この記事は、自分の頭の中を巡っていることを整理するために、そして自身の将来に対して時に明るく 時に不安げに––つまり真摯に––思いを馳せている大学生の人のために書こうとしてます。
ばらばらとだけど、当時よく自分が考えていたテーマを今の自分が考えると、どのように前とは違った解が出るのか。ちょっと書いてみたいなと。何回かに分けていくつかの話題に触れてみます。
…あ、もちろん当時の自分と真摯な大学生が同じテーマについて思い悩んでいるとは限らないけどね。という前置きもしておきます。
▼就職するなら、大企業とベンチャー企業どちら?
前:ぜったいベンチャー企業
今:どっちもアリ
一つ目の問いから早速ズルいというか、二択なのに第三の選択肢を出してしまった。でも変わっていないのは、この問いに答える自分のスタンスというか、目指したい方向性。当時から今までずっと独立して事業をしたいと思い続けていて、その前提で上の「▼就職するなら、大企業とベンチャー企業どちら?」に答え(自問自答し)てみた。
独立したいのになぜ就職するのか?の議論は置いておくとして、僕が今の解にたどり着いたのは、ベンチャーも大企業もどちらとも経験したから。学生の頃は独立のためのステップとして、将来始める会社と同じような規模(つまり小さい規模)のところで修行した方がぜったいにいいと思っていた。というか、それしか選択肢ないでしょと思っていた。確かに5人の会社と80人の会社で働いてみて 小さい会社とはどういうものか、ということはよく分かった。それこそ社長も平社員もなく、みんな同じような志の若者がああでもない こうでもない と朝から晩まで狭いオフィス(というかマンションの1室)でずっと仕事をしていた。トイレ掃除のおばさんとかもいなかったし、ゴミ捨ても自分たちでやった。あと、男ばかりだったこともあってか なんか臭かったし、なんか悶々としていた。雰囲気がね。今思い返すとすごくリアルな感じがする。たぶん少ない資金で創業したらあんな感じになるんだろうなと思うし、イメージが作れたのでとても良い経験になった。もっと言うと、どういう形であれ会社がなくなるところまでを体験できたし。
でも、同時に今いる7,000人以上が働くオフィスでの経験も価値があるというか、見ておいて得した世界であることは間違いない。今の段階で一番違うなと思うのは、資源の使い方。(時間の集合体としての)人とお金の使い方が、すごく勉強になる。(良い意味でも悪い意味でもね。本題とずれるのでこの話題は割愛するけど。)
例えば同じ条件の中で、なにか新しい企画Aというものを自分が始める時に、ベンチャー企業でしか働いたことがなかった自分と今の自分では発想の仕方が少し違っただろうなと思う。大企業風の、良い企画ならばヒトとカネは惜しみなく投資するべし、という考え方は自分には新鮮だった。今までは、「企画が面白いのはわかったから、とりあえず一人でやってみて。一人でうまくいったら人増やすかお金少し出すかするから」みたいな感じだったから、比較すると新しいことをやるには待遇が違いすぎる。だから発想をする時には一人でやれる範囲のこととか、お金をかけずにできることという制約を勝手に設けてしまっていた。でも今は、理想的な企画の進め方・お金の使い方はこう というものがあって、そこから現実を見て(予算とかチーム人数の)引き算をしていく方が良いということに気付けた。もちろん無い物ねだりというか、空想ばかりの企画もだめなんだけれども。たとえが悪いけど、家庭の収入と子供の発想力が比例するという話と似ているかもしれない。この辺は。
それ以外のところで言うと、会社の外に出なくてもいろいろなことが解決したり経験できてしまうところもベンチャー企業とは違う。ふざけたところで言うと、空腹の解決とかね。最近だとgoogleのものが有名だけど、社員食堂なんかがあると仕事の合間の15分でも空腹(とそれに伴う雑念)が解決できたりする。しかも添加物もコンビニのものほど心配しなくて良いだろうし。
真面目なところだと、困ったことがあるとすぐ社内の専門家にアドバイスを求めることができる。メールか内線電話をすると、すぐに親切な回答をもらえる。しかもお互い顔も見たこともない人からね。でもそれは、同じ会社で働く人だから、という味方意識の名の下でのことだからすごく有り難い。そしてあわよくば、そういう質問や仕事を一緒にすることを機に、会社という肩書きがなくても人として付き合ってもらえる仲になったりする。こういう関係になれると、たとえ会社を出たとしても「同じ釜の飯を食った仲だ」ということで親交が続いたりする。また食に関する話になっちゃいましたね。とにかく、食べても食べなくても会社内でいろんなことが解決できるのは確か。そして、独立までの自分の肥やし(経験・協力者のこと、食べ物ではない)を作る環境としてすごく恵まれた環境なのも確か。
長くなった(そして今後の問い&回答もぜったい長くなる)けど、まとめるとベンチャー企業と大企業での仕事は自分にとってどちらも捨て難い経験だったということ。ただし、どちらも質が違う良さがあったなという感じ。ベンチャー企業・大企業それぞれで働いていて良くなかったことなんかは敢えて書いてないので、それをふまえるともっと複雑になる。でも、間違いなく言えるのは「将来起業するからベンチャーで修行します(、そして若いのに大企業でのらりくらり働くなんてイマイチでしょ)!」と思っていた昔の自分の考え方は間違っていたな、ということ。
