「治れば、さぞ幸せな世界が待っているだろう」と思っているでしょうが、やはり無常の幸福の1つであり、無数にある人生の苦悩の1つを解決したにすぎません。最初は強い喜びでも段々とその幸福感は薄らぎ、また違う悩みを抱えることになるでしょう。そして多くは「普通の人」となり一生を終えるでしょう。
しかし、これではせっかく心の病になったのに体験が活かせていません。苦しみを生み出す根源を解決すべきです。
〇無明
〇死の解決の境地
〇絶対に完治しなければならない
〇どうしたら完治できるのか
〇メンタルヘルスの活動をするメリット
〇無明
仏教では、苦悩の根源は無明と説いており、無明を何とかしない限り真の完治はありません。
無明とは、無明の闇とも、三途の黒闇ともいい、書いて字の如く、明かりの無い真っ暗な闇のような心で、何をやっても安心・満足ができない心です。最も根本的な煩悩であり、すべての人間は、この無明の心を持っているために、根本的に幸せにはなれないということです。
「さて、治るかどうかということだが、これに関して筆者は『人間は弱点や煩悩を持っているから常に病的部分を少しは有しているので完治は有り得ない。だから治るとは、治療段階が、理想型(神や仏しか実現できないような)にいくらかでも近づくということである』という立場を取っている。つまり一般健常人といわれている人も部分的に病的であり、完治していないのである。人間は永遠の寛解状態にあるのである」(平井孝男/精神科医)
・恐ろしき病
死後の地獄を惹起させるため、無明は非常に重い病にたとえられます。蓮如は、「無始よりこのかたの無明業障の恐ろしき病」と表現しています。普段は無明を自覚することはなくても、臨終になると底知れない恐怖を伴って現れます。
ドイツの文豪ゲーテは臨終に「暗い、もっと光を」と言い、ヴィクトル・ユゴーも臨終に「黒闇が見える」と言って死んでいきました。これまで何度も紹介した岸本英夫は最期、彼の息子によれば、昼間なのに「暗い」と言って電気スタンドをつけさせたといいます。私の祖母も死の直前、付き添っていた母によれば、やはり昼間なのに「電気をつけてくれ」としきりに言っていたそうです。
ちなみに、「恐ろしい病にかかっている」と言われて病院でレントゲンを撮ってもらった人もいますが、無明の病は今のレントゲンには写すことができません。仏教を聞き、自己を追求しないと見えません。
・自覚症状がない危険
この病は自覚症状がありません。
「苦痛」というのは、どこかに異常があることを教えてくれるシグナルでありアラームなので、「痛み」といった自覚症状がある病は、それほど恐いものではありません。
本当に危険な病は、ガンなどの自覚症状が無いものです。自覚症状となって表れた時には、すでに手遅れである場合も多いのです。
たとえば、無痛症という痛覚がない人たちがいます。気づいたら骨が折れていたとか、歯を抜いたり舌を噛み切ったりして血だらけになって遊ぶ子供もおり、そのため無痛症の人は寿命も短いといいます。
他にも、麻酔をした後は、熱いものに気をつけるよう医師から注意を促されますし、痛みを我慢すると取り返しがつかなくなったりします。
こういったことは、痛みがいかに大切であるかを教えています。
「ほとんどの医師は、苦しみを変革への入口、触媒と考えるようには訓練されていない。苦痛は敵で、できるだけ早く退治しなければならないと考えている」
「苦痛には理由がある。苦痛はこう教えているのだ。
『ほらほら!聞いてくれよ!注意を向けてくれよ!あんた、自分にとってまずいことをやってるんだよ!』
苦痛はメッセンジャーであり、情報だ。苦痛に耳を傾けず、メッセージを聞かず、根本的な問題に取り組まないで、ただ苦痛を鎮めるだけなら、火災報知器を止めるだけで、火事を消さずにまた寝てしまうのと同じだ。炎はますます高く燃え上がり、家は焼け落ちてしまう問題の原因に取り組まないからである」(ディーン・オーニッシュ/カリフォルニア大学サンフランシスコ校医学部教授)
・病人の自覚
すべての人間は無明の病を患った重病人です。
