他力信心は得難いものです。

〇難中の難

経には「極難信法」とあり、極めて信じ難い教えであり、これほど難しいことはないと説かれています。

「もしこの経を聞きて信楽受持せんこと、難きが中に難し、この難に過ぎたるは無し」(大無量寿経)

(訳:仏教を聞いて死の解決をすることは、難の中の難であり、これより難しいことはない)

 

「善知識に遇い、法を聞きて能く行ずる、これまた難しと為す」(大無量寿経)

(訳:善知識に遇い、法を聞いてその通りに修行することは、また難しい)

 

「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」(正信偈)

(書き下し:信楽受持すること甚だ以て難し、難の中の難斯に過ぎたるは無し)

(訳:死の解決をすることは甚だ難しく、難の中の難であり、これより難しいことはない)

・行じ易く信じ難い

他力仏教聴聞するだけなので、実行することは簡単です。しかし、聴聞する目的である「信心」を得ることは非常に難しいことなのです。

 

・求道は最初から最後まで難しい

スタートからゴールまで、求道はとにかく難しいことだらけです。

「善知識に遇うことも 教うることもまた難し よく聞くことも難ければ 信ずることもなお難し」(浄土和讃)

(訳:善知識に遇うことも、善知識から教えを受けることも難しい。教えをよく聞くことも難しければ、信じることもなお難しい)

昔から、死の解決まで求め切る人の確率は、「国に1人、郡に1人」といわれます。国と郡は昔の単位ですので、今では都道府県や市区町村にあたります。この人数しか求道のゴールまで行けないということではなく、それぐらい難しいということです。

単細胞生物から大進化を繰り返し、人間になるまで約38億年かかっています。死の解決をするということは51段目の悟りまで大進化するということです。それを人間の短い一生で達成するのですから、どれほど難しいことなのか頭だけでもわかるでしょう。

 

〇疑情

阿弥陀仏の本願を疑う心を疑情といい、無明や自力と同義です。阿弥陀仏はいるんだろうか、という粗雑な疑いではなく、疑煩悩とは違います。「本当に救ってくだされるのだろうか」「自分だけ本願に漏れているのではなかろうか」といった疑いがムクムクムクムクと出てくる、これが疑情です。

・苦悩の根源

人間のあらゆる苦悩の根源であり、六道を輪廻させる根源となります。人間の本体である阿頼耶識は、始めのない始めから終わりのない終わりに向けて、永遠と苦しみ迷い続けていますが、その根源が疑情ということです。

「流転輪回のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」(高僧和讃)

(訳:苦悩の輪廻に際限がないのは、疑情があるからである)

 

「還来生死輪転家 決以疑情為所止」(正信偈)

(書き下し:生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す)

(訳:車の輪が果てしなく回るように苦しみと縁を切ることができないのは、疑情があるからである)

縁が切れないことのたとえとして「家」という言葉を使っています。人間は家を離れて生活ができません。家と縁が切れないように苦しみと縁が切れないということです。

 

・意外なところに原因がある

「火吹き竹の根は藪にあり」という諺があります。

これは、原因が思わぬところにあるという意味です。苦悩の根源が疑情であるということは、人間にとって物凄く意外なことです。

 

・差別の慈悲か

阿弥陀仏の愛は平等の愛ではなく、差別の愛であると批判する人がいます。

ある時、一休が、友人の蓮如に次のような歌を送りつけました。

「阿弥陀には まことの慈悲はなかりけり たのむ衆生を のみぞたすくる」

「阿弥陀仏はすべての衆生を助けるというが、たのむ衆生だけを助けるのだから、真の慈悲はなく、差別のある仏ではないか」と一休は言うのです。

これに対し蓮如は、こう返歌します。

「阿弥陀には 隔つる心はなけれども 蓋ある水に 月は宿らじ」

「阿弥陀仏に隔て心はないが、蓋がある水に月の光が届かないように、心に蓋をしていては阿弥陀仏の光明は届かない」という意味です。つまり、心の蓋(疑情)を外すよう努力しなければならないと教えているのです。

「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ(勅修御伝)」という歌もあります。

「月の光は至る所を照らすが、眺めようとする人の心にしか見えないように、阿弥陀仏の光明はあらゆる場所を照らすが、疑情の蓋が取れた人しか救われない」ということです。

 

