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渋谷のスナフキン論

僕が思うところ。そのままを書いています。

聞は一見に如かずという言葉がある。
ある物事について、百遍聞くよりも一度見た方がいろんな意味で早いという話。

この一年で感じるのは、実際はそれどころではないんじゃないかということ。百回聞いても理解出来ないことっていうのが、それぞれの人にはあると思う。

例えば幽霊。見たことがある人が確実にいるのに、その人達がどちらかと言うと少数、もしくは影響力がないために、一般には中々信じてもらえない。それがどれだけリアルな話でもね。
もし仮にいたとしたらコワい、と言うレベルで まるで娯楽の一環(それこそホラー映画)のようにしか話を聞けない人もいる。

幽霊だけじゃなく、人の生き方もそう。
やっぱり人の判断基準は、個々それぞれの経験や教育によって形作られているから、どうしても理解できない話もある。
そして、その話が本当だと理屈では理解できても理解したくない、ということもある。幽霊の話も人の生き方の話もそう。価値観の問題かもしれない。

僕はそれこそ幽霊が存在することなんかよりも、大多数の日本人には信じられないであろう生き方を国外でも国内でも見てしまった。そして、その生き方が僕の中では一番しっくりくるものだということが直感的に分かってしまった。

百聞は一見に如かずと言うように、一遍見てしまったからには、こちらとしてももう忘れられない。まるで生まれた時からずっと隠されてきたものが呼び覚まされたかのように。
時にはそれを見たことがない人もいるし、それを否定する人もいる。それを理解できない人もいるし、それを理解したくても 色々なしがらみやプライドがあるから理解したくない人もいる。そんな人達が大多数を占める中で、どこまで自分が見たものを信じることができるか。
見たものを実現させたいのなら、常識 とか、普通に考えて とか、そんな言葉に屈しちゃだめ。自分の常識はそこにはないんだから。

この一年間で、人と人の間には、どうしたって理解しあえないこともあるということを理解した。今までの自分がどれだけ平和な思考回路だったのかとも思うけど。
理解しあえないからこそ、理解しあえる人は大切にしなきゃいけないし、理解しあえない人に無理に合わせてもいけない。

一見する機会も百聞する機会も、これから沢山待っていることが有り難い。見たものを信じて生きる。すごく分かり易い。

分がいる場所の季節がいま冬で、夏を求めて生きているとした場合のはなし。


幾つかのパターンがあると思う。

ひとつは、一日でも早く理想的な夏の生活に焦がれて、環境をドラスティックに変えに行くパターン。

それは例えば、北半球から南半球に飛行機で飛んで行ってしまうようなこと。同じサンタクロースでも、オーストリアとオーストラリアでは服装が全然違う。


もう一つは、理想的な夏の生活を求めつつも、じっと季節が移り変わるのを待つパターン。

雪解け、土筆の萌芽、春一番、五月雨、梅雨、…そう言ったものをすべて経て、然るべき時にやってくる夏を待望すること。


これを実生活に喩えると--むしろこれが実生活の喩えなのだが--つい「どちらが良いか論」になりがちだと感じる。学生向けの会社説明会でも、Facebookでも、経済雑誌でも、けっこう両極端にこの「どちらが良いか論」が展開されているのをよく目にする。


心理学的に言うと、人は自分の選択を肯定する習性があるらしい。自分が幸福を感じて生きるために。

だから、「どちらが良いか論」も言ってしまえば「どちらを選択してきたか論」だという見方をすることもできないわけじゃないんだろうか。(この手の記事は往々にして筆者の実体験があったりするよね)


今までの自分(特に学生時代)は、何かに影響されたのか、それとも元々そういう気質だったのか、「夏の国があるなら行ってしまえ」派だったと思う。今の暮らしも、その因果で出来上がったようなものだ。

別に後悔もしていないし、十分納得もしている。けれど、これが全てだとか、最良だとかとは思っていない。

もっと言うと、自分が受け入れられる物事の幅が広がって、「夏がくるまで待っている」派の考え方もかなり理解できるようになってきている。冬には冬の、春には春の楽しみ方があるんだなと思えるようになった(それを実践するかどうかは別として)。


今まで正しいと信じてきた夏の探し方以外にも、他の方法があるということを知ってしまった。そして、どちらの方法も悪くはないことを知ってしまった。

今、自分がそんな状況に立たされているものだから、きっと葛藤の時期なんだろうなと思う。恋人もいるし、趣味も享受できているので、葛藤と言うほどつらくはないけれど。だけど、歩みが芳しくないなあとも思う。夏を探しに行くか、夏を待つか、どちらの道を取るかは中々決めにくい(しかも実生活の場合、何が「夏を探すこと」で、何が「夏を待つこと」なのか明確に定義できないことが多いから、余計に複雑だ)。


ここからは余談になるけれど、自分がこういう思考のプロセスでのらりくらりとしているのにも関わらず、何も考えていない人扱いされることがたまにある。正直あまり納得がいっていない。

