善知識にはどんな役割があるのか、いくつか例を挙げます。

〇死の解決へ最短で導く

求道者を、まっすぐに最短で死の解決へ導く役割です。

「人心をして歓喜信楽せしむる、是を善知識と為す」(大品般若経)

(訳:人々を死の解決に導く、これを善知識というのである)

・求道を後ろから押す

阿弥陀仏は求道を前から引っ張ってくれますが(招喚)、善知識は後ろから押す役割があります(発遣という)。求道する人には大きくこの2つの力が働いているため、求道を前に進めることができます。

 

・1人導いたら役目が終わる

求道のゴールである死の解決まで導くというのは、非常に難しいことです。1人の人間を死の解決まで導くことができれば、その善知識の役割は終わったともいわれます。

 

・己証

釈迦の真意を、従来の伝統仏教よりわかりやすく、求めやすくすることを己証といいます。

過去の善知識方の己証のおかげで、求道を最短ルートで進むことができます。仏教は進化しているともいえます。現代の求道者は巨人の肩に乗れることに感謝すべきです。

私の著書でも、現時点での最善の方法を書いているつもりですが、これから科学の進歩等によって、もっと求めやすい方法論も開発されるかもしれません。あるいは、人間のやることなので逆に廃れるかもしれません。

 

〇阿弥陀仏一仏を勧める

人間の唯一の救い主である阿弥陀仏一仏に向かうよう勧めるという役割です。

「善知識の能というは、『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』と、人を勧むべきばかりなり」(御文)

(訳:善知識の役割は、「一心一向に阿弥陀仏に帰命せよ」と、人に勧めるだけである)

・善知識は仲介人

善知識は、阿弥陀仏と人間とをマッチングする仲介人です。

たとえば、南無阿弥陀仏という薬はあっても、人間にはその薬の存在も飲み方もわかりません。助けたいと願う阿弥陀仏と、助かりたいと願う人間がどうして結びつかないのかというと、間に入って説明する仲介人がいないためで、その役割を善知識が担っているということです。

江戸時代に、お七という八百屋の娘がいました。

ある日、家の近くで火事があり、お七は寺へ避難しました。寺には吉三郎という小姓がおり、やがて2人は恋仲になります。しばらくして寺を離れ吉三郎とも離れなければなりませんでした。しかし、どうしても会いたい思いが捨てられなかったお七は、こう考えました。

(もう一度火事になれば吉三郎さんに会える・・・)

思いつめた末に、お七は火を放ってしまい、町は大火事となりました。

しばらくして、お七は捕えられます。当時、放火は火あぶりの刑でした。しかし、お七の心情を知った奉行は、火あぶりの刑はあまりに惨いと思い、何とか助けられないかと思いました。一方、お七も何とかして助かりたいと思っていました。しかし、私的な感情で法律を変えることはできません。そこで、奉行は次のように言いました。

「お七、本当はお前は放火なんてしていないだろう?」

お七が「はい」と言いさえすれば、それで済まそうと奉行は思っていました。

しかし、お七は正直に言えば助かると思っていました。そのため、「いいえ、私がやりました」と言ってしまいました。思惑が外れた奉行は、次にこう言いました。

「お七、本当はお前は14歳だろう?」

当時の法律では、14歳以下は火あぶりの刑を免れることができたため、奉行はこう言ったのでした。しかし、お七は、またしても「いいえ、私は15歳です」と正直に言ってしまいました。

なす術がなくなり、とうとうお七は処刑されてしまいました。この一件を知った人々は、こう歌を詠みました。

「恋で身を焼く 八百屋のお七 飛んで火にいる 夏の虫」

助けたい奉行と助かりたいお七でしたが、どうして助からなかったかというと、奉行の思いをお七に伝える人がいなかったからです。

これと同じことが阿弥陀仏と人間との間で起こっています。人間は自分勝手に解釈しようとしますが、助けたい側の意図を汲み取ることが重要なのです。また、自然法則というのは、ありのままに観察すべきで、人間の都合が入る余地はありません。

 

〇救い主ではない

あくまで、死の解決に救い取る力があるのは阿弥陀仏一仏だけであって善知識ではありません。

・善知識だのみの異安心

この点を忘れ、善知識が救ってくれると勘違いしている人を、「善知識だのみの異安心」ともいいます。

「帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、大きなるあやまりなり」(御文)

(訳:信ずべき阿弥陀仏を捨て、善知識を救い主だと思うのは、大きな間違いである)

 

・善知識がいなくなっても求める

ですので、たとえ生きた善知識が死んだり、いなくなったとしても絶望する必要はありません。

釈迦は涅槃に入る直前、「これからどうしたらいいのでしょうか」と嘆き悲しむ弟子に向かって、法を灯とするよう説きました。法を灯とすることで、自らを灯とすることができます。これを自灯明・法灯明の教えといいます。

 

〇全知全能ではない

善知識を全知全能ぐらいに思っている人がいます。そこまでいかなくとも、それに近い存在を想像している人は少なくありません。しかし善知識は、死の解決に導く専門家であって、何でも知っているというわけではありません。世間で先生とか専門家と呼ばれるような人も、特定の分野の先生や専門家なのであって、何でも知っているというわけではないのと同様です。

また、釈迦でさえ、この世では人間の形をとっている以上、煩悩がある不完全な存在です。初めは善知識と尊敬していたものの、不完全な面を見て幻滅してしまうという人もいます。

そういう人は庄松を知るといいでしょう。

庄松は世間的には愚鈍な人です。字の縦横も知らず逆さまに聖教を読んだり、8までしか数えられないため八文と言われて周りからはバカにされていました。8までしか数えられない人は、そういないはずです。

しかし、庄松は妙好人と評される人の中でも筆頭に挙げられるような人です。鈴木大拙という仏教学者が庄松のことを英訳して海外にも広めたので、世界的にも知られています。

「仏法は知りそうもなき人が知る」といわれますが、庄松はまさにそのような人です。僧侶や大学教授といった立派な肩書がある人が仏教を知っていそうに思えるかもしれませんが、そうではありません。何の肩書もない庶民がよく知っていたりします。善知識が善知識である所以は、世間的な知識や能力とは異なり、もっと別なところにあるのです。

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第3章 善知識
3.1 善知識の種類
3.2 善知識の仕事
3.3 善知識の必要性
3.4 善知識に遇う難しさ
3.5 悪知識とは
3.6 知識選びの重要性
3.7 善知識を信じる力
3.8 善知識の願い
3.9 善知識の恩を知る