こういう考えが一番にくる、人生の中で最も重要な考え。のような人がいます。
そんなことを考えている暇があるなら、もっと他に考えることがあるんじゃないでしょうか?
以下は夏目漱石の小説の一部抜粋です。
「今の世の働きのあるという人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の目玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、鎌をかけて人を陥れる事より他に何も知らないようだ。
中学などの少年輩までが見よう見まねに、こうしなくては幅が利かないと心得違いをして、本来なら赤面してしかるべきのを得々と履行して未来の紳士だと思っている。これは働き手というのではない。ごろつき手というのである。
吾輩も日本の猫だから多少の愛国心はある。こんな働き手を見るたびに撲ってやりたくなる。
こんなものが一人でも殖えれば国家はそれだけで衰える訳である。こんな生徒のいる学校は、学校の恥辱であって、こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。
恥辱であるにもかかわらず、ごろごろ世間にごろついているのは心得がたいと思う。日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。情けないことだ。
こんなごろつき手に比べると主人などは遥かに上等な人間と云わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。猪口才でないところが上等なのである。」
この一節に私の言いたい事も凝縮されています。
例えばスノーボード五輪腰パン騒動。
ダサいから?なめられたくないから?
日本の恥辱の典型例だと思います。
外国の選手が五輪の舞台に腰パンでやってきたらどう思いますか?人ができないことをしてかっこいいと思いますか?
同じ日本人として恥ずかしいだけです。
「こんなものが一人でも殖えれば国家はそれだけで衰える訳である」という部分。
自分なりの解釈ですが、社会というのは誰かの役に立つことでお金をもらい、企業なり個人が成長、維持、発展していくわけです。
相手の立場でものごとを考え、役に立たなければ、その相手は製品やサービスに対してお金を出そうとは思いません。当たり前ですよね。
なめるなめられるだとか、夏目漱石が言うごろつき手の考え方で、相手の立場で本当に相手の役に立つ考えが生まれますか?
なめられたくないと考えている時点で目線は相手ではなく、自分自身に向いているのではないでしょうか?これは自分自身の欲求を満たしたいだけのエゴでなくてなんだというのでしょうか?
そういうことを考えている時間が無駄な時間では?相手の立場で考える時間が少なくなれば働きが鈍る、「国家はそれだけで衰える訳である。」ということではないでしょうか?
中高年の働き盛り世代に限ってこういう「ごろつき手」のような考えにこだわりが強かったりします。よく考えてもらいたいです。
また、子供や孫の若い世代に、このような無駄な非生産的どころか争いしか生まない考えを植え付けないでください。
他に教えてあげることがたくさんあるのではないでしょうか?
