では、恋愛や結婚はまったく価値がないのかというとそうでもありません。関わり方次第で手段として活かすこともできます。

〇死の解決の手段
・自己を知る手段
・入り方は関係ない
・不幸を活かす
〇愛の重要性
・人を幸せにする幸せ
・愛は悟りのキーファクター
・愛は学ぶべきもの
・完全な愛を目指す
・親の恩がわからない人は危険
〇捨てる覚悟
・世間は捨て難い
・幸せは危険
・捨てる訓練をする
〇正しく観察する
・不浄観
・無常観
・罪悪観
〇スケベこそ救われる
・真実の自己

 

〇死の解決の手段

死の解決は人生のゴールですので、死の解決が善悪の基準になります。つまり、死の解決に近づく行為が善であり、遠ざかる行為が悪になります。世間の価値観からすれば、どれほど悪に思えるような行為であっても、死の解決に近づく行為であれば善となります。

たとえば、妙好人(仏教の篤信者のこと)として知られる六連島のおかるという人は、夫の浮気に死ぬほど苦しんでいました。しかし、それをきっかけにおかるは仏門に入り死の解決を達成し、最終的には夫に感謝しています。この場合、夫の浮気が善であった可能性があります。また、失恋をきっかけに仏門に入り死の解決を達成した人もいます。この場合、失恋が善であった可能性があります。

逆もしかりです。どれほど善に思えるような行為であっても、死の解決から遠ざかる行為であれば悪となります。たとえば一度は仏門に入ったものの、家庭が優先になって求道をやめてしまった人も実際にいます。この場合、家庭が悪であった可能性があります。

このように、恋愛も結婚も死の解決に近づけるための手段にすぎません。これを仏教では「方便」といいます。方便とは、サンスクリット語「ウパーヤー」の中国語訳で、日本語では「真実に近づける」という意味です。

「すべては死の解決をするためのストーリー」なのです。

・自己を知る手段

死の解決は自己を知ることで達成できるので、特に自己を知るための手段です。

頭では「妄念」だとわかっていても腹底ではわかっておらず、妄念に騙されている自覚もありません。無常を無常と思わず、人生に対しても人に対してもキラキラ輝いて見ているので、そういった間違いを腹底からわからせるためにも恋愛は手段として有効です。

オスとメスに分かれたことで生物は飛躍的に進化したといわれています。

「生物は、効率よく繁殖を行い、多様性を高めるためにオスとメスを作った。遺伝子を組み替えることで、変化し続けることができる。また、親世代よりも優秀な子孫が生まれる可能性もある。オスとメスが生まれたことによって、生物は飛躍的に進化を遂げることができたのである」(稲垣栄洋/静岡大学農学部教授)

そうであるなら、「本当の恋愛」は飛躍的な進化につながる力を秘めているのではないでしょうか。「性の進化論」にもあるように、「恋愛の能力は、もしかするとわれわれの最も『人間的な』特徴であるかもしれません」

恋愛は自己を知るための大きな力を秘めているように思えます。

「動物の生殖行動は繁殖が至上命令です。しかし、ヒトでは、生殖と性愛が切り離され独特の性愛文化が生じてきたのです。野生動物や家畜には恋愛や性愛という感情は生じません。ヒトは四季によらずいつでも恋に陥り、生殖を目的としない、性的快楽をもたらす性行動を行うようになりました」(若原正己/北海道大学理学部助教授)

 

一方で、恋愛は手段の1つにすぎないので、たとえ恋愛できなくとも絶望する必要はありません。次のようなことになっても死の解決はできるのです。

「iPS細胞技術によって、理論的には男でも卵を作ることができ、女でも精子を作ることができる時代がきてしまいました。原理的には、女1人だけで生殖が完結するので、最終的には、男は必要なくなります」(若原正己)

 

・入り方は関係ない

求道を始めるに至る経緯は千差万別ですが、最初の入り方はあまり問題ではありません。その後の聞き方のほうが重要です。幸福も不幸も努力次第で良縁に変えることができるのです。

バラモンの家に生まれた龍樹は、どんなことも一度聞いただけで理解できたといいます。青年時代には天文学や地理学など、多くの学問に精通し、他に並ぶものもなく名声も広がっていました。