重病人であるという自覚は非常に重要です。自覚できれば、自ずと治したいという欲求が生まれ解決に向かうからです。ガンなど、死に直結する重い病が見つかれば財産を投げうってでも治そうとします。放っておけば死ぬという大変な結果がやってくると思うからです。
地獄という大変な結果を引き起こす無明の病を自覚できれば、誰でも必死に治そうとします。自覚できなければ、治したいとは思いません。ほとんどの人間は、無明の病を自覚できずに臨終に突っ込んでしまいます。
「湯火身を焼けば急に自らはらう 他人推縁のことを待つものなし 貪瞋の火宅は相焼の苦あり 障重く心頑にして未だ痛を覚らず」(般舟讃)
(訳:熱湯や火が身を焼けば、急いで自ら払おうとする。誰かがそれを払ってくれるのを待つ人はいない。この世は三毒の煩悩に次々に焼かれる苦しみがある。障りが重く心は頑なであるので、いまだその痛みの自覚がない)
・根本解決に目を向ける
人間の考える苦しみの原因は、すべて浅いものであり、対症療法にすぎません。病気や災害といった、無限に生じる枝葉の苦を対症療法で解決することばかりに意識が向き、わずかな寿命と無常の幸福を手に入れることにだけ躍起になっているのです。
確かに、無常に抵抗し、枝葉の苦を解決するという視点も大切です。たとえば、ピストルの弾丸が飛んでくれば、まずは避けるべきでしょう。対症療法が無駄と言っているわけではありません。
しかし、対症療法ではキリがありません。根本解決の方法がわからないので無理もありませんが、解決法はあり、そして第1巻から説明してきたように今や科学的な根拠もあるのですから、それに目を向けなければなりません。
釈迦は最初の説法で、次の真理を説きました。
苦諦:この世の一切は苦であるという真理
集諦:苦の原因は自分自身にあるという真理
滅諦:苦は完全に滅することができるという真理
道諦:苦を完全に滅する道があるという真理
「諦」とは真理を意味し、4つを合わせて四諦、または四聖諦といいます。
昔、あるゲームで樹をイメージした敵キャラがいました。この敵は、一見すると枝葉が攻撃してくるため、プレイヤーは枝葉を倒そうとします。
しかし、しばらくして、いくら枝葉を倒しても枝葉は無限に再生することに気づきます。実は、この敵は根を倒す必要があったのです。
人生はこれと同じようなことがいえます。
また、無間地獄というやがてくる巨大な苦しみに目を向けず、目先の小さな苦しみにばかり目が向いている状態でもあります。いつかは無限に生じる苦に敗れ、地獄に飲まれてしまいます。
死の解決をしなければ、この世の地獄から死後の地獄への綱渡りとなってしまい、生きるも死ぬも地獄となります。これを従苦入苦といいます。
「悪人行悪 従苦入苦 従冥入冥」(大無量寿経)
(書き下し:悪人は悪を行じて苦より苦に入り冥より冥に入る)
(訳:悪人は悪を造り、この世の苦しい闇の世界から、未来の地獄へと、苦から苦への綱渡りとなり沈んでいく)
あくまで根本解決が目的であり、その目的を達成するための対症療法であることを知るべきです。
〇死の解決の境地
先に説明した死の解決をすることで、無明の解決ができます。詳しくは第6巻で説明していますが、死の解決は、文字通り、人間にとって最大の苦しみである死が来ても絶対に崩れない幸福です。
・破闇満願
破闇満願とは、闇を破って願いを満たすという意味で、闇とは無明の闇を指します。
人間には、「死にたくない」という願いをはじめ無数の願いがありますが、どんな願いであっても死の解決をすることですべて満たすことができます。つまり、破闇満願とは、苦悩の根源である無明の闇を破り、死なない身になりたいという人間最大の願いを満たすということです。
「無碍光如来の名号と かの光明智相とは 無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまう」(高僧和讃)
(訳:阿弥陀仏の名号と、阿弥陀仏が放つ智慧の光明は、無明長夜の闇を破り、人間最大の願いを満たす)
・楽しかない
