ごきげんよう。飯塚である。

 

つい先日に軽音楽部の卒定があり、それをもって大学4年間のコピバン生活に幕を閉じた。

卒業式も終え最近は入社の準備に飲み会にバンドにポケモンに、それなりに忙しい毎日を過ごしている。

 

明後日はついに入社式だ。バンドと社会人の二刀流の生活が始まろうとしている。

飯塚は大谷翔平のように器用で才能のある人間では絶対にないので、正直うまくいく気がしない。

 

 

 

導入はさておき、飯塚は大学で軽音系団体に2つ所属し(軽音楽部と音楽愛好会、以降それぞれ軽音、音愛とする)、4年間に合計で878曲を演奏した。

 

高校でギターを始めた筆者である飯塚は、大学でベースとドラムを始め、たまにボーカルにも挑戦するなどしてパートの垣根を越えて様々な曲に挑戦してきた。

卒業しコピバン漬けの生活もこれで終了になるので、本ブログではその振り返りとちょっとした講評をしていこうと思う。

どのパートをどのくらい担当したのか、どの時期にどのくらい演奏したのか、といった感じで飯塚のコピバン生活を自ら解剖していきたい。

 

このブログに意味があるのかは正直わからないが、大学四年間でバンド以外に大したことを何もしていなかった男の大学生活の片鱗を追体験するような気持ちで読んでいただけたら幸いである。

 

 

 

 

 

※1曲1曲の思い出やそれに付随するエピソードを紹介するととてつもない文量になってしまうため、今回は割愛して曲数およびそれに関連した内容のみにフォーカスしたブログとさせて頂きます。全曲にしっかりと思い入れを持っているということを念頭にお読みいただけますと幸いです。

 

2団体のそれぞれの曲数

 

多いが、割と納得の結果である。

 

軽音のほうが所属していた期間が長いのに音愛のほうが曲数が多かった。

これは純粋に軽音より音愛のほうがライブの開催される頻度が多いからだろう。

余談だが、音系団体ではライブの頻度=友達と顔を合わせる頻度となりやすい。大学で音系団体に入ろうとしている人は自分の忙しさとライブの頻度を考慮するとミスが起こりにくいだろう。知らんけど。

 

 

曲数と時期の分布

 

 

多い。

4年間を通して曲数多すぎて感覚がおかしくなるけれど、2022年の77曲もそもそも普通に多いと思う。

大学での初ライブである軽音の新入生ライブが5月中旬だったので、そこから約半年のあいだに77曲も演奏している。

どう考えても多い。

 

大学一年生はサークルの中で最年少なので先輩が優先されて曲数が少なくなるのが普通である。飯塚のイキリで傲慢なところが当時から曲数に現れているのかもしれない。そうではないと祈りたい。

 

 

2023年と2024年が本当に多いが、特筆すべきは2024年のほうだろう。

日数に換算してほぼ1日1曲演奏しているみたいなものだ。夏休みの約45日間で125曲こなした時期が今までで一番やばかったけど(後述)。

2024年の11月に軽音も音愛も引退だったけれど、12月も音愛OBライブや後輩の軽音12定に出ることなんかがあったりして、なんだかんだ曲に追われていた。それもあって2024年は特にバンド漬けの一年間だったと感じる。

コピバン生活がひと段落つくのは翌年3月の軽音卒定が終わってからになる(この時期は就活に追われていてまた別の意味でキツかったが)。

 

 

地味に2026年は卒業までの3ヶ月で92曲も演奏していて、この時期も単純計算で1日1曲演奏したことになる。

これもすごいことだ。この時期には軽音も音愛も卒業前最後のライブがあり、なんならコピバンが人生最後かもしれないから多少無理してでも悔いのないようやり遂げたいと強く思っていたが、こんなに追い込むとは正直思っていなかった。

この曲数を抱えながらその間に旅行とか遊びの予定をそれなりに入れていたのもすごいことだ。コピバン生活4年間である程度、音取りのペースや予定の組み方を分かってきたことが大きい。

色々無理はしていたが結果として軽音も音愛も、本当に悔いなく有終の美を飾ることができたので心から良かったと思う。

 

