朝の匂い、このホームの匂い。
寒さが肌をピリッとつたう、そんな季節。
僕は使い慣れたホームに立って、
新天地へ向かうための電車を待っていた。
しばらくこの寒さと匂いは味わえないんだろうな。
そう思うと、嫌だった寒さと匂いを抱くように
手を広げて深呼吸してする。
こんなに気持ちが良かったのかと、
離れる前に気付けてよかった。
「あれ、カズヤ?」
声がした方を向くと、そこには女性が立っていた。
旅行用のトランクを持っているが、どこかに旅行へ行くというよりは、
近くのスーパーにでも行くような安物っぽいダウンを羽織っている。
彼女は僕に声をかけてきて、すぐ隣まで来て笑っている。
でも、誰か思い出せない。
同級生にこんな子なんて……。
「忘れた、ケイコよ。田中ケイコ」
「あっ」と、もれた声がホームにひびく。
中学のとき、派手な格好をして目立っていた田中ケイコ。
クラスの中心にいるような子で、
男子もおののくリーダーだった。
そんな彼女が、流行の化粧をして、市場に出回る安物のダウンを着ている。
僕の知っている「田中ケイコ」とは、
あまりにかけ離れていた。
彼女との交流は、高校以降パッタリ無くなっていた。
それを差し引いても、僕にとって彼女の変貌はショッキングというか、まるで別人でも見るかのような体験に近かった。
「どうしたの、こんな朝早くに」
「ぼくは、仕事のある場所に帰るんだよ。家の用事で、こっちに来てただけだから」
「へぇ、いまはこっちじゃないんだ」
「うん、今は広島」
「ぜんぜん都会じゃん」
「まぁね。昔だったら、僕が都心ではない働くなんて想像できなかったよ」
「ほんと、クラスでも地味だったのに」
僕とケイコは一緒に笑った。
その笑い声は、クラスで聞いた声の遜色なかった。
あまりに遜色ないから、余計へんな気持ちになった。
「ところで、ケイコさんは?」
「えっ?」
「朝一番の電車に乗るんだ。何か用事でもあるんじゃない?」
ケイコは僕の質問に、喉に骨でも引っかかっているように答えづらそうにした。
僕はもう一度、ケイコの姿を見る。
やはり、安物の服のようだ。
旅行用のトランクも傷が付いていて、買い替えていないのがわかる。
「……仕事でも、探しに行くの?」
「まぁ、そんなところ」
僕はそっか、とだけ答える。
それ以上は、何も言えなかった。
彼女が進学した高校は、住んでいる地域でも
ランクは低い所だった。
おそらく大学へは行かず、地元で就職したのだろう。
だが、僕の地元は過疎地域でロクな職なんてない。
その場所でずっと仕事するには、
生活以上に彼女のプライドが許さなかったのではないだろうか。
クラスで中心だった彼女には、
とてもじゃないけれど。
「……僕さ、実は今の仕事辞めるんだ」
「そう、なんだ」
「うん、会社に勤めながら、記事を書く仕事してたんだけど、なんとかなりそうだからそっちに絞るんだ。それを話すために、実家に帰ってたんだ」
ケイコはつまらなそうに、恨めしそうに僕を見る。
都会での仕事ぶりに、彼女が僕の生活ぶりを想像しているのがわかった。
「でもさ、無理して手にちょっと爆弾抱えちゃったんだ」
「じゃあ、書く仕事なんてできないじゃん」
「無理しなければ大丈夫だよ。だから、使われるだけの仕事や、安くてただ数をこなす仕事は受けないことにした」
「自分のやりたいことだけで食べていくつもり? あんた、昔から意地っ張りというか、ワガママなところ変わらないね」
「でもさ、下手にしたくないことしても、いいことなんて何もないよ」
僕はケイコの方を見て言った。
ケイコが僕から視線を逸らそうとしても、
僕はずっと彼女を見た。
「僕はもう、不幸をバネになんてしたくないんだよ。夢のためにはとにかく頑張ればできるとか、貧乏しなきゃいけないとか、ケガしてでも成功させるとか。そういうの、ただの不幸自慢みたいでイヤじゃん」
「バッカみたい。子どものまんま」
「それが僕の、いいところじゃない?」
ケイコは少しだけ、口元を緩めてくれた。
僕がさらに言葉を続けようとしたとき、
電車到着を告げるアナウンスが鳴り響く。
「私、この電車だから」
彼女は、僕たちが立っていたのとは反対のホームへと歩いていく。
「なにか手伝えることあれば、やるから!」
僕は彼女の背中に声を掛け、電車へ乗り込むのに背中を押す。
何ができるかわからない。
でも、今できる最大限のことをしたかった。
彼女は何も言わず、手だけ振って電車に乗り込んだ。
この朝にケイコと会ってから、僕は彼女と連絡を取るのとはなかったし会うこともなかった。
彼女も何か、ひとつの決別をしたんだ。
あのホームに立つことで。
そう、信じたかった。