善知識の1番の願いは、人々の死の解決です。
〇願いはいつも同じ
善知識は仏法を間違いなく伝える人ですので、いつの時代も善知識が言うことは同じです。一見すると表現が異なっているように見えても、中身は同じことを言っています。
・心底に仏法がある
阿弥陀仏と一体になった善知識の言動には、常に心底に仏法があり、一見冗談に思えることでもそれは同じです。
「仏法者に馴れ近づきて、損は一つもなし。何たるおかしきこと狂言にもし、是非とも、心底には仏法あるべしと思うほどに、我が方に徳多きなり」(御一代記聞書)
(訳:善知識に親しみ近づいて、損は一つもない。善知識がどれほどおかしいことをしたり冗談を言ったりしたとしても、心底には仏法があると思うべきである。そう思えば自分に多くの恩恵があるのである)
「これは仏教の話で、これは仏教の話ではない」とか「これは真面目な話で、これはくだらない話」などと聞き手である人間は勝手に線引きしますが、善知識の言動はすべて仏教です。
心底に仏法があれば、戦争の話もビジネスの話もいじめの話も恋愛話も、すべて死の解決に近づけるための真面目な話であり、同じレベルの話になります。逆に、心底に仏法がないと、どんな話も不真面目な話になります。
〇どれくらい願っているか
どれほど願っているのか、それがわかる表現をいくつか紹介します。
・親が子を思うよりも願っている
第5巻で説明したように親は子供のことを常に思っていますが、それ以上に善知識は人類の死の解決を願っています。
「我、汝等諸天人民を哀愍すること、父母の子を念うよりも甚だし」(大無量寿経)
(訳:私が、すべての生物をあわれむ心は、親が子を思うよりもはるかに超えている)
蓮如は次のように言って死んでいきました。
「あわれ、あわれ、存命のうちに、皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり。まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」(御文)
(訳:何と哀れなことだろうか。生きているうちに、すべての人に死の解決をしてほしいと、朝から晩まで一日中思い馳せている。「宿善まかせ」とはいうものの、その思いが止むことがないのだ)
・死んでも願っている
死んだ後も極楽浄土で願っています。親鸞は次のように言って死んでいきました。
「この身は今は歳きわまりて候えば、さだめてさきだちて往生し候わんずれば、浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし」(末灯鈔)
(訳:私は年老いてしまったので、きっと先に死んで極楽浄土へ往生すると思うので、浄土にて必ず必ず死の解決を待っている)
「我が歳きはまりて、安養浄土に還帰すといふとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり。我なくも法は尽きまじ和歌の浦 あをくさ人のあらん限りは」(御臨末の御書)
(訳:これから私は死んで極楽浄土へ帰って行くが、寄せては返し寄せては返す波のように何度も戻ってこよう。死の解決をして喜ぶ人がいれば二人だと思ってくれ、死の解決をして喜ぶ人が二人いれば三人だと思ってくれ、その一人は親鸞である。私がいなくなっても法は尽きないぞ。求める人がいる限り)
・何度も帰ってくる
釈迦が遠い昔から仏であったように、教授の善知識と呼ばれるような超人は、還相の菩薩と考えて間違いありません。つまり、元々仏であった方が、人々を救うために菩薩として地球に戻って来られたということです。
救い方は様々です。たとえば、無常を観じさせるため、救いたい人の前で死んでみせるということもあります。
法然には、ある噂があります。舎利佛→善導→法然と生まれ変わり、次は庄松となって生まれ変わったのではないかという噂です。
「命終その期ちかづきて 本師源空のたまわく 往生みたびになりぬるに このたびことにとげやすし」(高僧和讃)
(訳:臨終が近づいて、法然上人が「往生は三度目となるが、今回は特に遂げやすい」と言った)
蓮如も生まれた時に、「恥ずかしながらまた来たど」と言ったと伝えられています。
生まれ変わり研究などでも、親など近しい人を導くために、自ら病気になって生まれてきたといった事例がいくつもあります。
・善知識の苦悩
