死は、世間一般で思われているよりもはるかに深刻な世界です。
・死は最大の苦しみ
・死はすべてを破壊する
・楽な死に方はない
・必ず後悔する
・死の恐怖
・死後は必ず地獄
・死の恐怖は地獄からくる
・死にたくないという願い
・死がある限り幸せになれない
・「死は怖くない」
・死は最大の苦しみ
人生には無数の苦しみがありますが、死の苦しみは他のどんな苦しみより大きいものです。死以外の苦しみは浅い水溜りで溺れているようなものですが、死は大海で溺れるようなもので、とにかく比較になりません。
苦しみは相対的なものなので、比較するものによって苦にも楽にもなります。どれほど強い苦しみであっても、死の苦しみに比べれば幸せに感じられます。
たとえば、「自分が死ぬより家族が死ぬほうが苦しい」という人は多いですが、そうではないのです。家族のように大切な人を失う苦しみは愛別離苦であり、これは四苦八苦のうちの1つです。死苦より苦しいことはないのです。
あらゆる苦しみの根源には死があります。心理学者のアルベルト・ヴィロルド(州立サンフランシスコ大学教授)が、「精神的なストレス源は、究極的には人類最大の恐怖、死への恐怖につながっている」と言った通りです。
たとえば、「恐怖」にしても同じです。
ウイルスが怖いといっても、ウイルスそのものが怖いのではありません。ウイルスによって死んでしまうことに怖がっているのです。
地震が怖いといっても、地震そのものが怖いのではありません。地震によって死んでしまうことに怖がっているのです。
ガンが怖いといっても、ガンそのものが怖いのではありません。ガンによって死んでしまうことに怖がっているのです。
病気・災害・事件・事故etc.人間には様々な恐怖がありますが、これらはすべて縁にすぎず、あらゆる恐怖の根底には「自分の死」があり「死そのもの」があります。
しかし、人間は「死そのもの」の恐怖や苦しみに目が向かず、ウイルスといった縁にばかり目が向いてしまっています。死はあまりに怖いことであり、解決法もわからないため、縁であるところのウイルスといったものを恐怖の根本原因だと思ってしまい、こういった縁を退けることにばかり躍起になっているのです。
・死はすべてを破壊する
死は、一生懸命努力して手に入れた一切の幸せを、一瞬で破壊する力があります。
人生で一番幸せな時といわれて何を挙げるでしょうか。
たとえば、プロポーズが成功した時を挙げる人も多いでしょう。しかし、そんな人生最高の瞬間だろうと死は容赦しません。
米カリフォルニア州のヨセミテ国立公園で次のような事故がありました。
ベテラン登山家のブラッド・パーカーさんは、ガールフレンドとともにカテドラル山に登頂し、そこでプロポーズしました。結果は見事成功。その後、ブラッドさんは数キロ離れたマッテスクレストに単独で登ります。しかし、これが間違いでした。不幸なことに、そこで滑落してしまいます。その日の夜、公園職員がブラッドさんの遺体を発見しました。父親のビル・パーカーさんによれば、プロポーズ後に息子から電話があり、「人生で一番幸せな日だ」と話していたといいます。
日本でも次のような事故がありました。
宮古島に住む石垣有一さん(32)は、伊良部大橋で交際相手にプロポーズしました。プロポーズは成功、喜んだ石垣さんは欄干を乗り越え橋の縁に立ちました。しかし、足を滑らせて約30m下の海に転落、その後、死亡が確認されたといいます。
他にも、「人生最高の瞬間」と大喜びをした次の瞬間に死んでしまうといった例はゴマンとあります。
どんな幸せも、死の苦しみには無力です。
「種々の悪業をもって財物を求めて、妻子を養育して歓娯すと謂へども、命終のときに臨みて、苦、身に逼まり、妻子もよく相救うものなし。彼の三途怖畏の中に於て、妻子及び親識を見ず。車馬も財宝も他人に属し、苦を受くるとき誰か能く苦を分つ者あらん。父母・兄弟及び妻子も、朋友・僮僕ならびに珍財も、死し去れば一として来りて相親しむもの無し。唯黒業のみ有りて、常に随逐す」(宝積経)
