無常の最たるものが死ですので、仏教では無常といった場合、特に死を指します。「自分は無常の幸福でいい」などと言う人は多いですが、それはまだ死がわかっていません。

・人間は必ず死ぬ
・死は突然やってくる
・死は嫌なもの
・死は最大の苦しみ
・死は恐怖の根源
・死はすべてを破壊する
・どんな幸せも力にならない
・死は孤独
・すべてに裏切られる
・死にたくないという願い
・死後は必ず地獄
・死の恐怖は地獄からくる
・必ず後悔する
・死は信じられない
・顛倒の妄念

 

・人間は必ず死ぬ

「生あるもの必ず滅す」といわれるように、すべての人は死から逃れることはできません。人間は必死に死に抵抗しようとしますが、必ず負けることが決定しています。幸せな時であろうと不幸な時であろうと、意識するとしないとにかかわらず死は確実に近づいています。

 

・死は突然やってくる

「レ・ミゼラブル」などで知られるフランスの文豪、ヴィクトル・ユゴーは「人間は不定の執行期間のついた死刑囚であり、生は死の掌中にあってもてあそばれているにすぎない。死はいつでも生を握りつぶすことができるのだ」と言いました。

死と聞くと、遠い話のように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。「一寸先は闇」という諺もありますが、ほんの一瞬前まで元気だった人が一瞬で死ぬことがあります。

吉田兼好は徒然草で、「死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり」と、突然やってくる死を表現しました。

また、女優の樹木希林は、「死はいつか来るものではなく、いつでも来るものなの」と言って死んでいきました。

ビートたけしは、「結局死というものには無理やり対応させられるわけだよ。あまりにも一方的に向こうが勝手に来るわけだから。死というのは突如来る暴力なんだね。死はすべての終わり」と語っています。

死は年齢に関係なく訪れ、老人が先で若者が後とは限りません。徒然草に、「若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり」とある通りです。

今日死ぬかもしれないのです。

「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」(白骨の御文)

(訳:朝には血色の良い顔をしていても、夕方には白骨となる身である)

「後の世と 聞けば遠きに 似たれども 知らずや今日も その日なるらん」という古歌もあります。

今日死ねば今日から後生が始まるということです。

病気・災害・事件・事故etc.死に至るきっかけは無数に存在しており、いつどこで死んでもおかしくありません。危険はウイルスだけではないのです。

「死の縁無量なり。病にをかされて死するものあり、剣にあたりて死するものあり、水におぼれて死するものあり、火に焼けて死するものあり、乃至、寝死するものあり、酒狂して死するたぐひあり。これみな先世の業因なり、さらに逃れるべきにあらず」(執持鈔)

(訳:死の縁は無数にある。病に侵されて死ぬ者もいる。刃物で刺されて死ぬ者もいる。溺れて死ぬ者もいる。火に焼けて死ぬ者もいる。寝ている間に死ぬ者もいる。酒に酔って死ぬ者もいる。これらはみな過去に造った業の結果であり、決して逃れることはできない)

地震に備えて安心していたら病気で死んだり、ウイルスに怯えていたら交通事故で死んだり、「思いもしない形」で死がやってくることがあるのです。

 

・死は嫌なもの

死は人間にとって非常に嫌なものです。いかに人間が死を嫌悪しているか、生活の様々な場面で見ることができます。

ある結婚式での話です。

この日はたまたま、式場の近くで「死の臨床研究会」という学会も開かれていました。結婚式の関係者は、「死の臨床研究会」と書かれた看板が立っているのを見て顔をしかめました。「めでたい結婚式に縁起が悪い」と思ったのです。最終的に、彼らはこの看板を撤去させたといいます。

嫌なものですが自然の必然という意味で、死はトイレにたとえることもできます。

「短絡的な人には怒られるかもしれないけれど、ウンコを出すということ、死ぬということ、いずれも自然の必然という点では一緒です。が、それを見ないように見ないようにしてきた。できるだけ視界から遠ざけてきたのです」(養老孟司/解剖学者/東京大学名誉教授)

