによる空間の構築・・・バンド仲間同士が行き来する毎度同じ顔ぶれのライブ・・・外への拡がりを見せぬ妙な仲間意識・・・。



出演する側にとっての良いライブハウスとは、爆音に不随する音圧が必需となってしまった。



そして、出演者ありきのライブハウスは、一般の人との間にとても大きな溝を創った。



まぁ、取っ掛かりより、ライブハウス否定を始めたおれは、沢山の敵を作ってしまうのだが、それでも、「正しい事を言って何が悪い!?」・・・と開き直る、とてもたちの悪い頑固者だった。

そして、「ライブハウスに夢はない」・・・と、切実に考えたおれは、入口を飲食店とする事にした。

日頃、ライブを観る機会のない一般の方々に足を運んでもらうのには、飲食店としての機能が最優先と考えた。

おれの考えた「ミュージシャンのための店」とは、独りよがりの発信をさせるための店ではなく、一般の方々との距離を近づかせるための店だった。

そのため、爆音に傾く音響機材など必要なし!・・・と考えていた。

今振り返るならば、その辺が、ミュージシャン側に理解され難いところだったのかも知れない。



さて、空き店舗の物色は、ようやく大手通の十字路にある地下の空間に行き着いていた。

昔ならば、超一等地であるその場所は、身分不相応にも思えたが、「それだけの事をやるのだから」・・・といふ決意が、おれにかなりの背伸びをさせた。



そこは、コンクリート剥き出しの廃墟的がらんどうの空間・・・。

予算など考えず、やぶからぼうに場所だけ速攻で押さえたものだから、業者に出させた見積書を見た時には、目から火の粉が飛び散った。

厨房工事と電気工事がとにかく高かった。




・・・破産する。



取っ掛かりより脳裏を過ぎる破産の二文字・・・。



そこで、仕方なく、出来る事は自分たちでやろう!・・・と決めた。



当時の店長と、安田くん、3人で始めた夏の暑い時期の慣れぬ作業・・・入口右手の壁より、漆喰を塗り始めた。

業者ならば、便利なマシンを使って施す材料の撹拌も全て手作業・・・腕の皮膚が荒れ、赤くなり、遂には剥けてきた。

同時期に始まった1階に入るブティックの工事は、全て業者任せ・・・その様子が少し羨ましかったよなぁ・・・。



そんな作業にも、ようやく見通しが立ち、店のオープンを104日に決めた。



店名は、「音楽食堂」



なんとなくダサいけれど、覚えやすく、ライブハウスをイメージさせず飲食店っぽい。

「音を食す」といふ意味も込めての「音楽食堂」は、ベストのネーミングであるとおれには思えた。



既に構築されていたライブハウスのイメージを覆す本当のミュージシャンのための店をやる!・・・といふ、無謀な挑戦を心密かに携えたおれは、その後の展開を見据え夢を膨らませていた。

 

 

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……と、まぁ、この後も、だらだらと、長い文章を認めているのだけど、何ゆえライブハウスじゃなかったのか?…という理由に際しては、大凡こんな感じだのである。

 

 

 

その後の音楽食堂は、需要に応えるカタチで徐々にライブハウス化して行く。
 

 

 

それは、ライブハウスという形態を取っていた地元の他店が、ライブハウスでは当然である筈の努力をしていなかったこと。

 

タラレバだけれど、もし、他店がライブハウスという役割をしっかりと担っていたならば、長岡のバンドシーンは変わっていたのかも知れない。

そんなんで、「地元ミュージシャンのために」として立ち上がった音楽食堂は、需要に応えるカタチで、本来の趣旨を捻じ曲げるようにして、ライブハウス化して行くことを選択して行った。

ただ、元々が「ライブハウス」として創ったのではない音楽食堂は、ライブハウスとしては歪なカタチになってしまった。

おれが、旧音楽食堂を「音楽食堂はライブハウスではない」と最後まで言い張っていたのは、「ライブハウスとして創ったのではない」…「ライブハウスにするなら違う設計にした」…という納得ならない気持ちを抱えていたから。

 

 

 

そんなんで、「ライブハウス音楽色堂」は、音楽食堂創業14年目にして、ライブハウスを創ろうと思って創ったライブハウスだのである。

 

 

 

まぁ、おれと、音楽色堂店長の「ヤマ」の思想には、多少のズレがあるのも事実だと思う。

おれは、何処のシーンがどうだとかの比較などどうでも良いし、ライブハウスにありがちな加工された音が良い音だとも思っていない。それは、まぁ、各々の好みなんだろうし、何が正しいかの答えなど無くても良いのかも知れない。

一部分に着目すれば劣っているところだって、秀でたところに相殺されて同等だって思ってる。

 

いや、しかし、おれの思想はどうあれ、「ライブハウス音楽色堂」は、「ヤマ」に任せたのだし、信じたことを貫き、邁進して行って欲しいと思う。

 