(訳:無数の悪業を造って財宝を求め、妻子を養って楽しみとするが、死ぬ時には苦しみが身に迫り、妻子も救うことができない。地獄の恐怖が迫れば、妻子も親族も眼に入らない。車馬も財宝もすべて他人のものとなり、この苦しみを共に分かち合うものは誰もいない。父母も兄弟も妻も子も、友も僮僕も財宝も、死んでいく時には1人としてついてきてはくれず、ただ悪業だけが常につきまとう)
「死を前にしてはニーチェもキルケゴールも役に立たなかった」(瀬田栄之助/小説家/臨終の言葉)
「死というものの凄さというのは、自分の人生振り返って、何をしたとか何をしてないとかいうのは全然関係ない。そんなことはビタ一文かすんないんだよ。おれは生前いいことしてたんだから長生きさしてくれとか、そんなこと全然関係なく、ドンと来るんだよね」
「これほどまでに人間があっけない存在だってことには気がつかなかったね」(ビートたけし)
「隠者の夕暮」などの代表作がある教育家のペスタロッチは、「臨終に自分が幸せでなかったことを声高く叫ぶ」と言いました。
また、どんなに必死に努力して生きてきたと自負している人でも、死を前にすれば自惚れだったことがわかります。つまり、「一生懸命生きていなかった」「時間を無駄にしていた」ということがわかるのです。
小説家の平林たい子は臨終に、「今度こそ一生懸命生きますから、何とか生かしてください」と医者に懇願して死んでいきました。
ビートたけしは事故の後、「今までどうしてこんな生き方したんだろうって反省が猛烈に襲ってきた。過去の自分に対する自己嫌悪」と語っています。
・楽な死に方はない
なぜ死が苦しいかというと、心が死ぬからです。心の死苦に比べれば、肉体の死苦は取るに足りません。
「ぽっくり逝きたい」「眠るように死にたい」「ピンピンコロリがいい」といったように誰もが楽な死に方を望みます。そして、その期待に合わせて「医師が選ぶ、楽な死に方」とか、あるいは逆に「この死に方が1番苦しい」といったテーマの記事がよく出されます。
第一生命のアンケートで「医師に『死期が近い』と宣告されたら、不安や心配になることは何か」と聞いたところ、最も多かったのは「病気が悪化するにつれ、痛みや苦しみがあるのではないかということ」で、56.2%と過半数を占めています。そして、「死への恐怖心は、死そのものよりも、苦しみや痛みに対してが大きい」という結果を公表しています。
しかし、こういった話はすべて肉体の死苦のことです。肉体の死苦だけに目を向ければ「比較的楽な死に方」というのもあるでしょうが、圧倒的な心の死苦と比較すれば大して違いがありません。死そのものの苦しみのほうが、肉体の苦しみや痛みよりはるかに大きいのです。
よくハンマーで思い切り殴られたような激しい痛みを伴うと形容される「くも膜下出血」も、高層ビルからの飛び降り自殺も、溺死も、焼死も、老衰も、苦という点では大差はないということです。
人間は肉体の死苦に目が向きやすいですが、それは、1億の苦に目を向けず1や2の苦に目を向けているようなものです。
「死は、ほとんどすべての場合に肉体的な苦痛を伴う。生物というものは、肉体的苦痛なしでは、その生命を終ることができないようにつくられているらしい。それは、進化論の適者生存の理論から考えても、やむをえないことである。(中略)それゆえ、死の苦しみについて人々がまず思うのは、死に至るまでの肉体的な苦しみである。(中略)そこで、死に至るまでの病の苦しみさえなければと、人々は考える。それさえなければ死も、それほど怖いものではない、とすら思う。
しかし、その考え方は、まだまだである。それには、まだ、問題の混同がある。死に至るまでの苦しみが、あまりに激しいので、それと、死そのものの苦しみとを混合しているのである。そして、死に至るまでの肉体的な苦痛を解消できれば、それで死の問題は、すっかり解決したかのように考える。しかし、問題はそれほど単純ではない。死の苦しみの中には、もっともっと深刻なワナが隠されている。肉体的な病気の苦しみは、かりにそれが苦しくても、それは、死に至るまでのことである。その途中の苦しみにすぎない。死そのものの苦しみではない。死に至るまでの肉体的な苦しみと、死そのもののもたらす精神的な苦しみは、別のものである。死の苦しみは、いわば、二重の構造を持っている。途中の苦しみとは別に、その奥に、もっと直接な、死自体の苦しみが潜んでいる。この2つは混同されてはならないのである。