死は嫌なものであり、そして考えたところで何をどうしたらいいかわかりません。そのため、ほとんどの人は死をごまかし、「臭い物に蓋をする」という生き方をして臨終に突っ込んでいくのです。

「死の問題はかつての性の問題と同じく、口にしてはいけないタブーとなっている。性については、性教育が学校のカリキュラムに組み込まれる時代になったが、死はないがしろにされたままである」(メルビン・モース/小児科医)

 

・死は最大の苦しみ

人生には無数の苦しみがありますが、死の苦しみは他のどんな苦しみより大きいものです。どれほど強い苦しみであっても、死の苦しみに比べれば幸せに感じられます。

たとえば、「自分が死ぬより家族が死ぬほうが苦しい」という人は多いですが、そうではないのです。家族のように大切な人を失う苦しみは愛別離苦であり、これは四苦八苦のうちの1つです。死苦より苦しいことはないのです。

 

・死は恐怖の根源

あらゆる苦しみの根源には死があります。心理学者のアルベルト・ヴィロルド(州立サンフランシスコ大学教授)が、「精神的なストレス源は、究極的には人類最大の恐怖、死への恐怖につながっている」と言った通りです。

ウイルスが怖いといっても、ウイルスそのものが怖いわけではありません。ウイルスによって死んでしまうことに怖がっているわけです。

地震が怖いといっても、地震そのものが怖いわけではありません。地震によって死んでしまうことに怖がっているわけです。「経済面の不安」「浮気の不安」etc.あらゆる苦悩に同じことがいえます。

 

・死はすべてを破壊する

死は、一生懸命努力して手に入れた一切の幸せを、一瞬で破壊する力があります。

人生で一番幸せな時といわれて何を挙げるでしょうか。

たとえば、プロポーズが成功した時を挙げる人も多いでしょう。しかし、そんな人生最高の瞬間だろうと死は容赦しません。

米カリフォルニア州のヨセミテ国立公園で次のような事故がありました。

ベテラン登山家のブラッド・パーカーさんは、ガールフレンドとともにカテドラル山に登頂し、そこでプロポーズしました。結果は見事成功。その後、ブラッドさんは数キロ離れたマッテスクレストに単独で登ります。しかし、これが間違いでした。不幸なことに、そこで滑落してしまいます。その日の夜、公園職員がブラッドさんの遺体を発見しました。父親のビル・パーカーさんによれば、プロポーズ後に息子から電話があり、「人生で一番幸せな日だ」と話していたといいます。

日本でも次のような事故がありました。

宮古島に住む石垣有一さん(32)は、伊良部大橋で交際相手にプロポーズしました。プロポーズは成功、喜んだ石垣さんは欄干を乗り越え橋の縁に立ちました。しかし、足を滑らせて約30m下の海に転落、その後、死亡が確認されたといいます。

蓮如在世の延徳元年、山科御坊の近くに青木民部という浪人がいました。

民部には、清女という17歳になる一人娘がおり、清女は身分の高い武家に見初められ、8月11日に式を挙げることになりました。貧乏浪人の娘が大身の武家に嫁ぐという話しは滅多にあることではありません。願ってもない良縁に喜んだ民部は、先祖伝来の大切な武具まで売り払って嫁入り支度を調えました。

しかし、幸せな彼らを不幸が襲います。式の当日、主役の清女が急死してしまったのです。

不幸はこれだけで終わりませんでした。

翌12日、白骨となった娘を抱いて家に帰った民部でしたが、心労のためか、その日のうちに死んでしまいます。

さらに、翌13日、今度は民部の妻が2人の後を追うように死んでしまいます。

あまりのことに残された縁者もなすすべがなく、ただ悲しむばかりでした。それでも、せめてもの仏縁にと、3人の服飾等を山科御坊に施入し、蓮如に事の次第を報告しました。以前から民部親子を知っていただけに蓮如もまた深く悲しみ、彼らの死を無駄にすまいと白骨の御文を制作しました。