学び尽くしたと思った龍樹は次に、快楽にふけることが何よりも楽しいだろうと考えました。そこで、国内の美女が集まっている王宮に目をつけました。3人の親友とともに王宮に忍び込むや、宮中の美女を皆、犯してしまいました。やがて、何人かの官女が身ごもったことが発覚すると、王は激怒し、曲者を見つけ次第殺すよう兵士に命じました。そこへ4人がやってきたものですから、たちまち兵士に囲まれ、すぐに3人の親友は殺されてしまいました。幸い龍樹は王を盾にして何とか逃れることができました。

友人を失い世の無常を強く感じた龍樹は、やがて仏門に入ります。爆発的な求道を開始すると、たちまち死の解決まで求め切りました。最終的に、インドの歴史で釈迦がいなかったら龍樹が最高の偉人だっただろうといわれるまでの人になりました。

 

・不幸を活かす

一切の不幸(幸もですが)を死の解決のための良縁として活かすべきです。大切な人を失った場合も、酷く落ち込むだけではなく、「やがて自分も同じように死んでしまう」と無常を観じる縁として活かすべきです。

小林一茶は、「送り火や 今に我等も あの通り」と詠みました。「鳥辺山 昨日の煙 今日もたつ 眺めて通る 人もいつまで」という古歌もあります。

「次はお前だ」と刻まれた墓碑もありますが、見方を変えれば、大切な人が自らの命をかけて無常を教えてくれているのです(身業説法ともいう)。

熊本地震で4歳の娘を失った宮崎さくらさんは次のように語ります。

「震災があって花梨(娘)が亡くなってそのときに初めてね、普通に生きていることは全然普通でもなんでもなくて・・・・いつ壊れたっておかしくないんだって。それを教えてもらった。気づかせてくれた」

活かせないと彼らの死が無駄になってしまいます。

 

〇愛の重要性

先に、愛の欠点について説明しましたが、愛は大変重要です。

たとえば健康面からいっても重要です。周知の通り、望まない孤独は健康に深刻な害を与える万病のもとです。

孤独のリスクについて、心理学者のジュリアン・ホルトランスタッド(ブリガムヤング大学教授)は、「一日タバコ15本吸うことに匹敵、アルコール依存症であることに匹敵、運動をしないことよりも高い、肥満の2倍高い」と言います。

2018年にイギリスが孤独担当大臣を設置したことも有名な話です。日本でも新型コロナの影響で2021年に設置されました。

その孤独感を何とかするため、人間は意識するとしないとにかかわらず愛を求めています。

2010年、米国の研究者たちは、30万8000人以上を追跡した148件の研究を分析し、強い社会的な絆がなければ、あらゆる原因による死のリスクが2倍になるという結論を出しています。

インスタ偽造を告白したモデルの西上まなみは次のように語り、嘘の上塗りを重ねてしまったといいます。

「本当は独りぼっちなのに、仲良しのお友達とランチしているように見せたい。それで、2人分のお洒落な食事をカフェで頼んで何度も投稿していました。けれど、1人で全部のご飯を黙々と食べている時が辛いというか、すごく虚しい気持ちになって・・・・」

・人を幸せにする幸せ

これも研究に次ぐ研究が示すように、孤独感を始め様々な苦悩を、愛を与えること、人を幸せにすることで減らすことができます。

カナダの生理学者、ハンス・セリエは、利他をすることでストレスを減らし幸福感が多くなると言いました。ちなみに、ストレスという言葉は、1936年にセリエがストレス学説を発表して以来、広く使われるようになったといわれています。

愛されたいと思っているほど精神的な健康度は低く、愛したいと思っているほど精神的な健康度は高いようです。

「『愛したい』と思っている人ほど、うつ傾向が低く、社会的活動に障害がなく、不眠が生じにくいということがわかりました。現代社会では、人から『愛される』価値が強調されていますが、それよりも人を『愛する』ことのほうが精神的健康にとっては重要だということでしょう」(越智啓太/法政大学文学部心理学科教授)

 

「親切は人を幸せにし、心臓によく、老化を遅らせる。親切は人間関係を改善する。そしてどんどん拡散する。親切な行為をすると、この5つが一緒についてくるのだ」(デイビッド・ハミルトン著「親切は脳に効く」より)

 

このように、人を幸せにする幸福感も強いものがあります。他の幸福感とは質が異なる幸福感ともいえるでしょう。

男と女とで「利益(幸福)」の内容に多少の違いはありますが、人間は何らかの利益を求めているわけですから、利益を与えれば恋愛含めどんな人間関係も上手くいきます。

 