こう言ってしまっては元も子もないけど、すべて今ある環境をどう自分の糧にしていくか、ということに尽きるのだなと感じる。
次は「自由とは、そもそも自由なんてあるのか」ということについてでも。
(批判・感想・質問などあったらぜひ聞かせてください)
人は何かについて9割決心がついている時に、誰か他の人に相談する。
でも不思議なことに(こんなブログを書くくらいだから、僕にとっては不思議ではないけど)、そういう時は、相談相手に反論されたくない場合が多い。
だからもしかしたらそれは相談じゃなくて、単に後押しを求めているのかもしれない。9割の決心をしていて、残りの1割を埋めるために。
でもその1割は助言ではない。
じゃあその1割はどんな成分か。それは何か決めごとをしようとしている人が自分自身を「許すこと」だ。その決断をしていいんだよ、と自分を納得させるということ。
思うにこの「許すこと」は、別に誰かに相談しなくてもできることなんじゃないか。というか、9割も心が決まっているんだから、むしろわざわざ他人に納得をしてもらったりする必要なんてないんじゃないか。
例えば服を買う時、恋人を選ぶ時、働く場所を決める時、…どんな決断でもそう。
この「自分を許すこと」が、自分の中だけでできる人は魅力的に映る。
もちろん、きちんと相手の助言を聞いたり取り入れたりする方の相談は人生において不可欠だ。それは間違いない。
でも、自分がしようとしている相談がその意味の(本当の)相談なのかどうか、見極めるべきだとも感じる。
自分一人で自分自身の行動を「許可」できるようになると、いろんなことがハッピーになる。
これはできる(少なくともそう実感できている)人にしか分からない感覚かもしれない。
(´-`).。oO(…もし僕のようにおしゃべりで自分のことを人に話したくて仕方ない人は、相談じゃなくて報告をすればいいんだと思うよ。こうすることにしたんだ、とね。
STAP細胞の研究論文の偽装問題について、会社の人たちの間でも話題になっている(今日は著者の記者会見があったとのこと)。
今回は「論文偽装」というキーワードと共に著者が世間を賑わせているけど、僕がこの言葉を聞いて思い出すのは今からちょうど6年前のこと。大学に入学したばかりの4月。
「ヒョウセツ」という、なんだかとても耳慣れないことばを、グレートブリテン島から来た--平たく言うとイギリスだが、本人は英国= not only イングランドということをしきりに強調していた--女性が、熱っぽく説明していた。しかも、それがそのクラスの最初の講義だったせいもあってか、一体何の文脈でこの話をしているか分からなかった。ハンドアウトにも丁寧に「剽窃」という表記だけは日本語で書かれていたが、それすらも見覚えのない熟語だった。
いわゆる「出典の明記」は今聞くと当たり前のことだし、理屈として剽窃がダメなことは勿論分かってはいたけれど、どうしてその先生がツバを飛ばし、金色の長い髪の毛で空を切り、そこまでして剽窃を重要問題として扱っていたのか理解できなかった。まるで殺人か何かと同じように剽窃を扱っていたように見えて、ちょっと引きながら話を聞いていた。
けっきょく、僕がそのヒョウセツというものが倫理上ダメだということ以上に、文字通り御法度なんだと腹落ちしたのはそれから2年後のことだった。もう大学3年生になっていた。
僕の知っている人が留年をしたと聞いた。人の論文を剽窃して、必修科目で0点を取ったせいだった。その時初めて、学士過程の人だとしても剽窃で処罰されるんだと知った。もちろんやったことはないけど、少しナメていたのかもしれない。でも正直に言うと、やっと初めて自分の中で「ヒョウセツ」が「剽窃」になったというか--つまり自分にも関わる重大なことだと--急にそう思えてきた。ちょうどそれが大学3年生の秋だったので、卒業論文への意識が高まっていたのも関係していたかもしれない。
今回のSTAP細胞の一件のおかげで、今まさに大学生活をスタートする人たちにとっては、剽窃や論文のごまかしがいかにダメなことかがすごく分かりやすいんじゃないか。少なくとも僕がヒョウセツということばに出会った2008年の4月よりは確実にイメージがしやすいはずだ(もちろん説明する立場の教授たちも、事例を出しやすいはず)。
みんながテレビの前で件の記者会見を見ながら話をしているのを横耳で聞いて、そんなことを考えた。今まで思い出しもしなかった、大学1年生の春の記憶がフラッシュバックした。
資本主義社会で生きていくと決めたいじょう。
稼ぐしかない。どれだけ経済的に強くなって、どれだけ良い環境を享受するか、これに尽きるんじゃないか。精神世界は正直その後でも極められる。稼いだ後でもね。
そうではない道を真剣に考えたこともあったけど、やっぱり資本主義社会で生きていく方が自分にとって良いと判断した。