死自体を実感することのもたらす精神的な苦しみが、いかに強烈なものであるか、これは知らない人が多い。いな、むしろ、平生は、それを知らないでいられるからこそ、人間は幸福に生きていられるのである。しかし、死に直面したときには、そうはいかない。人は、思い知らされる。その刺し通すような苦しみが、いかに強烈なものか、そのえぐり取るような苦しみを、心魂に徹して知るのである」
「この2つは、質的には、まったく異なった要素でありながら、両者は、時間的には、ほとんど同時に人間を襲ってくる。それで多くの場合、両者は混同されてしまう。
ところかまわず襲ってくる激痛、高熱、吐瀉、下痢、呼吸困難、このような思ってもゾッとするような苦痛なしには、この人間の肉体は、生命を失ってゆくことのできない場合が多い。それだけに心を奪われて、それだから自分は死ぬのが怖いのだと思っている素朴な人々も多い。
しかし、これは前山の高さに気をとられて、そのうしろにひかえている真の高山を見誤る考え方である。肉体の苦痛はいかに激しくとも、生命を断たれることに対する恐怖は、それよりももっと大きい」(岸本英夫)
・必ず後悔する
大切なものを失うと人間は必ず後悔します。死は、人間にとって一番大切な自分の肉体を始めすべてのものを失うということなので、必ず後悔します。今、幸せであろうが苦しんでいようが、善をしていようが悪を造っていようが、人生は後悔で終わるのです。
仏教で説かれる一切は臨終に体験的に証明されますが、その証明は悲惨です。体験的な証明では遅いのです。
「それ、朝にひらくる栄花は、夕べの風に散りやすく、夕べに結ぶ命露は、朝の日に消えやすし。これを知らずして常に栄えんことを思い、これを覚らずして久しくあらんことを思う。
しかる間、無常の風ひとたび吹きて、有為の露永く消えぬれば、これを曠野にすて、これを遠き山におくる。屍はついに苔の下にうずもれ、たましいは独り旅の空に迷う。妻子眷属は家にあれどもともなわず、七珍万宝は蔵に満てれども益もなし。ただ身にしたがうものは後悔の涙なり」(登山状)
(訳:さて、朝に開いた栄華という花も夕べには風が吹いて散りやすい。夕べに結んだ命の露は、朝日がくれば消えやすい。この道理を知らず常に栄えていたいと思い、この道理を自覚せずに「まだまだ生きられるだろう」と思う。
そのように思っているうちに、無常の風が一度吹いて儚い命が永遠に消えてしまえば、荒野や山で焼かれてしまう。屍はやがて苔の下に埋もれ、魂は独りで空を彷徨う。妻子や親族は家にいてもついては来れず、どれほど財宝があっても何の役にも立たない。ただ身に従うものは後悔の涙だけである)
・死の恐怖
哲学者のショーペンハウエルは、「人生は免れることができない死と、死に対する恐怖との合宿所である」と言いましたが、死の恐怖といっても強弱があります。
完全な死の直前である臨終の恐怖が最も強い死の恐怖であり、本物の死の恐怖です。臨終以外でも死の恐怖を感じることができますが、臨終の恐怖とは比較になりません。しかし、その臨終以外の死の恐怖でさえ、「ハンマーで殴られたような衝撃」と形容するほどの大きな衝撃を受けます。
お笑い芸人の宮迫博之はガンを告げられた時、「目の前が真っ暗になった」といいます。
女優の仁科亜季子もガンの告知を受けた時、「頭をハンマーで打ち砕かれたようでした。自分の身に何が起きたのか理解できませんでした」と振り返っています。
詩人の高見順もガンになった時、「恐ろしいものが背後から迫って来る。夢中で逃げ惑うばかりだ」と死の恐怖を語っています。
岸本英夫も次のように語っています。
「まっくらな大きな暗闇のような死が、その口を大きくあけて迫って来る前に、私はたっていた。私の心は、生への執着ではりさけるようであった」
「死が目の前に迫り、もはやまったく絶望という意識が心を占有したときに、にわかに、心は生命飢餓状態になる。そして生命に対する執着、死に対する恐怖が、筆舌を超えたすさまじさで心の中に起ってくる。このように生命飢餓状態というものは、生存の見通しに対する絶望がなければおこってこないというところに、大きな特徴がある」
