習慣とは
それをするのが当たり前になってるから
靴を履くのに
右から履こうか、左から履こうか
考えずに履いていますね。
もう無意識に行動していますね。
会社で上司が
「お茶をくれ」と言ったら
部下はお茶を出すのですね。
もっと慣れてくると
上司が「お茶」
と言う前にお茶を出すと
「お前、気が利くなぁ」と
目をかけてもらえる訳です。
夫の上司は姑の知り合いだったので
入社早々、重要な部署へ配属してもらえました。
ところが
「伊藤君、お茶をいれてくれ」
といわれて
「お茶ぐらい自分でいれてください」
と言ったのです。
・・・・・・。(;^_^A
もう二度とその人が上司となることは
ありませんでした。
さて、相手が喜ぶことを
無意識にしてしまうというのは
会社でなくても
家庭の中でもあるようです。
乳がんで温熱に来られていた人ですが
姑に気に入られる為
言われた用事は絶対に断らずに
引き受けていたそうです。
無意識にやってますから
それが当たり前になってるのですね。
やってもらう方も、いつものことだから
当然だと思うわけです。
ごくたまに
「今、手が離せなくて出来ません」
と言ったら
怒った姑が
包丁を持って追いかけてきた
という話を聞かされたときは
実際にそんなことがあるのか
と驚きました。
相手の喜ぶことが
自分の喜びであれば良いのですが
その為に
自分の感情を殺しているのでは
もし、死ぬ時になったら
「もっと自分を大事にすれば良かった」
と後悔するかも知れません。
52歳の男性ですが
大腸癌で手術後、抗がん剤治療中に
左肺にガンが見つかって手術を受けました。
また、抗癌剤治療中に
右肺への転移が分かったのです。
余命をほのめかしながら
抗癌剤を勧めてくる医師に
不信感を持ち
抗癌剤を断って
残された時間を精一杯
家族と過ごされましたが
彼は、地域の為に一生懸命に尽くす
「あんな良い人はいない」
といわれる評判の良い人でした。
「こんなことなら人のために尽くすより
もっと家族と過ごす時間を取ればよかった」
と言われたのです。
一生懸命に何かをするのは
すばらしいことですが
その為に自分を犠牲にしているなら
それは自分を大切にしていることには
ならないでしょう。
その一生懸命は誰の為なのか
考えてみても良いかな、と思います。