もちろん考えるばかりで歩みを止めてしまうのは本末転倒だけれど、一つの道だけしか信じて来なくて、それしか知らない人に自分を批評されるのは嫌だなあと思うことがある。


どちらの道を取るにしても、良いところと悪いところが必ずあるから、あとは自分次第。どちらかを選ぶことができる時がくるのかな。そんなことを思う。

かが自分のことを考えていてくれたり、思い出してくれていたりすることはすごく嬉しいことだ。

だからそういう状況を作るために、自分から何か人のためにしてみたり、人に思い出してもらえるような工夫をしてみたり、みんなそんなことをしている。自分もそれはあながち悪いことじゃないなあとよく思うし、実際にそういう行動をとっている。

そんなことをしていると、公私ともに色んな人から連絡がくるようになる。
もちろん、そうなるように仕込みをしているから沢山連絡がくるのだが、ここで自分がたまに陥りそうになるのがある種の"充実感"。勘違いをしてしまうとも言い換えられるのかもしれない。

沢山の人から連絡がくるけど、実はそれが自分の空虚感を浮き彫りにしたり、何か手伝える風に見せておいて実は求められているほど何かができるわけじゃないことに気付いたりする。

何が言いたかったと言うと、上に書いたような空虚感とか無力感を埋めるためにさらに他人の存在を求めてしまうと、自分を見失ってしまうんじゃないかということ。
こんなことを考えたきっかけは、この土日に色んな人から連絡がきて、さも充実してる風だったが、実はふと我に帰るとすごく表面的なやりとり?でしかなくて案外寂しいもんだなと思ったから。

僕みたいなタイプはもしかしたら少数派なのかもしれないけど、他人と付き合う上でそういった自分を見失った(=他人と"つながる"ことばかりを考える)コミュニケーションを取ると、自分の感情の浮き沈みがコントロールできなくなってしまうと思った。
ちゃんといつでも自分の基本スタンスみたいなものを持って、そこから過度に離れ過ぎないようにすることも大切なのかもしれない。
る出来事で「仲間」という言葉が一義ではない、ということを感じた。
というか、自分が定義する「仲間」という言葉が綺麗事すぎるのかもしれない。

でも、その綺麗事で24年2カ月の間やってきているのだから、自分の定義がまったくの理想論というわけでもないはず。

僕は人を赦すし、キリスト的な意味で人を愛す。面倒くさい人もむしろ歓迎するタイプ。
この視点から色んな人の「仲間」という言葉を 自分の定義と同じように解釈すると、傷付くと言うか、痛い目に遭うということを学んだ。

(´-`).。oO(これを「大人になる」とか「成長する」とかって言うなら、僕は大人にもなりたくないし 成長もしたくないなあ…


なんか後味が悪いエントリになりつつあるので、最後は僕が尊敬する人の1人のブログを引用して終わりたい。

----以下引用----
ケント・M・キースという方の
『それでもなお』という10か条の言葉です。

この言葉は、マザーテレサが壁に貼って、毎日見ていたという言葉だそうです。
まずはこの10か条を読んでいただければと思います。

=================
1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
それでもなお、人を愛しなさい。

2 何か良いことをすれば、
隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。

3 成功すれば、嘘の友達と本物の敵を得ることになる。
それでもなお、成功しなさい。

4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。

5 正直で素直なあり方はあなたを無防備にするだろう。
それでもなお、正直で素直なあなたでいなさい。

6 最大の考えをもった、もっとも大きな男女は、
最小の心をもった、もっとも小さな男女によって
撃ち落とされるかもしれない。
それでもなお、大きな考えをもちなさい。

7 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていかない。
それでもなお、弱者のために戦いなさい。

8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築き上げなさい。

9 人が本当に助けを必要としていても、
実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。
それでもなお、人を助けなさい。

10 世界のために最善を尽くしても、
その見返りにひどい仕打ちをうけるかもしれない。
それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。
=================

----以上引用----

それでもなお、僕は自分の「仲間」という言葉の定義を変えない。
(僕が定義する「仲間」について触れていないのがずるいね)

の先は尖らせない。
髪の毛は立てない。

流行に媚びない。
川の水は掬って飲む。流れているものの中には飛び込まない。

コーヒーを毎日欠かさない。酒は欠いてもよい。
フランスで暮らしていた頃はお茶しか飲まなかったけれど。

どれだけ時間に追われていても、必ずゆっくりすることを忘れない。
散歩をする。座って何も考えない。

目に見えないものを信じる。
科学的根拠に基づく論理のみが真理ではない。
(そして、スピリチュアル研究の第一人者がノーベル賞科学者や医師だということだけはもっと広く知られた方がよい)

読書を欠かさない。でもビジネス書は読まない。
次の月曜日にすぐ役立つことは、実用的ではなくただの使い捨て。

自分を主張しない。でも自分を表現する。
決して押し付けないが、決して押し付けられてはならない。

パソコンよりも紙とペン。
光を放つのは太陽のみでよい。せいぜい電灯までが許容範囲。

食を侮らない。
ファストフードは死への道をファストにする。それなら食べない方がまし。

人を赦す。
自分がこだわっていることを、他人がこだわっているとは限らない。

芸術を愛する。
商売や科学技術の起源よりも遥か昔から育まれているものだということを忘れてはならない。