世間的な苦しみとは異なりますが、善知識にも苦しみがあります。
ある時、弟子の1人が釈迦に「仏にも苦しみがあるのでしょうか」と聞いたところ、釈迦は「雨が降るが如く人々が地獄に堕ちている姿が見える。それが苦しみである」と答えています。また、蓮如は病気を患った時、「人の信のなきことを思し召せば、身を切り裂くように悲しきよ」と言い、自分の病気よりも人の信の心配をしています。
つまり、善知識は「人々が苦しむことに苦しむ」といえます。念のため言いますと、だからといってこの苦しみが障りとはなりません。詳しくは後述します。
〇善知識は厳しい
「仏教の先生」と聞くと、「温厚そう」だとか「決して怒らない人格者」といったイメージを持つ人がいます。悪い言い方をすれば、去勢されたようなイメージを持つ人もいるかもしれませんが、そうではありません。
善知識と呼ばれるような人は、非常に怒りっぽく、激しい気性であり厳しい人です。釈迦は、言ってもわからない相手には、時に暴力も辞しませんでした。これはもちろん私憤からではありません。善悪に厳しいからです。善を一生懸命する人は怒りっぽいです(詳しくは第4巻「雑毒の善」)。
また、真剣だからです。
落語家の立川談志は、居眠りしていた客に怒り退出させたことがありますが、真剣に話をしているのに聞く側がいい加減だと怒りがでます。ちなみに、このことを不服とした客は、その後、裁判を起こしていますが、居眠りが会場の空気を乱し、重大な障害になる事もありえるとして訴えは棄却されています。
そして何より利他心からです。
親は、子に悪い面があれば直そうと厳しくしますが、厳しくするのは、子が憎いからではなく愛情からです。これを教えた「憎くては 叩かぬものぞ 笹の雪」という古歌もあります。動物をいじめているように見えて、実は野生に戻す訓練だったという話もあります。プロ野球の星野監督は、乱闘になった時、ベンチで見ていた選手に対して、「仲間が大変なときに黙って座るとは何事か」と叱ったといいます。慈悲の観音菩薩には馬頭観音という憤怒の相があります。
怒っている人を見て、「そんなに怒らなくてもいいのに」とか「もっと冷静になるべきだ」「客観的に自分を見るべきだ」と思うこともあるかもしれませんが、以上のような理由から、当事者にならないとわからないことがあります。客観視した結果、怒りが出るということがあるのです。稲盛和夫は、「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」と言いましたが、広い視点で善悪を見る必要があります。
・厳しくされなかったら信用されてない
そんな善知識から叱られたり厳しくされないということは、簡単に言えば、信用されていないということであり、その程度のレベルということです。つまり、厳しさに耐えられるだけの能力がまだないと思われているのです。極悪人の人間を進歩させ、上にあげるためにはどうしても厳しくならざるを得ません。
・注意されるうちが華
あるいは、悪に染まり切っているために厳しくしても無駄だと思われているかもしれません。
ジャータカには「香り盗人」という話があります。
出家した修行者が、池の水面を覆うように咲きそろった蓮の花の香りをかいで楽しんでいました。
その時、陰から蓮池の主が現れて、「花の香りをかぐのは泥棒だ」と修行者に注意しました。驚いた修行者は抗議しました。
「花を折ったわけでもないし、花を散らしたわけでもない。香りをかいだだけなのに、なぜ泥棒というのか」
するとそこに1人の男がやってきて、花を荒し根こそぎ取っていきました。
「香りを楽しむだけの私を泥棒ととがめながら、あの男にはどうして何も言わないのか」
再び修行者が抗議すると、蓮池の主はこう諭しました。
「悪に染まった人に何を言っても無駄です。あなたは悪をやめ善をすることに努める修行者。うさぎの毛ほどの罪も敏感に感じるべきです」
これを聞いて修行者は深くうなずき、ますます修行に励んだといいます。
「注意されるうちが華」という言葉もありますが、本当におかしい人には誰も注意しません。善知識から注意されなくなったら終わりです。
第3章 善知識
3.1 善知識の種類
3.2 善知識の仕事
3.3 善知識の必要性
3.4 善知識に遇う難しさ
3.5 悪知識とは
3.6 知識選びの重要性
3.7 善知識を信じる力
3.8 善知識の願い
3.9 善知識の恩を知る