「死の恐怖は、人間の生理心理的構造のあらゆる場所に、細胞の1つ1つにまで浸みわたる。生命の執着は、わらの一筋にさえすがって、それによって迫って来る死に抵抗しようとする」
「私は、しばしば、死刑囚のことを思った。死刑囚は死を宣告されて、しかも、独房にいなければならない。何時、刑を執行されるかわからない不安な状態で、死を見つめながら、2年も3年も置かれたら、いったい、どういう精神状態になるであろうか。予告された死の苦しみは、実際に刑が執行される時だけのものでは、断じてない。死の苦しみは、予告されたその刹那から始まる。それ以後は、3日生きればその3日間が苦しみである。10日生きればその10日間が、必死の激しいたたかいである。
わずか2週間のたたかいですら、私は相当にまいった。私自身も死刑囚のような気持ちで、本物の死刑囚に深い同情を寄せざるを得なかったのである。そのように、私の内心は、絶え間ない血みどろのたたかいの連続であった」
「レ・ミゼラブル」などで知られるフランスの文豪、ヴィクトル・ユゴーは「死はいかに人を邪悪にすることか」と言い、文学者のラ・ロシュフコーは「死と太陽は直視することは不可能である」と死の恐ろしさを表現しています。
私自身の体験からいっても、死の恐怖を感じれば全身の毛が逆立ち、全身の細胞が「死にたくない」と叫びます。
・死後は必ず地獄
悪い行いをすれば必ず悪い結果が返ってくるというのが、因果応報の法則です。この「行い」は身体や口の行いだけでなく、心の行いも含まれます。たとえば、「死んでくれたらいい」などと心で思えば、未来必ず相応の悪い結果が返ってくるということです。「思っただけ」では済まないのです。
人間の日々の行いを反省すると、身体で生き物を殺したり、心で人を殺したり、数多くの悪い行いをしています。
「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」(大無量寿経)
(書き下し:心常に悪を念じ、口常に悪を言い、身常に悪を行い、曽て一善無し)
(訳:心は常に悪を念い、口は常に悪を言い、身は常に悪を行い、今だかつて1つの善もしたことがない)
ですので、人間の死後は必ず地獄です。地獄は荒唐無稽な世界ではありません。実在する世界です。この世に地獄と形容できるような苦しみが実在するように、死んだ後にも実在するのです。自殺を防止するためでも、悪い事をやめさせるためでもないのです。
このことを第1巻では科学的知見を交えて詳しく説明しました。
・死の恐怖は地獄からくる
そして、臨終から地獄の片鱗が見えてきます。
「命終わらんと欲る時、地獄の衆火、一時に倶に至る」(観無量寿経)
(訳:命が終わろうとする時、地獄の猛火が一斉に迫ってくる)
「終りに臨み、罪あひはじめてともに現じて、後に地獄に入りてもろもろの苦にかかる」(往生要集)
(訳:無数の悪業の結果は、臨終に一斉に現れ、地獄に堕ちて無限の苦悩を受ける)
死苦には、死後の地獄の苦しみの1部が含まれているのです。
死の恐怖は地獄からきます。死の恐怖の本質は死後の地獄にあるのであって、「肉体の苦痛」だとか「無になる恐怖」などといったものは地獄の恐怖に比べたら無きに等しいのです。
哲学者の古東哲明は、なぜ死は怖いのか、死の恐怖の原因として、次の2つを挙げています。
- 肉体の死滅自体への生理的恐怖(死去する際の身体的苦痛など)
- 自己の存在が消失してしまうことに対する哲学的恐怖(無限にうち続く自己の虚無を想っての恐怖)
このように考える人は多いでしょうが、これは死の恐怖の原因のほんの一部にすぎず、要である圧倒的な地獄に対する恐怖が抜けています。
臨終は、激しい後悔と恐怖が代わる代わる襲ってくるのです。
「大命将に終わらんとして悔懼交至る」(大無量寿経)
(訳:命が終わろうとする時、後悔と地獄の恐怖が代わる代わるやってくる)
ちょっとやそっとの後悔ではなく筆舌に尽くし難い後悔であるため、血の涙を流して後悔するとも表現されます。
・死にたくないという願い