・疑情の重要性

疑情が見えるということは恐ろしいことですが、非常に重要なことです。なぜなら、疑情が見えれば求道が本格化し、必死の求道が始まるからです。そして、同時に求道のレールに乗ることになります。一度このレールに乗れば、ほとんどの人が脱線することなくゴールまで辿りつくことができます。地獄が見えて途中でやめる人はいません。逆に、疑情が見えていない人は、途中で求道から脱線する可能性があるため、非常に危険な状態です。

疑情が見えた求道者は、歯が生えた赤ん坊にたとえることができます。歯が生えれば母親の乳首を噛んでしまいます。それは親を苦しめることであり恐ろしいことですが、親は、「ここまで成長したか」と喜びます。同じように、阿弥陀仏を疑う心なので疑情は恐ろしいことですが、阿弥陀仏は喜んでくださるのです。ちなみに、妙好人として評される「おみせ」という人は次のように表現しています。

「みなが疑いを嫌うような聞きようをするが、それでは親心に叶わぬ。乳飲み子が母の乳房を噛むと、乳を飲ませぬと腹を立てるということはない。かえって歯の生えたことを喜ぶ如く、大悲の御親は疑えば助けぬぢゃない、かえって疑いの歯の生えたことを喜ぶとまでの御意にあうのぢゃ。けれども疑うてさえをりゃよいと聞くぢゃない」

疑情が見えるまでは、信仰の幼稚園児なのです。

 

・疑情の解決は難しい

相当求道が進まないと疑情は見えません。

大まかに言えば、求道の半分ぐらいまで進んだ時に見えてきます。そして、疑情を解決する必要がありますが、それは物凄く難題です。

妙好人として評されている山口善太郎という人は、次のように求道の途中までの道程を残してくれています。

「聞けよ聞けよのお勧めが 耳に聞こえりゃ機に合わず 少しも聞く気のない奴に 不思議と聞く気が起こり初め 御座を重ねて聞くものの 聞いたばかりじゃ味がない 味わいどころか苦しくて 無き疑の起こり出し 他力の十八願は 信じて来たれと仰言るが 信じにかかれば自力なり 頼んで参れと仰言るが 頼みにかかれば亦自力 まかせまかせと仰言るが まかせは自力の押しまかせ おすがり申せと仰言るが 柱にすがると違う故 すがる気おこせばたよりなし その儘来いよと仰言るが 行く気起せば亦自力 自力と言うも自力なり 自力他力の水際を 委しく教うる人はなし 真の知識にあいたやと 聞かば千里のその外の 海山越えても厭わじと 狂い廻れる甲斐もなく 何のしるしもあらばこそ それでも無常の鬼来ると 思えば益々気味悪く とりつく島もなき故に 堕ちる私があればこそ 堕とさぬお慈悲があるのじゃと 又お慈悲にとりつけば やはり自力の逆もどり どうせ離れぬ自力なら 自力のままのお助けと 思えば自力は続くなり 自力そのままおきざりに お助けばかりじゃ首がない 此の機ばかりじゃ尻がない 尻がないのは幽霊で 迷い苦しむその末に 堕ちて行くのが持ち前と 胴腰据えたら地獄秘事 この機よかろが悪かろが 仏の手元がたしかな故 あなたばかりで済ますのは 法体づのりの親玉よ そこでいよいよ難信儀 泣いて甲斐なきことなれど 方角立たずに泣くばかり」

彼は「無き疑の起こり出し」と言っていますが、これが疑情です。この言葉の裏には、千座・万座と聴聞を繰り返した求道の道程が隠されているのです。

疑情を解決するということは、この上なく重い病気を治すということです。

第3巻でも説明しましたが、この病気は自覚症状のない恐ろしき病です。人間は病気が発覚するまでは何の心配もしません。

しかし、いざ見つかると大きなショックを受けます。そして、治す方法を必死で探し出します。少しでも効果がありそうだと思えば、大金を投げだして求めようとします。しかし、どれだけ努力しても治すことができなければ絶望します。

そこへ、治すことができるという名医と出会えば喜び希望が湧いてきます。

しかし、「本当に治るのだろうか」という疑いは消えていません。医者は「任せてください」と言い励ましてくれますが、時間が経つにつれ、「この医者に任せて本当に大丈夫だろうか」という医者に対する疑いがムクムクムクムクと出てきます。医者への期待と疑い、そして死の恐怖が入り乱れたまま手術を迎えることになります。