 

 

パートの分布 

 

・ギター 543曲で全体の62%

多い。

まあ本業だしこんなもんだろう。

こんなにたくさんの曲のリードギターを暗記してきたと思うと、その脳のキャパを使って資格の勉強とかした方が良かっただろと思う。絶対無理だけど。

 

 

・ボーカルギター 136曲で全体の16%

多い。

体感的には80曲くらいかと思っていた。

音愛の30分枠のバンドで一度に何曲もやることが多かったのかなと思う。軽音でちょこちょこやっていたのも多いのかな。

個人的にギターボーカルは担当するたびに荷が重いなと感じる。バンドの印象が大きく左右されるからだ。

 

 

・ベース 111曲で全体の13%

意外と少なかった。

逆に150曲くらいやっていたような気がしたが。

ギタボよりベースの方が多いと思っていたから驚いた。そんな気がしませんか?

 

 

・ドラムが60曲で全体の7%、ピンボーカルが20曲で全体の2%

思っていたより少ない。

ドラムには苦しんだ記憶が沢山あるけど、一曲一曲に苦しんでいたわけでやった曲数はそこまで多くないのだなと思った。

ピンボーカルはまあ、こんなもんだろう。

 

 

省略しているが、その他にもアコギやらカホンやらボンゴやらキーボードやらを数曲だけ演奏したことがある。

特に言うことはない。

 

 

コーラス担当曲数 

377曲。

演奏した曲全体の約43%になる。

個人的にはもっとやっていたかなと思ったけれど、そもそもがどう考えても多すぎる。

 

飯塚のコーラスのルーツのような話

飯塚は楽器を弾きながらコーラスできることを強みとしていた。

小さいころから音楽を聴くときにボーカル以外の音に集中することが多く、特にハモリを好んで聞いていた。

 

中学生になってからカラオケに行くようになると、歌っている友人の隣で勝手にハモリを入れることがあった。人によってはめっちゃ嫌だと思うので最近はあまりやらないようにしている。

 

高校で初めてちゃんとバンドを組んだ時にはバンド内に飯塚よりギターが数倍上手い人間がいたので、そいつの隣でひたすらバッキングとコーラスに勤しむ日々を送っていた。大学のコピバン生活にはこの頃の経験がかなり活きている。

 

個人的に、弾きながら歌うのは好きだけど先述したとおりボーカルを背負うには荷が重いと感じている。

だからこそリードギター+コーラスやベース+コーラスなどのマイクは立つが主役ではないという絶妙な役回りが結構好きなポジションだな〜と高校生の時からボンヤリ思っていた。

普段聴く音源には必ずと言っていいほどハモリが入っているから、自分の技量次第でそれを再現できるということで、毎回楽しみながらコーラスをしていた。

 

リードギターとコーラスを両立するやり方として、コードを弾きながら歌うことにある程度慣れる必要がある。

飯塚は先述した高校での経験によってそれなりに慣れた状態で大学に入学した。だからこそこれだけの曲数をコーラスできたのだろう。

 

音愛で飯塚が勝手に十八番としていた台風クラブのコピバンのギタボは、リードギター+コーラスの集大成だと自負している。

 

↓2026年2月の台風クラブのコピバン

 

 

ベースがインフルエンザに罹患してしまい本来の編成で演奏することはかなわなかったが、それでも自分の全力を出し知ることができてうれしかった。あとめちゃくちゃ楽しかった。

難しいギターを弾きながら歌うことは、さすがに容易ではない。

 

 

弾きながらコーラスをすることに慣れると、マイクを立てずにただ楽器を弾くだけの演奏の際に違和感を覚えることすらあった。

弾きながら歌うという難しさは、どこか職人感を感じられる節があって、そこも魅力の一つだと思う。

 

 

 

次の章では、一体なぜこれだけの曲数を成し遂げることができたのか、その理由について考えてみたい。

 

これだけの曲数を成し遂げた理由

1.仕事をしない

音系団体ではライブの設営と運営、SNSや書類など色々な仕事がある。

軽音も音愛も機材班、照明班みたいな感じで班分けされてその上で仕事をする、というルールになっていた。

 

