「死が怖い」と悩んでいた人に対して、「死なんて有り得ない心配せずに、もっと楽しいことを考えよう」とアドバイスしていた人がいました。
古代インドの叙事詩、マハーバーラタには、ヤクシャという精霊が賢人ユディシュティラに「最大の脅威は何か」と尋ねる場面があります。いわく、「日々無数の人々が死んでいるのに、私たちはまるで不死であるかのように生きていること」
人間は、自分の死は信じられません。
・絶対に死なないと思っている
誰もが「自分もやがて死ぬ」と言いますが、腹底を尋ねれば「自分だけは絶対に死なない」と思っているのです。
「今日は死なない」と思っているはずです。頭(意識)では「今日死んでもおかしくない」と思っていても、本心(阿頼耶識)は「少なくとも今日は絶対に死なない」と思っているでしょう。人間はいくつになっても、またどんな状況に追い込まれても、腹底は「今日は死なない」と思っています。つまり、腹底では永遠に「今日は死なない」と思っているということであり、永遠に生きられると思っているのです。
「人は自分のことを死なないと勘違いするようになりました。そんなことはない、と仰るかもしれません。人間が死ぬということが知識としてはわかっていても、実際にはわかっていないのです」(養老孟司)
「人は、『人は必ず死ぬ』と思っていても、どうしてか自分だけは絶対死なないと思いたいと思っているようです。よく考えてみると、これは不思議なことです。
しかし、これは多分、単に人は死ぬのが怖いからではないでしょうか。自分が死ぬことなど、思ってみるだけでも恐ろしいので、それ以上深く追求するのをそこでやめるのです。考えられないのではなくて、考えるのをやめる、のである。それについて考えるのをやめたことは、もはやそこには存在しないことになる。そこで人は、人は必ず死ぬけれども、自分だけは絶対に死なないと、死ぬまで思っていることになる。
これは、幸福なことでしょうか。むしろ、不幸なことではないでしょうか。少なくとも私にはそう思われます。自分が死ぬということを恐れて生きていることは、生きていること自体が常なる恐れなのです」(松野哲也/国立感染症研究所室長)
「われわれがいくら自分の死を想像しようとしても、それはあくまでも生きている第3者という立場からのものにすぎない」
「人間というものはすべて自らの不死性を潜在的に確信している」
「死について想像しようとすると、自分が傍観者だとわかる」(ジークムント・フロイト/精神科医)
「健康な人間が、生に対して持っている安心感は、よく考えてみると、驚くべく強力なものである。そのおかげで、人間は平静な気持ちで生きていられる。理論的には、死刑囚と同じ立場にありながら、死の恐怖に心をおびやかされることなく、生きてゆくことができるのである」
「生きている人間の大部分は、死のことなど忘れはてている。平生、健康なときには、死に煩わされずに生きてゆくことができるからである。生きているということを少しも疑わず、これに自信をもっている。それは、おそるべき自信である。まさか自分が死ぬとは思わない」
「一般的な概念としては、人間に定命のあることを認める。自分も、やがては死すべきものであることを、十分に承知している。しかし、それは、一般的な理論としてであって、現実には、知らず知らずのうちに、自分だけを例外に置いている。死をわが身に即した事実として考えることは、どこまでも避けようとする。
もっと具体的に言えば、自分はまだ死なないと考える態度を、つねに持ち続けることになる。病気が重く険悪になって来ても、もう一度は回復すると信じる。まだこのままでは死なないと考える。いよいよ危篤になり、死期が間近に迫れば迫るほど、そのまだを心の中で叫ぶ。意識のある限り、その『まだ』を主張し続けるのである」
「人間の日常生活は、1つのごまかしの上に営まれている。これは、少しも悪意のないごまかしである。しかし、最も深刻なごまかしであるというよりほかはない。このごまかしは、現代人において、ことに著しい」(岸本英夫)
東池袋自動車暴走事故で妻と娘を失った松永拓也さんは、「私はこの立場に立つまでは、交通事故はテレビの向こう側のお話で、自分には関係ないって、正直思っていたんです。でもやっぱりそうじゃなかったんですよね」と語っています。
狂歌師の大田南畝は「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」という辞世の句を詠みました。
・「死は怖くない」と思わせる心がある
「絶対死なない」と思っているわけですから、死が怖いと思えません。この強力な妄念が「死は怖くない」と思わせようとするのです。
海兵隊員としてベトナム戦争の前線で戦ったアレン・ネルソンは、著書「『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』 ベトナム帰還兵が語る『ほんとうの戦争』」の中で次のような体験を語っています。
「頭がない死体もめずらしくありません。そんなときは頭をさがさなければなりません。頭を運ぶときは髪の毛をつかんで、ぶら下げて運ぶのですが、あるとき、髪の毛が焼け落ちてつかむところがない頭が落ちていました。私は、棒切れを拾うとそれを死体の耳の穴につっこんで持ち上げ、運びました。戦場では、そんなふうに、死体に対して何も感じないようになるのです」
