釈迦のような宿善がある天才でも血のにじむ努力をしました。まして、われわれ凡人は努力するしかありません。

〇努力の必要性

〇行学

〇継続は力なり

〇苦に立ちむかう

〇どのくらい努力すればいいか

〇どのくらい真剣になればいいか

〇求道を諦める人へ

 

〇努力の必要性

浄土門他力の道であっても、自分の力で求めようと努力する、自力の心がけが必要です。

・自己に勝つのは難しい

自己を知るには、自己に勝つ必要がありますが、それは非常に難しいことです。見えないのでわかりづらいですが、自己との闘いは激しい闘争です。

「山中の賊を破るのは易く、心中の賊を破るのは難し」(与楊仕徳薛尚誠書)

 

「自らに勝つことこそ、最も難しい勝利」(アリストテレス/哲学者)

 

「自己に打ち勝つことは勝利のうちで最大のものである」(プラトン/哲学者)

 

「運動のほうがなじみ深いし、男らしい。何かをしているという実感がある。ところが、静かに瞑想するのには、ある人の言葉によれば『女々しい感じ』がある。瞑想は、外からは何もしていないように見える。しかし、本当は瞑想とは力強い行動的なプロセスなのである」(ディーン・オーニッシュ/カリフォルニア大学サンフランシスコ校医学部教授)

 

「『気づき』を促すためであれば、時に大きく感情を揺るがすような攻撃的言動も辞さないほどの姿勢が取られ、まさしく壮絶な苦闘が繰り広げられることもしばしば見られる。『気づき』という契機は、それほどの努力をもってして、ようやく得られる困難な過程であり、またそれほどの努力をしてでも手にするべき、重大なものであるともいえるだろう」(安藤治/精神科医/花園大学教授)

 

求道は自己との戦いの連続です。内側からは煩悩が逆巻き、外側からは迷った大衆が圧力をかけてきますが、それらに勝ち続ける必要があります。二河白道の通りです。最終的には、地獄に飛び込む覚悟が要求されますが、こんなに恐ろしく勇気がいることはありません。

 

・煩悩は闘うもの

「理性は羅針であり、欲望は嵐である」(ポープ/詩人)

「欲望は理性に支配されるべきである」(キケロ/哲学者)

 

煩悩は付き合うものではなく闘うものです。死の解決をした後は煩悩が邪魔になりませんが、信前は煩悩が邪魔になるため闘う必要があります。闘っても消すことはできませんが、信前でも多少はコントロールできるようになり、惑わされにくくなります。四弘誓願には「煩悩無数誓願断」とあり、これは簡単に言えば、「規則正しい生活をする」という誓いです。

 

・努力しないのは無力

「他力なのだから何もしなくてもいい」と誤解する人がいますが、これは無力の状態であり、これでは他力が働きません。他力が働くには、一生懸命自力で求める必要があります。一生懸命自力で求め、自力無効と知らされた時に他力が働きます。どんなに優れた薬があっても、本人が飲もうと努力しなければ意味がないのです。

「自力にて往生せんと思うは、闇夜に、わが眼の力にて、物を見んと思わんがごとし。更に叶うべからず。日輪の光を我が眼に受け取りて所縁の境を照らしみる、これ、しかしながら日輪の力なり。ただし、日の照らす因ありとも、生盲の者は見るべからず、また、眼開きたる縁ありとも、闇夜には見るべからず。日と眼と、因縁和合して物を見るがごとし」(安心決定鈔)

(訳:自力で往生しようと思うのは、闇夜に自分の目で物を見ようと思うようなものであって、それは不可能である。日の光を自分の目に受け取って物を見ることができるのであるが、これは光の力である。しかし、光が照らすという因があっても、盲目の人は見ることができない。また、目が見えるという縁があっても闇夜には見ることができない。日の光と目、因と縁が結びついて初めて物が見えるのである)

 

「こうした研究結果から明らかになったのは、あなたが悟りを求めているなら、自分の通常のものの考え方や現実の体験の仕方を積極的に阻害することで、自ら意図的に悟りを求めていかなければならないということだ」(アンドリュー・ニューバーグ/神経科学者/トーマス・ジェファーソン大学医学部教授)

 

自己を知るというのはこれほど難しいことですが、現代の仏教は「簡単に悟りを開ける」という主張で溢れてしまっています。

「大乗経典とそれを奉じる大乗仏教徒は、悟りを上手に売り込んだように見えます。『お釈迦さまの教えでは悟りはなかなか難しい。さてどうしようか』と悩んでいるところに、『こっちのお経なら簡単に悟れますよ』と呼び込むのです。しかし、そう簡単に悟れるものでしょうか」(藤本晃/広島大学大学院文学研究科客員教授)

 

トイレも自分の代わりはいません。自分の後生は自分で面倒を見るしかないのです。

 

・正しい目的あっての努力

もちろん、第1巻から何度も説明してきたように、正しい目的と正しい解決法を知っていることが大前提で、その上での努力です。

世間の人間にしても聖道門の仏教者にしても、正しい目的を知らず、知恵の裏づけのない盲目の努力をしています。どんなに優れた薬があっても、その薬の存在を知らなければ意味がないのです。また、肛門に目薬をしても意味がないように、薬の飲み方を知らなければ意味がないのです。そして、意味がないというだけでは済まない地獄行きの恐ろしい行為です。

 

〇行学

行動して学ぶことを行学といいますが、座学よりも行学のほうが重要です。座学だけで聴聞となり自己を知ることができるのであれば、それに越したことはないのですが、大抵の人は座学だけでは頭だけの理解になってしまいます。行学でないと聴聞にならず、自己はとてもわかるものではないのです。

この一因は進化論でも説明できるのかもしれません。

「想像の中で食べて満足してしまうと、栄養不足で死んでしまいます。進化の原理からすると、人間の想像力は高いものの、現実ほどにはありありとしていない範囲に抑えられているに違いありません」(石川幹人/明治大学教授)