世間一般の幸福は、無常・相対の幸福であり、安心も満足もできない欠点だらけの不完全な幸福です。
一方、死の解決は、常・絶対の幸福であり、常に安心・満足できる欠点のない完全な幸福です。
また、世間一般の幸福は不幸になる人を生みますが、死の解決は何もしなくても最高の幸福ですので他と争う必要もありません。
「この人は大利を得と為す、すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」(大無量寿経)
(訳:死の解決をした人は大きな利益を得、この上ない功徳が備わるのである)
「その国の衆生は、もろもろの苦あることなし、但もろもろの楽を受く。かるがゆえに極楽と名づく」(阿弥陀経)
(訳:その国の人々は、一切の苦がなく、ただ楽だけを受けるので極楽と名づけるのである)
「永く身心の悩みを離れて楽しみを受くること常に間なし」(浄土論)
(訳:永久に心身の苦悩がなくなり、常に絶え間ない楽しみを受ける)
・すべての恐怖が消える
死の恐怖を始めとした一切の恐怖がなくなります。
華厳経には、次の5つの恐怖が消えると説かれています。
「歓喜地を得れば、あらゆる怖畏は、即ち皆遠離す。いわゆる不活の畏、悪名の畏、死の畏、悪道に堕する畏、大衆威徳の畏なり。是くの如き等の一切諸々の畏を離る」(華厳経)
(訳:死の解決をすれば、不活の畏、悪名の畏れ、死の畏れ、悪道に堕する畏れ、大衆威徳の畏れといったものなど、あらゆる恐怖が消える)
【不活の畏れなし】
人間には無数の生活上の不安がありますが、それらの不安は死から生じており、死の解決をすることで一切の生活の不安が消え去ります。
【悪名の畏れなし】
悪口を言われることへの恐怖がなくなります。
「如何なる人来りて言い妨ぐとも、少しも変わらざる心を金剛心という」(後世物語聞書)
(訳:どんな人がやって来て言い妨げようとも、少しも変わらない心を金剛心というのである)
【悪道に堕する畏れなし】
悪い世界へ行くのではないかという恐怖です。
悪いことをしたら悪い結果を受けるというのが悪因悪果の法則ですが、人間は大なり小なり、この悪因悪果を理屈抜きで魂が感じています。そして、臨終にはこの上ない恐怖に襲われることになります。
死の解決は、「死後は極楽浄土間違いなし」という境地であり、この恐怖は消えます。
【大衆威徳の畏れなし】
大衆というのは威圧感がありますが、どれほどの大衆を前にしても恐怖はありません。
【死の畏れなし】
人間にとって一番恐ろしい、死の恐怖がなくなります。
・善悪の区別がない世界
死の解決は「生きてよし、死んでよし」の境地であり、善悪に関係なく喜べる境地です。
「心の病になってよし、ならなくてよし」「引きこもりになってよし、外に出てよし」「気にしてよし、気にしなくてよし」「利他をしてよし、しなくてよし」
世間一般の幸福は、有無同然であり有っても無くても苦しみですが、死の解決は有っても無くても幸せという、まったく逆の意味の有無同然に変わります。
「無苦・無楽をすなわち大楽と名づく。涅槃の性は無苦・無楽なり。このゆえに名づけて大楽とす」(教行信証)
(訳:苦も楽も無いことを大楽という。涅槃には苦も楽も無いので、涅槃を大楽という)
「されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、偏に本願をたのみまいらすればこそ他力にては候へ」(歎異抄)
(訳:善であろうと悪であろうと因果の法則にまかせて、ただ阿弥陀仏の本願力の働きに身をまかせるからこそ他力なのである)
このような善悪の区別のない境地に出ない限り真の安らぎはありません。
・心の病になったことにも感謝できる
無常の幸福でも、手に入れれば幸せを感じ、人に感謝する心が生まれ、皆にも幸せになってほしいという心が生まれます。過去の不幸な体験にさえ、「あの時の苦しみがあったから今の幸せがある」などと感謝できるでしょう。まして、死の解決です。一切に感謝できるようになります。
逆に、死の解決をしなければ、究極の不幸である地獄に堕ちることになるので、最期は一切を恨んで死んでいくことになります。