東日本大震災による津波で、手足がもがれた遺体が流れてくるのを見て、「最初は物凄い恐怖だったが、毎日毎日流れてくるから見慣れてくる」と語っていた人もいました。
現地を取材した作家の石井光太も著書「遺体―震災、津波の果てに」の中で、「最初は誰もが遺体が床に横たえられているだけで慄いていたのに、数が増加するにつれて見慣れた風景となってしまい、モノとしてしか感じられなくなった」と描写しています。
戦争にしても震災にしても悲惨な描写の連続ですが、ずっと読んでいると慣れてしまっている自分に気づきます。
人間は、死の恐怖を感じ続けることができません。
地震になっては恐怖し、助かっては恐怖が薄らぎ、ウイルスが蔓延してはまた恐怖し、助かっては恐怖が薄らぎ・・・・という流れを死ぬまで繰り返し、最後は死に飲まれて地獄に堕ちていくのです。
「自分だけは絶対に死なない」と思っているところに死がやってくるわけですから、いつでも死は突然に感じます。
歌人の在原業平は「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」という辞世の句を詠みました。「いつかは自分も死ぬとは知っていたが、昨日今日のことだとは思いもしなかった」という意味です。
「死は、突然にやって来る。思いがけないときにやって来る。いや、むしろ、死は、突然にしかやって来ないといってもよい。いつ来ても、その当事者は、突然に来たとしか感じないのである。現代人の場合には、ことにそうである。平生、死をまったく忘れているだけに、死に直面すると、あわてふためいて、なすところをしらない」
「死は、大きな別れである。すべてのものに別れを告げる。徹底的な別れであるから、これは容易なことではない。もし、死が現実にやって来る前に、十分に心の準備をしておかなかったら、とてもそれに耐えることはできないようなものである。しかし、普通の場合、人間は、驚くほどそのための心の準備をしていない。それで、死は、いつでも不意打ちのような形で襲ってくることになる。それに対して人間は、取り乱して狼狽するだけである」(岸本英夫)
「死なんていう酷い結果を受けるような悪いことはしていない」という具合に怒りも出ます。ガンが消えて「無罪放免だ」と言って喜んだ人がいますが、死を回避できると罪が帳消しになったようにも思います。
企業や病院等でリーダーシップ研修を行う傍ら、ボクシングジムのトレーナーとしても活動している刀根健は、末期の肺がんを宣告された時の心境を著書の中で次のように綴っています。
「僕よりも悪いことしているヤツ、いっぱいいるじゃないか!なんで僕なんだ!不公平だ!僕以外にもいっぱいいるじゃないか!なんで僕なんだよ!いやだ、いやだ、いやだ、死にたくない、死にたくない、死にたくない!
頭の中を何かが暴走していた。心臓が高鳴り、脈拍が速くなる。真っ暗な暗闇から何かが僕をつかみ込んで、漆黒の穴へ引きずり込もうとしていた。
いやだ!いやだ!いやだ!抵抗むなしく、ぐるぐると回転しながら底なしの穴へ落ちていく。死にたくない!怖いよう!」
死の恐怖を感じれば、誰でも自分は弱い人間だとわかります。
「僕は自分が強い人間だと思っていたが、真実は違った。僕は弱かった。すぐに弱気になる。すぐにネガティブに巻き込まれる。すぐに死神が頭の中でしゃべりだす。弱い、本当に弱い。
自分が強い人間だと思っていたのは、弱い自分を隠すために作り上げた虚像だった。僕は必死で虚像にエネルギーを投下し、虚像を強化してきた。講師もそう、心理学もそう、ボクシングもそう。それを使って弱い自分に直面しないようにしていただけなんだ。そしていつのまにか、虚像を自分自身だと思い込んでしまったのだ。虚像は弱い自分を守るための鎧でしかなかったのに。そして僕は、虚像の自分を生きていた愚か者にすぎなかった」(刀根)
人間は、やがて滝つぼに堕ちてしまう船の中で、ドンチャン騒ぎをしているようなものです。船の中にいる人は、全体を俯瞰することができないので気づかないのです。
また、溶けかけている薄い氷の上を安心して歩いているようなものであり、鋭い刀の上の甘い蜜を夢中で舐めているようなものです。自分が置かれている状況がまったくわかっていません。
「人間の、自分の生命に対する自信と安心感とは、心の表面に張った薄氷のように薄い意識の層にすぎない。それを一枚めくれば、その裏には危うい限りの生命の現実がある。死は、いつ襲いかかってくるかわからない。死は、至るところで牙をみがいている。まっくらな口を大きく開いて、忍び寄ろうとしている。ただ、人は、薄氷の上をわたりながら、自分の踏んでいる氷が、そのように薄いものであることを感じないだけである。いつ崩れ始めるかわからない安心感の上にあぐらをかいて、たよりにならないものをたよりにして生きているのである」(岸本英夫)
シチリアの僭主ディオニュシオスの富や権力を、延臣のダモクレスは羨み称えました。それを聞いた僭主は、ある宴の席でダモクレスを王座に座らせました。ダモクレスが席に着き、ふと上を見上げると、頭上には鋭い剣が細い糸で吊るされていました。王者には常に危険がつきまとっていることを教えた有名な「ダモクレスの剣」ですが、この話のように、どんな人も地獄と隣り合わせなのです。