世に悲しい物語は数多くありますが、民部親子の話は特に無常の残酷さが知らされます。

「夫れ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身を受けたりということをきかず。一生過ぎ易し。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫、末の露よりも繁しといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

すでに無常の風来たりぬれば、すなわち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬるときは、六親・眷属集まりて嘆き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。

されば、人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば、誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」(白骨の御文)

(訳:人間の儚い姿をよくよく考えるに、生まれてから死ぬまで幻のような人生である。いまだ人間が万年生きたということを聞いたことがない。一生は過ぎやすい。今までに誰が百年肉体を保っただろうか。私の死が先だろうか、それとも人が先だろうか。今日死ぬとも明日死ぬとも知れない。遅れて死んでいく人も、先に死んでいく人も、草の根元の雫や葉末の露のようにすぐに死んでしまう。そういうことなので、朝には血色の良い顔をしていても、夕方には白骨となる身である。

無常の風が来れば、すぐに眼が閉ざされ、一つの息が永く絶えれば、血色の良い顔が虚しく変わり、桃やすもものような綺麗な姿を失ったならば、すべての親族や縁者が集まって嘆き悲しんでも、どうすることもできない。そのままにはしておけないので、火葬場に送って煙と成り果ててしまえば、ただ白骨が残るだけである。哀れと言っただけでは十分ではない。

死は年齢に関係なくやってくるものなので、皆早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く信じて死の解決をすべきである)

他にも、「人生最高の瞬間」と大喜びをした次の瞬間に死んでしまうといった例はゴマンとあります。

 

・どんな幸せも力にならない

どんな幸せも、死の苦しみには無力です。

「種々の悪業をもって財物を求めて、妻子を養育して歓娯すと謂へども、命終のときに臨みて、苦、身に逼まり、妻子もよく相救うものなし。彼の三途怖畏の中に於て、妻子及び親識を見ず。車馬も財宝も他人に属し、苦を受くるとき誰か能く苦を分つ者あらん。父母・兄弟及び妻子も、朋友・僮僕ならびに珍財も、死し去れば一として来りて相親しむもの無し。唯黒業のみ有りて、常に随逐す」(宝積経)

(訳:無数の悪業を造って財宝を求め、妻子を養って楽しみとするが、死ぬ時には苦しみが身に迫り、妻子も救うことができない。地獄の恐怖が迫れば、妻子も親族も眼に入らない。車馬も財宝もすべて他人のものとなり、この苦しみを共に分かち合うものは誰もいない。父母も兄弟も妻も子も、友も僮僕も財宝も、死んでいく時には1人としてついてきてはくれず、ただ悪業だけが常につきまとう」

 

・死は孤独

死はこの上なく孤独な世界です。死んでいく時には、1人で死んでいかなければならず、誰もついてきてはくれません。

「人、世間愛欲の中にありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る」(大無量寿経)

(訳:人は世間の愛欲の中に生きているが、独りで生まれ独りで死に、独りで来て独りで去るのである)

 

「もし只今も、無常の風きたりて誘ひなば、いかなる病苦にあいてかむなしくなりなんや。まことに、死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も、財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」(御文)

(訳:もし今、無常の風が吹いてしまえば死んでいかなければならない。いざ死んでいく時は、頼りにしていた家族や財宝も、1つもついてきてはくれず、1人で地獄へ堕ちて行かなければならない)

次のような古歌もあります。

  • 独り来て 独り死にゆく 旅なれば つれてもゆかず つれられもせず
  • 人の世の 生死の道に 友はなし 一人淋しく 独去独来
  • むつまじき 親子にだにも すてられて 独りゆくべき 道と知らずや

 

死は、この上ない苦しみですが、その苦しみは誰にも理解できません。

 

・すべてに裏切られる

力になると思っていたものが力になってくれないということは、つまり裏切られるということです。意識するとしないとにかかわらず、「これだけは裏切らない」と信じているものが人間にはありますが、すべてに裏切られて死んでいかなければなりません。