飯塚はどちらも班には所属していたが、いつも手伝いたい気持ちはありつつも自分のキャパがきてしまい仕事を手伝えないことが多かった。

特に3年になって最高学年として仕事が増えた時には、同じ班の同期や後輩に仕事を手伝ってもらいながらなんとか引退まで完走した、というわけである。

特に自分が更新を任されていた軽音の𝕏については、自分がキャパっていた2024年5月に更新を忘れてから、引退の11月まで一度も更新しないというおそろしい怠慢具合を露呈する結果となった。

これに関しては今もたまに同期に怒られる。ホントすみません。

 

こんな感じで音楽以外の諸々をたくさんの人に手伝ってもらったからこそ、音楽に時間を使うことが出来た。

本当にありがとうございます。スミマセンでした。

 

 

 

2.バイトをとにかく減らし、金と引き換えに時間を得る

 

時は金なりとはよく言ったもので、バイトを減らすと金欠になるかわりに時間が手に入るのである。

 

飯塚はライブ前の音取りとバンド練で忙しくなる時期にはほとんどバイトを入れず、ライブとライブの間の閑散期に集中的にバイトを入れていた。

融通のきくバイト先を選ぶことができたことが大きい。バイトの融通が利かなければ、もしかしたら金欠を理由にバンドをあきらめていたかもしれない。

これに関してはバイト先に感謝である。

 

 

 

3.バンド大好き!

純粋に音楽が、バンドが好きというのは間違いなくある。

好きじゃなきゃこんなコスパの悪い趣味に時間とお金をかけられるわけがない。

飯塚はそもそもバンド以外の趣味がインターネットとポケモン(収集とかわいがり)くらいしかないので、バンドに没頭することが自分の人生で一番の娯楽だった。

 

しかしそれよりも大きいのが、喜ぶバンマスの姿を見るという喜びである。

バンマスの友達や先輩後輩が、この曲ずっとやりたかったからできて嬉しいとか、飯塚のギターでこの曲をやれてよかったとか言っていただけるのがいつもすごく嬉しかった。

たいして得意なこともない自分が唯一得意な楽器でバンマスの欲求を満たすことができるという、その貢献への喜びが非常に大きかった。

878曲の大半は友達に誘っていただいて組んだバンドだけれど、すべての曲に思い入れがあるし、誘われて嬉しく思った。

この場を借りて改めて感謝したい。

本当にみなさま、ありがとうございます。

 

 

 

そして最後に、それと同じくらい大きい存在がある。

 

 

 

 

杉田桜太郎というドラマーの存在

彼は私の盟友である。

軽音楽部の交流会?(入部の前後に自己紹介をして輪になって話すみたいなイベント)で出会い、その日からすぐに意気投合した。

 

それから彼が自分を音愛に誘い、卒業までに軽音で188曲、音愛で190曲のコピバンをともに演奏した。

そして現在は色々あってPastel Tang Clubのメンバーとして肩を並べ、2025年にはビバラロックとサマソニに出演した。これからも彼とのバンド活動はきっと続いていくことだろう。

飯塚のバンド人生を、桜太郎を抜きにして語ることは出来ない。

 

話を大学に戻すが、音系団体を2つ掛け持ちでやっていく上できつい瞬間は正直、何度もあった。その度に発狂した。

特にキツいのはライブのタイミングが重なる時だ。

単純に曲数が増えるだけでなく、予定のダブルブッキングや音取りと睡眠時間の管理にも気を遣わないといけない。しかもこういう時はだいたい授業にも行かなければいけなかったり、恋人や友人と何かしらの揉め事をしていたりと音楽以外の困難も同時に起こるものなのだ。

そういう時に自分と同じくらい、時に自分以上に苦しみながら一緒に頑張ってきたのがこの男だ。

 

 

軽音も音愛も文字通り二人三脚で、どちらのライブにも数多く出演し続けた。

曲数も桜太郎と俺で1位2位みたいなことも多かった。

それくらい両団体のライブを支えまくっていたし、それを2人で全力で楽しんでいた。

 