行学でないととても聴聞にならないということです。行と信は別々のものではありません。仏教の要は決まっており、あとはいかに努力し行学できるかにかかっています。つまり、大まかに言えば、聴聞・開顕勤行・教学のサイクルをいかに速く回せるか、いかに粛々とこなせるかにかかっているのです。

小路という人がいます。

数多い釈迦の弟子の中で最も愚かな弟子として知られ、大愚の元祖ともいわれています。自分の名前も覚えられず、名札をつけているよう釈迦に言われていたような人です。ちなみに、この人の墓から生えてきた草を茗荷といいます。

対照的に、兄の大路は非常に賢い人でした。最初、大路は熱心に小路に教えていましたが、あまりに覚えが悪いため気力が尽きてしまいました。

「お前にはとても悟りを開けないだろう。あきらめてこの精舎から出て行くがいい」

大路からこう言われ、小路は悲しみ途方に暮れていました。するとそこへ釈迦が通りかかりました。

「こんな時間にどこへ行くのか」

「私は愚か者です。出家をやめようと思っています」

「お前は愚かさを知っている。兄の大路は知らないから、お前のほうが早く悟りを開くだろう」

小路は皮肉を言われていると思いましたが、釈迦は続けて次のように指示しました。

「この布切れをもって、訪れる人の埃や履物の泥を払いながら、『ちりを払え、あかを取れ』と唱えなさい」

とても覚えきれないと思っていた小路でしたが、弟子たちの協力もあり段々と覚えられるようになりました。

それから、何年かたったある日のこと、小路はふと思いました。

「この布は初めは綺麗だった。それがいつの間にか汚れてしまった。人の心もこの布と同じだ」

このような気づきを得て、小路は悟りを開いたといいます。

このエピソードは行学の大切さを教えています。

「弟子たちは、皆が皆優等生ばかりではなかった。どんな人間でも努力によって優れた人物になれることを教え示しているのである。小路のエピソードはことに美しい。仏教は知識で把握するものではなく、実践することによって悟りの世界を体得するのだということの正しい証明である」(石上善応/大正大学教授)

また、善知識の指導に愚直に従う大切さも教えています。

・体験は強い

「百聞は一見に如かず」という言葉があるように、体験というのは強い力があります。「熱い」ということはどういうことかわからない人に、「熱い」ということを教えるのは困難ですが、火に触れれば一瞬でわかります。また、プリンを食べたことがない人に、プリンの味を伝えるのは非常に難しいことですが、食べれば一瞬でわかります。

 

・仮時

仏教には「仮時」という言葉があり、「ケガをして痛かった時」とか「プロポーズが成功した時」といった時を指します。

仏教では、「午前1時」とか「午後1時」といった実時よりも、仮時を重視します。

 

・体験談は力強い

このように体験というのは強い力があるので、体験談というのは説得力があります。ある事実を聞く場合、次のどれが1番心に響くでしょうか。

 

1.話し手が現場を想像して作った話

2.話し手が人づてに聞いた話

3.話し手が直接現場に行って感じた話

 

ほとんどの人が3番を最も信用し、聞き入るのではないでしょうか。

 

・高度な教学より基本が大切

マニアックな教学を身につけようとする人がいます。

その姿勢も大切なことではありますが、それよりも基本的なことをきちんとこなすことのほうがずっと大切です。

「一利を興すは一害を除くに如かず」という言葉もありますが、基本動作がきちんとできないから、いつまで経っても死の解決ができないのです。

 

・心は後からついてくる

良くも悪くも行動した通りに心が作られていきます。

心がきちんとしてなくとも、きちんとした行動をすることで心もきちんとなっていきます。心がきちんとしていても、だらしない行動をすることで心もだらしなくなっていきます。また、心が変わるまで行動するという視点も大切です。

 

・心のために行動する

行動する目的はあくまで自己を知るためであり、信のためです。動作療法を提唱している臨床心理学者の成瀬悟策(九州大学名誉教授)は、「主体の変化そのものが狙いであって、動作するということはそのための手段・方便である」と言います。世間の人間も聖道門の仏教徒も、自己を知るという目的を知らずに努力していますが、それでは本末転倒であり努力の意味がありません。

 

・記録する

時間が経つにつれ、体験時の記憶が捻じ曲がっていくため、体験して感じたことや理解したことをすぐに記録しておくべきです。大切な人が死んだ時など、何度も体験できないことは特にそうです。

 

・形から入る

形についても同じことがいえます。人間は形に影響を受けます。このことは体験的にわかっている人が多いと思いますが、研究している人もいます。

心理学者の春木豊(早稲田大学名誉教授)が、著書「動きが心をつくる」の中で紹介している事例です。顔の方向が「上向き」「正面」「下向き」のそれぞれについて、背骨が直立の場合と曲げた場合の計6種類の姿勢をとったところ、首が下向きの場合と、背筋を曲げた場合でネガティブになったといいます。

「うつ気分になるとうつむき姿勢になることはだれしも経験していることであるが、逆にうつむく姿勢をとると、うつの気分がかもし出されるともいえるだろう」(春木)

また、視線を下に向けただけで、うつ気分が大きくなったという事例や、うつむきの姿勢で音楽を聞くと他の姿勢よりネガティブに聞こえるという結果なども紹介しています。

服装、姿勢、表情etc.形は心に影響を与え、心は形に表れるのです。聴聞の場合、聞く側はスーツを着、説く側は教戒服を着ます。髪の毛は煩悩を表しているため、坊主にしたり短くします。坊主にしたぐらいで煩悩はなくなりませんが、意味はあります。座り方も様々ありますが、最も心を整えるのに適した座り方とされている正座が基本です。最初は20分ともちませんが、訓練するうちに30分、1時間、2時間とできるようになってきます。

 

