8223:甲山事件 | 温故痴人のブログ

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未だ、

未解決事件となっている

甲山事件をyoutubeで見ました。

 

甲山と言えば

私が住んでいた西宮市にある

知的障碍児の学園でした。

 

 

 

甲山は

それこそ兜を伏せたような山で

初恋のk子ちゃんと

デートにも行った場所です。

 

ここで幼児の

行方不明事件が発生し、

その二日後に

もう一人の幼児も行方不明になりました。

 

外部からの

人の出入りが無く

事件と言うことで捜索すれば、

浄化槽のマンホールの中に

行方不明の幼児が落ち込んでいました。

 

重いマンホールの蓋を

子供たちが開けて

落ち込むということは考えられず、

しかも、

再度蓋を閉めていることから

大人の犯行であろうと予測された。

 

事情聴取の結果、

ある一人の教師を見たとのことで追及され、

自白があり

逮捕されることとなった。

 

 

 

その後の裁判で

厳しい取り調べで自白させられたということで

結局、無罪となった冤罪として

有名な事件です。

 

 

 

しかし、

この事件は

事故か事件かがはっきりしません。

 

子供が

悪戯をして自分で落ち込んで、

それを、また子供が隠すように

蓋をしたという結末は

私には信じられません

 

知的障害児の証言を

どこまで信じるのか?

 

それとも自白した教師が

白をつき通したのか?

神のみぞ知ることです。

 

我が国の

「一事不再理の原則」

彼女は

二度と罪に問われることはありません。

 

例え、

真犯人であっても・・・・

 

亡くなった子供は

納得しているのでしょうか?

 

これが、

もし、事件ならば

きっとどこかで裁かれることでしょうが・・・

 

しかし、

容疑者となった

彼女の今はどうなっているのでしょうか?

 

興味があるところです。

 

2020.08.24   NO:8223

 

【参考引用】

甲山事件(1974年3月)、結局、真相はどこに消えたのか?

 

 甲山事件は)1974年3月に起こった。真相は不明だが、もし冤罪なら真相がどうのこうのと言われる筋合いもない、無実は無実ということになる。裁判でも結局、山田悦子被告(その後、支援者と結婚)は無罪が確定したが、別に真相は闇の中である。実は私は非常に印象に残っている。

 早くも女性週刊誌が当時の山田容疑者に取材した。

「留置場でもう死のうと思った、ハンカチ?で

首を絞めたが死ねなかった、濡れ衣を着せられたが厳しい取り調べにもう留置場で死のうと心に決めていた」

 

 山田悦子は愛媛県出身、家業は建設業だった。父親にも取材していたが、「もし犯人であるなら死刑は当然でしょうが、親として無実を信じたい」

 

 そしてなんともうっとおしそうな沈んだ佇む山田悦子の写真が掲載されていた。それをどう判断するかだが、本当に犯人なら自白するだろう、何とも冤罪めいた雰囲気だろう。見て読んでも憂鬱になりそうな記事だった。

 

  この時警察は「犯人は山田容疑者以外にはいませんよ」

 

 奇怪である、事件自体が奇怪だ。1974年、昭和49年3月17日の夕方、兵庫県西宮市六甲山系の麓にある知的障害児施設「兜山(かぶとやま)学園」で入所している園児の女児(12歳)が突然行方不明になった、2日後同じく入所の男児、藤原悟君(12歳)も行方不明になった。同日夜、二人とも園内の浄化槽で遺体で発見された。

 

 あの辺り、宝塚とか西宮市北部は下水道がほとんど整備されておらず浄化槽が主流だった。

 

 事件当時、学園には6歳から24歳までの知的障害児79人が2つの寮で暮らしていた。30人の職員がいた。

 

 まず考えられたのは藤原悟君がいたずらで女児を浄化槽に落とした、2日後、どうなったかと蓋を開けて来たら自分も落ちった?男児に罪を着せるこれなら最低限説明はつくが、それが出来なかったのは藤原くんが落ちて17キロの蓋が閉められていたからである。何か意図的な子供以外の手が加わっている、と考えられた。

 

 かくして「殺人事件」濃厚として捜査が始まった。

 

 外部からの侵入の形跡がなかった、という。だから内部の反抗に違いないと考えられた。4月7日、保母の山田悦子(22歳)が殺人容疑で逮捕された。

 

 理由は 

 山田悦子は17日、19日、両日とも学園にいた。

 

 推定犯行時間のアリバイがない。

 

 園児の遺体が発見されたとき、また葬儀で山田悦子が激しく泣いた。

 

 4月4日、11歳の女児園児が「山田先生が悟くんを連れて行くのを見た」という証言が出た。

 

 山田悦子には毎日10時間に及ぶ、激しいい取り調べは行われた。4月17日、山田悦子は「私がやりました、後は明日話します」と自白?し、その夜自殺を図ったが未遂に終わった。

 

 それ以後は一貫して無実を主張し、支援団体も作られた。

 

 処分保留のまま釈放された山田悦子であり、証拠不十分で不起訴になった。だが1978年度2月、山田悦子は再び逮捕された。「園児の目撃証言など新しい証拠が出た」というのである。

 

 知的障害児の証言の信憑性が問われたわけである、警察だから巧妙に誘導することはありふれていることもある。

 

 再逮捕の報道で藤原悟君の父親が仏壇に逮捕の報告をする

写真が神戸新聞に掲載されていた。

 

 じつは事件後、藤原悟君の両親が兜山学園に損害賠償の裁判を起こした時、学園側が

 「知的障害児など死んでも損害賠償に値しない」 

 という趣旨のかなり悪質な返答を行い、これが世間の批判を浴びもし、警察の心象を悪くした可能性あると思える。

「こんな生命軽視の学園ならやりかねない」と思わせてしまったのは否めない。さらに、職員同士、口裏を合わせた隠蔽も相次いで発覚し、さらに、心証が悪化した。 

 裁判では検察は 

 最初の転落は事故、それでどうようした山田被告が藤原くんを意図的に突き落とした、園児の証言で「山田被告が藤原くんを連れ浄化槽の蓋の傍に行き、悪いことをやった突き落とすよ、解いて知多」との園児証言な拠り所でも合った。

 

 ともかくも1985年10月神戸地裁は「園児は何らかの誘導で事実反する証言を行った疑いがある」

 

 として無罪判決、検察は控訴したが大阪地裁は一審判決を破棄し、神戸地裁に心理のやり直しを求める決定をだした。

差し戻しである。1998年3月、神戸地裁は再び無罪判決、また検察は控訴した。1999年9月、大阪高裁は「犯人と決定する

には到底至らない、アリバイも成立の可能性がある。捜査において自白の信用性に疑問をおもわせる動機についての事実誤認がある」と捜査を批判した。

控訴棄却、1998年10月8日、大阪高検は上訴権を放棄し、最終的に無罪が確定した、わけだが。

 

 一人目の女児の事故は偶発的な事故、園児同士があり得るし、その証言もある。

 

 しかし2日後の藤原くん転落はそう説明したらいいのか?

検察の山田被告の動機説明も奇妙なものだが、誰かが蓋を再び閉めたという事実を今もって誰も説明できていないのである。

率直な印象としては、涙の明白な冤罪事件ではないということである。

 

真相は永遠の闇に葬られた。