・愛は悟りのキーファクター

現代では愛が健康のキーファクター(重要な要因)であるという人は多いですが、それだけでなく悟りへのキーファクターでもあります。

「報告によれば、人が悟りを体験している最中には他人への思いやりをより強く感じていることが多いようだ。だから、思いやりと親切心を育てれば、悟りへの道を拓くことにもなる」(アンドリュー)

むしろ健康にいいというのはオマケにすぎず、悟りに近づけるというもっと大きな力を愛は秘めているということです。このことについても第5巻では科学的知見を交えて詳しく説明しました(科学が近づく仏教の世界5「愛の限界と力」)。

 

・愛は学ぶべきもの

愛は、他の無常の幸福同様、人生の目的ではなく、自己を知るための手段です。

愛は幸せになるために求めるべきものではなく、学ぶべきものです。完璧な愛があると思っていれば、「裏切られた」と恨んだり、理想と現実のギャップに苦しむことになります。不完全な愛だと頭でもわかっていれば、裏切られても「仏説の通りだった」と学ぶことができます。

「愛の進化の大元をたどってみると、そもそもの愛は『個と種を維持するために用意された生物学的な仕組み』であると思われます。そしてより高度な『無償の愛』は、生物進化に伴って派生した『愛』の亜種と見ることができます。そうだとすると『愛は生きる目的』ではなく、どちらかというと『愛は生きるための手段』だといえます」(台場時生著「人工超知能が人類を超える」より)

 

利他をする生き方が幸せな生き方だと思いながらも、愛の欠点にも気づき苦しんでいる人もいるでしょう。そのような人も、愛が目的ではなく手段だと考えると納得できるはずです。

 

・完全な愛を目指す

欠点のない完全な愛を与えられるよう努めるべきです。たとえば、ブスにもホームレスにも差別なく平等に接するよう努めるということです。結論から言えば、完全な愛を与えることは人間にはできませんが、近づくことはできます。また、そのように努めないと愛の限界を知ることはできません。

 

・親の恩がわからない人は危険

人間は様々な人からの親切のおかげで生きることができています。特に親には非常に重い恩があります(詳しくは第5巻「恩」)。その親の恩に気づくことができなければ必ず不幸になります。たとえば人間関係でも様々な悪い影響を及ぼします。

「親との関係は、多くの点で、人生を象徴している。親から多く与えられたと思う人は、人生からも多くを与えられていると感じがちだ。一方、親からほんの少ししか与えられなかったと思っている人は、人生からもほんの少ししか得られないはずだと思いがちだ」

「親との問題が解決されていないと、社会生活はもちろんのこと、職業人生にも悪影響が及ぶ。家族内の未解決の問題を職場でも繰り返し、信頼関係ではなく対立を生みやすくなる。そうした家族関係を上司や同僚に投影してしまうため、職業上の成功は難しくなる」(マーク・ウォリン著「心の傷は遺伝する」より)

 

親の恩にさえ気づけないのに、他人の善意に心から感謝できるはずがないのです。結婚相手を選ぶ際も、親を大切にしているかどうか見るべきです。

 

〇捨てる覚悟

人生の目的を無常の幸福から死の解決に目的を変えるということは、別な言い方をすれば、より優れた道を選ぶということです。どんなことにもいえますが、より優れた道を選び向上するためには、劣った道を捨てる覚悟がどうしても必要になります。

「精神的進化の歩みは、それまで動物的欲求に執着していた心を一旦は否定することがどうしても必要である」

「不安定な地盤をしっかりとした地盤に作り替えるためには、どうしても、今まで作ってきたビルを一旦は取り壊さなくてはならない」(望月清文)

アインシュタインは「未来の自分のためなら今の自分を捨てる覚悟を持たねばならない」と言いました。

青春のすべてを蘭学に費やしていたという福沢諭吉は、世界の大勢が英語にあることを知るや、大きなショックを受けながらも、蘭学を捨て英語を勉強し始めたといいます。

世間の人間でも未来の幸せのためにこれだけ捨てるのです。未来の幸せといっても、彼らが求めるのは無常の幸福です。無常の幸福を手に入れるために無常の幸福を捨てたにすぎません。未来永劫救われる死の解決という幸せを手に入れようとする求道者は、一切を捨てる必要があります。仏教の開祖である釈迦に学びましょう。

釈迦は、今から2500年程前の4月8日、インド(現在のネパールのルンビニ)にて、シャカ族の王子として誕生しました。

釈迦は幼少から人並み外れた才能を発揮します。7歳の頃、学問と武芸の先生として、それぞれバッダラニーとセンダイダイバーというインドで1番優れているとされる家庭教師がついていました。しかし、あっという間にこの2人の能力を上回ってしまい、2人が「太子には何も教えることが無い」と辞職を願い出たほどだったといいます。

