家というものが見えて、欲しいと思う。自動車が欲しいと思う。毛皮のコートが欲しいと思い、それらの物を一生懸命に手に入れようとします。
そのために、ローンを組み、キャッシュカードでお金を借り、やっとの思いで手に入れても、会社がつぶれて収入が途絶えたり、病気になったりして、ローンの支払いや、キャッシュカードの返済に窮するようになれば、家も、車も、毛皮のコートも取り上げられ、失ってしまいます。
また、盗られたり、燃えたりして物はなくなっても、借金だけは残ります。
楽しみや喜びは早く失いますが、苦しみだけはつきまとうものです。
私たちの人生は、つくっては壊し、壊してはつくるというように、同じようなことを何度も何度も、次から次へと繰り返している人生です。
「地蔵和讃」 に次のようなことがあります。
幼くして亡くなった子供たちは、賽(さい)の河原へ行きます。
そこで、父恋し、母恋し、兄弟恋しと泣きつくし、涙が枯れると河原の石を積んで遊びます。
一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、三つ積んではふる里の、兄弟わが身と廻向(えこう)して、石の五輪の塔をつくります。
幼子が五輪の塔をつくり、娑婆(しゃば)にいる家族の幸せを願っていると、鬼がやってきて、「お前たちがいくら家族の幸せを願って供養しても、娑婆にいる父母は、追善供養することもなく、その日、その日を、ただ面白おかしく生きているだけではないか」 と、笑って石の塔を突き崩してしまいます。
幼子たちが、悲しさがあふれ泣いていると、お地蔵さまが現れて 「娑婆はここから遠いので、お前たちの思いが、父母には届くまい。
わたしが、冥土の父母と思って、何でも私に頼みなさい」 といって、衣の内に抱きかかえ、あわれんでくれるという話です。
この話に出て来る、つくっては壊し、壊してはつくる、賽の河原の石積みこそ、私たちの今の姿そのものだと、私は思います。