雑阿含経には有名な三夫人の話があります。

ある金持ちの男が3人の妻を持っていました。

第一夫人は一番のお気に入りで、片時も離さず、あれが食べたいと言えば食べさせてやり、あれを着たいと言えば着せてやりました。

第二夫人は第一夫人ほどではありませんが、他人と競争して手に入れただけに執着は相当なもので、できるだけ側においてかわいがりました。

第三夫人は第一夫人や第二夫人と違い、たまに顔を合わせる程度でしたが、それでも淋しい時や苦しい時には無性に逢いたくなり、すぐに呼びつけて心を慰めました。

やがて、その男が不治の病にかかりました。

死に臨んでは医者も薬も何の力にもならないことを知らされた男は、死に怯え、その救いを第一夫人に求めました。しかし、「そこまではできない」とあっさりと断られてしまいます。

続く第二夫人にも「自分から望んであなたの側にいたのではありません」と言われ、第三夫人にも「村はずれまでならいいですが、そこから先はご勘弁ください」と同じように断られます。

男は猛烈に腹を立て後悔しましたが、すでに手遅れで、死に1人飲み込まれていきました。

「金持ちの男」は我々1人1人のことであり、第一夫人は自身の肉体、第二夫人は財産や宝、第三夫人は「父母」「兄弟」「妻子」「友人」などをたとえています。

臨終は、人生が根本から覆ってしまうのです。

 

・死にたくないという願い

人間には様々な「願い」がありますが、「死にたくない」という願いほど強いものはありません。

「死んだら死んだで、その時はその時だ」などと言って高を括っていた人が、実際の死を前にした途端に一変した事例も、第3巻で詳しく紹介しました(第3巻「死は怖くない」は本当か)

たとえば、フリーアナウンサーの黒木奈々は、ガンになり、今回見つけられなかったら2年後には命はなかったと医師に言われた時の心境をこう語っています。

「怖かった。『死』がこんなに近くにあったなんて考えたこともなかった。私は昔、バカなことを言っていたことがある。

『人生、細く長くは嫌だ。太く、短くでいい』と。

その発言、撤回したい。ごめんなさい。『太く短く』なんて嫌。太く、長くがいい」

「何かあると冗談で『あー死にそう』などと言っていた。今は絶対にそんなこと言えないし、自分の周りの人にも絶対に言ってほしくない。今まで当たり前のように使っていた言葉もずっしりと重く、一言一言が胸に響く。もしもいつか子供ができたら、そんなこと絶対に言ってはいけないと教えようと思った」

このように語り、彼女は間もなくして逝きました。

市川海老蔵の妻でフリーアナウンサーの小林麻央は、乳がんで死ぬ前に次のように後悔を吐露していました。

「あのとき、もっと自分の身体を大切にすればよかった。あのとき、もうひとつ病院に行けばよかった。あのとき、信じなければよかったあのとき、、、あのとき、、、」

「強い願いは願いが叶わないことへの不安もそれだけ強くなることに気づきました。強烈に、想いました。生きたい。もっともっと思い出をつくりたい。今までの光景がパラパラ漫画のように心に流れて、このずっと先のページにもいたいと、強烈に感じました」

海老蔵との結婚会見で、幸せそうに指輪を見せる姿が印象的でした。この時、まさか死が近づいているとは夢にも思わなかったでしょう。

どれほど死に対する知識があり、死に備えていると自負している人間でも同じことです。

精神科医のエリザベス・キューブラー=ロスは、ターミナルケア(終末医療)の先駆者であり「死の専門家」といわれた人です。彼女がいかに死を恐れていなかったか、彼女の著書を見ればすぐにわかります。たとえば次のように書いています。

「私は『死とその準備』を看板にしている女ですから、死ぬことは怖くありません」

「私は多くの神秘的な体験をしてきました。おそらく、人間に可能な神秘的体験なら全部経験したといってよいでしょう。ドラッグなど飲まずに至高のときを経験しましたし、患者が死ぬ間際に見る光りも見ました。みんなが死と呼ばれる推移に至るときに経験する、不思議な無条件の愛に取り巻かれたこともあります」

