死の解決の境地が、どれほどの境地なのかについて説明します。

〇正定聚

〇生きたまま救われる

〇抜苦与楽

〇すべての恐怖が消える

〇煩悩を消さずに救われる

〇罪悪が消える

〇信心決定

〇絶対平等

〇仏凡一体

〇絶対信順

〇不思議

 

〇正定聚

死の解決をすると、正定聚という位になります。

正定聚とは、「仏になることに定まった人々」という意味です。

「一念発起のかたは正定聚なり」(御文)

(訳:死の解決をすれば正定聚となる)

 

「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る」(教行信証)

(訳:煩悩だらけで、苦悩に沈み罪悪に汚れた凡夫が、死の解決をして他力の信と行を獲れば、時も隔てずすぐに正定聚の位に入るのである。正定聚になるので、煩悩が吹き消された最高の境地に必ず至るのである)

・仏と等しい

正定聚は仏と等しい位です。

「正定聚の人は『如来と等し』とも申すなり」(末灯鈔)

(訳:正定聚の人は「仏と等しい」と言うのである)

 

「信心をうるを喜ぶ人をば、『経』には、『諸仏とひとしきひと』と、ときたまえり」(一念多念文意)

(訳:死の解決をした人は、「諸仏と等しい人」と経には説かれている)

 

・仏ではない

注意が必要なのは、正定聚は仏と「等しい」のであって、仏と「同じ」ではありません。

悟りには52段階あり、最高位の52段目が仏の悟りですが、正定聚は51段目の位です。仏となるのは死後世であって、現在世はあくまで正定聚となります。浄土和讃に「如来すなわち涅槃なり 涅槃を仏性となづけたり 凡地にしてはさとられず 安養にいたりて証すべし」とある通りです。

 

・弥勒と等しい

正定聚の位は、「一生補処の位」ともいい、「人間界の一生を過ぎれば仏になることができる菩薩」という意味です。

一生補処という言い方は、特に弥勒菩薩についていう語です。弥勒菩薩は、今は兜率天で修行しており、釈迦の死後56億7千万年後に仏となることが約束されているため、「補処の弥勒」といわれます。

「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるがゆえに、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。かるがゆえに『便同』と曰うなり」(教行信証)

(訳:今、はっきりと知った。弥勒は等覚の金剛心を得ているので、釈迦入滅後の56億7千万年後に仏の悟りを開くのである。死の解決をした人は、他力の金剛心を得ているので、臨終に一念で最上の悟りを開くのである。このため、弥勒と同じ位であるというのである)

 

「真実信心うるゆえに すなわち定聚にいりぬれば 補処の弥勒におなじくて 無上覚をさとるなり」(正像末和讃)

(訳:死の解決をすることで正定聚となるので、一生補処の弥勒菩薩と同じ境地であり、最上の悟りを獲るのである)

 

・仏の親友

正定聚は、「我が善き親友なり」(大経)と、仏から親友と誉め称えられる境地です。

「他力の信心うるひとを うやまいおおきによろこべば すなわちわが親友とぞ 教主世尊はほめたまう」(正像末和讃)

(訳:死の解決をした人は、阿弥陀仏を敬い大きな喜びを得るので、釈迦は「私の親友である」と誉めるのである)

 

・分陀利華

死の解決をした人は分陀利華にたとえられます。

分陀利華とは白蓮華のことです。仏教では、白蓮華を花の王とし、最も勝れている華と説きます。

「仏言広大勝解者 是人名分陀利華」(正信偈)

(書き下し:仏は広大勝解の者と言い、是の人を分陀利華と名づく)   

(訳:仏はこの人を広大無辺の勝れた智恵を得た者であると誉め称え、白蓮花のような人と名づける。)

 

「もしよく相続して念仏する者、この人甚だ希有なりとなし、さらに物としてもってこれに方ぶべきこと無きことを明かす。故に分陀利を引きて喩へとなす。『分陀利』と言うは、人中の好華と名づけ、また希有華と名づけ、また人中の上上華と名づく、また人中の妙好華と名づく。この華相伝して蔡華と名づく。もし念仏の者は、即ちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり」(観無量寿経疏)

(訳:もし、よく相続して念仏する人は、甚だたぐいまれで、他に比べられるものがないので、分陀利華にたとえられる。分陀利華というのは、人間の世界での好華と名づけ、また稀有の華とも名づけ、また上々の華とも名づけ、また妙好華とも名づける。この華は、古来より蔡華(めでたい花)と名づけられている。死の解決をした人は、人々の中での好人であり、妙好人であり、上々人であり、稀有人であり、最勝人である)

仏教の篤信者を妙好人といいますが、この観経疏の一文に由来します。

蓮華には次の五つの徳が備わっていると説かれます。

 

1.淤泥不染の徳

蓮は泥から咲きますが、自浄作用があり泥に染まらず綺麗に咲きます(いわゆるロータス効果)。

他力信心は煩悩まみれの心に咲きますが、煩悩が少しも障りにならないということです。

2.一茎一花の徳

蓮は、一つの茎に一つの花を咲かせます。

人生の目的は、自分以外変わりはいないということです。

3.花果同時の徳

普通の花は3分咲きとか5分咲きというように徐々に花が開きますが、蓮の花は音を立てて一気に開きます。そして、花が咲くと同時に実をつけます。

一念で信心を獲得し、同時に極楽に生まれるということです。

4.一花多果の徳

蓮は、一つの花から多くの種がとれます。

死の解決をすることで無数の利益を得るということです。

5.中虚外直の徳

蓮の茎は中の空洞が真っ直ぐになっています(外直)。

死の解決をした人は真理に明るく、強く逞しく生きるということです。

 

・大学者

死の解決をした人は仏教のすべてを知った智者です。

逆に、どれほど教学があっても死の解決をしていなければ、仏教を知らない愚者です。

「あながちに、もろもろの聖教を読み、物を知りたりというとも、一念の信心の言われを知らざる人は、いたずらことなりと知るべし」(御文)

 

聴聞ということは、なにと意得られて候やらん。ただ耳にききたるばかりは、聴聞にてはなく候。そのゆえは、千万の事を耳にきき候とも、信得候わぬはきかぬにてあるべく候。信をえ候わずは、報土往生はかなうまじく候なり」(一宗意得之事)

 

「八万の法蔵を知るというとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世をしるを智者とすといえり」(御文)

 

「聖教よみの聖教よまずあり。聖教よまずの聖教よみあり。一文字もしらぬとも、人に聖教をよませ、聴聞させて、信をとらするは、聖教よまずの聖教よみなり。聖教をばよめども、真実によみもせず、法義もなきは、聖教よみの聖教よまずなり」(御一代記聞書)

 

確かに教学は重要です。教学は、日本語のひらがな、英語のアルファベットに相当するものであり、最低限のことは知らなければなりません。「知識や経験がないほうが偏見がなくいい」と信じ切っている人もいますが、無知が悲惨な結果をもたらすこともあります。たとえば火の怖さを知らなければ、思い切り手を突っ込んで大火傷を負ってしまいます。この場合、無知であることは、偏見が染みつく以上のデメリットです。

しかし、ただ学問として学び、聖教が指さす他力信心を求めないエセ仏教徒はゴマンといます。聖教にちゃんと書いてあるのに、信じられないので、自分が見たいように見てしまうのです。

本願寺3代目、覚如は長子である存覚を、安心を異にしたため勘当しています。存覚といえば、学者という点では覚如を超えるほどの人ですが、根本である信心がなければいたずらごとなのです。

ちなみに、知識だけだったら年を取れば増えるものです。

元東京都知事の石原慎太郎が、文部大臣などを歴任した与謝野馨を、「あのぐらいの年になれば、あのぐらいの識者はたくさんいる」と言って批判していたこともありますが、知識の量で人間の優劣は測れません。人間の優劣は死の解決をしているか否か、ゴールに近いか遠いかで決まります。