 

桜太郎と乗り越えた時期でいちばん印象に残っているのは、やっぱり大学3年(2024)の夏休みだろう。

毎年夏休みはバンドに追われて「夏休めない」とかいうしょうもないギャグを飛ばしてしまうことすらあったが、3年の夏休みは8月頭-9月中旬の約45日間で俺も杉田もそれぞれ120曲近く抱えていた。

 

 

夏休みは誇張なしに本当に毎日音取りとスタジオを往復する日々で、中にはCory Wongとか東京事変とか、重たすぎるコピバンもたくさん控えている中だった。

ライブの時間はやっぱり楽しいのだが、それ以外にはもはや楽しくない瞬間もたくさんあった。

心も体も疲れ切っているのにスタジオから出られないこともしばしばあった。

合間の時間に友達と飲んだり遊んだりしている時にも翌日の練習予定と音取りの進捗が頭から離れないような、心の落ち着く時間がどこにもないような日々だった。

 

 

その夏休みを締めくくった最後のバンドである椎名林檎のコピバンは今でも強く印象に残っている。

このバンドは飯塚がお世話になった先輩(黒ストラトのボーカルの方)がバンマスで「音がデカければ何をしても良い」という指示のもと発足した。

飯塚も桜太郎も勢いに任せるような感情的なプレーはしないプレイヤーなのでその指示に軽く困惑しつつ、まあいけるか!と深く考えずにその誘いを受けた。

そしたら本当に偶然、このバンドが夏休みの最後のバンドになったのだ。

 

↓2024年9月の椎名林檎のコピバン

 

 

本番、演奏しながら夏休みの様々な記憶が走馬灯のように駆け巡り、色々な感情に脳を支配された。結果として全てを感情に任せるあまりにも荒削りな演奏をしていた。

あの時の感情が高ぶる感覚は今でも忘れられない。

夏休みは本当にキツかったけどそれ以上に楽しい日々だった。それが終わるのが嬉しいような寂しいような、自分たちの引退が目前に迫っていた時期でもあり様々な感情が渦巻く中での節目のライブだったので、語りきれない程の感情がその演奏には込められていたように思う。

 

 

つい2週間ほど前に開催された大学最後のバンマスである軽音楽部の卒定ではあの時の椎名林檎バンドを超える高ぶりを感じられるような、とにかく音がデカくて荒々しくてそれでいて繊細な曲をやりたいと思った。

それの全てを体現しているのがルサンチマンの荻窪という曲である。

 

↓2026年3月の荻窪のコピバン

 

 

この曲は音愛で同期がやっていて、ルサンチマンのライブも2回くらい見たことがある、その毎回で心を大きく動かされている大好きな曲だ。

飯塚の1番好きなボーカルと、1番慕ってくれているベーシストと、そして1番信頼している盟友のドラマーとこの曲を最後にできて嬉しかった。

本番、すごく楽しかったし演奏しながら胸が何度も熱くなった。

映像を見返すとメインのギターリフは全然弾けてないし、色々とツッコミどころ満載ではあるが自分としてはすごく満足の行くライブをすることができた。

 

 

こうして、飯塚の878曲にも及ぶコピバン漬けの大学4年間が終わったのである。

 

 

終わりに

全てのライブを終えて思うのは、どちらも入っていなかったら全く違った形の大学生活になっていただろう。

軽音にも音愛にも入ったからこそ、これだけ満足の行く大学生活を送れたのだと心から思う。

思い返せば大学生活のほとんどがひたすらコピバンしまくる日々だったが、そこで得た経験、仲間、友情、ありとあらゆるものが今の自分を形成している。

 

 

4月からは仕事とPastel Tang Clubの活動を両立する日々が始まる。

きっと様々な困難が待ち受けていることだろう。

 

 

だが。

この4年間のありとあらゆる記憶が、

音楽を仕事にしているという誇りと希望が、

そして桜太郎と駆け抜けた日々が、きっと俺を繋ぎ止めてくれることだろう。

 

 

 

 

 

繋ぎ止めてくれなかった時のことは、その時に考えることにする。

それでは。