「死の瞬間、私たちは繭から出て、ふたたび蝶のように自由になるのです」

「私たちは死ぬことを心配するよりも、思考においても言葉においても、最高の選択をすれば、死の瞬間は祝福に満ちた輝かしいものとなるのです」

「死とは、この人生から別の存在への移行にすぎない。別の存在になれば、痛みも苦悩もなくなる。それを知っていれば、喪失や悲嘆のさなかでも、愛している人が無事であるということを知る助けになる」

魂の存在など頭から信じない外科医の夫に愛想をつかされ、50歳を過ぎて離婚されてもいます。

しかし、ロス自身が脳卒中になり、いざ自分が死ぬとなった時のことです。その時のロスにインタビューした記録が残っており、その中にはNHKのものもあります(2004年12月25日(土)放送)。以下に抜粋します。

「死んでいく自分を受容することは、実に難しい。それには『真実の愛』が必要だが、自分にはそれがない」

「精神分析は時間と金の無駄であった」

「自分の仕事、名声、たくさん届けられるファン・レター、そんなのは何の意味もない。今、何もできずにいる自分など一銭の価値もない」

「今の自分に満足なんて、そんなフリはできないわ。自分でお茶を入れることさえできないのよ。最低の毎日だわ。この状態をバラ色だなんていえるわけがない」

「自分自身を愛せって?よく言ったもんだ。大っ嫌い。私の趣味じゃない」

臨終にならなくとも、死の恐怖の片鱗は日常生活の中でヒョイと出てきています。

週刊誌に「ミュージシャン西川貴教の『性豪伝説』 お相手の30代女性が告白」という記事がありました。

それによれば彼はかなりの「性豪」とのことですが、それはともかく、相手の女性が語っている次の内容が重要です。

「仮眠中に目が醒めたら、西川さんがベッドに腰掛けていて、『死ぬのが怖い』と呟くんです。突然のことで唖然としたのですが、彼は『オレ、家にお札いっぱい貼ってんねん』と話していたのが印象的でした」

人間の願いを表現した次のような歌があります。

「いつも三月花の頃 おまえ十八、わしゃ二十 死なぬ子三人みな孝行 使って減らぬ金百両 死んでも命があるように」

順に、次のことがずっと続いてほしいという願いを表しています。

1.暑くも寒くもない3月のような季節

2.初々しくて楽しい夫婦関係

3.親孝行してくれる3人の子供

4.いくら使ってもなくならない金

5.寿命

 

最後の願いは、要するに「死にたくない」という願いであり「永遠に生きていたい」という願いですが、人間にとってこれより強い願いはありません。

「生命飢餓状態におかれれば、人間は、どうしても、どんな苦しみの下におかれても、生きていたいと思う。人間は、この状態では、いつでも、もっと生きていたいのである。ゴーリキーが描き出すように『いくら苦しくてもよいから、もっと生きたい』というのが、人間の本音である」(岸本英夫/東京大学教授)

秦の始皇帝は不死の薬を本気で求めましたが、誰でもこの願いを持っているのです。

「それは、子供の夢にも等しいことであった。所詮、達することのできないあがきであった。しかし、現代人は、あえて、これを嘲笑することができるであろうか。現代人が死に立ち向かった場合に、秦の始皇帝より、少しでも、すぐれた態度を取り得ているということができるであろうか」(岸本英夫)

しかしながら、願いも空しく死んでいかなければなりません。

 

・死後は必ず地獄

悪い行いをすれば必ず悪い結果が返ってくるというのが、因果応報の法則です。この「行い」は身体や口の行いだけでなく、心の行いも含まれます。たとえば、「死んでくれたらいい」などと心で思えば、未来必ず相応の悪い結果が返ってくるということです。「思っただけ」では済まないのです。

人間の日々の行いを反省すると、身体で生き物を殺したり、心で女を犯したり、数多くの悪い行いをしています。

「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」(大無量寿経)

(書き下し:心常に悪を念じ、口常に悪を言い、身常に悪を行い、曽て一善無し)