また、「知識や経験が豊富であることに越したことはない」と信じ切っている人もいますが、そうとも限りません。

「知識は多い方がよいと、漠然と思っている人が多いだろう。知識を学べば、知識がどんどん積み重なって、徐々に賢くなると思っている人も多いだろう。しかし、そうでもない。新しい知識は古い知識に積み重なるのではなく、古い知識を破壊するのである」(石川幹人/明治大学教授)

東条英機は「ちっぽけな智慧、これが禍いしているのですね。だから、知識人には、信仰に入れないですね」と言っていますが、一面の真理があります。

さらに経典には、「どんなに努力しても人生で知ることができるのは、ほんのわずか一滴の水ほどであり、知ることができないのは大海の水ほどもある」とも説かれています。ほとんどのことは知ることができずに、一生を終えてしまうのです。知識量だけならgoogleやwikipediaのほうが勝っているでしょう。

以上の点をまとめると、「知識」というのは、知らなければならないこととそうではないことの大きく2種類あるといえます。世間には「知の巨人」などと呼ばれる人がいるようですが、死の解決をしなければ「痴の巨人」で終わってしまいます。

 

〇生きたまま救われる

本願成就文にもあるように、死の解決をすれば、一念で極楽に生まれます。

・不体失往生

不体失往生とは、書いて字の如く、「体を失わずして往生する」という意味です。逆に、体を失ってから往生することを体失往生といいます。死の解決は不体失往生です。つまり、生きたまま救われるということであり、死んでから救われるということではないのです。死後だけでなく、生きながら極楽に生まれることができます。

「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり」(親鸞消息)

(訳:死の解決をした人は、阿弥陀仏が決して捨てず救い取るので、正定聚の位に定まっている。このため、臨終まで待つ必要がなく、臨終に阿弥陀仏が迎えに来ることを頼りにする必要もない。信心が定まる時に往生もまた定まるのである)

 

「臨終すんで 参るじゃない 臨終すまぬとき 参る極楽 なむあみだぶに すめてあること なむあみだぶつ」

「死んで参るじゃない 死ぬまで悪を作りて 死なずに参る親の里 死なずに申す弥陀の念仏 なむあみだぶつ なむあみだぶつ」(浅原才市)

 

・往生の二義

「往生」という言葉には2つの意味があります。

1つ目は「生かされて往く」という意味で、生きながら救われるという意味です。

2つ目は「往って生まれる」という意味で、死後に極楽浄土に生まれるという意味です。

 

・今すぐ助かりたい

「後生大事や金欲しや死んでも命のあるように」という諺もあるように、死んだ後だけでなく現世の幸せも欲しいのが人間です。今すぐ楽になりたい、安心したいと願うのは当然であり、体失往生では人間の願いを完璧に満たしていることにはなりません。

「未だに死後の浄土を説く宗派があるそうですが、生きたまま不安のない仏になるのでなくては、宗教の存在意義はありません」(水原舜爾/岡山大学名誉教授)

 

・心が浄土に遊ぶ

肉体は穢土のままですが、人間の本体である阿頼耶識が、生きながら極楽浄土に生まれているということです。

「超世の悲願聞きしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど こころは浄土にあそぶなり」(帖外和讃)

(訳:死の解決をした瞬間から、もう苦しみ迷いの凡夫ではない。煩悩がある身であることに変わりはないが、心は極楽浄土に遊んでいるのである)

 

・解脱

物質にしてもエネルギーにしても迷いの世界はすべて輪廻しています。阿頼耶識も、生まれ変わり死に変わりして六道を輪廻していますが、死の解決をすることで抜け出し極楽に生まれることができます。これを解脱、または出離といいます。肉体は人間のまま、生きながらにして心が解脱するのです。

 

・無生の生

生死を超えた境地であり、無生の生といいます。

「無生の生とは、極楽の生は三界をへめぐるこころにてあらざれば、極楽の生は無生の生といふなり」(御一代記聞書)

(訳:極楽浄土に生れるということは、苦しみ迷いの世界を輪廻することではなく、輪廻から解脱した世界に生れるということなので、極楽浄土に生れることを無生の生という)

三界とは、次の3つの世界を指します。

 

欲界:書いて字の如く、欲望にとらわれた生物が住む世界。天界の一部から地獄までの世界すべてを含む

色界:欲望を離れ物質に永遠なるものを見ようとする世界。欲望は超越しているが、無色界と比較して物質や肉体に束縛されている。天界の一部が入る

無色界:物質や形式を離れ精神的なものだけを追求する哲学・思想の世界。欲望を超越し、物質的にも肉体的にも束縛されていないが、精神的な束縛はある。天界の一部が入る

 

・生きてよし、死んでよし

現在世でも当来(死後生)でも救われるという、大きく2つの利益を得るので、現当二益ともいいます。

「一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに、滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。されば、二益なりと思うべきものなり」(御文)

(訳:死の解決をすれば正定聚となるが、これはこの世の利益である。仏の悟りは、死後に極楽浄土に往生して得る利益である。こういうことなので、二益なのである)

現在の幸・不幸は未来の幸・不幸に大きな影響を受けます。死んだ後が「極楽浄土間違いなし」と保証されていれば、現在も安心していられます。「いつ死んでも満足」という境地であり、「生きてよし、死んでよし」の境地です。

清沢満之は、「来世の幸福のことは、私は、まだ実験しないことであるから、ここに陳ぶることは出来ぬ」と言っていますが、この言動は死の解決の体験がない証拠であり、教学上からいっても間違っています。

 

〇抜苦与楽

抜苦与楽とは、「苦しみを抜いて楽を与える」という意味ですが、「人生は苦なり」から「人生は楽なり」に一変します。

どれほどの喜びがある境地なのか、それがわかる表現をいくつか紹介します。

・破闇満願

闇を破って願いを満たすという意味で、闇とは無明の闇を指します。人間には、「死にたくない」という願いをはじめ無数の願いがありますが、どんな願いであっても死の解決をすることですべて満たすことができます。つまり、破闇満願とは、苦悩の根源である無明の闇を破り、死なない身になりたいという人間最大の願いを満たすということです。

「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」(教行信証)

(訳:思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、救われ難い苦悩の海を救う大きな船であり、何ものにも遮られることがない光明は、無明の闇を破る智慧の光である)

 

「無碍光如来の名号と かの光明智相とは 無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまう」(高僧和讃)

(訳:阿弥陀仏の名号と、阿弥陀仏が放つ智慧の光明は、無明長夜の闇を破り、人間最大の願いを満たす)

 

「無始曠劫よりこのかたの、恐ろしき罪咎の身なれども、弥陀如来の光明の縁にあうによりて、ことごとく無明業障の深き罪咎たちまちに消滅す」(御文)

(訳:始まりがわからないほどの遠い昔から、恐ろしい無明を抱えた身であるが、死の解決をすることで、たちまちにすべて消滅する)

 

・楽しかない

第2巻で説明したように、世間一般で幸福とされているものは、無常・相対の幸福であり、安心も満足もできない欠点だらけの不完全な幸福です。

一方、死の解決は、常・絶対の幸福であり、常に安心・満足できる欠点のない完全な幸福です。

「その国の衆生は、もろもろの苦あることなし、但もろもろの楽を受く。かるがゆえに極楽と名づく」(阿弥陀経)

(訳:その国の人々は、一切の苦がなく、ただ楽だけを受けるので極楽と名づけるのである)

 

「この人は大利を得と為す、すなわちこれ無上の功徳を具足するなり」(大無量寿経)

