1・
ども、藤田です。
いつもコメントやいいね、ありがとうございます。
こちらで更新するのにも慣れてきました。
本日は、ちょっと愚痴かな笑
私も仕事で「自由に書いていいですよ」と言われることがあります。
で、実際に自由に書いていい評価もらえるかというと……。
もらえないのが、大半ですよね笑
もちろん、修正原稿などが来たとき「なんだよ、自由に書いてって言うたやん」とか思います。
しかし、自由に書いた原稿を見直したときは、いつも欠けていることがあります。
その欠けているものは、他人を満足させようとする気持ちです。
2・
では、本当に自由に書いた文章とはよい文章なのか。
一見して、世の中に出ている「赤裸々(古いかい?笑)」とか、「本音」とかいうタイトルや帯を見たことがあるかと思います。
もちろん、それらは本当に赤裸々であるし、本音で書かれています。
しかし、その気持ちを気持ちのまま吐露して文章化すると、どうなるでしょうか。
おそらく、読み物としては成立しません。
そこには、自分の「みてほしい」しかないからです。
「個人の考え方のみがつらつら書かれたものを、誰が見るのか」という問題になるわけです。
しかし、この「みてほしい」という感情は誰にでもあります。
無い人は、おそらくいないかと思います。
その抑圧された「みてほしい」という感情が、文章という形でフツフツと湧き上がるのは普通です。
しかし、先ほども確認したとおり、その文章に「自分」しかいないと誰も見ないんです。
いちど自分のことをみてもらえる環境ができると、その場でいろいろなことを吐露しようとして「自分」しか残らないんです。
他人という存在が、どこかに消えちゃうんですよね。
では、読まれる文章を書いたり発言できる人は何を考えているか。
おそらくですが、
この「他人に置き換える」ことを常に意識しているんだと思います。
自分の思想を思い描きながら、それをただぶつけるだけでなく他者目線でトレースできる。
それが、プロの物書きだと思っています。
3・
「自由にやっていいよ」とか言いますけれど、大半は相手の「でも、こうしてよね」が含まれるものです笑
ですが、本当に自由にやったところで、それって実は非生産的でもあるんです。
自分にしかわからない文章を作っても、それは1にしかなりませんよね。
ですが、自分が作り上げた文章がたくさんの人に読まれるということは、自分の文章を知る人が2にも3にもなって、どんどん数が増えていくのは生産的じゃないですか?
文章もそのように考えると、感覚だけでは終わらない理論だった側面を楽しいものだと思っています。
相手を満足させる楽しさと難しさ。
ぜひ、それを知ってもらいたいと僕は思っています。
(おわり。さいごまで読んでいただきありがとうございます。コメントは模型絡みでも全然オッケーです!)
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