苦しみの根本解決をすれば、あらゆる苦しみがなくなります。
○絶対の幸福
世間一般の幸福は、無常・相対の幸福であり、安心も満足もできない欠点だらけの不完全な幸福です。
一方、死の解決は、常・絶対の幸福であり、常に安心・満足できる欠点のない完全な幸福です。もちろん、「食べていけるだろうか」といった生活の不安も雲散霧消します。
また、世間一般の幸福は、有無同然であり有っても無くても苦しみですが、死の解決は有っても無くても幸せという、まったく逆の意味の有無同然に変わります。
「この人は大利を得と為す、すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」(大無量寿経)
(訳:死の解決をした人は大きな利益を得、この上ない功徳が備わるのである)
「その国の衆生は、もろもろの苦あることなし、但もろもろの楽を受く。かるがゆえに極楽と名づく」(阿弥陀経)
(訳:その国の人々は、一切の苦がなく、ただ楽だけを受けるので極楽と名づけるのである)
「永く身心の悩みを離れて楽しみを受くること常に間なし」(浄土論)
(訳:永久に心身の苦悩がなくなり、常に絶え間ない楽しみを受ける)
・比喩
たとえば、経には極楽の様子について次のように説かれています。
「極楽国土には七重の欄楯・七重の羅網・七重の行樹あり。みなこれ四宝をもって、周帀し囲繞せり」(阿弥陀経)
(訳:極楽浄土には七重の玉垣、七重の宝珠を連ねた網、七重に並ぶ樹がある。これらは皆、金・銀・瑠璃・水晶の四つの宝でできており、この国中の至る所で取り囲んでいる)
しかし、これは極楽そのものではありません。実際に金や銀が存在するのではなく、人間に(当時の人たちに)わかりやすくするために、この世にある身近なものでたとえているのです(指方立相という)。
良い女を求めている男に説いたなら、マリリン・モンローのような美女がたくさんいる世界だと説かれたでしょう。
婚活に血眼になっている女に説いたなら、金持ちのイケメンがたくさんいる世界だと説かれたでしょう。
愛する人を失って苦しんでいる人に説いたなら、故人に逢える世界だと説かれたでしょう。
〇煩悩即菩提
先に説明した通り、生きている限り煩悩は消すことができません。ですので、煩悩に苦しめられないようになるには煩悩を楽に変えるという方法をとる必要があります。
ある年少の修行者が、「これがあるばかりに修行ができない」と思い、己の男根を切ろうとしました。その心を見抜いた釈迦は、「男根を断っても煩悩はなくならない。煩悩があるがままで救われる法を求めよ」と諭したといいます。
死の解決は、正確には苦が無くなるのではなく、煩悩(苦)が即、菩提(楽)に転じ変わる境地です。「即」は同時即ともいい、時も隔てず、場所も隔てず、時間の極まりを意味します。煩悩があるがまま菩提となる境地であり、苦しんだまんまが喜びという世界です。たとえば、ナイフが刺されば痛みを感じますが、それが障りとならないため、結果として痛みが無いのと等しいということです。
「渋柿の 渋がそのまま 甘みかな」という古歌があります。柿は、渋みがそのまま甘みへと転じ、渋みが多いほど甘みも多くなります。同じように、死の解決の境地は苦が楽に転じ、苦が多いほど楽も多くなります。渋柿のたとえでは、渋みが甘みに転じるまでに時間がかかりますが、この境地は即であり時間がかかりません。
・肉食妻帯
「肉を食い妻を持つ」ということですが、肉食妻帯といえば親鸞、親鸞といえば肉食妻帯というぐらい、親鸞を語る上で有名な話です。
当時の仏教界では、性を破ることは最も罵倒されるようなことであり殺人よりも重い罪とされていましたが、それを親鸞は破りました。実際は皆隠れてやっており、「せぬは仏、かくすは上人」といわれていたのですが、親鸞は公然とやったため激しく非難されたのです。なぜ公然とやったのかというと、煩悩にまみれた情けない人間、悪を造る情けない人間でも救われる道があるということを示すためです。
・善も悪もない
死の解決は「生きてよし、死んでよし」の境地です。
「恋人がいてよし、失恋してよし」「結婚してよし、離婚してよし」「金があってよし、なくてよし」
善悪に関係ない境地です。
この世は善悪の区別のある世界ですが、そのような世界に真の安らぎはありません。