・形を作れる有り難さ

こういった理由から、形を作れるということは有り難いことです。たとえば、形を作りたくても障害があって作れない人もいます。手足のない中村久子は(詳しくは第4巻)、「仏様に合掌したくても合わせる手がない」と言って悲しんでいたといいます。肉体は死の解決をするためにあります。使えるうちに使うべきです。やがて全身を失う時が必ずきます。

 

〇継続は力なり

「脳は変えることができる。だが、脳の回路を変更するには、明確な意志をもった継続的な努力が欠かせないのである」(生田哲/イリノイ工科大学助教授)

 

一時的に一生懸命になっても、継続しなければ求道はまずゴールできません。趣味でさえ続けて通います。続けないとものにならないからです。世間の仕事も続けないと成功しません。

「何よりも大切なのが、強烈な意志です。体を張って、命を捨ててかかるくらいの気構えがなければ、決して人を動かせるはずもなく、改革らしい改革などできるわけがありません」(稲盛和夫)

「鉄の神様」と評される物理学者の本多光太郎は、雨の日には「雨だから実験しよう」と言い、晴れの日には「晴れだから実験しよう」と言い、休みの日には「休みだから実験しよう」と言って休むことなく研究していたといいます。

スポーツ選手はオリンピックでメダルを取るために、毎日毎日寝る間を惜しんで練習します。

金メダル23個を含むオリンピック最多の28個のメダルを獲得した「水の怪物」、マイケル・フェルプス。彼は、「王者になるには何が必要か」という質問に対してためらいなく、「それなら簡単。努力すること、打ち込むこと、あきらめないことだ」と答えています。

アンダース・エリクソン(フロリダ州立大学心理学部教授)の有名な研究によれば、ベルリン音楽学校で学ぶバイオリニストのレベルは練習時間と比例したといいます。他にも彼は、30年以上にわたって様々な分野のトッププレイヤーについて研究していますが、その結論を次のように語っています。

「長期間にわたる厳しい練習をせずに並外れた能力を獲得したと断言できるケースには、これまで一度もお目にかかったことがないと断言する」

「科学、芸術、音楽、スポーツなど様々な分野の独創的天才がどのようにイノベーションを生み出したかを調べた研究者は、それが例外なく長い時間のかかる、同じ作業の繰り返しのような営みの産物であることを明らかにしている。(中略)大きな飛躍などない。門外漢には小さな一歩の積み重ねであることがわからず、大きな飛躍に見えるだけだ。ひらめきの瞬間は、膨大な努力によって大伽藍をあと一歩で完成というところまで築き上げた結果として訪れるものだ。

しかも科学をはじめ、様々な分野で他を圧倒するような独創的成功を収めた人々の研究では、クリエイティビティは長期間にわたって努力と集中力を維持する能力と切り離せない関係にあることが明らかになっている」

このように、死んでく時に何の役にも立たない無常の幸福でさえ、多大な労力をかけないと手に入りません。

まして、未来永劫救われる死の解決です。これほどの大きな結果を得るには、それだけの大きな種をまかなければなりません。「水滴石を穿つ」という言葉があります。何度も何度もぶつかれば水滴でも石に穴をあけることができるように、真剣な聴聞を繰り返せば、軟弱な心でも無明を破ることができます。

「至りて堅きは石なり。至りて軟らかなるは水なり。水よく石を穿つ。『心源、もし徹しなば、菩提の覚道、何事か成ぜざらん』といえる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候う間、信を獲べきなり。ただ、仏法は、聴聞に極まることなり」(御一代記聞書)

「天王寺の釣鐘も指一本で動かせる」という話しがあります。

天王寺の釣鐘は巨大な釣鐘なので、いくら強く押してもビクともしませんが、何度も何度も押し続けることで、たった指一本でも動かすことができます。同じように、千回万回の聴聞・開顕・勤行・教学を真剣に繰り返せば、やがて宿善が開発し、グラッと動く瞬間があるのです。

 

・徹底しないとわからない

ただ漫然と続けるのではなく、徹底しなければなりません。世間的な幸福を手に入れる場合は、人によっては全力を出さなくても手に入るかもしれませんが、自己を知るには全力を出さないとわからないようになっています。無常観にしても、罪悪観にしても、仏教で説かれる一切は究極の結論ですが、全力で極めようとしなければ理解できない世界です。

たとえば何十年と真実の仏教を聞いていながら、死の解決ができない人はゴマンといます。それは、中途半端にただ漫然と続けているからであり、徹底して極めようと真剣になれていないからです。

「徹底する」というと難しく思うかもしれませんが、当たり前のことを当たり前にするということです。仏教で説く一切は当たり前のことなのですが、これまで説明してきたように、人間は当たり前のことを当たり前にできないように力が働いています。これは何も仏教に限ったことではありません。

「学校を出たばかりの若い人は、会社に入って地味な仕事ばかり続くと、『こんなことばかりしていていいのだろうか』と不安に思い、『他の仕事をやらせてほしい』と言い出します。しかし、それは違うのです。広く浅く知ることは、何も知らないことと同じなのです。深くひとつのことを探求することによって、すべてのことに通じていくのです。それは、すべてのものの奥深くに、それらを共通に律している真理があるからだと私は思います。ひとつのことを究めることは、すべてを知ることになるということを忘れてはなりません」(稲盛和夫)

 

・特殊能力のようなもの

毎日毎日やっていると、ある種の特殊能力のようなものが身につきます。

「一つのことを継続することで愚鈍な人が非凡になる。一歩一歩の積み重ねが、実は魔法のような相乗効果を生んでいくのです」

「日々の地道な努力が生む小さな成果こそが、さらなる努力と成果を呼びよせ、いつの間にか、あなたを信じられないような高みにまで運んでくれるのです。これが、学習やスポーツ、また仕事においても、夢を実現させるただ一つの方法論なのです」(稲盛和夫)