(訳:死の解決をした人は大きな利益を得、この上ない功徳が備わるのである)

 

「永く身心の悩みを離れて楽しみを受くること常に間なし」(浄土論)

(訳:永久に心身の苦悩がなくなり、常に絶え間ない楽しみを受ける)

 

「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて、大般涅槃を証し、普賢の徳に遵うなり」(教行信証)

(訳:阿弥陀仏の本願は苦悩の海を渡す大きな慈悲の船であり、死の解決をしてこの船に乗れば、光り輝く広大な海に浮かぶことができ、この上ない喜びの風が吹いて、すべての不幸の波は消える。すなわち、無明の闇を破り、速やかに極楽浄土へ至って仏の悟りを開き、すべての生物を救おうとする力を得るのである)

 

「ああ、弘誓の強縁は、多生にも値いがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(教行信証)

(訳:ああ、阿弥陀仏の本願は何度生まれ変わってもあい難く、死の解決はどれだけ長い時間を経ても獲難い。もし獲ることができたのなら、遠く過去からの因縁を喜べ)

 

・不退転の位

正定聚は不退転の位です。幸せが退転しない、つまり元に戻ったりしないということです。現代でも使われていますが元は仏語です。無常の幸福は、努力して手に入れても幸せが続かないため、一生涯努力し続ける必要がありますが、一度死の解決をすれば、幸せが退転しないため、2度と努力する必要がありません。苦しみたいと思う人はいませんが、苦しもうと思っても、もう苦しめない境地です。

「即得往生 住不退転」(本願成就文)

(書き下し:即ち往生を得、不退転に住す)

(訳:死の解決をすれば、生きながら往生することができ、不退転の位に至る)

 

「真実信心うるひとは すなわち定聚のかずにいる 不退のくらいにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ」(浄土和讃)

(訳:死の解決をした人は、正定聚となる。それは不退の位であり、煩悩が吹き消された最高の境地に必ず至る)

 

「不退といふは、これ心不退なり」(浄土真要鈔)

(訳:不退というのは、心が不退になるのである)

 

「『往生』というは、あながちに命終の時にあらず、無始已来、輪転六道の妄業、一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生の名願力にほろぼされて、涅槃畢竟の真因はじめてきざすところをさすなり。すなわち、これを『即得往生 住不退転』とときあらわさるるなり」(浄土真要鈔)

(訳:往生は臨終の時ではなく、始めの無い始めからの六道輪廻を生じさせている無数の悪業が、阿弥陀仏に帰依した一念に本願力によって滅されて、涅槃に至る本当の原因が初めて生じるのである。つまり、これを「即得往生 住不退転」と説かれるのである)

ちなみに、悟りの52位中、40位までが退転位であり、少し油断すると崩れてしまう境地です。41位からが不退転位になります。そのため、41位の初地の悟りを初歓喜地ともいいます。

 

・大楽

世間一般でいう楽を小楽といいます。仏教では、「小」という字は崩れやすく、壊れやすい偽物を表します。

一方、死の解決で得られる楽を大楽といいます。仏教では、「大」という字は絶対に崩れない、壊れないことを表します。小楽では安心も満足もできませんが、大楽は大安心、大満足の境地です。

「諸仏は常楽なり、変易あることなきがゆえに大楽と名づく」(教行信証)

(訳:仏の楽は、常に続き変わることがないので大楽という)

 

・大慶喜

慶喜とは歓喜ということです。死の解決をすれば大きな歓喜が生じます。

「獲信見敬大慶喜」(正信偈)

(書き下し:信を獲て見て敬い大いに慶喜す)

(訳:死の解決をして大いに歓喜し阿弥陀仏を心から敬う)

 

・躍り上がる

あまりに大きい喜びなので隠しきれるものではなく、躍り上がるようにして喜びます。

「かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍し、乃至一念すること有らん」(大無量寿経)

(訳:阿弥陀仏の名号を聞き死の解決をすれば、躍り上がるような喜びを得る)

 

・身の毛がよだつ

恐怖のために身の毛がよだつことは多いでしょうが、死の解決は、喜びのために身の毛がよだつ体験です。

「浄土の法門を説くを聞きて、歓喜踊躍し、身の毛いよだつ」(平等覚経)

(訳:死の解決をして、躍り上がり、身の毛がよだつような喜びを得る)

 

・大宇宙の宝を丸貰い

大宇宙の宝を全部獲得したような喜びです。

「帰入功徳大宝海」(正信偈)

(書き下し:功徳の大宝海に帰入す)

(訳:功徳で溢れた大きな宝の海に入る)

 

・瓦礫も金に変わる

幸せな時はすべてが輝き、不幸な時はすべてが暗く感じるように、世界観というのは心で決まります。心が浄土に生まれれば、すべてが金色燦然と光り輝くのです。

「ただよく念ずるひとのみぞ 瓦礫も金と変じける」(帖外和讃)

(訳:ただ死の解決をした人だけが瓦礫も金と変わるのである)

 

・変わり果てる

平清盛の孫ともいわれる弁円は、一大勢力を誇る山伏の頭領として、常陸(現在の茨城県)で布教活動をしていました。

しかし、同じ時期に常陸で親鸞が活躍するようになると、弁円の信者が親鸞の元へ流れていくようになりました。それを妬んだ弁円は親鸞を殺害しようと企て、板敷き山で待ち伏せしたりしますが、ことごとく失敗しました。

やがて、親鸞の家に刀を持って乗り込むまでになりますが、次のように、親鸞に対面するやいなや涙を流して懺悔し、親鸞の弟子になったといいます。

「すなわち尊顔にむかいたてまつるに、害心忽に消滅して、剰後悔の涙禁じがたし。ややしばらくありて、有のままに、日来の宿鬱を述すといえども聖人またおどろける色なし。たちどころに弓箭をきり、刀杖をすて、頭巾をとり、柿衣をあらためて、仏教に帰しつつ終に素懐をとげき。不思議なりし事なり」(御伝鈔)

刀を持って殺しに来た相手を前にしても微動だにしない親鸞の境地も注目に値しますが、親鸞を見ただけで弁円の敵意が消滅してしまったのは不思議なことです。

その後、弁円は名を明法房と改め、熾烈な求道をします。

悪に強ければ善にも強し」といわれますが、弁円はその典型で、すぐに死の解決を果たしました。

ある日、弁円が親鸞と一緒に板敷き山を歩いていた時のことです。弁円は急に涙を流して、その場にうずくまってしまいました。親鸞がどうしたのか尋ねると、弁円は次のような歌を詠みました。

「山も山 道も昔に 変わらねど 変わり果てたる 我が心かな」

板敷き山の道は、今も昔も少しも変わらないが、自分の心は変わり果ててしまったという意味です。師匠である親鸞を殺そうとつけねらっていた当時の自分と、死の解決をした今の自分とでは、あまりに大きな違いであるため、「変わり果てたる」と表現しています。

 

・どんな環境も関係ない

どんな縁がやってこようが苦しむという結果とならない境地(因)ですので、どんな環境下に置かれても関係ありません。

ある寒い冬の日に、親鸞が2人の弟子を連れて巡錫していた時のことです。

途中で猛吹雪に遭い迷ってしまい、やむなく、1つの家を見つけ、泊めてくれるよう頼みました。ところが、その家の主人である日野左衛門は僧侶を嫌っていたため、罵倒し追い払いました。

そこで一行は、門前の石を枕に、雪を褥にして眠ることにしました。凍えるような寒さの中で、親鸞は次のような歌を詠みました。

「寒くとも たもとに入れよ 西の風 弥陀の国より 吹くと思えば」

寒風も阿弥陀仏の浄土から吹く風だと思えば寒くはないではないか、という意味です。

一方、日野左衛門は、その夜、門前で金色に輝く仏が雪に埋もれているという夢をみました。あまりの鮮明さに「もしや」と思い門前に出ると、親鸞が夢で見た通りの姿で横になっていました。日野左衛門は慌てて家に入るよう願い、その場で親鸞の弟子になったといいます。