たとえば天台宗の僧侶、瀬戸内寂聴は、腰部の圧迫骨折で入院した時の苦しみを次のように語っています。
「病気の間は、こんなに仏様をおまつりして皆さんにお話ししているのに、こんな痛い病気になって、神も仏もあるものかと思っていました。今度、もし生きて皆さんにお会いできたら、仏様なんかないですよと言ってやろうかと思っていたんです」
「痛くてお経を唱える余裕もなかったんです。コロリと死ねると思っていたのに、こんな痛い目に遭わされて、仏様って本当にあるのかしらとだんだん腹がたってきたんですよ」
このような境地は、善悪の区別がある不完全な境地です。
〇完全な愛
死の解決は阿弥陀仏という仏の力(他力という)でさせて頂く境地です。意識するとしないとにかかわらず、人間は欠点のない完全な愛を求めていますが、人間の愛ではそれは叶いません。阿弥陀仏の愛は欠点のない完全な愛です。
「今生に、いかに、愛し不便と思うとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候」(歎異抄)
(訳:今生でどれほど、愛しく不憫に思っても、思い通りには救い難いので、人間の愛は一貫しない不完全な愛である。阿弥陀仏の愛だけが一貫した完全な愛なのである)
・絶対平等
人間の愛には差別がありますが、仏の愛は平等の愛です。どんな人でも死の解決をすれば同じ境地に遊ぶことができます。
たとえるなら、どんな財布であっても、中身であるお金の価値に違いはないようなものです。高級な財布であろうが、ボロボロの財布であろうが、1万円が入っていれば同じ1万円の価値があります。1万円札は死の解決、財布は私たち1人1人のことをたとえています。釈迦のような優れた人(高級な財布)であろうと、私のような劣った人(ボロボロの財布)であろうと、死の解決の価値に違いはないのです。
・一切の差別がない
阿弥陀仏は本願といって「約束」をしています。その「約束」は全部で四十八ありますが、たとえば第四願は次のようなものです。
「設ひ我仏を得んに、国の中の人天、形式不同にして、好醜あらば、正覚を取らじ」(大無量寿経)
(訳:私が仏になったならば、人々の姿、形に違いがなく、美醜の差別がない世界にし、もしできなければ、悟りを捨てよう)
阿弥陀仏の他力によって美醜の差別のない境地に出られるのです。
美術評論家の柳宗悦は、「民芸」の語をつくり民芸運動の提唱者として知られる人ですが、彼は「美とは何か、その本質は何か、何を指して美しいというのか」といった問題に永い間、考えをめぐらしていたといいます。そして、晩年に仏教の他力思想に基づく「仏教美学」を提唱、著書「美の法門」の中で次のように語っています。
「仏教美学の悲願が依って立つ仏典は何か。それを『大無量寿経』に記された四十八願中の第四願に見出し得ると私は信じる」
「美の題材を取扱う一切の美学者、歴史家、鑑賞家たちは、すべからくこの願の意味をつきとめて、美思想の基礎をこの上に築くべきであると思われます」
この境地に出ることで真のハッピーエンドを迎えることができるのです。
・他の仏に浮気しない
死の解決に救う力があるのは阿弥陀仏だけです。
そのため、仏教徒は他の神や仏に浮気せず、阿弥陀仏一仏だけに向かいます。
「一向専念無量寿仏」(大無量寿経)
(書き下し:一向に専ら無量寿仏を念ずべし)
「一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり」(御伝鈔)
(訳:一向専念無量寿仏の教えは、仏教の要である)
「肝に銘じる」とか「腑に落ちる」などといわれるように、肝腑は要という意味であり骨目も同じです。
・善知識という仲人
助けたいと願う阿弥陀仏と、助かりたいと願う人間がどうしてマッチングしないのかというと、間に入って説明する仲介人がいないからです。
江戸時代に、お七という八百屋の娘がいました。
ある日、家の近くで火事があり、お七は寺へ避難しました。寺には吉三郎という小姓がおり、やがて2人は恋仲になります。しばらくして寺を離れ吉三郎とも離れなければなりませんでした。しかし、どうしても会いたい思いが捨てられなかったお七は、こう考えました。
(もう一度火事になれば吉三郎さんに会える・・・)
思いつめた末に、お七は火を放ってしまい、町は大火事となりました。