野球選手のイチローは、「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思う」と語っています。

サッカー選手の中村憲剛は、ゴール前20m強からフリーキックを決めた瞬間を振り返り、「すべてのフィーリングがぴったりと合った。置いた瞬間、『自分がしっかり蹴ったら入るな』という確信があった。積み重ね、蓄積です」と語っています。

 

・利他にもなる

また、一生懸命に求道する姿は、それだけで周りに良い影響を与えます。努力することで周りに良い影響が波及することを確かめた研究も少なくありません。

弓術の達人、平田可竹に次のようなエピソードがあります。

可竹は、どんな日も休むことなく稽古していましたが、その姿を与平という油売りが見ていました。

与平は可竹を見習い、雨の日も風の日も怠らず仕事に励みました。その結果、与平は屈指の財産家となりました。

ある日、与平が平田を尋ね、「拙者の富はあなたのおかげだ」と御礼を言いました。すると、平田も与平の勤勉さに励まされていたと感謝したといいます。

 

・無理じゃないとわかる

未来というのは現在の延長ですので、現在がよくわかれば自ずと未来もわかるようになります。どんなことにもいえますが、目的に向かって目の前のことをコツコツと一生懸命やっていけば、成功することは無理ではないということが体験的にわかってきます。

「何でもない現象の中に、素晴らしいチャンスが潜んでいます。しかし、それは、強烈な目的意識を持った人の目にしか映らないものなのです」

「将来を見通すということは、今日を生きることの延長線上にしかないのです」

「私は、長期の経営計画を立てたことはありません。今日のことさえうまくいかず、明日もわからないのに、十年先が見えるわけがないと思っていたからです。

そのため私は、今日一日を一生懸命に過ごそう、そして今日一日一生懸命に仕事をし、さらに工夫を重ねれば、明日が見えてくるだろうと考えてきました。そして、その一日の連続が、五年たち、十年たつと、大きな成果になっているだろうというように考えたのです。どうなるかわからない先のことを言うよりは、今日一日をパーフェクトに生きることのほうが大事だという考えで、私は今まで研究をし、経営を行ってきました。

その結果、私は『今日を完全に生きれば、明日は見える』ということを断言することができます。逆説的ですが、この生き方を三十年も続けてきますと、先の変化が見えてきたのです」(稲盛和夫)

妙好人のおかるは、「聞いてみなんせ まことの道を 無理な教えじゃ ないわいな」という言葉を残していますが、一生懸命求めていけば、必ず道が開けるのです。一生懸命目的に向かって努力しないと、そういったことはわかりません。

 

・極道

このように、求道は極める道なので極道ともいいます。現代でも使われますが、本来は仏教用語で、道を極める、つまりゴールである死の解決まで求め切るという意味です。哲学には「中間は呪い」という言葉がありますが、中途半端では救われません。

 

・コツコツとやる

大きな目標を達成しようとする時、途方もない道のりに気が遠くなってしまうかもしれませんが、小さな目標を積み重ねるという視点が大切です。派手なことをしようとせず、目の前の小さな行動をコツコツと1つ1つ完璧にこなし、それを繰り返すということです。

江戸時代、人より早く届ける飛脚がいました。

なぜそんなに早く届けることができるのか、その秘訣を聞いたところ、「赤い石を踏まぬように注意しながら走っているからだ」と答えたといいます。

コツコツと積み重ねる「行い」が本質で、成果は「オマケ」であり「カス」と受け止めるべきです。

「人生を振り返って、最も大事だと思えるのは、いつも明確な目標を持ち、それに向かって、地味な努力を重ねていくということ」(稲盛和夫)

 

・完璧にやる

「一事が万事」という諺もありますが、1ついい加減なことをすれば、それは他のすべてに通じてきます。また、1ついい加減なことをしたということは、すでにいい加減なことを他にもしている可能性が高いです。完全を目指しても失敗します。まして完全を目指さないと何回も失敗します。

 

・若い時に努力する

年を取ってから苦労するというのは、若い時に苦労するよりもずっと大変なことです。20代、30代で努力してこなかった人が、いきなり40代で努力できるようになるのは難しいという具合に、年を取っても努力できる人というのは、若い時からコツコツと努力してきた人なのです。

 

・業を活かす

開顕のが深く、開顕を徹底する人もいれば、教学の業が深く、教学を徹底する人もいます。仕事を徹底する人もいれば、恋愛を徹底する人もいます。自分の得意分野を活かすという視点も大切です。

 

・スピードも大事

トルストイの小説に「光あるうち光の中を歩め」というのがありますが、歩いていたのでは遅く、突っ走るべきです。

ご存じ「うさぎと亀」の童話では、亀のようにコツコツと努力する大切さを教えています。これは一面の真理ではありますが、あっという間に過ぎ去る人生においてはやはり、うさぎのようなスピードも重要です。亀のように確実に、うさぎのように速く努力する必要があります。

 

・時間はつくれる

ベンジャミン・フランクリンは、雷が電気現象であることの証明や避雷針の発明で知られる人ですが、彼は若い頃、小さな書店を営んでいました。その時のエピソードに次のようなものがあります。

ある日のこと、店にやってきた客の1人が本を値切ろうとしました。

「この1ドルの本だが、もっと安くならないかね」

「では、1ドル15セントにしましょう」

「なんだって?私は安くできないかと言っているのだよ」

「それでは、1ドル50セント頂きましょう」

「おいおい冗談いうなよ。なんでどんどん高くなるのだ」

「この本は1ドルでも決して高くありません。あなたは本を見る目がないのです。私は、あなたの無知によって貴重な時間をとられています。時間代を上乗せしているのです」

なるほどと思った客が1ドル50セント出そうとしたところ、フランクリンは「わかって頂ければ1ドルで結構です」と言ったといいます。

このエピソードは、時を貴ぶフランクリンの逸話として語り継がれています。後年、彼は「時は金なり」という有名な言葉を残しています。

時間を無駄にするとは命を無駄にするということです。

フランクリンの場合、その貴重な時間で無常の幸福を求めてしまいましたが、時間を無駄にしない努力は見習うべきです。

泥棒の耳四郎は、ほんの少しの聴聞で死の解決を果たしたといわれていますが、裏を返せば、前世でほんの少し聴聞が不足したために無間地獄に堕ちたということです。わずかな時間や行為も無駄にできません。