普段は感じないでしょうが、「生きることができる」ということほど人間にとって幸せなことはありません。
これがいかに強い幸福感であるかは、臨終になればわかります。底知れない地獄の恐怖の片鱗に触れれば、誰でも「死にたくない。どんなに苦しくても生きていたい」と願うようになります。
「生命飢餓状態におかれれば、人間は、どうしても、どんな苦しみの下におかれても、生きていたいと思う。人間は、この状態では、いつでも、もっと生きていたいのである。ゴーリキーが描き出すように『いくら苦しくてもよいから、もっと生きたい』というのが、人間の本音である」(岸本英夫)
秦の始皇帝は不死の薬を本気で求めましたが、誰でもこの願いを持っているのです。
「それは、子供の夢にも等しいことであった。所詮、達することのできないあがきであった。しかし、現代人は、あえて、これを嘲笑することができるであろうか。現代人が死に立ち向かった場合に、秦の始皇帝より、少しでも、すぐれた態度を取り得ているということができるであろうか」(岸本英夫)
・死がある限り幸せになれない
死がある限り、人間は絶対に幸せになれません。
「板子一枚下は地獄」という諺があります。船乗りの仕事が危険であることのたとえですが、これは漁師だけではありません。人間は常に死と隣り合わせです。つまり、人間は常に地獄と隣り合わせで生きているということです。今日地獄に堕ちるかもしれないのです。朝には健康で元気いっぱいであっても、夜には死んで地獄に堕ちていてもおかしくないという深刻な世界に人間は生きています。まさしく地獄の釜で一休みしている状態です。
・「死は怖くない」
「死は怖くない」と言う人は多いです。
関連して、「死にたい」「いつ死んでも満足」「死ぬ覚悟はできている」「若くして死ぬのも嫌だけど、あまり長生きし過ぎても嫌だ」「死は怖いと思うけど1番怖いものではない」といったものもあります。
しかし、これらの言動はすべて本心ではありません。
このように思ってしまう理由は、簡単に言えば自分の死が遠いからです。平生元気がいい時に想像する死と、実際の自分の死との間には「底なし」といっていいほどの深い深いギャップがあります。先に説明した通り、死の恐怖といっても強弱があり、強い死の恐怖を感じれば、「どれほど苦しい思いをしようが永遠に生きていたい」という本心がむき出しになるのです。
フリーアナウンサーの黒木奈々は、ガンになり、今回見つけられなかったら2年後には命はなかったと医師に言われた時の心境をこう語っています。
「怖かった。『死』がこんなに近くにあったなんて考えたこともなかった。私は昔、バカなことを言っていたことがある。
『人生、細く長くは嫌だ。太く、短くでいい』と。
その発言、撤回したい。ごめんなさい。『太く短く』なんて嫌。太く、長くがいい」
「何かあると冗談で『あー死にそう』などと言っていた。今は絶対にそんなこと言えないし、自分の周りの人にも絶対に言ってほしくない。今まで当たり前のように使っていた言葉もずっしりと重く、一言一言が胸に響く。もしもいつか子供ができたら、そんなこと絶対に言ってはいけないと教えようと思った」
このように語り、彼女は間もなくして逝きました。
ある芸能人が、初めてバンジージャンプを体験した時を振り返り、「柵の手前は何とでもいえる。柵を超えると恐怖で震えが止まらなくなる」と語っていました。命綱があり助かる保証があるとわかっていても震えが止まらないほどの恐怖を感じます。まして、命綱がない実際の死は想像を絶する恐怖です。
心療内科医の星野仁彦(福島学院大学教授)は、自分がガンと宣告された時の心理状態を、著書「末期がんを克服した医師の抗がん剤拒否のススメ」にまとめているので、いくつか抜粋します。
「検査結果がどうであれ、すべてを受け入れる心の準備はできている。私は精神的に強い人間なのだ。そのときまでは、そう信じていた」
「ガンを告知された瞬間である。しかし、どんな患者の前でも決して内面をそのままには表さない医師の習慣なのか、平静を装うことができた。一度、頭の中で確認してみた。
『私は、大腸がんである』
動揺はない。私はやはり強い人間だった。