やがて成長して16歳になると、隣国コーリ城主の娘ヤショダラ姫と結婚し子供を設けます。

何不自由ない生活を送っていましたが、「老」「病」「死」といった人間の根本的な問題に悩み、その思いは日増しに強くなっていきました。

いつも憂慮している釈迦を見て、父である浄飯王も頭を悩ませていました。何とかして釈迦に王位を継承させたかった浄飯王は、「このままでは本当に出家してしまうかもしれない」と恐れたのです。そこで、三時殿と呼ばれる、夏期・雨期・冬期の3つの季節に対応した宮殿を建立したり、インド中の美女を集め贅の限りを尽くした宴を催すなど、様々な手段を用いて釈迦を思い止まらせようとしました。欲に耽溺させることで出家を阻止しようとしたのです。

しかし、何をやっても釈迦に変化はなく、それどころか火に油を注ぐ形となり、ますます出家への思いを強くしていきました。

「ここまでやってあげているというのに、お前は一体何が不満なんだ。願いは何でも叶えてやるから言ってみろ」

業を煮やした浄飯王が問いただすと、釈迦はこう答えました。

「私の願いは、『』『』『』の苦しみがなくなることです。この願いを叶えて頂けるのなら王となります」

当然、この願いは浄飯王には叶えられません。浄飯王は何も言えなくなりました。

そして、29歳の時、死の解決をするため釈迦は出家しました。出家したということは、すべてを捨てたということです。家族も王位も捨てたわけですが、こういったものを大事にしていなかったわけではなく、むしろ非常に大事にしていました。それにもかかわらず捨てたということは、死の解決は、大事な家族よりももっと大事な問題であることを意味します。

もう1人紹介しましょう。

室町時代に、了庵慧明という曹洞宗の僧侶がいました。慧明は最乗寺という寺を開き多くの弟子を指導していました。

その慧明には慧春という大変美しい妹がいたのですが、慧春は兄を見ていつも不思議に思っていました。

(里へ行けば楽しいことがいっぱいあるのに、なぜお兄さんは厳しい修行をするのだろう・・・)

ある時、慧明に聞いてみると、死後に大変な一大事があること、悟りを開くために修行していることなどを教えられました。 

それを聞いた慧春は、自分も入門して修行したいと思いました。そこで慧明に入門を頼みますが、慧明は断りました。慧春のような美しい女性が入ってくれば、他の男僧の修行の妨げになると心配したのです。

「私が入門できないのは、この顔のためなんですか。そうですか、わかりました」

こう言うと慧春は急いで家に帰り、何を思ったのか、焼け火鉢を作りました。そして、火箸を縦横無尽に顔にあてました。焼けただれて化け物のような顔になったのを見て、これで良しと思ったのか、再び寺へ戻りました。

「お兄さん、これで入門を許してください」

化け物のような顔をした女を見て慧明は驚きました。しかし、よく見ると妹の慧春でした。

「お前、その顔は一体どうしたんだ!」

「はい、お兄さんは私の顔のせいで入門できないと言ったので焼いてきました。やがて滅びる肉体なんて、私はどうでもいいのです。私は後生の解決をしたいのです。どうか入門させてください」

そこまで覚悟しているならということで、慧明は入門を許しました。

こういう人ですから、熾烈な修行をし、めきめきと頭角を現しました。慧春には次のようなエピソードがあります。

どこか色気が残っていたのか、不心得な男僧が慧春を誘惑してきました。慧春は無視していましたが、あまりにしつこく誘ってくるため、「わかりました。それだけ言うなら求めに応じましょう」と約束しました。

後日、盛大な法会が営まれた時のことです。

何を思ったのか、慧春が大衆の前に進み出てきました。そして、その男僧を指さし、「それでは約束を果たしましょう、どうぞ!」と言って服を脱ぎ始めました。男僧は、這う這うの体で逃げ出したといいます。

また、こんなエピソードもあります。

慧春が鎌倉の円覚寺に使いに行った時のことです。

「女を使いによこすとは何事か」と怒った円覚寺は、男僧に追い払うよう指示しました。

慧春がやってくると、その男僧が門前に現れました。そして裾を捲り上げ、「わが物一尺受けてみよ!」と慧春に向かって言いました。普通ならキャーと逃げ出すところでしょうが、慧春は違いました。自分の裾を捲り上げ、「わが物底なし受けてみよ!」と男僧に向かって言い返しました。