しばらくして、お七は捕えられます。当時、放火は火あぶりの刑でした。しかし、お七の心情を知った奉行は、火あぶりの刑はあまりに惨いと思い、何とか助けられないかと思いました。一方、お七も何とかして助かりたいと思っていました。しかし、私的な感情で法律を変えることはできません。そこで、奉行は次のように言いました。
「お七、本当はお前は放火なんてしていないだろう?」
お七が「はい」と言いさえすれば、それで済まそうと奉行は思っていました。
しかし、お七は正直に言えば助かると思っていました。そのため、「いいえ、私がやりました」と言ってしまいました。思惑が外れた奉行は、次にこう言いました。
「お七、本当はお前は14歳だろう?」
当時の法律では、14歳以下は火あぶりの刑を免れることができたため、奉行はこう言ったのでした。しかし、お七は、またしても「いいえ、私は15歳です」と正直に言ってしまいました。
なす術がなくなり、とうとうお七は処刑されてしまいました。この一件を知った人々は、こう歌を詠みました。
「恋で身を焼く 八百屋のお七 飛んで火にいる 夏の虫」
助けたい奉行と助かりたいお七でしたが、どうして助からなかったかというと、奉行の思いをお七に伝える人がいなかったからです。
これと同じことが阿弥陀仏と人間との間で起こっています。阿弥陀仏と人間とをマッチングする仲介人が善知識になります。
金持ちを「たくましい」と思うのではなく、死の解決に導いてくださる善知識を「たくましい」と思えるようになるべきです。
善知識については第6巻で詳しく説明しています。
〇絶対にしなければならない
死の解決をしなければ死後は地獄です。一度地獄に堕ちれば助かる方法はありません。ですので、死の解決は”絶対に”しなければならないものであり、「したほうがいい」とか「できたらいいな」というものではありません。どんなに苦しくても、どんなに年を取っても、ずってでも這ってでも求めてゴールする必要があります。
・急いでしなければならない
人間は死と隣り合わせであり、今日死んでもおかしくありません。今日死ねば、今日から地獄が始まるのです。今、幸せの絶頂にいようが、不幸のどん底にいようが関係ありません。ですので、一刻も早く死を解決する必要があります。
「ああ、夢幻にして真にあらず、寿夭保ちがたし、呼吸のあひだ、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失ひぬれば、万劫にも復せず。この時悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまはん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれ」(教行信証)
(訳:ああ、この世は夢、幻であって真実ではない。命は保ち難く、吐いた息が吸えなければ死んでしまう。一度死んでしまえば、地獄に堕ち、永遠に抜け出すことはできない。生きているうちに死の解決をしなければ、仏でもどうしようもできない。どうか深く無常を問い詰めて、いたずらに後悔しないでほしい)
「一日も片時も、いそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定せよ」(御文)
(訳:一刻も早く急いで死の解決をし、極楽浄土への往生を決定せよ)
「人生死出離の大事なれば、これより急ぐべきはなく、またこれより重きはあらざるべし」(御裁断申明書)
(訳:死の解決ほどの一大事より急ぐべきことはなく、これほど重いことはない)
・必ず後悔する
死の解決ができなければ、血の涙を流して後悔することになります。
「明日も知らぬ命にてこそ候うに、何事を申すも命終わり候わば、いたずらごとにてあるべく候う。命のうちに、不審もとくとくはれられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候う」(御文)
(訳:明日もわからない無常の命であり、何をしようとも死ねば意味がない。生きている間に死の解決をしなければ、必ず後悔することになる。よくよく心得なければならない)
死の解決の手段に活かせない恋愛や結婚をしている場合ではないのです。
以上、恋愛をテーマに論じてきましたが、どうしても浅い内容になってしまうので、詳しくは第1巻からご覧ください。