そして、無事手術が成功し病気が治ったことをはっきりと知った瞬間、躍り上がって喜びます。「先生が言ったことは本当だった!嘘じゃなかった!先生は本当に名医だった!」と医者に対する疑いは雲散霧消します。

名医とは阿弥陀仏のことです。疑情の解決までの流れは、このようにたとえることができます。何より重要なのが「病気の自覚」です。自覚できれば求道のレールに乗ることができます。

また、疑情を次のようにたとえて教えた人もいるので紹介しましょう。

北陸に、千座・万座と聴聞していた婆さんがいました。

この婆さんがある時、「今晩死んだら・・・・」と後生が心配になりました。この心が出てくれば、誰でも居ても立っても居られなくなります。それで婆さんは寺に駆け込みました。

すると、一蓮院という僧侶が出てきました。

「婆さん、どうした」

「はい。実は、今晩死んだらと思ったら心が真っ暗なんです」

「そうか。婆さんや、良い心が出てきたのー」

婆さんからしてみたら、ちっとも良い心とは思えません。

すると一蓮院は、白玉と黒玉を5個ずつ持ってきました。そして、中が見えない箱に、それらの玉をすべて入れて振りました。

「1つ取り出したら、白と黒のどちらの玉が出るか当ててみろ」

こう言われて婆さんは悩みました。

そこで次に一蓮院は、黒玉を2つ箱から取り出しました。

「箱には白玉5つ、黒玉3つが入っている。1つ取り出したら、どちらの玉が出るか当ててみろ」

婆さんは、なお悩みました。

「白玉のほうが多いので、たぶん白玉が出ると思うのですが・・・・」

「悩んでいるようじゃな、婆さん」

そこで一蓮院は、また黒玉を2つ箱から取り出し、どちらの玉が出るか聞きました。

「今度は白玉5つ、黒玉1つですから、白玉が出ます」

婆さんは自信ありげに言いました。すると一連院は、大きな声で言いました。

「黒玉が1つ入っているんだぞ!黒玉が出るかもしれないぞ!」

そう言われて婆さんは自信がなくなりました。

そこで一蓮院は最後の黒玉を取り出し、どちらの玉が出るか聞きました。すると婆さんは、「白玉出ます!」と自信満々で答えました。

一蓮院は言いました。

「黒が1つでも残っていたらすっきりしない、はっきりしないだろう。それが疑情というもんじゃ」

 

・阿弥陀仏の恩を知らない罪を知る

疑情というのは、阿弥陀仏の恩を知らない心です。

阿弥陀仏のご苦労を何も知らなかったことに対する懺悔が起きます。その罪の大きさは1000人殺したぐらいとは違うのです。

「仏智うたがうつみふかし この心おもいしるならば くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし」(正像末和讃)

(訳:仏の智慧を疑う罪は深い。この疑うという心の罪の重さを知るならば、悔いる心を宗として、仏の不思議な智慧を信ずべきである)

 

「真心徹到するひとは 金剛心なりければ 三品の懺悔するひとと ひとしと宗師はのたまえり」(高僧和讃)

(訳:死の解決をした人は、絶対に崩れない信心であるので、三品の懺悔をする人と等しいと、善導大師は言っている)

三品の懺悔とは、次の3つの懺悔のことです。

上品の懺悔:目から血の涙、全身から血の汗

中品の懺悔:目から血の涙、全身から熱い汗

下品の懺悔:目から熱い涙、全身から熱い汗

聴聞によらなければ、人間は深重な罪悪を自覚することができず、ここまでの懴悔をすることができません。

 

・すべては聴聞

どっこいしょしていることを自覚するのも、疑情の解決も、すべては聴聞で解決できます。また、聴聞でしか解決できません。

「とにかくに、信・不信、ともに、仏法を心に入れて、聴聞申すべきなり」(御一代記聞書)

(訳:いずれにしても、信心を得たと思っている者も思っていない者も、ともに、心から仏法を聴聞すべきである)

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第2章 阿弥陀仏
2.1 仏とは
2.2 阿弥陀仏の認識
2.3 阿弥陀仏の本願
2.4 南無阿弥陀仏
2.5 念仏
2.6 本尊
2.7 仏壇
2.8 勤行
2.9 阿弥陀仏の光明
2.10 信じ難い
2.11 極楽浄土