そんな慧春は最後、火定によって死んでいます。「火によって出家したのだから、火によって死のう」と考え、悟りを開くために、最後に一か八かの賭けに出たのです。

薪の上にどっかりと座り、弟子に火をつけさせました。紅蓮の炎が慧春を焼きます。

「どうだ慧春、熱いか」

不心得な老僧が聞いてきました。

「生臭坊主のわかる境地ではないわ!」

こう言って慧春は死んでいったといいます。

他にも、このように熾烈な修行をした人は数多くいます。彼らは、肉体は死と共に消えることがよくわかっていたのです。

 

・世間は捨て難い

このように捨てる覚悟が必要ですが、世間にどっぷり浸かって生きてきたので、大抵の人間はなかなか捨てることができません。捨てるには、人生観や価値観といったものを180度といっていいくらい、大きく変える必要があります。

「精神的進化を目指すには、それまでの動物的欲求に慣らされ、外の世界にのみ向けられていた意識を自分自身の中に向けるというコペルニクス的転回を必要とする」

「精神的進化の歩みは、それまで動物的欲求に執着していた心を一旦は否定することがどうしても必要である」(望月清文)

釈迦の弟子に難陀という人がいました。

彼は、出家したものの美しい妻のことが忘れられず、修行に身が入っていませんでした。

その心を見抜いた釈迦は、難陀に天上界の美しい天女たちを見せました。すると、難陀は妻のことを忘れ、今度は天上界に生まれたいと願うようになり、そのために猛烈な修行をするようになりました。

次に、釈迦は難陀に地獄を見せました。そこでは多くの罪人が八裂きにされ、悲鳴をあげていました。すると、地獄の鬼が難陀に向かって言いました。

「難陀という男が、天上界で遊びほうけた後に地獄に堕ちてくるから待っているところだ」

これを聞いた難陀は真っ青になり、その後、心を入れ替えて死の解決を求めたといいます。

難陀は「天女に会いたい」という欲のために修行していましたが、これは不純な動機です。この話は、求道は死の解決のためだけにあるということを教えているのです。

求道を志す人は多いですが、恋愛や結婚を活かせず、求道から脱線してしまう人も多いです。恋人や家族を説得する立場なのに、求道心が弱いためにミイラ取りがミイラになってしまうのです。

 

・幸せは危険

幸せを追いかけている時は、死苦を始め、無数の苦悩が迫っていることを忘れさせる麻薬のようなものなのです。幸せの実態がわかれば、幸せな状態というのは非常に危険なものだということもわかります。

「人生最大の喜びを手に入れること。それはすなわち危険な生活を意味する」(ニーチェ/哲学者)

 

「人間が幸福の夢を追うときに犯す大きな過失は、人間の生来から備わっているあの『死』という弱点を忘れてしまうことだ」(シャトーブリアン/政治家)

 

「エイズで亡くなった男性をこの目で六人見たわ。彼らの最後を看取ったの。そのたびに『生きることや人生の意味って何?』って思ってた。それから子供ができて、彼らに強い愛情を感じると・・・この疑問は棚上げにされて、愚かにも答えを知りたくないって思うようになるのよ」(マドンナ/歌手)

 

・捨てる訓練をする

死んでいく時には、一番大切な自分の命をはじめ、家族も財宝も、強制的に一切を捨てなければならず、その苦しみは筆舌に尽くし難いものです。その時に備え、日頃から捨てる訓練をする必要があります。

 

〇正しく観察する

臭い物に蓋をするのではなく、妄念に騙されず正しく観察する必要があります。

・不浄観

釈迦の弟子に阿難という人がいます。

大変な美男子で有名だったそうですが、阿難は、あるスードラ(カースト最下層)の娘に手を差し伸べたことがあります(詳しくは第5巻「利他に徹する」)。鉄壁のカーストにおいて、虫けら同然のスードラが上位階級の人間から優しくされることはありません。さらに相手はスーパースターの阿難です。それ以来、この娘は阿難に恋をしました。

