そもそも仏教で説かれる一切は自己を知るためにあります。源信は「夜もすがら 仏の道を 求むれば 我が心にぞ たずね入りぬる」と詠み、曹洞宗の開祖、道元は「仏道をならうというは、自己をならうなり」と言いました。

阿含経には次のような話があります。

30人ほどの貴族たちが、それぞれ妻をつれて森に遊びに来ました。その中で1人だけ未婚の男がおり、彼は妻の代わりに遊女を連れて来ていました。

ところが、森でうつつを抜かして遊んでるうちに、その遊女が彼らの財物を盗って逃げてしまいました。それに気づいた貴族たちが、あわてふためいて森の中を探していると、木陰で休んでいる釈迦と出会いました。

「こちらに女が逃げてこなかったでしょうか」

貴族たちが尋ねると、釈迦は「逃げた女を探すことと、汝自身を探し求めることと、どちらが大事か」と言い放ったといいます。

人生の目的である死の解決をするためには自己を知る必要があり、この点も第1巻では科学的な知見を交えて説明しました。

「生命は、人間をして、自己を意識化させようと働きかけていて、その働きかけが、人間をして生きる意味を求めさせ、悟りの境地を得ることへの志向性を生み出しているのである」(望月清文)

自利利他にしても何にしても一切は死の解決の手段であり、自己を知る手段なのです。

・阿頼耶識

自己を追求していくと、最も深い心であり、真実の自己である阿頼耶識が見えてきます。生命は無意識を意識化する方向へ進化していますが、最終的には阿頼耶識を意識化することにあります。

「内を見る目がとらえた統合力は、最も進化した統合力としての共通感覚であるが、その共通感覚によって、今度は、その共通感覚の基盤となっている根源の統合力を意識的にとらえることができる。その意識がとらえた根源の統合力こそ『私』という感覚である」(望月清文)

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1.6自己を知る(クセに気づくだけ)
直視する
心の病は自分が生み出した世界
罪悪観
欲はコントロールできる
性を知る
仏教は自己を知るためにある