阿弥陀仏の光明は、すべての衆生に降り注いでいます。
〇十二光仏
阿弥陀仏の光明は、次の12通りの徳を備えているので、阿弥陀仏のことを十二光仏ともいいます。
無量光仏:光明に限りが無いため
無辺光仏:あらゆる世界を照らすため
無碍光仏:何ものにも遮られずすべての生物を照らすため
無対光仏:他に並ぶ光がなく、どんな仏も及ばないため
光炎王仏:炎が燃えるように明るく最も優れた輝きのため
清浄光仏:煩悩の汚れを取り除くため
歓喜光仏:大いなる歓喜の心を生じさせるため
智慧光仏:無知の闇、無明の闇を破るため
不断光仏:常に絶えることなくすべてを照らすため
難思光仏:思いはかることができないため
無称光仏:言葉で説き尽くすことができないため
超日月光仏:太陽や月の光など、他のどんな光よりも超え優れているため
〇2種類の光明
阿弥陀仏の光明には、大きく2種類あります。
・調熟の光明
遍照の光明や照育の光明ともいい、大宇宙のすべての衆生に降り注いでいる光明です。雑毒の善を宿善に変えるなど、求道者を成長させ前進させる力です。
・摂取の光明
一念で死の解決に救い取る光明です。
調熟の光明で宿善を厚くし続け、最後に摂取の光明で救い取るという流れです。
「この光明の縁にあいたてまつらずは、無始よりこのかたの無明業障の恐ろしき病の、治るということは更にもってあるべからざるものなり」(御文)
〇調熟の光明
すべての生き物に調熟の光明がかかっています。
太陽や月の光は物に遮られると届きませんが、阿弥陀仏の光明は十万億もの世界離れていようが何物にも妨げられることなく、すべての命あるものを照らします。
ある日、庄松が道を歩いていた時のことです。
犬がいたので、その前を庄松は、「ごめん」と言って通りました。それを聞いていた連れの人は、「犬にごめんという奴があるか」と叱りました。しかし庄松は、「犬にごめんなんて言ってない」と言います。
「今言っただろ!だからバカって言われるんだ!」
「言ってない」
このようなやり取りを何度か繰り返した後、庄松はこう言います。
「お前なぁ、ワシは阿弥陀仏の本願にごめんと言ったんで、犬には言っとらん。犬も十方衆生の中。阿弥陀仏の本願がこの犬にもかかっていると思ったら、思わずごめんと言わざるを得なかったんじゃ」
・求道を前から引っ張る
求道者には阿弥陀仏の念力が前から働き、求道を引っ張っています(招喚という)。
求道は善をする道であり真実を知る道ですが、こういった心は凄く良い心であり、人間の本性からいえば、こんな良い心が人間にあるはずがありません。自分の力でこのような心を起こしているように思っていますが、実際は阿弥陀仏の念力によるものです。たとえば、デートしたり遊んだほうが楽しいのに、正座して苦しい思いをしてまで仏教を聞こうとするのは阿弥陀仏の力だということです。
最初は、「自力の菩提心がある」と思って求道を始めますが、自力いっぱいで求めていくと、「自力の菩提心が欠片もない」ということがわかってきます。
・係念の宿善
人間の善は雑毒の善であり虚仮の行ですが(詳しくは第4巻)、その雑毒の善を宿善と変える力が阿弥陀仏の光明にはあります。ですので、雑毒の善であっても一生懸命善をすることが大切です。
もちろん、毒を捨てるよう努めなければなりません。たとえば、人を救おうとする行為には、「自分が救われたい」という、いわば阿弥陀仏に対する「賄賂」がまじっているため、この悪い心(毒)を捨てようと努める必要があります。
・死の解決をするまで気づかない
今も照らしあわされており、普段の生活の中でも色んな形を取って調熟の光明は現れますが、死の解決をするまで基本的にわかりません。死の解決をして初めて、あれは阿弥陀仏が教えてくれたことだったのかとわかります。しかし、真剣に求めると水流光明が見えることもあります。
・無量の罪悪を照らし出す
人間は無量の罪悪を造っているにもかからず、そのことが自覚できません。無量の光明によって照らし出されることで初めて無量の罪悪を自覚することができます。無量の罪悪が自覚できればショック死することになりますが、この点については後述します。
第2章 阿弥陀仏
2.1 仏とは
2.2 阿弥陀仏の認識
2.3 阿弥陀仏の本願
2.4 南無阿弥陀仏
2.5 念仏
2.6 本尊
2.7 仏壇
2.8 勤行
2.9 阿弥陀仏の光明
2.10 信じ難い
2.11 極楽浄土