・真の完治
苦悩の根源である無明を解決すれば、うつなどの心の病には絶対になりません。ですので、たとえ、うつになって苦しんでみたいと思っても、もう苦しむことはできません。この境地と比較すれば、いかなる治癒も癒し程度にすぎないのです。
〇絶対に完治しなければならない
無明は「完治したほうがいい」とか「完治できたらいいな」というものではなく、絶対に完治しなければならないという問題です。どんなに苦しくても、どんなに年を取っても、ずってでも這ってでも求めて完治する必要があります。
・急いで完治しなければならない
心の病であろうとなかろうと死は待ってくれません。今日死ぬかもしれません。今日死ねば、今日から地獄が始まるのです。今、幸せの絶頂にいようが、不幸のどん底にいようが関係ありません。ですので、一刻も早く死を解決する必要があります。
「ああ、夢幻にして真にあらず、寿夭保ちがたし、呼吸のあひだ、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失ひぬれば、万劫にも復せず。この時悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまはん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれ」(教行信証)
(訳:ああ、この世は夢、幻であって真実ではない。命は保ち難く、吐いた息が吸えなければ死んでしまう。一度死んでしまえば、無間地獄に堕ち、永遠に抜け出すことはできない。生きているうちに死の解決をしなければ、阿弥陀仏でもどうしようもできない。どうか深く無常を問い詰めて、いたずらに後悔しないでほしい)
「一日も片時も、いそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定せよ」(御文)
(訳:一刻も早く急いで死の解決をし、極楽浄土への往生を決定せよ)
「人生死出離の大事なれば、これより急ぐべきはなく、またこれより重きはあらざるべし」(御裁断申明書)
(訳:死の解決ほどの一大事より急ぐべきことはなく、これほど重いことはない)
・必ず後悔する
死の解決ができなければ、血の涙を流して後悔することになります。
「明日も知らぬ命にてこそ候うに、何事を申すも命終わり候わば、いたずらごとにてあるべく候う。命のうちに、不審もとくとくはれられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候う」(御文)
(訳:明日もわからない無常の命であり、何をしようとも死ねば意味がない。生きている間に死の解決をしなければ、必ず後悔することになる。よくよく心得なければならない)
・悩んでいる場合ではない
ですので、本当は心の病に気を取られて時間を無駄に過ごしている場合ではないのです。「それができたら苦労ない」と反発するでしょうが、客観的にはそう言えるのです。
〇どうしたら完治できるのか
自己を知ることで死の解決ができると説明しましたが、では、どうしたら自己を知ることができるのかというと、「聴聞」です。
・聴聞
「聴」も「きく」で「聞」も「きく」と書きますが、真実の仏法を聞くことをいいます。
無常観や罪悪観にしても、死や地獄にしても、聴聞でしか知ることができません。つまり、苦悩の根本解決は聴聞でしかできないのです。そのため、「仏法は聴聞に極まる」といわれるぐらい、仏教では聴聞を重視します。
「聴聞も傾聴も、表面的には人のいうことをきくということであるが、聴聞には人知を超えた仏の智慧が関与し、傾聴には人の悩みをきくカウンセラーの潜在能力がカウンセリング効果に大きく影響を与えるといえる」(友久久雄/精神科医/京都教育大学名誉教授)
・善知識というカウンセラー
井原裕は、「精神科医は、駆け込み寺の僧侶として振る舞うべきだ」と言い、日本大学の哲学者、合田秀行は「仏陀の次第説法や対機説法にカウンセリングの原型的なものを見出すことも可能である」と言っていますが、カウンセラーというのは善知識であるべきです。善知識とは、真の幸福へ導く先生のことです。