 

 

音楽食堂14年、2003年に生まれた人は14歳になり、20歳だった若者は、立派なおっさんになっていることだろう。いや、立派かどうかは知らんけど。

 

てか、そう考えると、おれも同様に14年も年を取ったのであって、なるほどしんどい訳だよなぁ…と思う。

 

老いや、衰えは仕方がない。

それでも、弱音を吐きながらも、やれるだけのことはやろうと思う。

 

 

 

音楽食堂14年…か…。

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2017年09月02日(土) 11時14分38秒

音楽食堂ZERO丸一年前日。

テーマ:日常

9月2日。

 

 

 

去年のこの日、音楽食堂ZEROオープン日の前日、さて、おれはいったいどんな気持ちでいたんだろう?…ってことを想いだそうとするんだけど、その記憶はさっぱりと蘇って来ない。

 

まぁ、727日に起きてしまった火災事故より約1ヶ月でその場所に辿り着いたことを思うと、その間の記憶が薄いのも当然なのかなぁ…と、考えたりもする訳で、背中を押してくれる沢山の人たちがいてくれたお陰様で、使命感のようなものに支配されていた我が脳髄は、ただただ、無我夢中で、諦めることを許してはくれなかったのだ。

 

 

 

てか、音楽食堂を始めて13年が経とうとしていたその頃、過去を振り返ると、幾つもの苦難と試練が想い出されていたのであって、それを乗り越えてきたからこその今が、「今回だって乗り越えられる」という根拠の無い自信を持たせていたのだと思う。

 

 

 

いや、しかし、これまで、いろいろとあったよなぁ…。

 

 

 

音楽食堂を始めた頃のおれは、自分が特別な存在であることを信じて疑わず、音楽業界、及びライブハウスの現状に疑問を抱き、「おれが変える」、「おれなら変えられる」…と、まるで遠吠えのような主張を繰り返していた訳だけれど、やがて、ライブハウスのシステムが、おれの知らない間に出た一つの答えであり、「音楽には、様々なジャンル、スタイルがあり、それに準ずる楽しみ方があって然るべき」と悟る頃には、自分が力弱きただの人でしかない、いや、むしろ、他の人よりも劣っているところが沢山あることを知るに至ってた。

 

きっと、見返してやりたいという捻じ曲がった意識と、名誉欲と金銭欲に支配されて生きてきた20年の歳月が、痛々しい勘違いに変換され、妙な自信を心に根付かせてしまっていたんだろう。

 

久しぶりに見た音楽業界は、おれが経験し、目指し、憧れていた世界とは何処か違ってて、おれが20年の間必死で生きてきたどす黒い世界と大差が無いようにも思えたっけ。

 

だから、理想を求め、それを手繰り寄せようとしたかったんだね。

 

 

 

 

…さっぱり話しが逸れてしまった。

 

 

 

 

そもそも、音楽食堂ZEROは、賃貸借契約書にドラムNGの条項が盛り込まれてたし、デカい音を出せる環境になかった。

 

ただ、どんな環境であれ、「とりあえずはここでやるしかなかった」から、その理解を求めるため、上階のテナントに足繁く通うようになった。

 

幸い、良い人たちばかりだったこともあって、とりあえずは、「バンド演奏可能」な状況まで持って行くことが出来た。

 

いや、しかし、ハードコアまでの音を出すとなると、「さすがにそれは無理だろう」となる。

 

そんなんで、迎えた93日だった訳だ。

 

そういう思いもあって、94日、音楽食堂ZEROオープニングイベント2日目の最後の最後のステージで、「今回のことのゴールはハードコアまでの音を出せる箱をつくること」という一方通行かも知れない約束をした。

 

 

 

それから数ヶ月、まだまだ資金難には違いなかったけど、それを言い訳にして立ち止まっていることが嘘をついているようでいたたまれなかったから、出来るなんて根拠は何もないけど、とりあえず踏み出してみようと思ってライブハウスを創り始め、火災事故から丸10ヶ月、足りないところは盛り沢山ながら、それでもなんとか、約束の場所「ライブハウス音楽色堂」をオープンさせることが出来たんだよ。

 

 

 

いろいろあったけれど、頑張ってきてよかったかなぁ…と、今は思えるよ。

 

後は、なんとか、音楽食堂に関わる人たちを潤わせたいなって思う。

 

それが、これからのおれの生きる標になって行くと思う。

 

 

 

長くなったけど、みんなに背中を押されるカタチで生まれた音楽食堂ZEROは、明日で丸1年を迎えるよ。

 

そんなんで、共に分かち合い、乾杯出来ると嬉しいです。

 

あの日から今日まで、本当に本当にありがとう。

 

14年前の野心は、いつのまにか消え去り、結婚も、恋愛も、何となく諦めてるけど、それでも希望を持って生きれてるから。

 

 

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