 

・一人で喜べる

死の解決をした人を見て「何がそんなに楽しいのか」と思うかもしれませんが、死の解決は「一人いて一人喜べる境地」です。

世間的な価値観では、「友達がいたほうが楽しい」とか「家で引きこもっているより外に出たほうがいい」といった具合でしょうが、実はこれは不幸な状態なのです。1人でいるよりも、他の人と一緒にいたほうが楽しいと思うから友人を作ったりするのです。また、家でじっとしているよりも、旅行に行ったりしたほうが楽しいと思うから出かけるのです。これは何か行動しないと幸せを得られない世界であり、善悪の区別がある境地ですので、不完全な苦しみの世界です。

死の解決をすれば、1人でいても常に最高に楽しい境地ですので、わざわざ友人を作ったり旅行に出かけたりといった気にはなりません。たとえば、恋愛が楽しい時は、恋人となら場所を問わずどこへ行っても楽しいでしょう。もっと言えば、一人でいても孤独を感じず楽しいでしょう。無常の幸福でさえ、このような世界に遊ぶことができます。まして絶対の境地です。1人で楽しくないはずがありません。このような境地に出ない限り、人生は孤独地獄で終わります。

 

・仏と一緒

正確には1人ではなく、阿弥陀仏を始め諸仏や冥衆(諸菩薩や諸神)が守って下される世界です。

「南無阿弥陀仏をとなうれば 観音勢至はもろともに 恒沙塵数の菩薩と かげの如くに身にそえり」(浄土和讃)

(訳:死の解決をすれば、観音菩薩や勢至菩薩は、無数の菩薩方と一緒に、影が形にピッタリ随うように、身に寄り添ってくれる)

 

「南無阿弥陀仏をとなうれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して よろこびまもりたまうなり」(浄土和讃)

(訳:死の解決をすれば、大宇宙の無数の諸仏が、百重にも千重にも取り囲んで、喜んで守ってくれる)

 

・迷界もわかる

信前の人間は悟界がわかりませんが、救われた人間は悟界も迷界もわかります。マジックミラーのようなもので、一方からはよくわかるのです。

悟りの1段の違いは、人間と蛆虫ほどの大きな違いがあるといわれています。51段の正定聚と0段の凡夫とでは、天と地ほど境涯に違いがあります。「糞中の穢虫 居を争って 外の清きを知らず」という言葉通りの姿をしているのですが、人間にはそれがわかりません。

 

・一切に感謝できる

無常の幸福でも、手に入れれば幸せを感じ、人に感謝する心が生まれ、皆にも幸せになってほしいという心が生まれます。過去の不幸な体験にさえ、「あの時の苦しみがあったから今の幸せがある」などと感謝できるでしょう。まして、死の解決です。一切に感謝できるようになります。

逆に、死の解決をしなければ、究極の不幸である地獄に堕ちることになるので、最期は一切を恨んで死んでいくことになります。

 

・身に余る

「うれしさを 昔はそでに つつみけり こよいは身にも あまりぬるかな」(御文)

救われる前は、袖に包むような小さな喜びしか感じられませんが、救われれば隠しきれないほどの身に余る喜びで溢れます。

 

・苦しみは遠い昔のこと

出産の苦しみは赤ん坊が産まれた瞬間に消え、また、片思いの苦しみは恋愛が成就した瞬間に消えます。無常の幸福でさえ手に入れれば、それまでの苦しみが吹き飛び、「生きてて良かった」と思い、生まれ変わったかのように感じることがあります。まして、死の解決です。求道の苦しみも雲散霧消してしまいます。

おかるは信前、次のように苦しみを語っていました。

「こうも聞こえにゃ聞かぬがましよ 聞かにゃ苦労はすまいもの 聞かにゃおちるし聞きゃ苦労 今の苦労が先での楽と 気休め言えど気は済まぬ 済まぬ心をすましにかかりゃ 雑修自力とすてられる どこに御慈悲があるのやら どうで他力になれぬ身は まこと聞くのが お前はいやか 何が望みで あるぞいな」

「ないないないで何にもない ない中あるのが地獄だね ないないぞろえで申します 真の行者もないものよ 真の知識もないものよ 後生大事の人もない それで地獄へゆく気もない 驚く心もちょっともない 聞いても聞いてもわからない いやな心がなおらない これが凡夫と知られない そのまま来いよが聞こえない 称うる心の苦が抜けない 楽な念仏申されない 真暗がりのようでもない そうだがお慈悲が喜べない なりたい心が捨たらない 疑い晴れねば是非もない 晴らそうにかかって晴れられない 晴らしてやるがもらえない 夜明けに向うたようでもない 聞かずにいては気が済まない 聞いてもさっぱり聞こえない わかったようでわからない 困ったようで困らない まんざら捨ててもおかれない 落とさぬお慈悲を受けつけない 無理に心もおちつかない 泣くほど困ったようでもない それゆえ御座へも出る気がない 親に孝行する気がない 子供を憐れむ心もない 祖師の掟も守れない 目上の人には聞かれない 目下の者には聞く気がない なんともかんとも仕方がない」

それが信後には次のように一変しています。

「自力さらばとひまやり わたしが胸とは 手たたきで たった一声聞いて見りゃ この一声が千人力 四の五の言うたは昔のことよ 何にも言わぬがこっちの儲け そのまま来いよの お勅命 いかなるおかるも頭が下がる」

「何事も 昔になりて 今ははや 南無阿弥陀仏を となうばかりに」とも詠んでいます。

死の解決は、どれだけ苦しい思いをしてでも求めるだけの価値があるのです。

 

・寿命が延びる

あくまでオマケですが、様々な現世利益もついてきます。

たとえば、寿命が延びるということもあります。心と肉体は密接不二の関係があり、心が健康になれば肉体にも良い影響を与えます。死の解決をして心に歓喜が多くなれば、結果として肉体の寿命も延びるということがあるのです。

「南無阿弥陀仏をとなうれば この世の利益きわもなし 流転輪回の罪消えて 定業中夭除こりぬ」(浄土和讃)

(訳:死の解決をすれば、この世の利益は極まりがない。輪廻の罪が消えて、生まれつき定まっている寿命や若死にといったことがなくなり、寿命が延びる)

 

「阿弥陀如来来化して 息災延命のためにとて 金光明の寿量品 ときおきたまえるみのりなり」(浄土和讃)

(訳:阿弥陀仏が現れ、災難を防ぎ長生きさせるために、金光明経の寿量品を説き、阿弥陀仏が現世利益を与える仏であることを教えている)

聖道門と浄土門とで、指導者の寿命に大きな差が出ている点も注目に値します。

 

[聖道門]

道元54歳

伝教56歳

日蓮61歳

弘法63歳

 

[浄土門]

法然80歳

覚如82歳

蓮如85歳

親鸞90歳

 

・比較にならない

死の解決と世間一般の幸福とは、とにかく比較になりません。

「極楽と彼の三界と何如んぞやと 新往化生倶に報へんと欲すれども 合掌悲咽して言ふこと能はず」(般舟讃)

(訳:「極楽と、かの三界とはどのようであるか」と新しく往生した者は皆答えようと思うが、合掌しながらむせび泣いて言うことができない)

 

・楽から楽へ

大無量寿経には、「善人は善を行じて、楽より楽に入り明より明に入る」という言葉もありますが、救われた人は、この世の極楽から死後の極楽への旅となります。

一方、死の解決をしていない人は、この世の地獄から死後の地獄への綱渡りです。

「悪人は悪を行じて、苦より苦に入り冥より冥に入る」(大無量寿経)

