この2週間は

浅田 次郎
壬生義士伝 上 文春文庫 あ 39-2
浅田 次郎
壬生義士伝 下 文春文庫 あ 39-3

を読んでいました。


いやはや、涙ボロボロ…鼻水も…

って状態になりました。


小説で泣いたことってあったかな…。

まぁキャラクターからしないはずがないと思うけど、

ここまで涙が出たのも初めてでした。



今まで新選組といえば、

近藤勇がいて、土方歳三がいて、沖田総司に斉藤一、

山崎蒸、永倉新八、原田左之助…と別段新選組の本

を何か読んだわけでもないし、読んでも名前をほとんど

覚えない人間にしては知っている方だったと思いますが、

吉村貫一郎という人を知りませんでしたが…最高にカッコ

いい日本人だと思いました。



自分の軸がしっかりしている。

守銭奴とか田舎侍と呼ばれようと、盛岡に残してきた妻子

にお金を送るという”目的”を果たすためには、周りの目も

関係ない。優先順位がしっかりしているし、その順位も

妻子のためという…武士は「国のため」っていうのが表向き

は一番なのかもしれないけど、裏表なく、妻子のためと

命を燃やしている姿には、最初から最後まで感動させら

れっぱなしでした。



一番印象に残った言葉は、貫一郎が南部藩の大阪屋敷

にて腹を切り、目を突き…幻想で父との会話をしている中で

父が

「武士道は死ぬることではなぐ、

 生きることじゃとしるじゃろう」


という言葉が出てきました。

よく

「武士道とは死ぬことと見つけたり」

という言葉を聞きます。



自分自身新渡戸稲造著の武士道も読んでいないから

よくわかりませんが、今までは言葉の”表面”だけの

”死ぬこと”という部分しか見ていませんでしたが、今回

壬生義士伝を読んで、ただ死ぬことが武士道なのでは

なくって、”いかに死ぬか”、”どんな道、目的の上で死ぬか”

が問題なんだろうなということを感じました。



いやいや、

「いかに生きるか」

ってことが、いかに死ぬかということにつながってくるの

ではないだろうか。



当たり前ですが、ただ死ぬ…色々な理由はあろうかと

思いますが、現代において自ら命を絶つことは武士道なのか…?



武士の時代では腹を切るということが武士道にあたることも

あったのだろうとは思いますが、現代においては…まずない

のではないかと思います。



主人公の吉村貫一郎のように妻子のために脱藩し、義の

ために死んでいった。最期に命乞いをするが、通常の武士道

からすれば外れた、みっともないことかもしれないが、男として

一番身近で、守らなければいけない妻子のためと思えば恥とも

思わず…。



第二次大戦中の特攻隊の人たちも、あれも武士道なのだろう

な…。決して望んだ死ではないけど、何かを守るための特攻

であったのだから。



うまく表現できないけど、今回壬生義士伝を読んで一番感じた

ことは、

「武士道とは義のために死ぬること」

なのかな…と。



”義”ってどんな意味なのか…

正しいかどうかはわかんないけど、

自分以外の何かのために命をかけようとする…

自己を犠牲にしてまでも、命をかけてまでも守ろう、大切とする

姿勢なのかな…と勝手に思ってみたりしました。



そんな、”義”というのは人それぞれあっていいと思う。

家族であったり、親友であったり、会社であったり…

その人が命をかけて守るべき存在は、その人の生き様の中で

各々ごとにあるはずだろう。



読み終えて、改めて

「日本人らしさって何だろう?」

って思ったら、”義の心を持っている”ことなのかもしれない。



そして、今の日本がおかしくなっているのって、そんな”義”の

心というのを、すごく身近なところ…小さな部分での義を忘れて

しまって、己が大事というところに氣持ちが行ってしまっている

からなのかな…


自分自身の人生に対しての「なんのために」を問うことができて

いない、考えたこともない…そんな人が増えているんだろうな

ということも感じました。



な~んて、たいそうなことを考えさせてくれる、素敵な本でした!