前記事にも書いたとおり、今日(2月7日)は「北方領土の日」です。

 

日露間の最初の国境の取り決めが行われた「日露和親条約」が江戸時代末期(幕末)の安政2年12月21日(皇紀2515年2月7日、西暦1855年2月7日)に署名されたことにちなんでのものですが…ご存じのとおり、幕末の開国期の条約はどこの国との条約も

不平等条約

です。無論日露間もです。最初から不平等条約なため、その後の日露間の領土の変遷は譲歩に譲歩で、「日露戦争」後の「ポーツマス条約」で「やっと」対等になれたともいえます。

 

こう書くと極論と思われるかもしれないが、「日露和親条約」で日露間の国境は

○千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする
○樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習のままとする

というものです。樺太で国境を画定しなかったというグダグダな扱いが、その後の日露間の対立の要因となってしまったのです。

 

ただ、そもそも先に樺太を実効支配していたのは日露間のどちらだったのか?と考えたら…どう考えても日本日本です。ロシアが領有権を主張する遥か前から実績がある以上、そう言わざるを得ません。ちなみに幕末期の樺太で日本日本の行政が及んでいた地域は

西岸は北緯50°より少し北のホロコタン(幌渓、露名:ピレオ。樺太西岸におけるアイヌ居住地北限。)以南、東岸は北緯48.5°のフヌプ(元泊郡元泊村班伸)以南

です。それが不平等条約で、どっちの領土かわからないグダグダなものと…でも、国境画定の交渉過程で、

樺太最南部の亜庭湾周辺を日本の領土とし、それ以外をロシア領とすることを提案した

という点も見落としてはいけません。

 

さらにいうと、それより半世紀以上前にあった「文化露寇」でロシアが樺太や択捉島の我が国の拠点を攻撃したというけど、それから半世紀以上も上記の地域で我が国の実効支配がなされていたという事実も無視できません。それらを合わせて考えれば

日本国日本に復帰すべき北方領土は歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の所謂「北方4島」だけでなく、樺太のある程度の地域までも含めても良いのでは?

と言いたくもなります。だから

「国是」とされた「4島」も、一見現実的と言われている「2島」も、卑屈過ぎる譲歩案でしかない!

と言いたくもなるし、それすらも主張できないのなら、日本日本は国家として終わっているかもしれません。

 

 

無論、先の大戦(大東亜戦争)後の講和条約で、日本国日本は千島列島及び南樺太の領有権のみならず権原も「放棄」したから、それはなかなか言いにくいかもしれません。しかし、「放棄」した領土の帰属を決めるのは条約に署名した「連合国」(最終的にはアメリカアメリカ)ですし、千島列島や南樺太を占領・領有宣言したソビエト連邦(その継承国家は今のロシア)は条約に署名していません。それなら、

交渉相手は条約に署名した「連合国」であって、ロシアではない!

という見方も出来ます。我が国日本がロシアよりウクライナを優先する、明らかに大損どころか戦争の要因を一つ抱えてまでのとんでもない選択をしてまでアメリカアメリカ追随でいっています。連合国が日本日本の領土の範囲、それと日本日本が放棄した領土の帰属を決めれるというのなら、その主たるアメリカアメリカがそれくらいしてしかるべきです。今の大統領のバイデンに期待するだけ無駄だが、次期大統領にはそれを強く要望すべきです。それに対する回答次第で「日米同盟」をどうするか、日本国民が判断すればいいのですし。

 

 

ともかく、「日本固有の領土」が一日も早く祖国復帰することを切に願います。

それと今、北海道は「さっぽろ雪まつり」で盛り上がっていますが…そういう飽き飽きさせられるばかりか外国人向けに成り果てたイベントなんかにうつつを抜かす暇があるなら、少しは領土問題に関して考えてほしいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※昨年末大掃除をした際に、かなり以前(前ブログの頃)に入手したステッカーを見つけました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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