(訳:悪人は悪を造り、この世の苦しい闇の世界から、未来の地獄へと、苦から苦への綱渡りとなり沈んでいく)

 

〇すべての恐怖が消える

死の解決をすれば、死の恐怖を始めとした一切の恐怖がなくなります。華厳経には、次の5つの恐怖が消えると説かれています。

「歓喜地を得れば、あらゆる怖畏は、即ち皆遠離す。いわゆる不活の畏、悪名の畏、死の畏、悪道に堕する畏、大衆威徳の畏なり。是くの如き等の一切諸々の畏を離る」(華厳経)

(訳:死の解決をすれば、不活の畏、悪名の畏れ、死の畏れ、悪道に堕する畏れ、大衆威徳の畏れといったものなど、あらゆる恐怖が消える)

・不活の畏れなし

人間には無数の生活上の不安がありますが、それらの不安は死から生じており、死の解決をすることで一切の生活の不安が消え去ります。

 

・悪名の畏れなし

悪口を言われることへの恐怖がなくなります。

 

・悪道に堕する畏れなし

悪い世界へ行くのではないかという恐怖がなくなります。

悪いことをしたら悪い結果を受けるというのが悪因悪果の法則ですが、人間は大なり小なり、悪因悪果を理屈抜きで魂が感じています。そして、臨終にはこの上ない恐怖に襲われることになります。死の解決は、「死後は極楽浄土間違いなし」という境地であり、この恐怖は消えます。

 

・大衆威徳の畏れなし

大衆というのは威圧感がありますが、どれほどの大衆を前にしても恐怖はありません。

 

・死の畏れなし

人間にとって一番恐ろしい、死の恐怖がなくなります。

そのことがわかる話をいくつか紹介しましょう。

文明六年3月28日に吉崎御坊が火事になったことがありました。蓮如は退避することができましたが、大変なことに気づきます。親鸞真筆の証巻を残してしまったのです。

歯ぎしりする思いで見つめていると、本向坊了顕という人が前に進み出ました。

「私が取ってまいりましょう」

こう言うと了顕は燃え盛る火の中に飛び込んでいきました。やっとのことで証巻を見つけ戻ろうとしますが、火が広がって出られなくなっていました。すると何を思ったのか、了顕はその場にどっかりと座りました。そして腹を十字に掻き切って腸をつかみ出し、証巻をその中へ押し込めうつ伏せになりました。

しばらくして火が収まり、焼け跡を探してみると、焼け焦げた死骸が横たわっていました。了顕でした。仰向けにしてみると、腹の中に証巻がありました。その場にいた人々はその姿を見て泣いたといいます。

この証巻は、今日、「腹籠りの聖教」とか「血染めの聖教」などといわれています。

本光坊了顕の行為は死の解決をしていない人から見れば凄まじいばかりの行為ですが、死の解決をした人の目から見ればごく自然です。「偉い人だ」とは思わず、「幸せな人だ」と思います。

庄松が、たくさんの同行と京都の本山へ参詣した時のことです。帰りの船で播磨灘にかかった時、思いがけない暴風雨となり、船は木の葉の如く浮きつ沈みつ、今や海の藻屑とならんとする勢いでした。日頃の信心はどこへやら、人々は上を下への大混乱となりました。

そんな中で、船底で鼾をあげて寝ている人がいました。庄松でした。

「庄松起きんか!こんなときに何寝てんだ!大胆にもほどがある!」

同行が揺すり起こすと、庄松は眠い目をこすりながら一言、言いました。

「何だ、まだ娑婆か」

「死んで極楽だと思っていたけど、まだ死んでなかったのか」ということですが、これも死の解決の境地がわかるエピソードです。

もう1人紹介しましょう。

太平洋戦争を指揮した東条英機は、「カミソリ東条」の異名を持ち、「首相」「陸相」「内相」を兼ね、後に「軍需相」「参謀総長」まで兼ねた大変な権力者でした。

しかし、周知の通り、A級戦犯として軍事裁判にかけられ死刑判決を受けました。権力の頂点から死刑囚です。逮捕される直前には拳銃で自殺を図ってもいます。その理由について東条は、「捕虜となるな、死を選べ、と戦陣訓を教えていたので、自らそれを実行したまで」と語っていますが、その自決に失敗したのです。

 自殺未遂直後の東条

不幸のどん底にいた東条にとって幸運だったのは、拘置所内で仏教と出遇ったことでした。教誨師だった花山信勝によれば、戦犯たちの中で、東条は最も熱心に法話を聞き、身動き1つしなかったといいます。

東条ははじめ「極重悪人ということも、はじめは何とも感じなかったですね」と言っていましたが、やがて「私のような人間は、愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ」「私の如き、最も極重悪人ですよ」と言うようになりました。

また、東条は、家族に対する遺言の中で、「誠に健康で、気分も爽快である。刑の執行の1日も早からむことを願う。朝夕ともに、仏とともに起き伏ししておる」と書いています。

そして刑が執行されますが、絞首台に登る7分前に、東条は数種の辞世の句を詠んでいます。

 

・今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ

・日も月も 蛍の光 さながらに 行く手に弥陀の 光かがやく

・さらばなり 有為の奥山 今日越えて 弥陀のみもとに 行くぞうれしき

・明日よりは 誰にはばかる ところなく 弥陀のみもとで のびのびと寝む

 

いずれも非常に明るい句です。

このような句を詠んで東条は十三階段(絞首台の異名)を上がっていきました。十三階段は、凶悪犯も腰が抜けて自力で上れないといわれるほど恐ろしいものですが、それを東条は駆け足で上がったといいます。

そして首を吊られることになりますが、すぐに死ぬわけではありません。息が絶えるまで時間があります。それまで東条は念仏を称えていたといいます。

少なくとも、このような境地にならなければ死を解決したとはいえません。一連の言動を見るに、おそらく東条は拘置所内で死の解決をしたのではないでしょうか。

ちなみに東条は死の直前、自分の子供に向けて、次のように無常観と罪悪観をよく見つめ、阿弥陀仏に向かうよう伝言しています。

「早晩、人間は無常で死んでいくものだということを考えること」

「自分の姿をしっかりと見つめよということは、『極悪人』なりということを、自分の醜い姿をしっかり見つめよということ」

「嬉しい時に、南無阿弥陀仏というように手を合わすようにしろ」

また、「真っ先に政治家が大無量寿経などを読んで深く考えなければならん」とも言い、次のようにも言っています。

「首、切られるときはお聖教も正信偈もいらない。ただ、南無阿弥陀仏だけになってしまう。切羽詰まってくると、ただ南無阿弥陀仏以外にない。人間は生死を超えなければいかんですねえ」

 

〇煩悩を消さずに救われる

死の解決をしても、煩悩は減りもしなければ増えもしません。

・煩悩即菩提

死の解決は、正確には苦が無くなるのではなく、煩悩(苦)が即、菩提(楽)に転じ変わる境地です。「即」は同時即ともいい、時も隔てず、場所も隔てず、時間の極まりを意味します。煩悩があるがまま菩提となる境地であり、苦しんだまんまが喜びという世界です。たとえば、ナイフが刺されば痛みを感じますが、それが障りとならないため、結果として痛みが無いのと等しいということです。

 

・煩悩が出るほど喜びとなる

煩悩即菩提の境地となれば、煩悩が喜びのもととなります。信前は煩悩によって苦しめられますが、信後は煩悩が障りとならず、煩悩が出るほど喜びも増えるのです。

「罪障功徳の体となる 氷と水の如くにて 氷多きに水多し 障り多きに徳多し」(高僧和讃)