先に説明したことを考慮すれば、「今日1日命がけで生きる」という心がけが大切ですが、結論から言えば、どんなに努力しても、まだまだ努力の余地があります。それは臨終になればわかります(詳しくは第3巻)。「必死で生きている」と思っているかもしれませんが、それは自惚れです。臨終の自分から見れば、今の自分はまったく努力しておらず時間を無駄にしているのです。「これ以上、時間はつくれない」と思っていても、心がけ次第で時間はもっともっとつくれるということです。

バケツに石をいっぱい詰めて、これ以上入らないと思っていても、隙間に小豆がいっぱい入ります。小豆をいっぱい詰めて、これ以上入らないと思っていても、隙間に砂がいっぱい入ります。砂をいっぱい詰めて、これ以上入らないと思っていても、隙間に水がいっぱい入ります。

時間についても、このたとえと同じようなことがいえます。クリントン大統領は浮気していました。アメリカの大統領より忙しい人は、そういないでしょう。しかし浮気する時間はつくれたのです。気があれば人間は時間をつくろうとするということです。

 

・このままのペースで終わる

地獄の絵の前に、がやがやと人だかりができていました。

「こんな恐ろしいところに堕ちていくんだかー」

その様子を見た庄松は、「極楽の絵をみとけ!地獄はやがて見えるぞ!」と言ったといいます。

「このままいけば何とかなる」と思っているでしょう。まさか自分が地獄に堕ちるとは夢にも思っていないはずです。もしくは、「地獄に堕ちても、その時はその時で何とかなる」と思っているはずです。後生が苦になって1晩でも寝られなかったことがあるでしょうか。結局は睡眠欲のほうが勝り寝てしまっているはずです。

しかし、歴史を見ても明らかなように、ほとんどの人は何とかなりませんでした。つまり、今のままでは死の解決ができず、地獄に堕ちる可能性が非常に高いため、何かやり方を大きく変える必要があります。

「早速に真実信心を獲得なくは、年々を経といふとも同篇たるべきやうにみえたり」(御文)

(訳:速やかに死の解決をしなければ、何年経っても同じように過ぎる)

このまま毎日毎日、同じようなことを繰り返すうちに死んでいくことに危機感を感じなければなりません。やがて、努力したくてもできなくなる時、努力ではどうにもできなくなる時がやってきます。努力すれば解決できるうちに努力すべきです。

 

〇苦に立ちむかう

苦に立ちむかうことは自己を知る上で重要です。

・苦は楽の種

「楽は苦の種」「苦は楽の種」という諺もありますが、楽は人間を弱くし、結果として苦しみも多くなり、逆に、苦は人間を鍛え、結果として楽も多くなります。精神も肉体のように休ませると弱くなり、働かせると強くなるのです。心理学でも、精神力は筋肉と同じように鍛えられることがわかっています。

「苦難が神経の抵抗力をつけ健康を促進させる」

「逆境こそが強靭な精神、肉体を創る」

「この原則の存在を忘れてしまった人々は、肉体と精神の退化という代償を支払わねばならない」(アレクシス・カレル/1912年ノーベル生理学・医学賞受賞)

目の前に近づいてくるヘビに対して、勇気をもって近づくと決めた時の脳活動を計測した実験もあり、結果は、怖さを感じながらも身体の緊張は低下したといいます。

こういったことは、誰でも大なり小なり体験的に知っているでしょう。苦と楽は別々のものではなく不二であると説かれますが、このことを人間は体験的に感じているといえます。

 

・苦のメリット

このように苦は悪とは限りません。苦の中にあるメリットが楽にはないともいえます。便利にはないメリットが不便にはあり、富裕にはないメリットが貧乏にはあります。この点からも、世間一般の幸福が欠点のある幸福であることがわかります。

 

・もっと苦が欲しくなる

苦に立ち向かう心がけができると、楽になる→ますます苦に立ち向かいやすくなる→ますます楽になる、といった具合に好循環が生まれやすくなります。

武将の山中幸盛は、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と言いましたが、苦に立ち向かう喜びがわかれば、もっと苦しみを求める心、もっと難しいことにチャレンジしたい心も出てきます。逆に、この心がけができないと悪循環に陥りやすくなってしまいます。

 

・楽をしていたことに気づく

徹底して苦に立ち向かうと、日頃いかに楽をしていたかがわかります。また逆に、徹底して楽をすれば、日頃いかに苦に立ち向かっていたかがわかります。

 

・苦しみに身を沈める

仏教は「苦しみに身を沈める教え」ともいわれるぐらい、苦に立ち向かうことを勧めます。常に張り詰めたピリピリした生活をするのが理想的です。

 

・人間は楽をしたい

楽をしたいのが人間です。概して、最小の努力で最大の結果を得ようとします。人は1mm足を上げるのも嫌で、1mmでも段差があれば躓きます。

ですので、環境を厳しくするという視点は大切です。現代の日本は楽をしやすい環境ですので、この点、不幸な環境にいるといえます。

 

・自己を知るための努力

念のため言いますと、苦に立ち向かう目的は、あくまで自己を知るためです。苦に立ちむかう幸せも、無常の幸福の1つにすぎません。

「人生は生涯求道」とか「死ぬまで勉強」と言う人もいます。一見すると格好いい言葉ですが、これは一生涯ずっと苦しまなければならないということです。精神を鍛練するために仏教があるのではありません。ゴールに相当するものがなければ、最後は地獄に堕ちるマラソンをしているような悲惨な人生になってしまいます。求道人生、勉強人生で終わってはならないのです。