(訳:心は常に悪を念(おも)い、口は常に悪を言い、身(からだ)は常に悪を行い、今だかつて1つの善もしたことがない)

ですので、人間の死後は必ず地獄です。

地獄は荒唐無稽な世界ではありません。実在する世界です。

この世に地獄と形容できるような苦しみが実在するように、死んだ後にも実在するのです。自殺を防止するための架空の話でも、悪い事をやめさせるためのたとえ話でもないのです。このことを第1巻では科学的知見を交えて詳しく説明しました(科学が近づく仏教の世界1「死後は必ず地獄」)。

 

・死の恐怖は地獄からくる

そして、臨終から地獄の片鱗が見えてきます。

「命終わらんと欲る時、地獄の衆火、一時に倶に至る」(観無量寿経)

(訳:命が終わろうとする時、地獄の猛火が一斉に迫ってくる)

 

「終りに臨み、罪あひはじめてともに現じて、後に地獄に入りてもろもろの苦にかかる」(往生要集)

(訳:無数の悪業の結果は、臨終に一斉に現れ、地獄に堕ちて無限の苦悩を受ける)

死苦には、死後の地獄の苦しみの1部が含まれているのです。

死の恐怖は地獄からきます。死の恐怖の本質は死後の地獄にあるのであって、「肉体の苦痛」だとか「無になる恐怖」などといったものは地獄の恐怖に比べたら無きに等しいのです。

哲学者の古東哲明は、なぜ死は怖いのか、死の恐怖の原因として、次の2つを挙げています。

 

1.肉体の死滅自体への生理的恐怖(死去する際の身体的苦痛など)

2.自己の存在が消失してしまうことに対する哲学的恐怖(無限にうち続く自己の虚無を想っての恐怖)

 

このように考える人は多いでしょうが、これは死の恐怖の原

因のほんの一部にすぎず、要である圧倒的な地獄に対する恐怖が抜けています。

 

・必ず後悔する

大切なものを失うと人間は後悔します。死は、人間にとって一番大切な自分の肉体を始めすべてのものを失うということなので、必ず後悔します。臨終は、激しい後悔と恐怖が代わる代わる襲ってくるのです。

「大命将に終わらんとして悔懼交至る」(大無量寿経)

(訳:命が終わろうとする時、後悔と地獄の恐怖が代わる代わるやってくる)

 

・死は信じられない

誰もが「自分もやがて死ぬ」と言いますが、腹底を尋ねれば「自分だけは絶対に死なない」と思っています。

その証拠に、「今日は死なない」と思っているはずです。頭では「今日死んでもおかしくない」と思っていても、腹底は「少なくとも今日は絶対に死なない」と思っているでしょう。

人間は、いくつになっても、またどんな状況に追い込まれても、腹底は「今日は死なない」と思っています。つまり、腹底では永遠に「今日は死なない」と思っているということであり、永遠に生きられると思っているのです。

「人は自分のことを死なないと勘違いするようになりました。そんなことはない、と仰るかもしれません。人間が死ぬということが知識としてはわかっていても、実際にはわかっていないのです」(養老孟司)

 

「人は、『人は必ず死ぬ』と思っていても、どうしてか自分だけは絶対死なないと思いたいと思っているようです。よく考えてみると、これは不思議なことです。

しかし、これは多分、単に人は死ぬのが怖いからではないでしょうか。自分が死ぬことなど、思ってみるだけでも恐ろしいので、それ以上深く追求するのをそこでやめるのです。考えられないのではなくて、考えるのをやめる、のである。それについて考えるのをやめたことは、もはやそこには存在しないことになる。そこで人は、人は必ず死ぬけれども、自分だけは絶対に死なないと、死ぬまで思っていることになる。

これは、幸福なことでしょうか。むしろ、不幸なことではないでしょうか。少なくとも私にはそう思われます。自分が死ぬということを恐れて生きていることは、生きていること自体が常なる恐れなのです」(松野哲也/国立感染症研究所室長)

 

