悪知識とは、仏教の悪い先生という意味で、死の解決の体験も教学もない人です。

〇悪知識の怖さ

悪知識に従えば、当然死の解決はできず、地獄に堕ちることになります。

「一盲衆盲を率いて、火坑に堕つる」(仏蔵経)

(訳:一人の悪知識が、大衆を道連れにして地獄に堕ちる)

 

「師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄に堕ちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、悲しみてもなほ深く悲しむべし」(御文)

(訳:悪知識についていけば、先生も弟子も極楽には往生せず、必ず地獄に堕ちる。嘆いてもなおあまりあり、悲しんでもなお深く悲しいことだ)

・悪知識に対する怒り

悪知識を見て怒りを感じるようでなければ、仏法者とはいえません。

親鸞が84歳の時、あろうことか長男の善鸞が名利のために仏法を利用するようになりました。「父から、私一人だけに教えられた秘密の法門がある」と言って同行を惑わしたのです。

親鸞が問い質しても妄言は一向に止まず、さらには親鸞の悪口を言うようにもなりました。

もはや手の打ちようがないと思った親鸞は、「親ということあるべからず。子と思うことも思い切りたり」と書いた義別状を善鸞に送りつけました。

可愛いわが子との縁を切りたいと思う親はいません。それほど仏法を捻じ曲げる罪は重いのです。

親鸞のこの姿勢は死ぬまで一貫しています。親鸞が死ぬ前日のことです。病の重さを聞きつけた善鸞がたずねてきましたが、それを知るや親鸞は怒りをあらわにして、「外道の顔など見たくもない、汚らわしいから追い返せ!」と言い、面会を許さなかったといいます。

親鸞の意志を継ぐ蓮如もまた悪知識には厳しく、ある時は、歯ぎしりをしながら、「切り刻みても、飽くかよ、飽くかよ(切りきざんでも足りない)」と言いました。また、道の先に善鸞の墓があることを知った時には、三里(約12キロ)手前から、「外道に堕した悪知識の墓など見たくもない」と言い、笠で顔を隠したといいます。

 

〇悪知識で溢れている

今日、間違った仏教が流布し、仏教に対するイメージも悪いですが、その大きな原因は僧侶にあります。

「獅子身中の虫」という諺がありますが、仏教を捻じ曲げるのは、他ならぬ仏教者自身です。福沢諭吉が、「僧侶は俗より出でて俗よりも俗なり」と批判し、庄松が「法を瘦せかしてわが身を太らせている」と批判した通りの実態があります。

2014年の文化庁調査によれば、全国の寺院の数は約76,000、僧侶の人数は377,898人となっています。同じ年の全国のコンビニの数は約52,000、歯科医院の数は約68,000となっており、これらと比較しても多い数であることがわかります。これだけの僧侶が正しい仏教を説けば、仏教は衰退せず、多くの人を救えるはずです。

ところが、現代の僧侶は、副業として僧侶をしたり、僧侶の仕事をしても間違った葬式をしたりする始末です。また、寺は本来、仏教を説く場所ですが、現代の寺は墓地や観光地やコンサート会場となり、「がらん仏教」と化しています。