 

〇どのくらい努力すればいいか

雑阿含経には、悟りに達するためには、「毎日、朝昼晩300本の槍を100歳まで受ける強い意志が必要」と説かれています。

また、修行道地経には、「油を満たした鉢を持ち、途中で様々な誘惑や恐怖が与えられても動じず、油を1滴もこぼさずに歩き続ける強い意志が必要」とも説かれています。

求道者はどれほどの努力をすべきか、先達に学びましょう。これまで釈迦をはじめ、様々な人を取り上げてきましたが、ここではジャータカから1つ紹介しましょう。釈迦は今生だけでなく、過去世から熾烈な修行をしています。

遠い昔、雪山童子という若い男が真理を求め、険しい雪山で一心に修行に励んでいました。

徹底して修行する姿に帝釈天は驚きました。そして、童子の求道心を試そうと思い、恐ろしい鬼に化けて童子の近くへ行きました。

「諸行無常 是生滅法(諸行は無常なり 是れ生滅の法なり)」

こんな言葉がどこからともなく童子の耳に聞こえてきました。

(確かに一切は無常なるものだ!この言葉こそ、私が長年求めていたものだ!)

童子は狂喜し、声の主を探しました。しかし、あたりには誰もいませんでした。

(あの偈こそ求めているものに違いないが、あれは一部分だけだった。どうにかして残りを聞かなければ・・・)

童子が森の中を懸命に走って探していると、突然恐ろしい形相の鬼が現れました。

(あんな醜い鬼が声の主なわけがない)

しかし、鬼以外に誰もいませんでした。

(もしかしたらあの鬼が誰かから聞いて、あの偈を言ったのかもしれない)

そう思った童子は鬼に聞いてみました。

「先ほどの声の主はあなたですか」

鬼は煩わしそうに言いました。

「そんなことを聞かれても困る。私は腹が減っているのだ。空腹のあまり訳のわからないことを口走ったのかもしれない」

その言葉を聞いて、童子は声の主がこの鬼だと確信しました。

「お願いです、あの偈の続きを教えてください。そうすれば私はあなたの弟子となって一生お仕えします。誓って嘘は申しません」

鬼は黙っていました。

「どうして私の願いを聞いてくれないのですか。食べ物や宝物なら分け与えれば減ってしまいますが、言葉は減りはしないでしょう。ただ人を幸せにするだけではありませんか。どうしてそれを惜しむのですか」

「お前は自分のことばかり考えている。私は腹が減って死にそうなのだ」

「あなたの食べ物は何でしょうか。私が今すぐ探してきます」

「聞かないほうがいい。お前には用意できないだろう」

「私は真理を知ろうとして修行に励んでいます。どんなことを言われても驚きません」

「では言おう。私は人間の肉を食べ、血を飲んで生きているのだ。どうだ、お前には用意できまい」

「わかりました」

「修行者のお前が人を殺すというのか」

「いいえ、私の体を差し上げます。ですので、残りの偈文を教えてください」

「誰がそんなことを信用するというのか」

「いくら命を惜しんだところで、いずれは何も得るものもなく死んでしまいます。しかし、私は今こうして求めるものの一部を聞くことができ、さらにその残りを聞く機会に巡り会っているのです。それなのに、どうして命を惜しむことがあるでしょう」

童子の決意が固いことを鬼は知りました。

「よろしい。それでは、残りの言葉を聞かせよう」

「生滅滅已 寂滅為楽(生滅を滅しおわりて 寂滅を楽と為す)」

これを聞くや、童子は大きな歓喜を生じせしめました。生もなく滅もない絶対の境地を悟ったのです。

(この世に思い残すことは何もない。しかし、このまま死んでしまっては、後の世の人々にこの教えを伝えることがない)

こう思った童子は、辺りの木や岩など、次々に偈文を刻みつけました。

そして、もう刻むところがないと思うや、童子は高い木にかけ登り、ためらいもなく身を投げました。

体が地面に叩きつけられそうになった次の瞬間です。鬼は帝釈天の姿に戻り、童子を受け止めました。そして童子を地面に下ろし、合掌して言いました。

「すばらしい、あなたこそ真の菩薩です。あなたは未来の世で必ず仏となり、闇の世を明るく照らすことでしょう。あなたを疑い、試したりしたことをお詫びします」

雪山童子とは釈迦の前身です。過去世において、これほど命がけで修行してきたので、今生で仏の悟りを開くことができたのです。

もう1人紹介しましょう。

江戸時代、加賀国(現在の石川県南部)に山本良助という熱心な求道者がいました。

加賀は寺の町です。この時代のことですので説法は朝昼晩と1日中行われており、山本良助は1日中聴聞していました。

ところが、どんな人の話を聞いても善知識に遇えなかったといいます。先に説明したように、真剣に求めると知識の力量を見抜けるようになるのです。

そんなある時、風の便りで讃岐(現在の香川県)に庄松という人がいると、山本良助の耳に届きました。庄松の噂は全国に伝わっていたのです。山本良助は躍り上がって喜びました。

(そんな尊い善知識が讃岐におられるのか・・・・)

こういう人ですから、加賀はもちろん、近いところはほとんど訪ねたでしょう。もう讃岐に行くしかないだろうという心境だったのです。

(私の後生は庄松さんにかけてみよう・・・・)

家族と水盃をかわし、讃岐まで行くことにしました。夏の暑い盛りの時のことです。平太郎の時代と同じく、やはり徒歩で行くしかありません。石川県から香川県までです。途中には山賊もいます。命がけです。

苦労に苦労を重ね、やっとのことで山本良助は庄松を探し当てました。庄松は小さなあばら家にいました。山本良助は嬉しくて仕方がありません。

「ごめん」と戸を開いて中を見ると、庄松は布団を被り、玄関に背を向けて寝ていました。

(この方が庄松さんか・・・・)

