みなとや若旦那日記~城崎温泉~-120610_085729.jpg

城崎温泉ロープウェイ駐車場にある方の銅像が立っています。

1925年5月23日に起きた「北但大地震」は但馬地域に死者423人、倒壊家屋750棟以上、焼失家屋1,700棟以上という大きな被害をもたらしました。

城崎温泉でも地震により発生した火災により、温泉街の殆どが焼失し、廃墟と化しました。

当時の人口3,410人の内、272人が亡くなり茫然自失の状態だった住民の中から立ち上がったのが当時の町長である西村佐兵衛翁(当時43歳 西村屋4代目)、写真の銅像はこの方です。

地震が発生すると西村町長はすぐに城崎小学校に行き、まず児童と職員を励ました後、当時6つあった外湯の温度を確かめて歩きました。

そして、湯壺に湧く温泉を確認し、「大丈夫だ、この湯の湧き出るかぎり、城崎町は発展する。」と確信を持ったといいます。

西村町長は何よりも教育現場の復旧を最優先し、震災から5日後の28日には城崎小学校では大テントを張り、早くも授業が再開されました。

この時、西村町長が児童に向けた演説の様子が次のように記録されています。

「壇上に立つも暫し言無し。
やがて口を開けば、一言一句、ことごとく衆人の肺腑をつく。
生きる者の喜びを説きてその責務に及び、町民の現状を述べて将来を嘆き、児童の胸底に潜める強くしかも天真なる力に鞭ちて、親を救え、これを激励せよ、町の復興に邁進せよと、 声涙共に下り、血の滲み出づるがごとき熱弁に、聞く者皆うなだれて、真に一大劇的場面を現出せり。」

そして西村町長は温泉街の復興に着手します。

震災以前から床上浸水などの被害のあった大谿川の洪水対策の為、地盤を1~2.5mかさ上げし、川の幅と深さを2倍にしました。

そこに玄武岩で積んだ護岸を作り、半円状の太鼓橋を掛け、柳並木の美しい町並みを作り上げました。

当時は「人力車が通れない」とか「家の前に柳は目障り」など反対の意見も多かったようですが、今では城崎温泉の代表的風景としてなくてはならないものになりました。

また、防火対策の為に、住民に土地の一部を提供してもらい道路を拡幅すると共に、「一の湯」など要所にコンクリートの防火壁の家屋を配置し延焼を防ぐ工夫を施しました。

こうして、震災以前の昔ながらの風情ある温泉街を基本として、城崎温泉は見事に復興を遂げまた。

防災と景観という一見矛盾しそうな問題を組み合わせた城崎温泉の復興は我が国における「三大復興」と位置づけられ、世界に誇るべき都市復興遺産だと評されています。

町長という立場上、復興の先頭に立つのは当たり前かもしれません。

私が西村佐兵衛翁を尊敬するのは、その先見性です。

私が想像も出来ない困難の中、様々な観点から未来を見据えたまちづくり、そしてその基本であるひとづくりを強いリーダーシップで成し遂げられたその偉大な功績を城崎に住む者は忘れてはいけません。

久々に西村佐兵衛翁の銅像を見て、改めてその功績に感謝すると共に、今を生きる私たちも目の前だけではなくしっかりと未来を見据えて自分たちの町の為に頑張っていかなければならないと思いました。


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