これまで説明してきた通り、知識で運命が決まるので、知識選びほど人間にとって重要なことはありません。悪知識を善知識だと思ってしまったら一生を棒に振るばかりか、死後は無間地獄に堕ちなければなりません。
博多万行寺の住職、七里恒順は、知識選びを針と糸の関係にたとえています。糸は針の行く方向についてゆくしかなく、糸の運命はまったく針によります。針(知識)が間違えば糸(信者)は地獄に堕ち、針が正しければ糸は極楽に生まれるということです。
しかし、知識選びは非常に難しいものです。最終的には自分で判断するしかありませんが、慎重に慎重を重ね、誰の話を聞くべきか選ぶ必要があります。
〇必ず影響を受ける
意識するとしないとにかかわらず、近づく相手の影響を人間は必ず受けます。
つまり、善知識に近づけば必ず良い影響を受け、悪知識に近づけば必ず悪い影響を受けるということです。それは、いい匂いがする人に近づくと自分もいい匂いが染みつき、臭い人に近づくと自分も臭くなるようなものです。経には、お香売りとケンカすれば自分にもお香の匂いが染みつき、魚売りとケンカすれば自分にも魚の臭いが染みつくようなものであるとたとえられています。
・善知識にはケンカしてでも近づく
善知識と会話を交わしたり触れたりするだけで宿善となります。たとえ悪意があろうが、善知識に近づけば善い業が染みつくのです。ですので、善知識にはケンカしてでも近づけといわれます。これは、救う側の視点に立てばよくわかるはずです。善人だろうが悪人だろうが、近づかなければ救いようがないのです。
・悪知識とはケンカすることも危険
同じ理屈で、悪知識とはケンカすることも危険です。近づいたり見たりしただけで、必ず悪い影響を受けます。
・悪知識を遠ざけて善知識に近づく
日々の生活を反省すれば、悪知識や偽物にばかり接しており、知らず知らずのうちに悪い影響を受けています。意識的に悪知識を遠ざけ、善知識に近づくよう努力する必要があるのです。
「諸々の比丘当に善知識に親近すべし、悪知識に近づくこと莫かれ」(増一阿含経)
(訳:真実の幸福を求める人は、善知識に親しみ近づき、悪知識に絶対に近づいてはならない)
「悪をこのまん人には、慎みて遠ざかれ、近づくべからず。善知識・同行には親しみ近づけ」(末灯鈔)
(訳:悪知識からは注意して遠ざかり、近づいてはならない。善知識には親しくして近づきなさい)
〇知識を見分ける力
死の解決をした人からすれば、その人が死の解決をしているか否かはもちろんのこと、どのくらいのレベルの人間かは見てすぐにわかります。死の解決をしていなくとも、こういったことは求道が進むにつれわかってきます。
・ずっと考えてきたからすぐわかる
わかる人は少し話を聞いただけで、その人が善知識であるか否かの判別がつきます。わずかな言葉で釈迦に帰依したという弟子は多くいます。「少し話を聞いただけですぐ信じる」と聞くと、ただ妄信しているだけだと思うかもしれませんがそうではありません。善知識に出遇うまでの間、ずっと真実を求め続けてきたからわかるのです。
どの世界にもいえることですが、玄人は相手のちょっとした情報から相手の力量がわかるものです。たとえば、一流の鑑定士は本物と偽物の区別をすぐ見抜くことができます。玄人は、そのわずかな情報から、素人にはつかめない情報をつかむことができ、一を聞いて十を知ることができるのです。そのわずかな情報には驚くべき価値が詰まっているのですが、素人にはその価値はわかりません。
親鸞は法然の話を1回聞いただけで法然のことを善知識だと思っていますが、法然に出会うまでの29年間、ずっと考えてきたからすぐに法然が善知識であると確信できたのです。そのわずかな時間の中で、人生をかけた目には見えない真剣勝負が繰り広げられているといえます。
宿善がある人は、意識するとしないとにかかわらず、仏教的な問題を小さい時から考えています。もちろん、教学がないので漠然としたものではあります。そういう人でないと、出遇った時に知識の善悪は見抜けません。このように求道は善知識に出遇ってから始まるのではなく、小さい頃からすでに「無意識の求道」が始まっているといえます。
しかし、ほとんどの人は宿善がないので、こういった過程を経ずに知識選びをしてしまいます。それは妄信であり非常に危険です。実際、多くの人が悪知識を信じています。また、たまたま善知識と出遇って求道を始めても、求道心が弱く、途中で脱落してしまいます。棚ぼた式に仏教に出遇ったため、価値がわからないのです。
第3章 善知識
3.1 善知識の種類
3.2 善知識の仕事
3.3 善知識の必要性
3.4 善知識に遇う難しさ
3.5 悪知識とは
3.6 知識選びの重要性
3.7 善知識を信じる力
3.8 善知識の願い
3.9 善知識の恩を知る