「利己的な遺伝子」をひくまでもなく、これまで見てきたように人間は利己的な動物です。人間の愛は、何かしらの見返りを期待する自己中心的な愛であり、「無償の愛」などというものを人間は与えることができないのです。
「愛の表現は惜みなく与えるだろう。しかし愛の本体は惜みなく奪うものだ」(有島武郎/小説家)
「恋愛においては疑うよりもだますほうが先に立つ」(ラ・ロシュフコー/文学者)
「恋をすると、誰でも自分を欺くことから始まり、他人を欺くことで終わる。これが世の、いわゆるロマンスである」(モーリス・トンプソン)
「女の性格がわかるのは恋が始まる時ではないわ。恋が終わる時よ」(ルクセンブルク/政治家)
「『これ可愛い!』という言葉には、『これを可愛いと思う私って可愛い?』という意味がある」(高島郁夫/経営者)
男には、美人に優しくしブスに冷たくしようとする心があります。男は、女を喜ばせるために豪華な食事に連れて行ったりします。一見すると愛を与えているように見えますが、それはアソコを手に入れたいといった自分の利益を目的とした行為なのです。そして、手に入らないと怒り、手に入っても飽きれば与えなくなっていきます。
女の愛も同じです。女には、金持ちに優しく貧乏人に冷たくしようとする心があります。
「文春にバレない密会の方法」の著者によれば、文春では情報提供者への謝礼は原則渡しておらず、金銭的理由よりもフラれた恨みからリークするケースが圧倒的だといいます。
「リベンジポルノ」など、時代ごとに様々な言葉が生まれますが、この利己的な人間の本性は不変です。
太宰治は著書「チャンス」の中で次のようなことを書いています。
「『もののはずみ』とか『ひょんな事』とかいうのは、非常にいやらしいものである。それは皆、拙劣きわまる演技でしかない。
稲妻。あー こわー なんて男にしがみつく、そのわざとらしさ、いやらしさ。よせやい、と言いたい。こわかったら、ひとりで俯伏したらいいじゃないか。しがみつかれた男もまた、へたくそな手つきで相手の肩を必要以上に強く抱いてしまって、こわいことない、だいじょぶ、など外人の日本語みたいなものを呟く。舌がもつれ、声がかすれているという情無い有様である。演技拙劣もきわまれりと言うべきである。
『甘美なる恋愛』の序曲と称する『もののはずみ』とかいうものの実況は、たいていかくの如く、わざとらしく、いやらしく、あさましく、みっともないものである。だいたいひとを馬鹿にしている。そんな下手くそな見えすいた演技を行っていながら、何かそれが天から与えられた妙な縁の如く、互いに首肯し合おうというのだから、厚かましいにも程があるというものだ。自分たちの助平の責任を、何もご存じない天の神さまに転嫁しようとたくらむのだから、神さまだって唖然とせざるを得まい。まことにふとい了見である」
精子も卵子も利己的で、自分の遺伝子を残す戦略を取ります。
「精神競争が人類の生殖過程で起きていることには、異論の余地がない。それはつねに起きている。人類の男性の一回の射精の中には、5000万から5億という数の”志願者”が、唯一の仕事、すなわち第一授精者を目指してひしめきあっている」(「性の進化論」より)
生物学者のエドワード・ウィルソンは、「個体の集団との潜在的な闘争は、細胞から帝国まで、生命のすべてのレベルに浸透している」と言いました。
本人は「無償の愛を与えている」と酔いしれていても、そうではないことは人から見抜かれるものです。
1941年に公開された、「市民ケーン」というアメリカの映画があります。
新聞王ケーンの成功と孤独が描かれている映画で、全体的に無常を感じる寂しいトーンの映画ですが、AFI(American Film Institute)による「アメリカ映画ベスト100」で1位となるなど、今も昔も高い評価を得ている映画なので、人間の琴線に触れるものが何かあるのでしょう。実在するアメリカの新聞王をモデルにしており、その人から上映妨害されたというエピソードでも有名です。
この映画の中でケーンが妻に捨てられる場面があります。
「すべては君への愛のためだ、行かないでくれ」と懇願するケーンに対し、妻は「愛してないわ、愛されたいだけでしょ。『何でも欲しい物を買ってやる、その代わり私を愛しなさい』って」「あなたは見返りを求めているだけ」「大切なのは自分だけでしょ」「あなたは捨てられないと思うの?いいえ、捨てられるわ」などと言って出て行ってしまいます。捨てられたケーンは自暴自棄になって部屋にある物を破壊していくのです。
愛とは、己を利するためにする狡猾な演技であり商売ともいえます。
2.1恋愛では絶対に幸せになれない
〇恋愛は無常
〇利己的な愛
〇人生は苦なり
〇老苦
〇愛別離苦
〇死苦
〇幸せになれない
〇死は解決できる