「私は山本良助と申します。後生が心配で眠れません。庄松さんにお会いしたく加賀国からやって参りました」

それを聞いた庄松は、じろっと一目見ました。そして、「オラ知らんぞ」と一言だけ言って、また寝てしまいました。

山本良助は驚きました。これは頼み方が悪かったに違いないと思い、改めて頼みました。

「私は世間事で参ったのではありませぬ。後生が苦になったため、加賀国よりはるばる尋ねて参りました。どうぞ御一言お知らせ下さいませ」

しかし、庄松はまた、「オラ知らんぞ」と言うだけで、相手にしてくれません。山本良助は困り果てました。しかし帰るわけにはいきません。聞かずにはおれないという心境です。庄松の家の土間で夜を徹して頼み込みました。それでも庄松は何とも返事をしてくれません。

(私のような悪人は地獄しか行き場がないのか・・・・)

このような心が山本良助に育ってきました。

そして、助かる縁手掛かりがなくなり、地獄しか行き場のない自己が知らされたその刹那、阿弥陀仏の呼び声が山本良助に届きました。その瞬間、庄松はがばっと起き上がり、「よくぞそこまで求めた」と誉め称えたといいます。

山本良助は、「善知識に遇いさえすれば助かる」「庄松を頼れば何とかなる」と思っていました。この心が最も恐ろしいガンであることを庄松は一目見て見抜き、わざと冷たい態度をとったのです。この庄松の無言の説法により、山本良助は死の解決をすることができました。

 

・聖道門に学ぶ

聖道自力の修行をしている人たちにも学ぶべきものがあります。達磨でさえ真実の仏教には遇えませんでした。願えば出遇えるというものではありません。慧可、明恵、苅萱白隠にしても同じです。彼らは命を縮めて修行しましたが、それでも死の解決には程遠いのです。

真実の仏教は聞くだけで救われる教えです。これ以上の教えはなく、真実の仏教に出遇った人は彼らの努力を見習うべきです。たとえば、正座が痛くて耐えられないなどと言う人は多いですが、聖道門では正座は修行のうちに入りません。浄土門の人間で、彼らほど努力している人は現代にはまずいません。

彼らが真実の仏教に出遇ったら、つまり正しい向きに努力するようになれば、すぐに死の解決をするでしょう。だらだらと求道していれば、そのうち彼らに抜かれてしまいます。

 

〇どのくらい真剣になればいいか

聴聞といっても真剣に聞けば大きな宿善となりますが、真剣に聞かなければ大した宿善にはなりません。もっと言えば、真剣に求めること自体が聴聞になり宿善になります。

たとえば、山本良助の場合、必死で善知識を求めること自体が聴聞になっていたといえます。彼を導いた庄松は教授の善知識とはいえません。

後述する東条英機についても同じことがいえます。死刑が間近に迫り、真剣に求めたこと自体が聴聞になっていたといえます。東条に仏教を教えた人は花山信勝という人で、私も彼の著書や講演(録音)を聞きましたが、「あの話で東条はよく死の解決ができたな」と思えるような内容です。生きた教授の善知識に遇えなかったにもかかわらず求め切ることができたのは、必死だったからでしょう。

「真剣」というのは、これほど重要なことですが、どれくらい真剣に聞けばいいのか、それがわかる表現をいくつか挙げます。

・目を凝らす

目をパチパチしたりするのは、まだ真剣ではありません。

 

・音が聞こえない

集中すると、周りの音は聞こえなくなります。

 

・身じろぎしない

集中すれば身じろぎもしません。

江戸時代、浄土真宗本願寺派の第4代能化、法霖が若い時のことです。

友人たちが法霖を誘って遊びに行こうとしました。しかし、読書中だった法霖は「今忙しいから先に行っててくれ」と断りました。

「それならこの帽子をかぶって後からこい」

こう言って友人は法霖の頭に帽子を横にかぶせました。

しばらくして夕方になり、友人たちが遊び疲れて帰ってきました。友人たちは、部屋の中を見て驚きました。薄暗くなった中で、法霖が出かける前と同じ姿勢で、帽子も横にかぶさったまま読書していたのです。

 この時の法霖のような集中力が理想です。

 

・すぐ思い出せる

真剣に聞いたことは簡単に思い出すことができます。

ちなみに、真剣に聞けるよう、法座中はメモを取るのは禁止になっています。

 

・耳をそばだてる

「よくよく耳をそばだてて聴聞あるべし」(御文)

ひそひそ話や噂話を聞いている時などは、耳をそばだてるようにして聞きます。嫌々、聞こう聞こうと努力している状態は真剣ではなく、つい聞いてしまうという聞き方が集中して聞いている状態です。

 

・殺気が出る

殺気が出るぐらい真剣になる必要があります。

殺気は実在します。釈迦が近くにいたら、隠れていてもすぐわかるはずです。そこにいたら怖くてとても話はできません。

 

・遊んでいる時

楽しく遊んでいる時は真剣です。

 

・煩悩を満たしている時

欲を満たしたり、怒ったり、愚痴を言ったり、と煩悩を満たしている時は真剣です。

 

・初めて聞いた時

初めは新鮮で真剣に聞きやすいですが、何度も聞いていると新鮮さがなくなり違う話を聞きたくなります。山口善太郎は、「御座を重ねて聞くものの 聞いたばかりじゃ味がない」と表現しました。これは知識欲で聞いているからであり、頭だけで聞いているからですが、いつも初めて聞くような聞き方をすべきです。

「一つことを聞きて、いつも珍しく、初めたる様に信の上には有るべきなり。ただ珍しきことを聞き度く思うなり。一つことを、幾度聴聞申すとも、珍しく、はじめたるようにあるべきなり」(御一代記聞書)

「いつも来る いつもの人が いつもする いつもの話 いつも尊い」という古歌もあります。

 