(訳:罪や障りが喜びのもとになる。氷が多ければ水も多いように、障りが多ければ喜びも多い)

「渋柿の 渋がそのまま 甘みかな」という古歌があります。柿は、渋みがそのまま甘みへと転じ、渋みが多いほど甘みも多くなります。同じように、死の解決の境地は苦が楽に転じ、苦が多いほど楽も多くなります。渋柿のたとえでは、渋みが甘みに転じるまでに時間がかかりますが、この境地は即であり時間がかかりません。

 「4.2 正しい努力」のところでも、苦しみが多いほど楽しみもまた多いことは説明しました。このように人間は苦が楽に転じ変わることを誰でも体験しています。この境地は一時的で不完全な境地ですが、死の解決をした煩悩即菩提の境地は完全です。

 

・苦が欲しいということではない

苦が多いほど楽が多いからといって、積極的に苦が欲しくなるということではありません。たとえば、ナイフで自傷しようと思うかというとそうではないのです。苦が無くても最上の幸せです。

 

・苦も楽も無い

もっと言えば、苦でも楽でもどちらでもいいという境地であり、苦や楽といった概念さえ無い世界です。

「無苦・無楽をすなわち大楽と名づく。涅槃の性は無苦・無楽なり。このゆえに名づけて大楽とす」(教行信証)

(訳:苦も楽も無いことを大楽という。涅槃には苦も楽も無いので、涅槃を大楽という)

無常の幸福は、有無同然であり有っても無くても苦しみですが、この境地は有っても無くても幸せという、まったく逆の意味の有無同然に変わります。「何にも無かったなー」と言って喜べる世界です。

 

・数珠

数珠は、多くの小さい珠が一本の糸でつながれていますが、これは死の解決をして煩悩が整えられた状態を表しています。小さい珠は、煩悩の数である108個が正式なものですが、それだと長く重くなって邪魔になるため簡略化されています。

 

・肉食妻帯

「肉を食い妻を持つ」ということですが、肉食妻帯といえば親鸞、親鸞といえば肉食妻帯というぐらい、親鸞を語る上で有名な話です。

当時の仏教界では、性を破ることは最も罵倒されるようなことであり、殺人よりも重い罪とされていましたが、それを親鸞は破りました。実際は皆隠れてやっており、「せぬは仏、かくすは上人」といわれていたのですが、親鸞は公然とやったため激しく非難されたのです。なぜ公然とやったのかというと、煩悩にまみれた情けない人間、悪を造る情けない人間でも救われる道があるということを示すためです。

 

・涅槃

涅槃とは、サンスクリット語のニルヴァーナに漢字をあてたもので、中国語で入滅、日本語では「煩悩が吹き消された安らぎの世界」を意味し、仏の死をいいます。

涅槃には2種類あります。1つは「有為の涅槃」で、これは煩悩があり常楽我浄の徳が備わっていません。有為は有漏ともいい、煩悩が漏れ出た状態をいいます。もう1つは「無為の涅槃」で、これは煩悩がなく常楽我浄の徳が備わっています。

釈迦は35歳で仏の悟りを開いて有為の涅槃に入り、80歳で入滅するまでの45年間を有為の仏として生き、その後、無為の涅槃に入ったということです。

 

・死の解決をしても迷うことがある

救われても煩悩があるので迷うことがあります。

たとえば、苦しんでいる人を見たり聞いたりした時に、すぐにその場に助けに行って、食物や金といった名利を与えたくなるという具合です。なぜこのような行為が迷い心かというと、最高の利他が開顕であるということを知っているにもかかわらず、それ以下の利他である名利を与えようとしているからです。これは利他心が強すぎるあまり、迷い心が生じた例といえます。

親鸞にも、浄土三部経を1000回読もうとし、途中で誤りに気づいてやめたというエピソードが伝わっています。経典を読誦しても人を救えないことは当然知っていたはずですが、当時の仏教界では常識だったので、伝統的な因習に惹かれてしまったのです。 

他にも、死者供養の気持ちがあるなど、迷い心は死の解決をしてもあるのです。

 

〇罪悪が消える

これまで造った膨大な罪悪はすべて消えます。

・業報は受ける

仏でも因果の法則には従わなければなりません。

「仏の三不能」といって、仏でも捻じ曲げることができない3つの真理があると説かれますが、因果の法則はその1つです。ですので、死の解決をしても罪悪が消えることはなく、罪悪の結果(業報)は受けなければなりません。

 

・業報を感じない

しかし、業報を受けてもそれを喜びに転じることができます。ですので、業報を悪果と感じず、結果として悪果を受けないのと等しいことになります。

「念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなき故に、無碍の一道なり」(歎異抄)

(訳:死の解決は、何も妨げとなるものがない絶対の世界である。その理由は、死の解決をした人はすべての神々が敬って平伏し、どんな悪魔や外道も妨げることはないからであり、どんな罪悪も業の報いを感じさせることができず、どんな善もこの境地に及ばないからである)

 

「一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり。命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり」(御一代記聞書)

(訳:死の解決をすると罪悪がすべて消えるというのは、他力の信心の力によって往生が定まった時は罪悪が妨げとならないので、罪悪が無いのと等しいという意味である。しかし、この世に命がある限りは、罪悪は尽きないのである)

 

泥棒の耳四郎は、深い業を持っていたために、信後も泥棒が止みませんでしたが、それを聞いた師の法然は、「そうか、そんなやつは極楽に放り投げておけ!」と言ったといいます。

死の解決は、平生業成ともいい、平生(生きている時)に業事成弁(往生)するということですが、このような境地に出て初めて真に自由の身となれるのです。

 

・罪悪があるほど喜びも多い

悪果と感じないどころか喜びの種となるので、罪悪が多ければ多いほど喜びも多くなります。

浅原才市は、「こら阿弥陀 助けたいなら 助けさそ 罪は渡さぬ 喜びのもと」と詠みました。

 

・罪悪を造ろうとは思わない

だからといって、積極的に罪悪を造ろうと思うわけではありません。たとえば、罪悪が多いほど喜びも多いから、積極的に人を殺したくなるのかというとそういうことではないのです。

 

・善悪に関係ない

死の解決は善も欲しからず、悪も恐れずという境地で、善悪に関係なく喜べる境地です。

「されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、偏に本願をたのみまいらすればこそ他力にては候へ」(歎異抄)

(訳:善であろうと悪であろうと因果の法則にまかせて、ただ阿弥陀仏の本願力の働きに身をまかせるからこそ他力なのである)

 

〇信心決定

「しんじんけつじょう」と読みます。

軟弱な自力信心から、どんなことがあっても崩れない、壊れない他力信心へと定まってしまいます。

「信心のさだまると申すは、摂取にあずかる時にて候うなり」(末灯鈔)

(訳:阿弥陀仏に救われて死の解決をした時に、信心が定まるのである)

・金剛心

他力信心のことを金剛心ともいいます。金剛とは仏教用語で、絶対に崩れない、壊れないという意味です。

「信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと、金剛の如くなるが故に、金剛の信心と言うなり」(唯信鈔文意)

(訳:信心が破れず、傾かず、乱れないこと、金剛のようであるので金剛の信心と言うのである)

ダイヤモンドのことを金剛石といいますが、ダイヤモンドは非常に硬いためにこう名づけられています。

無常の幸福も、一見するとダイヤモンドのようにキラキラ輝いて見えます。だから人間は惹かれてしまいますが、第2巻でも説明したように、実体はすぐ壊れてしまう、いわばガラスのような幸せです。

 

・どんな非難を受けても変わらない

他力金剛心は、どんな非難を受けようが微動だにしません。

「如何なる人来りて言い妨ぐとも、少しも変わらざる心を金剛心という」(後世物語聞書)