話が少し変わるけど、中学生の頃バスケのコーチに、こんなことを言われた。このコーチは自分がプロ選手だったから、求める基準が厳しすぎて、走ることとディフェンスの段階で僕らに満足できなくて、全くオフェンスの練習に手を付けられなかった。そんな時期にオフェンスを教えることを僕らに宣言した時の言葉。
「おまえらにはディフェンスを徹底的に叩き込んでるけど、それはディフェンスってのが努力を裏切らないものだからだ。でも、ディフェンスがいくらうまくても、おまえらは試合には勝てない。なんでか分かるか?ディフェンスの究極は40分間相手を0点に抑えることだからだ。ディフェンスは同点か負けしかない。オフェンスは正直どれだけ練習してもしなくても、その時の流れとか運とかでシュートが入ったり外れたりするけど、オフェンスがなきゃ試合に勝てることは絶対ない。」
何が言いたいかって言うと、これは家計(=経営)も一緒なんじゃないかということ。守ってばかりじゃだめ。というか攻めないと勝てない。(すごい当たり前のことだ…)
あの時のディフェンスも今から考えるとすごくしょぼかったけど、だからと言って点を入れるための練習をしなかったらどうなっていただろう…。きっとその後ぜんぜん使えない選手になっていたんじゃないか。高校の頃にシューターで活躍することもあり得なかっただろうなと。
松下幸之助さんも言っていたように、利益を上げるには沢山売るか支出を減らすかどっちか。自分もそう。資産を作るには収入を増やすか節約するかどっちか。
これは直感でしかないけど、今の時期は守りをしたら自分は成功できないと思う。だから攻める。決して無駄遣いするという意味じゃなくね。
なんでこんなことを書いたかっていうと、知り合いのファイナンシャルプランナー、というか保険の人がすごい知ったような口を叩いていて、むっと思ったから。w
あなたがやっているのは絶対に勝つことのない守りの世界でのお仕事ですよ。と。
それに人の金をちょろちょろ動かしてるからって、それを自分のもののように勘違いしちゃだめ。
ということで、自分でどんどん攻めて自分でがっちり守ろう、という誓い。誰の物でもなく、自分の資産をね。
ここ2カ月くらいで気付いたこと。
自分は未来に対して、大きいことを描いている割にはそれをきちんと実現するための準備ができていなかった。それもこの数年間そんな状態だった気がする。残念。
まず始めに言われたのは欲がないということ。これはよく当たる占い師さんに縁あって無料で鑑定してもらった時のはなし。
いつからから、よく、「●●が手に入ったら幸せになれる、とかって言う人がいるけど、そうしているうちはずっと心が満たされない状態が続いて、結局はその●●があっても幸せになれない」ということを聞いていた。だから自分もそうならないように、今この瞬間が幸せであることを思いっきり認めようと思うようにしていた。
そしたらどうやらそれが行き過ぎたようで、人生が現状のままで停滞してしまう原因になっていると指摘された。"もっと"という気持ちがないと、これ以上は望めないそうだ。NBA選手のインタビュー記事の影響で、中学生の頃に毎日呟いていた"ハングリー精神"という言葉みたいなものかもしれない。
(ちなみにこの占い師、言葉を交わすどころか会って席についた瞬間にこれを言い当てたんだから本当にすごい)
次に気付いたのは、悔しいとか、張り合うとか、(プライドやコンプレックスに触られて)腹が立つ、という気持ちを失っていたということ。これは一昨日、ある人と会う前に時間があったから、本屋で立ち読みをしていてはっとしたこと。神田昌範さんの少し前の本。
そう、これは自分にとってかなり大きいこと。よくよく思い出してみると、(高校までの)バスケットボールとか、大学受験とか、英語とフランス語をマスターする時とか、…ある程度描いた通りに人生をコントロールできたのはこの力のおかげだった気がする。
わかりやすく言うとライバルがいたり、大人を含めた周囲からの冷ややかな目を跳ね除けたかったり、隣の席の友達に圧倒的な力の差を見せ付けられたり、…そんな時に反骨精神でいろいろ頑張ってこれたことに気付いた。というかそれを思い出した。
これに気付いた時、色々手遅れか…⁉︎ と思ったけど、2日間「欲と反骨精神」のことばっかり考えていたら意外とめらめらとするものが戻ってきたような。
ようは、今まで悔しいとかそういった気持ちが出てこないように、自分がアンテナを遮断していただけだったんだなと気付いた。
アンテナと言えば、一昨日その神田昌範さんの本を読んだあと、こんな話をしてもらった。「渋谷とかでダンボールで寝泊まりしている人は、目の前に停まっている高級車よりも隣の同業者が(期限切れの)弁当を持っているのを見た方が燃える」らしい。自分のアンテナの向け方次第で、同じ高級車や弁当でも反応の仕方が全然変わっちゃうということ。その通りだなー。
今まで自分のアンテナはどこに向いていたのか…。
ということで、僕は新年を機にFacebookやTwitterで盛り上がっている意志の強い方々のように、週に2冊読書をしたり500円玉貯金を始めたりはしないけど、欲と反骨精神だけ(あと叶えたい夢)は忘れないで生きることを始めます。
行動よりも考え方を変えた方が簡単だし色々早いものね。