ホッとして足元に目を移すと足が震えている。デスクに手をついていなければ倒れていたかもしれないほど、激しく震えていた。動揺していることを自覚した私は、パニック状態に陥った。
『死ぬ危険性はどのくらいなのか』『残りの人生はどのくらいなのか』『手術で治るものなのか』『家族はどうなるのか』『私の将来は、ここで終わるのか』
浮かんでくる言葉は、すべてがネガティブなものだった。後輩が声をかけているようだが、何を言っているのか聞き取れない。聞き取れないが、平静を保とうとする私は頷くことでごまかそうとしている。
私はガンが発覚しても精神的に動揺しない自信があった。自分ほど精神的に強い人間はいないと思っていたからだ。精神科医として、うつ病やパニック障害、不安神経症などの心の病に悩む患者を数多く診てきた。精神科医としてのキャリアを積み重ねることで、強く冷静な自分、を確立していたはずだった。激しく足が震え動揺している私のどこが強く、冷静なのだろうか。私は弱い人間だった」
「私は・・・、『死』を恐れている。医師はその職業柄、死に接する機会が多い。ある意味、絶えず死と向き合いながら仕事をしているともいえる。だからこそ、医師は死の恐怖に強いと思っていた。
しかし、実際に対峙する死は自分のものではない。あきらかに距離感がある。私はガンであることがわかった瞬間、その距離感が消えた。死というものが観念的なものではなく、実感として意識せざるを得ない状況になったのである」
他にも、たとえば消化器腫瘍外科を専門にする船戸崇史医師は、妻に勧められた人間ドックでガンが見つかった時の心境を次のように語っています。
「多くのがん患者さんを診てきました。落ち込む患者さんには『大丈夫大丈夫』なんて励ましたことも多々ありました。しかし、いざ自分が患者という立場になってみると、到底大丈夫だなんて思えないのです。がんになって助かるという保証はない、ステージ1でもダメなものはダメになる・・・・やっぱりがんになったらお終いだ・・・・そんな風に思い至って頭を抱えるのです。なんと無責任なことでしょう。どの口が患者さんを励ましてきたのか」
「死は怖くない。死んだら死んだで、その時はその時だ。怖がっても仕方ない」などと高を括っていた人が、いざ死に直面すると怖いと言い出す、こういう事例はゴマンとあります(詳しくは第3巻)。
「私たちが死に直面したとき、生来もっていた土着の死生観を捨て、『死は刹那生滅の一時にすぎぬ』として現実を素直に受け止めることができるでしょうか。あるいは最愛の者を失っても、『無常は世の常』といって流せるでしょうか。とても俗人ではできません。わが事(主体的問題)と他人事(客観的問題)は別次元のものです」(泉美治/大阪大学名誉教授)
「人間は他人の死ということについては、あくまでもそれを他人事として見る。人の死にざまなどは軽い気持ちで語り、ときとしてはジョークとして話すこともある。
だが、いったん、わがこととなったとき、その人は慌てふためき、見栄も外聞もかなぐり捨てて狼狽するものである。その狼狽ぶりは社会的な地位の違い、年齢の違い、財産の違いなどとはまったく無関係に露呈するものである。
人間が死に直面したとき、死と向き合ったとき、大会社の社長でも、平社員でもまったくおなじように慌てふためくのだ。『ええっ、ま、まさか、誤診では』」(中岡俊哉)
小説家の大佛次郎は、「死は救いとは言いながら、そうは悟りきれぬものである」と言いました。
ペスタロッチは、「臨終は完成した秋の木の実が成熟して使命を果たした後に、冬の憩いのために地に落ちるような趣はない」と表現しました。
平生元気がいい時に想像する死は、檻の中の虎を眺めるようなものです。「恐ろしい牙だなー、あれに襲われたらひとたまりもないな」などと言いながら、自分に襲い掛かってくることはないから安心して見ていられます。
しかし、実際の死は、山の中で突然虎に出くわすようなものです。安心して眺めてなどいられません。
1.4無常観(死を直視する)
〇人生は苦なり
〇四苦八苦
〇煩悩
〇人間は必ず死ぬ
〇死の速さ
〇死の苦しみ
〇死は信じられない
〇死を直視する幸せ
〇不幸を勝縁にする