苦や楽は相対的なものであり、自分が生み出したものであることを、「汚い物」の代名詞的な存在である「糞」を例にとって見てみましょう。
ほとんどの人は糞を汚い物だと思っています。「世界で1番汚い物」といってもいいでしょう。しかし、「絶対的に汚い物」だと思っているかというとそうではありません。いくつか見てみましょう。
・体の内外で変わる
糞を汚いと思うのは体の外に出た場合であって、体内にある場合は汚いとは思わないはずです。だからこそ糞に触れていながら平気で生活していられるのです。
・年齢で変わる
年齢による違いも大きく、フロイトは「子供は排泄物に嫌悪を感じない。体の中から出てくる、自分の体の一部として価値あるものと考える」と言います。
心理学者のポール・ロジンの研究によれば、2歳未満の子供たちに「イヌのうんちだよ」と言って茶色の固形物を渡したところ(実際は、ピーナッツバターと匂いの強いチーズを混ぜたものだった)、ほとんどの子供は食べたといいます。
・人で変わる
人によってもかなり違いがあるようです。
ワイキキビーチに下水が大量に流入したというニュースがありました。「汚物が浮いているかもしれないと考えるとパラダイスとは思えない」と逃げる人もいれば、「これだけ大量の海水があるんだから、小さな粒子1つくらいで具合が悪くなったりはしないだろう」と泳ぐ人もいたそうです。
・感情で変わる
また、感情的な力も強く、たとえば他人の唾液は汚いと思うでしょうが、好きな人の唾液は汚いと思わないでしょう。母親は子供の糞を汚いと思わないようです。他の生き物にも目を向ければ、蜂蜜は蜂の嘔吐物ですし、高価な香料である龍涎香はマッコウクジラの糞です。
・慣れで変わる
そして、慣れるということもあります。
以前、ある女性タレントがゴミ屋敷を掃除するという番組がありました。あまりの汚さと異臭に最初は悲鳴を上げていましたが、やがて慣れたようで、ゴミ屋敷で平然と食事していました。ずっと掃除をしていて汚いと思わなくなったといった経験は、大なり小なり誰にでもあるでしょう。
また、人身事故の後処理をした経験がある鉄道員で、「人間の肉片を見てしまうと、しばらくの間、料理で挽肉を使ったり、食べたりするのが嫌になる。それでも、時間の経過とともに平気になる」と語っている人もいました。
他にもこういった話はたくさんあります。「汚い仕事」をすると浄穢が不二であることがわかってくるということであり、しないと浄穢が区別されていくといえるでしょう。「汚い仕事」をしない人は、する人と比べて差別心が強いということもいえるでしょう。
このように、一時的とはいえ善悪が不二であることを人間は体験的に感じています。理屈から言えば、一時的ではなく完全に悟る(常に体験する)ことができれば苦しまずに済みます。
・自分が生み出した世界に恐怖している
心の病は、人間の相対的な智恵が生み出した、いわば偽の苦しみです。
「我々に武器をとらしめるものは、いつも敵に対する恐怖である。しかも、しばしば実在しない架空の敵に対する恐怖である」(芥川龍之介)
行動する前は不安だったものの、実際にやってみると何てことはなく、「何であんなに不安に思っていたのか。もっと早くやっていれば良かった」などと思ったことは誰にでもあるでしょう。
戦時中の話でこんなものもあります。
当時、アメリカ人は「日本人は鉄砲で打っても死なないゴリラのような野蛮人だ」と思っていたそうです。
ある時、アメリカ兵が恐れながら山を歩いていると、日本兵の糞を発見しました。それを見たアメリカ兵は「俺たちと同じ糞をするのか」と思って安心したといいます。さもありなんと思える話です。
人気漫画「黒子のバスケ」をめぐる連続脅迫事件の犯人、渡邊博史は次のような体験を語っています。
「留置担当官さんから『髪が長くなって随分と見た目が優しい感じになりましたね。外でも基本はその髪型だったんでしょ』と言われました。自分はそれまで信じていた世界観がすべて崩壊したような気持になりました。