たとえば薬師如来という仏がいます。薬師如来は病気を治そうとしますが、その目的は元気になって無明の根本解決を目指してもらいたいためです。一切のカウンセラーは薬師如来のような善知識であるべきなのです。それでこそ真のカウンセラーというものでしょう。
・求道の幸せと難しさ
うつなどの心の病が治るよりも、求道できるということはもっともっと幸せなことです。客観的にはこういうことがいえます。心の病が治らないことより、人生がわからないことのほうが人生全体で考えれば実は怖いことなのです。そして、心の病を治すより求道はずっと難しいことです。
〇メンタルヘルスの活動をするメリット
心の病が治った人はもちろん、治ってない人もメンタルヘルスの活動をすることをお勧めします。
・体験を活かせる
心の病は体験した人にしかわかりません。これは大きなメリットでしょう。医学者のウイリアム・オスラーは、「患者だった人は、より優秀な医師になることができる」と言い、自身も自殺願望を持っていたという精神科医のレイモンド・ムーディーは、「医師は自分に病の経験がないと、実際に患者に起っている内面的変化をよくつかめない」と言いました。
「自分の自殺願望にもプラスの面があることに気づいた。というのは、自殺願望を持った人が私のもとに来た場合、その人の気持ちをよく理解して、適切な助言を与えられるようになったからである」(レイモンド)
患者の心理を理解したいために、「一度でいいから心の病になりたい」という人は結構います。実際、拒食症の患者を理解しようと、厳しい食事制限をする人もいます。
同じような苦しみを抱えている人はゴマンといるので、自身の経験を活かし、救う手助けをするのが自利利他に適った正しい生き方です。フェルプスは、「今は自分の経験を語ることによって人々に手を差し伸べ、命を救うことができる。そういう瞬間、その感覚と感情は私にとって、五輪で金メダルを取るよりはるかに素晴らしい」と話し、「自殺を選ばなくて本当によかった」と強調しています。また、「貧乳」がコンプレックスだった女性が「貧乳ブラ」を開発し、ビジネスで成功したという話もあります。
また、心の病になって改善するまでの一連の道程は、求道の道程と共通点があります。
・開顕しやすい
真実を人に伝えることを真実開顕といい、仏教では最高の利他とされていますが、メンタルヘルスの活動は開顕手段として優れています。
他では治らない病気を仏教で治すことができれば、仏教に関心を持ちやすいです。また、人生全体を考え直したり、自己を見つめたり、心の病になると人生の根本問題を考えやすくなります。
先に説明したように、釈迦のような真面目な人は人生の根本問題に深く悩みます。そういう人は、現代では「自分は心の病を患っている」と自覚している可能性があります。解決法を求めても、医学や科学では解決できず、かといって宗教もおかしいものばかりですので、真面目に考える人は行き詰って苦しむ運命にあります。「死にたくはないが、かといって生きるのも苦しい」と漠然とした苦しみを感じながら、世間をさまよっている可能性があるのです。そういう人にメンタルヘルスの活動はアプローチしやすいです。特に、開顕の目的は、釈迦のような強い実存的な悩みを抱えた人を探すことにあるので、本書もそういう人に合わせた書き方をしています。
仏教でしか無明の根本解決ができないのはもちろん、無明から生じる苦しみの多くも解決できないのですから、自信をもって活動すべきです。これからも医学(科学)は発展していくでしょうが、どれだけ発展しても仏教療法は、その先を行く療法であり、どんな懐疑論者の批判にも耐えられるはずです。ですので、心の病の体験がなくても、メンタルヘルスの活動はお勧めです。「本当の悩みは人に言いにくい」といった点も考慮して、解決法を知っている人間が積極的に干渉していくことが重要です。
以上、仏教療法の大まかな説明をしましたが、どうしても浅くなってしまうので、詳しくは前6巻をご覧ください。