正月気分で浮かれた町を、一休が歩いていました。しかし、その姿に皆ギョッとしました。一休は、ドクロが刺さった竹竿を持って歩いていたのです。
「このとおり、このとおり。ご用心、ご用心」
こう言いながら一休は、町中の家々の戸を叩いてまわりました。それを見兼ねた人が、「一休さま、せっかくの楽しい正月なのですからおやめください。正月は目出たく祝うものです」と注意しました。
すると一休は、「正月といえど死は待ってはくれない。このしゃれこうべを見たまえ。正月を祝っていた人が、今は目が出て穴ばかり残っている。これを目出たしというのだ」と言って、また家々をまわっていったといいます。
一休の歌に「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」というものがあります。
門松はめでたいものとされていますが、それを立てるということは年を取ったということであり、死に近づいたという標示とみることもできます。それを一休は、このように詠んだのです。一休が警告しているように、めでたいことなど何もないのです。
・顛倒の妄念
「無常」が真実であるのに、「常」と見てしまう妄念が人間にはあります。他にも「苦」に対して「楽」、「無我」に対して「我」、「不浄」に対して「浄」と見てしまう妄念があり、「常」を含めて四顛倒といいます。この強力な妄念があるために「自分だけは絶対に死なない」「人生は楽な世界」と思ってしまうのです。
・「死が怖い」
「死が怖い」という人も多いですが、それはまだまだ弱い死の恐怖なので、もっと死を問い詰め、本物の強い死の恐怖を知る必要があります。
・死の恐怖を感じるように進化している
死の恐怖は、死後が地獄であることを警告するシグナルといえます。死の恐怖を直視し、中に入り込んでくるよう自然は望んでいるのでしょう。
「本当に人間は死ぬために生まれてきたのだ。それは人間の運命である。それが運命であるなら、人間は泰然自若として平気で死ぬようにできていてもよさそうなものであるのに、実はそうではない。人間は死を怖れる」
「真理は、人生存在の意義は死によって消滅することである。人間の智識が進むにつれて、否応なしにこの怖ろしき真理と直接対面せねばならぬ。こう考えてみると、生命の進化が無意味になってくる。人間が進化すれば、その智識が進むにきまっている。智識が進めば、死の意味を知らざりしものが、それを知るようになり、その結果、死の恐怖が高まり、生をあじわうことがますます深刻となってくる。生命の進化は人間を不幸に導くということになる」(福来友吉)
「自然は、老いや死への恐怖をある意味を持って人間に投げかけているにちがいない。その恐怖は、それから逃れるためのものではなく、その恐怖の中に入り込んでくることを望んでいるはずなのだ。
というのは、その不安定な幸福の中で、必ず、我々は、心の奥深いところに何かある、もっと心を満たしてくれる何かがあることを感じとっているからだ。その感じがあるから、刹那的な快楽の後から、どうしようもない空虚感が襲ってくる。そして、その空虚感が、我々に、何かもっと本質的に心を満たすことのできるものを求めさせようとしているのである。
でも、我々は、その空虚な心をどうにかして満たしたい、死に対する恐怖からどうにかして逃れたいと思いつつも、どうすることもできないものだと始めから諦め、再び刹那的な快楽の中に落ち入ってしまうのである」
「死の恐怖は、悠久なる生命の存在を知らしめようとしている。死を意識させることによって、その死の恐怖を生み出している暗黒の世界に明かりを灯させようとしているのである。そして、その暗黒の世界に明かりを灯そうとする営みこそ、動物的快楽から離れ、崇高なる心の在処を求めようとする動きでもある」
「我々を動物的欲求の渦の中から目覚めさせ、さらに進化を遂げさせようとする働きこそ、死への恐怖であり、内から聞こえてくる『人生いかに生きるべきか』という命題でもある」(望月清文)
そして、この命題に対する答えは、「自ら生と死を直視し、自らの心の奥に入って行くことの中から生まれてくるものである」と言い、この命題に答えを見つけたいという欲求こそ、「人間だけに与えられた人間的欲求であり、その欲求こそ精神的進化の目指す方向でもある。それは動物的欲求に満ち溢れた火宅に開かれた狭き門であり、闇の彼方に輝く一点の光でもある」と言います。
死の恐怖を感じるというのも人間の優れた能力の1つです。たとえば、年を取ると様々な能力が衰えますが、死の恐怖を感じる能力も衰えるのではないでしょうか。そのことが、年齢が上がるにつれて「死は怖くない」と思う人が増える一因となっているのではないでしょうか。
死の恐怖は、死を解決するようケツを叩いてくれる有り難いものであるのに、これまで説明してきたように、人間は向き合い方がわからないから臭い物だとしか思えず蓋をしてしまいます。
死の恐怖を感じないことを誇り、死に怯えている人を笑う人は多いですが大きな間違いです。
1.4無常観(死を直視する)
〇人生は苦なり
〇四苦八苦
〇煩悩
〇人間は必ず死ぬ
〇死の速さ
〇死の苦しみ
〇死は信じられない
〇死を直視する幸せ
〇不幸を勝縁にする