自分は誰からも嫌われていると思っていました。自分は何かを好きになったり、誰かを愛する資格はないと思っていました。自分は努力しても可能性はないと思っていました。自分は異常に汚い容姿だと思っていました。
どうもそれらが間違った思い込みにすぎなかったと理解した瞬間に、今まで自分の感情を支配していた対人恐怖と対社会恐怖が雲散霧消してしまいました。これらは自分の認知の狂いにより生じた事態でした」
彼や、糞を見ただけで安心したアメリカ兵のように、ほんのちょっとしたことで、恐怖したり安心したりするのが人間です。
百喩経の話も参考までに1つ紹介しましょう。
ある山奥に古寺がありました。長い年月が経っているため酷い荒れようで、柱は傾き、化け物屋敷の恐ろしさが、ひしひしと感ぜられました。
この古寺のことを聞いた一人の愚かな男が、「鬼なんているわけがない。たとえいたとしても俺が退治してやる」と古寺へ出かけて行きました。寺へ着き中を覗くと、噂通りの恐ろしい雰囲気にさすがの男も身震いがしました。そして、中から戸を閉めて奥へ入っていきました。
その時、たまたま、この男と同じように鬼がいるかどうか確かめに来た人がおり、外から戸を開けようとしました。中の男は鬼が帰ってきたと思い込み、開かないよう力を込めました。外の人も本当に鬼がいると思い込み、開かないよう力を込めました。
そうして互いに力を込めているうちに一夜を過ごしました。夜が明ける頃、戸の隙間から互いに顔が見えました。
「あっ!なんだ、あんたか!」
こう互いに言い合い、へたへたとその場に座り込んでしまったという話です。
このように恐怖している姿を別な例でたとえるなら、浅い水溜りで溺れているようなものです。勇気を出して自分の足で立てば楽になるのに、ジタバタして苦しみもがいているのはなぜかというと、その姿が客観的に俯瞰できないからです。
また、すぐ地面に足がつく崖にしがみついているようなものです。足を伸ばしたり、手を離せばすぐ地面に着くことができるのに、その姿が俯瞰できないために、壁面にしがみついて苦しみもがいているのです。
無意識に心が恐怖から逃げており、心が「へっぴり腰」になっていることに気づく必要があります。何に恐怖しているか、そしてなぜ恐怖しているのか突き止めるのです。
・善悪がある世界は苦しみの世界
頭では善悪が不二であることがわかっていても、腹底ではそうは思っていません。どうしても善悪の区別をしてしまい、絶対的な善や悪があると思ってしまうのです。そのことがわかる次のようなエピソードもあります。
「往生要集」で有名な源信が7歳の時のことです。
川で遊んでいると、比叡山の僧侶がやってきて弁当箱を洗い始めました。それを見て源信は尋ねました。
「お坊さん、どうしてこんな汚い水で洗っているのですか」
「浄穢不二といって、私たちにはキレイも汚いもないのだよ」
こう答える僧侶に源信は再び尋ねました。
「ではなぜ洗うのですか」
洗うということは汚いと思っているということであり、キレイと汚いの区別、つまり善悪の区別をしているではないか、と源信は指摘したのです。
僧侶は返答に詰まり、偉い智恵のある子だなと感心したといいます。
この話からは、自力仏教の限界もわかります。この時代の比叡山の僧侶ですから、それなりに一生懸命修行していたでしょう。それでも、どうしても善悪を区別してしまう境地にとどまっていたのです。このように言っていることとやっていることが矛盾しているのを見て、「仏教は大したことがない」と侮る人も多いでしょう。
善悪や苦楽の区別がある世界に真の安らぎはありません。第1巻から詳しく説明してきましたが、善悪の区別がない境地は実在し、人間はその境地に達することが可能であり、可能であるだけでなく人生の目的です。そして、その境地に出るには自力仏教ではなく他力仏教でなければならないのですが、これについては第6巻で詳しく説明しています。
1.6自己を知る(クセに気づくだけ)
〇直視する
〇心の病は自分が生み出した世界
〇罪悪観
〇欲はコントロールできる
〇性を知る
〇仏教は自己を知るためにある