・飢えた時

飢えている時は、飢えを満たすことしか考えず真剣です。

「聴くものは端視して渇飲の如くせよ」(智度論)

(訳:法を聴くものはひたすら心を傾け、喉が渇いた人が水を飲むが如くせよ)

 

・痛みを感じない

良いか悪いかは別として、集中すると痛みや苦しみを感じません。たとえば、戦場で負傷した兵士が、戦闘が終わるまで激しい痛みを感じなかったとか、スポーツの試合中、骨折していたことに気づかなかったといった話は多くあります。

釈迦十大弟子の1人、阿難には次のようなエピソードがあります。

ある時、阿難は背中に腫れものができ、大変苦しんだことがありました。名医の耆婆が診たところ、腫れものを切り取るしかなく、その痛みは壮絶なものになると言いました。

そこで釈迦は、聴聞中に手術するよう耆婆に指示しました。阿難は普段から一心不乱に聴聞し、一度聞いた説法は一言半句忘れることがありませんでした。そのことを知っていたので、聴聞中なら痛みなく手術できるだろうと釈迦は考えたのです。耆婆がその通りにしたところ、阿難は手術したことに少しも気づかなかったといいます。

正座が痛いなどと言っているのは、集中していないからです。

 

・衣食を忘れる

必死になると衣食に心はかかりません。

時折、ラブホテルが火事になるというニュースが出ますが、その時、裸のまま逃げてくる人がいます。命の危険が迫り必死になれば、裸の恥ずかしさなど問題にならないということです。

念のため言いますと、必死になった結果として身だしなみを忘れるのであって、身だしなみを気にするなということではありません。ボロボロの服を着て聴聞すればいいのかというとそうではないのです。他のことにもいえますが、「鵜の真似をする烏」となってはなりません。

 

・聞くなと言われても聞く

人から聞け聞けと尻を叩かれてようやく聞くような聞き方は、真剣な聞き方ではありません。「聞くな」「諦めろ」と言われても聞こうとする聞き方が真剣な聞き方です。

 

・火をかき分ける

最終的には、火の中をかき分ける真剣さが要求されます。

「設ひ世界に満てらん火をも、必ず過ぎて要(もと)めて法を聞かば、かならずまさに仏道を成じ、広く生死の流れを度すべし」(大無量寿経)

(訳:たとえ世界中が火で満たされても、命がけで求め続ければ、必ず仏の悟りを開き、すべての生物を救うだろう)

 

「たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり」(浄土和讃)

(訳:たとえ大宇宙が火で満たされても、命がけで求める人は、必ず死の解決をして正定聚不退転の位となる)

 

「火の中を 分けても法は聞くべきに 雨風雪は もののかずかは」という古歌もあります。

自分が猛火に囲まれたら、火をかき分けてでも助かろうとするでしょう。自分の子供が火の中に取り残されていたら、火をかき分けてでも助けようとするでしょう。助かる見込みがなくても、そうするしかなくなります。

これぐらい真剣な聴聞ができるようになるには、何度も何度も聴聞を繰り返す必要があります。

 

真剣に聞くというのは難しいことです。そのため、針を刺して聞いたり、昔から求道者は真剣になるために血のにじむ努力をしていたのです。稲盛和夫は、「絶え間ない創意工夫が、すばらしい成果を生む」と言っていますが、何をしたら真剣になれるのか、常に考えるべきです。

 

〇求道を諦める人へ

「求道は自分には厳しくて難しい」と諦める人は多いですが、大変な間違いを犯しています。

・厳しいのは人生

厳しいのは仏教ではなく人生です。仏教は、ただ人生の実相を説いているだけです。さらに言えば、そういった厳しい人生を生み出したのは、他でもない自身の過去の種まきです。

 

・仏教はこの上なく優しい

また、第3章でも説明しましたが、仏教はこの上なく優しい教えであり、厳しくするのが目的ではなく、救うために結果として厳しくなるのです。

 

・死が迫れば必死になる

そして、求道者は強くてたくましいから必死になって修行しているのではなく、死や地獄が眼前に迫っているから必死になっているのです。

誰でも命の危険が迫れば必死で何とかしようとします。自分の子供が死にそうになれば、親は鬼のような形相をして必死になって助けようとします。まず1番最初に「助かりたい」「助けてほしい」という願いがきます。どれほど助かる確率が低くとも、必死でやるしかなくなります。「難しいからできなくても仕方ない」などといったことはありません。

同じように、死といった絶望的な問題がわかれば、どんなに難しくても必死で解決しようとし、ちょっとやそっとの苦痛は問題になりません。

「死ぬかもしれないという恐怖心があれば、厳格な食事制限を実行するのはある意味で容易である。死から逃れるためなら、困難なことにも打ち込めるからだ。この場合、困難なことを実行しているからといって、それが、意志が強いというわけではない。ただ死にたくないから、何かをしているにすぎないのである」(星野仁彦/心療内科医/福島学院大学教授)

 

・何も変わらない

猟銃で自殺した小説家のヘミングウェイは、「あちこち旅をしてまわっても、自分自身から逃れられるものではない」と言いましたが、求道を諦めたからといって、死ななくなったわけでも罪悪が消えたわけでも地獄を回避できたわけでもありません。現実逃避しているだけで、何も状況は変わらないのです。

 

・諦めきれんと諦める

宿善が厚い人は、こういったことが言われなくともよくわかります。宿善が厚い人でも求道を諦めたくなる心が出てくることがあります。この心が自由意志ですが、宿善が厚い人は自由意志が負けて諦めようと思っても諦めきれません。結局、諦めきれんと諦めるようになるのです。

一方、宿善が薄い人はこの力が働かず負けてしまいます。

「まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」(御文)です。

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第4章 求道
4.1 人間のレベル
4.2 正しい努力
4.3 死の解決の境地
4.4 死の解決をした後の人生
4.5 死の解決をしないとどうなるか