(訳:どんな人がやって来て言い妨げようとも、少しも変わらない心を金剛心というのである)

観経疏には、「四重の破人」といって、次の4通りの人から非難されても微動だにしない境地であると説かれています。

1.智者や学者

2.初地以下の聖者

3.初地以上、十地以下の菩薩

4.仏

死の解決をした人を仏が非難することはあり得ませんが、そのように仮定したとしても微動だにしない境地であるということです。

 

・死が来ても崩れない

無常の幸福を得ることで生まれる自信は、死ぬ時にすべて崩れるため、自惚れであり偽の自信です。それに対して金剛心は、死が来ても崩れない本物の自信です。

 

〇絶対平等

理屈では「差別してはいけない」と誰もが言いますが、本心ではそれがいかに困難なことであるかは第5巻で見た通りです。これが自力信心の限界です。

一方、他力信心は一味平等の世界であり、一切の差別がありません。自力信心は、1人1人が違うため、1人1人違う信心になりますが、他力信心は、阿弥陀仏から賜る信心であるため、すべての人が同じ信心になります。

たとえるなら、どんな財布であっても、中身である金の価値に違いはないようなものです。高級な財布であろうが、ボロボロの財布であろうが、1万円が入っていれば同じ1万円の価値があります。1万円札は他力信心、財布は私たち1人1人のことをたとえています。釈迦のような優れた人(高級な財布)であろうと、私のような劣った人(ボロボロの財布)であろうと、阿弥陀仏から賜った他力信心の価値に違いはないのです。

正信偈には、「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味」と説かれています。「凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば、衆水の海に入りて一味なるが如し」と読みます。

凡は凡夫、聖は聖人、逆は逆罪を造っている人、謗は謗法罪を造っている人を指します。つまり、「凡・聖・逆・謗」で「すべての人」を意味します。

衆水とは、「いろいろな水」という意味です。すべての川は1つの海に通じており、どんな川であっても海の中に入れば同じ水となります。そのように、どんな人も阿弥陀仏に救われれば同じ喜びの身にさせて頂き、一味平等の世界に遊ぶことができるということです。

親鸞の三大法論の1つに「信心一異の法論」があります。

事の発端は、親鸞が「私の信心と法然上人の御信心とは、まったく同じで変わるところはありません。一味平等であります」と言ったところから始まります。

それを兄弟子である、聖信房、勢観房、念仏房の3人が聞いていました。この3人は、法然門下三百八十余人の中でも上足に数えられるほどの人たちです。3人は親鸞の言葉を聞いて非難しました。

「勢至菩薩の化身であらせられる法然上人の御信心と、我々のような者の信心が同じであるはずがないではないか」

それに対して親鸞は、こう反論しました。

「知恵や才覚、学問や徳が法然上人と一緒だと言っているわけではありません。阿弥陀仏から賜った他力信心が一緒だと言っているのです」

どちらも頑として譲らなかったため、先生である法然に裁断を仰ぐことになりました。すっかり3人は褒めてもらえるとばかり思っていましたが、法然は次のようにハッキリと言いました。

「信心のかわると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。我が賢くて信ずるにあらず。信心のかわりおうておわしまさん人々は、わがまいらん浄土へはよもまいらせたまわじ。よくよく心得らるべきことなり」(御伝鈔)

(訳:信心が変わるのは、自力の信心だからである。智恵や才覚が一人一人異なるために、信心も変わるのである。他力の信心は、人間の善し悪しに関係なく、阿弥陀仏から賜る信心なので、法然の信心も親鸞の信心も少しも変わらず、まったく同一の信心である。法然が賢いから賜わったのではない。異なる信心の人は、自力の信心であるので、法然が行く極楽浄土へは絶対に行けない。よくよく心得るべきである)

信心は人間にとって命です。自分が善知識と尊敬する先生からこのように間違いだと言われたのですから、彼らは地獄に堕ちたような衝撃を受けたことでしょう。

信心決定は100人いれば100人同じ体験をします。そうであることは、2500年前のインドで書かれた聖教であろうと、現代の日本で書かれた聖教であろうと、聖教に食い違いがないことからも知ることができます。相対智の人間が、時代や場所に関係なく同じことを言っているのです。

 

・一人がための本願

死の解決の境地を一子地ともいいます。

「すべての衆生を一人子のように愛する心を持つ境地」という意味です。

「平等心をうるときを 一子地となづけたり 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし」(浄土和讃)

(訳:死の解決をして一切を平等に見る心を得る時を、一子地と名づけるのである。一子地は仏心であり、死の解決をして悟る心である)

阿弥陀仏の慈悲は平等に心がかかっているといわれますが、そのような味わいは頭だけの理屈の話しであり他人事であって、まだ体験的理解をしていません。救われれば、自分1人のために思いがかかっていると味わわざるを得ません。

たとえるなら、兄弟の中で1番の不良息子が、親の力で窮地を脱し、親の愛を知り改心するようなものです。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄)

(訳:阿弥陀仏が五劫もの間、深く考えられた本願をよくよく考えめぐらせば、偏に親鸞ただ一人のためのものであった)

 

「もし生まれずばとまで言われる、その若しは、私のためでありましたか」(おその)

法然は、阿弥陀仏が法蔵菩薩だった時のご苦労話を読むと、いつも涙を流していたといいます。「この十悪の法然を助けるために法蔵菩薩はご苦労なされたのかと思うと、涙を流さずにはおれない」と言うのです。本願が血肉となっていなければ泣けるようなものではなく、単なる物語や絵空事のようになってしまいます。鬼の本性を持った人間が、阿弥陀仏の念いに触れれば必ず涙を流します。

ある僧侶が庄松に「大無量寿経を読んでみよ」と言いました。庄松が文字を読めないことを知っていて、彼を辱めようとしたのです。すると庄松は、「庄松助くるぞ、庄松助くるぞ」と延々と言ったといいます。

 

〇仏凡一体

仏心(仏の心)と凡心(凡夫の心)が一体となった状態を仏凡一体といいます。死の解決をすることで、仏凡一体の身となります。

「行者の悪き心を如来のよき御心と同じものになしたまふなり。このいはれをもって仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり」(御文)

(訳:阿弥陀仏の本願力は、人間の悪い心を仏の良い心と同じものにさせる。こういうことなので、仏心と凡心が一体になるというのである)

・合体とは違う

一体とは、合体とは違い分離することができません。たとえば、合体とはサンドウィッチのようなもので、パンと具を分離することができます。一体は炭についた火のようなもので、炭と火を分離することはできません。

このように、仏凡一体とは慈悲の欠片もない冷たい凡夫の心と、仏の温かい心が一体となり、分離できない状態となります。

「仏心は我等を愍念したまうこと骨髄にとおりて、染みつきたまえり。たとえば、火の炭に、おこり着きたるがごとし。離たんとするとも離るべからず。摂取の心光、我等を照らして、身より髄に徹る。心は三毒煩悩の心までも仏の功徳の染み着かぬところはなし」(安心決定鈔)

(訳:仏心は骨の髄まで徹底して染みつく。たとえば、炭に火がついたようなもので、炭と火を別々にしようと思ってもできない。煩悩に至るまで仏心の功徳が染みつくのである)

 

・阿弥陀仏と一体

仏凡一体は、弥陀同体ともいいます。

心に阿弥陀仏が生じるということであり、阿弥陀仏と一体になるということです。至徳具足の益ともいいます。至徳とは南無阿弥陀仏のことです。

「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」(西方指南抄)

 

「才市臨終すんで 葬式すんで 南無阿弥陀仏と此世にはいる 才市は阿弥陀なり 阿弥陀は才市なり」(浅原才市)