いつもと違う娘の様子に母親が心配して尋ねると、娘はその時のことを話し、こう言いました。

「お母さんは呪術が上手でしたね。どうか阿難様をここへ呼び寄せてください。そうでなければ私は死んでしまいます」

願いを叶えてやりたいと思った母親が祈ると、阿難は娘の家に引き寄せられました。欲に負けそうになった阿難は、心の中で「世尊よ、助けたまえ」と必死で念じました。

すると、神通力で阿難の災難を知った釈迦が、母親の術を解き阿難を救出しました。

それでも思いを断ち切れない娘は、その後も阿難の後をついてまわりました。

釈迦は娘に言いました。

「そんなに阿難のことが好きか」

「はい、阿難様の妻になれるためなら何でもします」

「それなら出家しなさい」

恋心を否定せず方便として活かそうとしたのです。

それを聞くや、娘はその場で髪を切り出家しました。

しばらくして、釈迦は娘に問いました。

「お前は阿難のどこが好きなのか」

「はい、阿難様の目、声、歩く姿、いいえ、鼻も口も耳もなにもかもすべてが好きなのです」

「では聞くがよい。阿難の目には目糞がある。鼻には鼻糞、口には唾やタンが満ちている。耳には耳垢があり、体には糞や尿などの不浄が満ちている。そして死ねば白骨だけとなる。お前はそのどこが好きなのか」

釈迦の説法を聞いた娘は、間違った思いにとらわれていたことに気づき、心を改め真の修行者になったといいます。

このように観察することを不浄観といい、白骨観ともいいます。

仏教説話集の閑居友にも次のような話があります。

ある修行者が、美しい女に心を奪われて修行に励めずにいました。

そこで修行者は、その女を誘うことにし、部屋で2人きりになりました。ところが、修行者は女をじっと観察するだけで、しばらくして女に感謝して離れていきました。不浄を観じて執着心を取り除いたのだといいます。

閑居友にはこんな話もあります。

ある僧侶が、やはり美女に思いを募らせ誘うことにしました。

ところが、数日後に会ってみると女は別人のようになっていました。体中からは異臭が漂い、埃にまみれ、僧侶は思わず後ずさりました。わが身の世話を一切しなかったのだといいます。

女は言いました。

「仏につかえるあなた様に、うわべだけの偽りの姿をお見せするのは罪深いことかと思い、このような姿でお会いしたのでございます」

僧侶は善知識(仏教の正しい先生という意味)を得たと思い感謝し、その後、一心に修行に励んだといいます。

他にも、美女の醜い面に気づいてから仏道に入ったという話や、わざと美女に姿を変え醜い面を見せて仏道に入らせるといった話は多いです。

やはり恋愛は、無常観や不浄観などを観じるのに有効な手段となり得るのでしょう。

 

・無常観

釈迦は死人や病人を見て反省する材料としました。

修行本起経には、釈迦が出家する大きな動機となった有名な四門出遊の話があります。

郊外の風景を楽しもうと釈迦は王宮を出ました。まず東門を出ると、頭は白く、歯が抜け落ち、腰は曲がり、杖をついた者が目に入りました。釈迦は御者に尋ねました。

「あれは何か。他の者と違っているではないか」

「あれは老人であります」

「老人とは何か」

「もはや寿命がいくばくもない者であります」

「私も老人になるのであろうか」

「もちろん誰でもなることであります」

次に南門を出ると、身は痩せ細り、苦しそうに呼吸をし、骨節の痛みに泣き叫んでいる人を見ました。病人でした。

さらに西門を出ると、息は絶え、身は冷たく硬直し、家族が泣き叫ぶ声にも反応しない人を見ました。死人でした。

これらの人々の姿を見て、決して避けられない問題として感じた釈迦は愕然としました。

そして最後に北門を出ると、悠然と歩く人を見ました。沙門でした。その姿に安らぎを感じ、本当の安楽は出家の中にこそあると思ったのでした。

無常観といっても、強弱があります。たとえば、寂しいとか虚しいといった無常観はまだ弱く、もっと強くなれば恐怖を感じるようになります。

無常を観じる人は多いですが、ほとんどの場合、弱い無常観です。そのため、解決したいと求道しようとまでは思わなかったり、求道を始めても途中で脱線してしまいます。

今日、優れた仏教者と評される人でも、無常がわかってない時期がありました。

源信がまだ若い頃、出家していた姉の願西尼を訪ねたことがありました。その時、願西尼はいつになく容(かたち)を改めて、源信に「無常とは何か」と問いました。すぐに源信は「花に嵐、月にむら雲」と答えました。それを聞いた願西尼はひどく落胆し、次の歌を書いて示しました。

「出づる息 入る息待たぬ 世の中を 君はのどかに ながめつるかな」

無常とは、散りゆく花や、雲に隠れる月といったものではなく、あなた自身が死ぬことをいうのですよ、という戒めの歌です。これに大きな衝撃を受けた源信は、その後、死を見つめることに専念したといいます。