「私たちだっていつ死ぬかわからない。その晩にも死ぬかもしれなかった。地震、自動車事故、心臓発作、何が起こるかわからなかった。誰もがいつも死にさらされているのだ。でも、わたしは別、わたしは若くて、わたしの人生はこれから、わたしはずっと、永遠に生きつづける、そうわたしは思っていた」(スーザン・ストラスバーグ)

 

東池袋自動車暴走事故で妻と娘を失った松永拓也さんは、「私はこの立場に立つまでは、交通事故はテレビの向こう側のお話で、自分には関係ないって、正直思っていたんです。でもやっぱりそうじゃなかったんですよね」と語っています。

 

・顛倒の妄念

「無常」が真実であるのに、「常」と見てしまう妄念が人間にはあります。他にも「苦」に対して「楽」、「無我」に対して「我」、「不浄」に対して「浄」と見てしまう妄念があり、「常」を含めて四顛倒といいます。「美しい」「かっこいい」etc.恋愛はこの妄念があるから成り立っています。

しかし妄念なので、「百年の恋も一時に冷める」という言葉もありますが、実態を知って一気に冷めることがあります。

以前、タレントのガッツ石松が、小学生の時に好きだった女の子の話をしていたことがありました。彼は、ある時、この女の子の検便のにおいをこっそりかいだことがあったそうです。ところが、当たり前ですがとても臭く、それ以来、その女の子が嫌いになったといいます。

この話を聞いて笑ったり、「女の子がかわいそう」と思ったりするでしょうが、どんな愛でも冷める瞬間はこれと似たり寄ったりです。

ちなみに、「女はトイレに行かない」と本気で思っている少年は結構います。大人も似たようなものです。大なり小なり男は女を美化して見ています。

しかし実際はどんな美女でも、腸には糞、鼻には鼻糞、目には目糞が詰まっています。五味太郎の絵本にもあるように「みんなうんち」なのです。釈迦は「人間は糞袋である」と言いました。体内に隠されており臭いもないから、異性を美しいなどと思うのであって、そうでなければ思わないでしょう。

不浄なのは肉体だけではありません。人間の本性は決して綺麗なものではなく、先に説明した通り、人間は数多くの悪い行いをしています。

「あの声でトカゲ食らうかホトトギス」という諺があります。ホトトギスは、その美しい鳴き声とは対照的にトカゲを喰らいます。同様に人間も、綺麗な見た目と汚い中身に大きなギャップがあるのです。仏教にはこの点を表現した「外面は菩薩、内心は夜叉」という言葉もあります。

基本的に、「美」という言葉は偽物の代名詞だと思って間違いありません。太宰治は「人が『純真』と銘打っているものの姿を見ると、たいてい演技だ。演技でなければ、阿呆である」と言いました。マリリン・モンローは、「美は人を苦しめる。美は、私にはどうしてだかわからないんだけど、残酷さに重なるの」と言いましたが当然のことです。ちなみに美人やイケメンと言われて嫌がる人は結構います。

頭では妄念だとわかっていても、心からそう思っているかというとそうではありません。そのことがわかる次のようなエピソードもあります。

「往生要集」で有名な源信が7歳の時のことです。

川で遊んでいると、比叡山の僧侶がやってきて弁当箱を洗い始めました。それを見て源信は尋ねました。

「お坊さん、どうしてこんな汚い水で洗っているのですか」

「浄穢不二といって、私たちには綺麗も汚いもないのだよ」

こう答える僧侶に源信は再び尋ねました。

「ではなぜ洗うのですか」

洗うということは汚いと思っているということであり、綺麗と汚いの区別、つまり善悪の区別をしているではないか、と源信は指摘したのです。

僧侶は返答に詰まり、偉い智恵のある子だなと感心したといいます。

この時代の比叡山の僧侶ですから、それなりに一生懸命修行していたでしょう。それでも、どうしても善悪を区別してしまう境地にとどまっていたのです。

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2.1恋愛では絶対に幸せになれない
恋愛は無常
利己的な愛
人生は苦なり
老苦
愛別離苦
死苦
幸せになれない
死は解決できる