 

「頭叩いても南無阿弥陀仏、手を叩いても南無阿弥陀仏、足を叩いても南無阿弥陀仏、お尻叩いても南無阿弥陀仏、座った姿も南無阿弥陀仏なら立った姿も南無阿弥陀仏、歩く姿も南無阿弥陀仏、本願や行者、行者や本願」(おかる)

ある時、一休が虫干会にやってきました。虫干しとは、カビや虫の害を防ぐために、本尊や聖教などを日に干したり風にあてたりすることです。

「わしの一切経も、だいぶ汗をかいたから風をあてよう」

こう言って一休は寝そべりました。

それを見つけた寺の者が「こんなところで寝られると迷惑です」と言うと、一休は「生きた一切経だから虫干してるのだ」と答えたといいます。

一休が「生きた一切経」であるかどうかは別として、仏凡一体の境地を上手く表現しています。

 

・心では常に念仏している

死の解決をすれば、たとえ口で念仏を称えなくとも、心では常に念仏を称えています。

「この信心おこりぬる上は、口業には、たとひ時々念仏すとも常念仏の衆生にてあるべきなり」(安心決定鈔)

(訳:死の解決をして他力の信心を賜わった人は、たとえ口では時々念仏したとしても、心では常に絶え間なく念仏しているのである)

 

「かくの如く決定しての上には、寝ても覚めても、命のあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」(御文)

(訳:死の解決をした上には、寝ても覚めても、命のある限り称名念仏するものである)

御恩報謝の念仏です。

「諸々の雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまう。そのくらいを『一念発起・入正定之聚』とも釈し、その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし、御恩報尽の念仏と、心得べきなり」(御文)

(訳:諸々の雑行を捨てて、一心に阿弥陀仏を信ずれば、不思議な本願力が働き、極楽浄土へ往生させて頂ける。その位を「一念発起 入正定之聚」といい、その上の称名念仏は恩返しの念仏なのである)

他力念仏は、自分が称えているのではなく、阿弥陀仏から称えさせられる念仏です。明治時代の僧侶、原口針水は「われとなえ われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親のよび声」と詠みました。

 

〇絶対信順

露塵の疑いもなく信じ切ることができます。

・阿弥陀仏に対して

信前は阿弥陀仏に対する疑いがあるために救われませんが、信後は疑いが晴れ救われます。

「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて」(改邪鈔)

(訳:苦悩の輪廻の根源である疑情が、他力の信心が開く一念に破れる)

 

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」(教行信証)

(訳:阿弥陀仏の本願は誠であった。すべての生き物を決して捨てず救い取ろうという真実の言葉、常識を遥かに超えた稀有な正法、そのままの意味に受け取り自分の考えを入れてはならない)

不幸がやってくると救い主を疑い否定してしまう信仰は偽物です。

キリストはゴルゴタの丘で十字架にかけられた時、「わが神、わが神、なんぞわれを見捨てたまいし」と言いました。

孔子は弟子の顔回を失った時、「ああ、天、われをほろぼせり、天、われをほろぼせり」と言いました。

天台宗の僧侶、瀬戸内寂聴は、腰部の圧迫骨折で入院した時の苦しみを次のように語っています。

「病気の間は、こんなに仏様をおまつりして皆さんにお話ししているのに、こんな痛い病気になって、神も仏もあるものかと思っていました。今度、もし生きて皆さんにお会いできたら、仏様なんかないですよと言ってやろうかと思っていたんです」

「痛くてお経を唱える余裕もなかったんです。コロリと死ねると思っていたのに、こんな痛い目に遭わされて、仏様って本当にあるのかしらとだんだん腹がたってきたんですよ」

このように人間の自力信心というのは、この世の相対的な苦しみにさえ耐えることができません。

一方、他力信心は、たとえ絶対の苦しみである無間地獄の苦しみを受けたとしても、救い主に対して疑いがでない境地です。

 

・善知識に対して

普通の感覚からすれば騙されれば怒るものですが、この境地は、善知識になら騙されて、たとえ地獄に堕ちたとしても決して後悔しないという信じ方です。

「たとひ、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」(歎異抄)

(訳:たとえ法然上人に騙されて、念仏したために地獄に堕ちようとも、決して後悔しない)

裏を返せば、100%裏切らないと信じているということです。このような信じ方ができる人がいないということは、絶対信順できる善知識がいないということであり、死の解決をしていない、つまり死後は地獄ということですので、実に不幸なことなのです。

 

・因果の法則に対して

人間は、愚痴の煩悩があるため、因果の法則を深く信ずることができませんが、死の解決をすることで、因果の法則を露塵の疑いなく信ずることができます。これを深信因果といいます。

 

〇不思議

「不思議」という言葉は、元は仏教用語で、人間の理解や想像を超越しているという意味です。阿弥陀仏の光明は、想像が及ばない光明であるため、阿弥陀仏のことを不可思議光仏ともいいますが、阿弥陀仏の本願力によって救われるということは、実に不思議なことです。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をば遂ぐるなり」(歎異抄)

(訳:阿弥陀仏の不思議な力に助けられて、極楽浄土に往生できるのである)

 

「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」(正像末和讃)

(訳:五濁の悪い時代の人間であっても、阿弥陀仏の本願を信じ死の解決をすれば、言葉で説くことも想像することもできない喜びが、その人の身に満ち溢れる)

 

・最も不思議なこと

この世には様々な不思議なことがあり、たとえば、智度論の中には、次のように「五つの不思議」と呼ばれるものが説かれています。

衆生多少不思議:多くの生物が尽きない不思議

業力不思議:善悪の果報が計りの如く正確にあらわれる不思議

龍力不思議:気象の不思議

禅定力不思議:信心決定した人が長い寿命を保ったり神通力を示す不思議

仏法力不思議:本願力によって凡夫が仏になる不思議

中でも、仏法力不思議ほど不思議なことはありません。

「五つの不思議を説く中に 仏法不思議にしくぞなき 仏法不思議ということは 弥陀の弘誓になづけたり」(高僧和讃)

(訳:五つの不思議の中で、仏法力不思議に及ぶものはない。仏法力不思議とは、死の解決に救われることである)

 

「『あそばされ候う御名号、焼け申し候うが、六体の仏になり申し候う。不思議なること』と、申され候えば、前々住上人(蓮如)、その時、仰せられ候う。『それは、不思議にてもなきなり。仏の、仏に御なり候うは、不思議にてもなく候う。悪凡夫の、弥陀をたのむ一念にて、仏になるこそ不思議よ』」(御一代記聞書)

(訳:「蓮如上人が書かれた六字の名号が、火事で焼けた時に、六体の仏になり天空高く舞い上がって行きました。何と不思議なことなのでしょうか」と申し上げたところ、蓮如上人は「それは不思議なことではない。六字の名号自体が仏であり、仏が仏になっただけで、何が不思議なのか。罪悪の塊である凡夫が、阿弥陀仏の他力によって仏にさせて頂けることこそ本当の不思議というものだ」と言いました)

 

・欠点はない

死の解決は、欠点が一切ない絶対の幸福ですが、相対智の人間はどうしても欠点のある不完全な幸福を想像しようとします。「死の解決をしても、どうせ〇〇はできないんでしょ?」といった具合に、大した幸せではないと言わんばかりに自分の価値観に合わせた幸福を想像します。それでは、人間の願いをすべて満たしていることにはなりません。人間が想像するような欠点は一切ないということを知るべきです。

ちなみに、相対智の人間が作った宗教、つまり仏教以外の宗教が説く幸福は、どうしても相対的で不完全で欠点のある幸福になります。それしか想像できないのです。仏教が説く絶対の幸福の境地と比較すれば、その欠点がわかるはずです。