地蔵十輪経には次のような話があります。

昔、ある国に、牡と牝の2頭の白象が仲良く暮らしていました。白象には美しい牙があり、ある時、その牙の噂を王が聞きつけました。

「その白象を捕えてこい。捕えた者には欲しいだけの褒美をとらそう」

こう命じると2人の猟師がやってきました。

「私たちが必ず捕まえてみせます」

「どうやって捕まえるのか」

「噂によれば白象たちは仏に帰依しているとのことです。そこで袈裟をかけて近づけば容易にしとめることができましょう」

2人は仏弟子に化け、毒矢を隠しながら白象に近づいていきました。白象たちは袈裟をかけているので、すっかり安心していました。

しかし、牝象がどこか様子がおかしいことに気づきました。

「あの2人は目つきが怪しい。私たちの命を狙っているかもしれませんよ」

「バカなことをいうものではない。仏弟子ではないか。謗ってはならないよ」

牡象は注意しました。

すると突然、猟師は牡象に向けて毒矢を放ちました。牝象は怒り、猟師を踏み殺そうとしますが、牡象がそれを止めました。

「仏弟子のなさることだ。何かわけがあってなさるに違いない。必要であれば何でも差し上げなければならない。そのためにたとえ命がなくなってもよいではないか」

牡象は最後まで疑わず息を引き取りました。

この話は、名利という牙を手に入れるために、仏教を捻じ曲げて無知な大衆を騙す僧侶の姿を猟師にたとえています。

明治時代、見事な陶器を作ると評判の医者がいました。

ある日、その医者が、自分が作った茶碗を披露していました。見事な出来栄えに一同が感嘆していると、しばらくして建仁寺の管長、竹田黙雷がやってきました。

「黙雷さん、どうですか、この茶碗。見事な出来でしょう」

黙雷が茶碗を手に取りじっと見たかと思うと、皆に聞こえるように言いました。

「この男は偽医者じゃ、こんな医者には絶対にかからぬほうがいい」

思わぬ言葉に場は静まり返りました。

「黙雷さん、どうしてそんなことを」

すると黙雷は、「医者が専門家も及ばぬ陶器を作るとは、医療に魂が入っていない証拠だ」と言いました。医者は首をうなだれたといいます。

この話は二足の草鞋を履くことを批判しているわけですが、この医者のような僧侶は多くいます。仏教のために名利を手段として活かしているのであればいいのですが、そうではなく、それどころか仏教を名利のために利用する僧侶で溢れています。

「仏法者のやぶるにたとへたるには、『獅子の身中の虫の獅子をくらふがごとし』と候へば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげ候なり」(御消息集)

(訳:仏法者自身が仏法を破壊する様を、「獅子の体の中の虫が獅子を喰らうようなものである」とたとえられている。仏法者を妨げて潰しているのは、他でもない仏法者自身なのである)

 

「悲しきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」(悲嘆述懐和讃)

(訳:何と悲しいことであろうか。仏教徒もそうでない者も、日時の良し悪しといった迷信を信じ、阿弥陀仏以外の仏や神を崇め、占いや祭祀に努めている)

 

「皆人の地獄に堕ちて苦を受けんことをば何とも思わず、また浄土へ参りて無上の楽を受けんことをも分別せずして、いたずらにあかし空しく月日を送りて、更にわが身の一心をも決定する分もしかしかともなく、一巻の聖教を眼にあてて見ることもなく、一句の法門をいいて門徒を勧化する儀もなし。ただ朝夕は、暇をねらいて、枕を友として眠りふせらんこと、まことにもって浅ましき次第にあらずや」(御文)

(訳:人々が地獄に堕ちる一大事を何とも思わず、また、極楽浄土に往生して無上の楽を受けるという道理もわからず、ただいたずらに日々を過ごし、わが身の死の解決もせず、一巻の聖教も見ようともせず、人々に一句の仏語さえ伝えようとしない。ただ一日中、世間事に心を奪われ、暇があれば寝たり怠けており、本当に浅ましい限りである)

 

・悪知識は身近にいる

広い意味では、仏縁を切るすべての人が悪知識となります。たとえば、恋愛することで求道をやめることになれば、その恋人が悪知識になったということです。このように、親や友人、子供や配偶者、上司や恋人等々、悪知識はすぐ身近にいるのです。

 

・人間は悪知識が大好き

人間には煩悩があり、顛倒の妄念があります。これはつまり、悪知識を好む心理があるということです。

「魔のために惑はされ慧眼を覆障せられ、深く利養を貪りて、諸の外書を看る。猶群盲の誑のために欺かれて、皆深坑に堕して死せしめらるるが如し」(仏蔵経)

(訳:煩悩という悪魔に惑わされて正しく本質を見抜く力が覆われてしまい、深く欲を貪り、仏教と関係ない本を見る。正邪を見抜くことができないので、徳があるように見せかけている悪知識に騙されてしまい、皆地獄に堕とされてしまう)

 

真実を見抜く力がないと、騙されて地獄に導かれていながら悪知識に感謝するということになってしまいます。

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第3章 善知識
3.1 善知識の種類
3.2 善知識の仕事
3.3 善知識の必要性
3.4 善知識に遇う難しさ
3.5 悪知識とは
3.6 知識選びの重要性
3.7 善知識を信じる力
3.8 善知識の願い
3.9 善知識の恩を知る