この時の源信の無常観は文学的な無常であり、のどかな無常です。死が他人事になっています。

「神田川」でも説明したように、「本当の恋愛」は恐怖がつきまといます。恐怖を感じないような恋愛は本当の恋愛ではありません。これぐらいの恋愛でないと知らされることが少なく、仏教で説く無常観につながりません。セフレのような恋愛ではわからない世界なのです。このような恋愛ができるのは幸せなことです。

恋愛は無常観といった自己を知るための手段であるという点からいえば、いわゆる「恋愛経験豊富な大人」よりも、プラトニックな手も握れない恋愛しかしたことがない若者や童貞のほうが、意味のある恋愛をしている可能性もあります。

「我々は今、快楽と快楽の後に忍び寄る空しさとの繰り返しの中で、生きるとは何なのか、本当の幸せとは何なのか、生きる目的はあるのかといったことへの答えを求め始めている。実は、その空虚感、生きることの意味を問おうとするその衝動こそ、刹那的な快楽に陥ってしまおうとする我々の頼りない意志を、生命の進化の方向に向けさせようとする自然の力なのだ」(望月清文)

 

死の恐怖は、死後が地獄であることを警告するシグナルといえます。死の恐怖を直視し、中に入り込んでくるよう自然は望んでいるのでしょう。

「真理は、人生存在の意義は死によって消滅することである。人間の智識が進むにつれて、否応なしにこの怖ろしき真理と直接対面せねばならぬ。こう考えてみると、生命の進化が無意味になってくる。人間が進化すれば、その智識が進むにきまっている。智識が進めば、死の意味を知らざりしものが、それを知るようになり、その結果、死の恐怖が高まり、生をあじわうことがますます深刻となってくる。生命の進化は人間を不幸に導くということになる」(福来友吉)

 

「自然は、老いや死への恐怖をある意味を持って人間に投げかけているにちがいない。その恐怖は、それから逃れるためのものではなく、その恐怖の中に入り込んでくることを望んでいるはずなのだ。というのは、その不安定な幸福の中で、必ず、我々は、心の奥深いところに何かある、もっと心を満たしてくれる何かがあることを感じとっているからだ。その感じがあるから、刹那的な快楽の後から、どうしようもない空虚感が襲ってくる。そして、その空虚感が、我々に、何かもっと本質的に心を満たすことのできるものを求めさせようとしているのである。

「死の恐怖は、悠久なる生命の存在を知らしめようとしている。死を意識させることによって、その死の恐怖を生み出している暗黒の世界に明かりを灯させようとしているのである。そして、その暗黒の世界に明かりを灯そうとする営みこそ、動物的快楽から離れ、崇高なる心の在処を求めようとする動きでもある」

「我々を動物的欲求の渦の中から目覚めさせ、さらに進化を遂げさせようとする働きこそ、死への恐怖であり、内から聞こえてくる『人生いかに生きるべきか』という命題でもある」(望月清文)

死の恐怖を感じるというのも人間の優れた能力の1つです。

死の恐怖は、死を解決するようケツを叩いてくれる有り難いものであるのに、これまで説明してきたように、人間は向き合い方がわからないから臭い物だとしか思えず蓋をしてしまいます。

死の恐怖を感じないことを誇り、死に怯えている人を笑う人は多いですが大きな間違いです。

映画「甘い生活」では、「僕は平和が怖い。何よりも怖い。地獄を隠しているような気がしてね」というセリフが出てきますが、このように普段の日常に恐怖を感じるのが正常で、日常に恐怖を感じないのが異常なのです。

また、死を直視することは苦しいことばかりではありません。生の喜びにつながりますし、利他心も強くなります。心理学でも、「死を想うと人間は他者に優しくなる」という心理効果を指すスクルージ効果が知られています。たとえば、フロリダ州立大学の実験では、「必ず墓場の前を通る人たち」と、「通常の道を通る人たち」とでは、人に親切にする確率が前者は40%アップしたといいます。

 

・罪悪観

自己の罪悪を見つめます。生き物を殺し、女を犯しっぱなしの自己を素直に直視するということです。

素直に直視せず、「浮気していない」「1人の女を愛することができる」「無償の愛を与えている」といった具合に、自分にも人にも嘘をついているのが人間です。国民に自粛を強く求めながら、自身は政治資金パーティーを開いたりデートしたりしていた日本医師会会長だけではないのです。

