意識するとしないとにかかわらず、善知識からは有形・無形問わず膨大な恩恵を被っています。

〇善知識の恩を知る重要性

善知識の恩に限らず、恩を感じない人間は畜生にも劣るといわれるぐらい、人間にとって恩を知ることは重要です。

・阿弥陀仏の恩がわからない

善知識の恩がわからないと阿弥陀仏の恩がわかりません。阿弥陀仏の恩がわからないと死の解決ができないため、善知識の恩を知るというのは非常に重要です。

 

〇親よりも重い恩

第5巻で説明した通り、親には非常に重い恩がありますが、その親よりもはるかに重い恩が善知識にはあります。

「三塗を脱るることを得るは知識の恩なり」(般舟讃)

(訳:地獄を脱れることができるのは善知識の恩である)

子供は忘れていても、親はずっと子供に思いをかけています。同じように、人間が忘れていても、阿弥陀仏や善知識はずっと思いをかけているのです。

 

〇恩がわからない

膨大な恩があるにもかかわらず、人間は善知識の恩がわかりません。親の恩にはなかなか気づけないものですが、それよりももっと気づき難いのが善知識の恩です。

「父母に子あり。初めて生まれてすなはち盲聾なり。慈悲の心慇重にして、捨てずして養活す。子は父母を見ざれども、父母はつねに子を見んがごとき、諸仏は衆生を視そなはすこと、なほ羅睺羅のごとし。衆生は見たてまつらずといへども、実に諸仏の前にあり」(往生要集)

(訳:生まれた子が盲ろう者であっても、愛情が深いので親は捨てずに養う。子は親を見ないが、親は常に子を見るように、諸仏が衆生をみそなわすことは、釈迦の一人子である羅睺羅のようである。衆生は諸仏を見ないが、実に諸仏の前にいるのである)

人間は、無常の幸福を与えてくれる人に感謝してばかりで、法を与えてくれる人に感謝できないありさまです。

・謗法罪

善知識を謗ることはもちろん、おろそかにするだけでも謗法罪です。

「善知識をおろかに思ひ、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり」(末灯鈔)

(訳:善知識をおろそかにし、謗る者を謗法の者というのである)

「自分が理解できないのは、お釈迦様が出し惜しみしているからだ」と文句を言う弟子もいました。釈迦が死んだ時、「これでやかましいことを言う人はいなくなった。少しは楽ができるぞ」と言った信者もいたといいます。

しかし、心をたずねれば、誰もが形だけ尊び畏まったフリをして、善知識を謗りっぱなしであることがわかります。たとえば善知識の指示に従わなかったり、聴聞しながら他事を思ったり、善知識を軽んじる行為はすべて謗法罪です。

また、仏法を聞いて「今日の話は良かった」などと誉めることも謗法罪になります。誉めるということは評価しているということです。仏法を評価するということは、釈迦より上の立場になっており、いわゆる「上から目線」であり、釈迦に説法している状態です。素人が玄人を批評し、幼稚園児が大学教授を誉めているようなものです。

そして、善知識に近づかないのも謗法罪です。善知識に近づくのは怖いことですが、怖いと思っているのは、自分が不真面目だからです。真面目な求道者であれば、その厳しさが非常に有難く思えます。

「同行・善知識には、能く能く近づくべし。親近せざるは、雑修の失なり」(御一代記聞書)

(訳:善知識には、十分に近づくべきである。親しみ近づかないのは、雑修の失の1つである)

雑修の十三失といって、死の解決ができずにいる求道者には13個の欠点があると説かれますが、その1つに「人我おのづから覆ひて同行善知識に親近せざるが故に」というのがあります。これは、「自分の小さな考えにとらわれて善知識に親しく近づかないから」という意味です。

 

・恩がわかるまで求める

結論から言うと、死の解決をするまで善知識への心からの感謝はできません。先に説明した通り、信前の人間は釈迦の頭の上に胡坐をかいて釈迦を舐めている状態です。

 

〇恩に報いる

人間であれば恩返しをしなければなりません。

「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし」(恩徳讃)

(訳:阿弥陀仏の大きな慈悲への恩返しは、身を粉にしても報いるべきである。善知識方への恩返しも、骨を砕いてでも感謝すべきである)

・本当の恩返し

善知識に恩返しをするといっても、金や物をいくら差し出しても不十分です。死の解決をしなければ本当の恩返しとはなりません。蓮如は、年末の礼をしにやってきた人たちに対して、「無益の歳末の礼かな。歳末の礼には、信心をとりて礼にせよ」と言いました。

 

・信がない人には会いたくない

仏教を聞いていながら死の解決をしていないということは、不真面目な人間ということですので、会いたくないというのが本音です。

「『当年よりいよいよ信心なき人には御会いあるまじき』と、かたく仰せ候ふなり」(御一代記聞書)

(訳:蓮如上人は、「今年から、死の解決をしていない人間には会わないつもりである」と、厳しく仰せになりました)

 

「信心なき人には会うまじきぞ。信を獲る者には召してもみたく候、会うべし」(御一代記聞書)

(訳:死の解決をしていない人間にはもう会わない。死の解決をした人には呼び寄せてでも会いたい、ぜひとも会おう)

 

・何よりも嬉しいこと

このように死の解決は善知識が最も喜ぶことなので、死の解決をした人が現れれば言葉にできないくらい喜びます。

「ひらつかの入道殿の御往生とききそうろうこそ、かえすがえす、もうすにかぎりなくおぼえそうらえ。めでたさ、もうしつくすべくもそうらわず」(親鸞消息)

(訳:平塚の入道殿が死の解決をしたと聞いたが、本当に言葉で表現できない思いである。そのめでたさも言葉で言い尽くせない)

 

・驚くことでもない

一方で、驚くことでもありません。死の解決は、誰でも一生懸命求めれば手に入るからです。

「明法御坊の往生のこと、驚き申すべきにはあらねども、かえすがえす嬉しう候う」(親鸞消息)

(訳:明法房が死の解決をしたことは、驚くことではないが、本当に嬉しいことである)

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第3章 善知識
3.1 善知識の種類
3.2 善知識の仕事
3.3 善知識の必要性
3.4 善知識に遇う難しさ
3.5 悪知識とは
3.6 知識選びの重要性
3.7 善知識を信じる力
3.8 善知識の願い
3.9 善知識の恩を知る