「心口各異 言念無実 佞諂不忠 巧言諛媚」(大無量寿経)

(書き下し:心口おのおの異に、言念実なし。佞諂不忠にして巧言諛媚なり)

(訳:心で思うことと口で言うことが異なっており、どちらも誠実でない。口先が上手く、お世辞を言って真心を尽くさず、言葉巧みにこびへつらう)

これでは真の救いにはなりません。

「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ」(教行信証)

(訳:外面だけ利口で善人ぶった姿に見せてはならない。なぜなら、内心は嘘偽りであって、欲を貪り、怒り、邪で人を欺くといった心が絶えず起こり、悪性は止め難く非常に醜いからである)

明恵も心では女を抱いていました。慧春も、あのように強く見せてはいますが、本当は男を欲していたに違いありません。

しかし、彼らは親鸞と違って心の悪にまでは目が向きませんでした。そのため、修行に限界を感じるまでには至らず一生を終えてしまいました。

 

〇スケベこそ救われる

仏教には「悪人正機」という有名な言葉があります。自己の悪性を直視して苦しんでいる人(悪人)こそ救われるという意味です。

「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄)

(訳:善人でさえ救われるのであれば悪人はなおさら救われる)

 

逆に、自分を善ができるいい人間だと思っている人を善人といい、皮肉をこめて善人様といいますが、すべての人間は善人様です。

イギリスの思想家、カーライルに一人の婦人が悩みを相談しに来ました。

婦人は、「家族が私の気持ちをわかってくれない」と涙ながらに語りました。

それを聞いていたカーライルは、何を思ったのか、婦人にタンスを調べるようアドバイスしました。

「乱雑になっている衣服があったら整頓したり綺麗にすること。私が申しあげるのはそれだけです」

婦人には理解できませんでしたが、それでもやってみようと思い帰宅しました。

そして、一週間後、婦人が笑顔でカーライルのもとへやってきました。

「恥ずかしいことですが、まったく整頓されていませんでした。やるべきことをやらずして人に自分の気持ちをわかってもらおうなどとは虫がよすぎる、先生はそう言いたかったのですね」

裁縫箱の針も糸も乱雑に入っていたことや、タンスの中の衣服も整頓されていなかったことなどを話しました。そして、気がついたら家中の整理を始めており、なぜこんな基本をおろそかにしてしまったのか、と恥ずかしくなったといいます。

これでは何事も上手くいくはずがない、と知らされたことをカーライルに話すとカーライルは、にっこり笑って頷いたそうです。

また、詳しくは第5巻で説明していますが、悪人になれば他人の心もわかるようになります。

意識するとしないとにかかわらず、人間は自分の心を通して人の心も把握しようとしています。自己を深く知るほど、つまり悪人になるほど、人の心も深くわかります。浅い自己しか知らない人は、人の心も浅くしかわかりません。

おそらく、自己を知ることが人の心を知ることにつながり、人の心を知ることで利他がしやすくなり、利他をすることで自己がわかり、そして人の心がさらにわかり・・・という好循環を自然は期待しているのでしょう。

・真実の自己

自己を追求していくと、罪悪の塊である悪性の自己が見えてきます。「皆人の 心の底の 奥の院 たずねてみれば 本尊は鬼」という古歌の通りです。

龍樹は自身を獰弱怯劣と言っています。

「獰」は悪い、「弱」は弱い、「怯」は卑怯、「劣」は劣るという意味ですから、「自分は、悪くて、弱くて、卑怯で、劣った人間である」と言っているのです。

道綽は「もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨に異ならん」と言い、「暴風や豪雨の如く罪悪を造っている」と懺悔しています。

親鸞は無慚無愧(むざんむぎ)と言っています。

「慚」とは己に恥じる心、「愧」とは人に恥じる心を意味しますので、「自分は悪の限りを尽くしながら、己に恥じる心も、人に恥じる心もない」と懺悔しているということです。人間は、「罪悪を造れば恥じる心ぐらいある」と思っていますが、「自分はその心さえない」と親鸞は言っているのです。これ以上の懺悔は、おそらく人間にはできないでしょう。

これまで見てきたように、男も女も、それぞれに劣った点も優れた点もありますが、所詮は比較の問題にすぎません。広い視点から見れば、すべての人間は極悪人なのです。

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第2章 恋愛と幸せ
2.1 恋愛では絶対に幸せになれない
2.2 恋愛は手段
2.3 死の解決と性