本尊とは、「根本に尊ぶべきもの」という意味です。
〇阿弥陀仏だけに向かう
仏教は、阿弥陀仏一仏を本尊とします。
「一向専念無量寿仏」(大無量寿経)
(書き下し:一向に専ら無量寿仏を念ずべし)
「一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり」(御伝鈔)
(訳:一向専念無量寿仏の教えは、仏教の要である)
「肝に銘じる」とか「腑に落ちる」などといわれるように、肝腑は要という意味であり骨目も同じです。
「一心一向というは、阿弥陀仏において二仏を並べざる心なり。この故に、人間においてもまず主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいわく、『忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず』といえり」(御文)
(訳:一心一向というのは、阿弥陀仏以外の仏を並べない心である。人間関係においても、一人の主人だけに仕えるのが道理であり、「史記」の言葉の中にも、「忠臣は二人の君主に仕えない、貞女は二人の夫を持たない」と書かれているのである)
「今の行者、あやまりて脇士に仕うることなかれ、ただちに本仏をあおぐべし」(御伝鈔)
(訳:求道者は、誤って阿弥陀仏以外の菩薩や諸仏を本尊としてはならない。ただちに阿弥陀仏を仰ぐべきである)
仏教は、一切の脇士や脇掛を許しておらず、阿弥陀仏一仏に向かいます。本尊の左右両脇に侍しているものを脇士といいます。阿弥陀仏の脇士は、観音菩薩と勢至菩薩です。勢至菩薩は、阿弥陀仏の智恵の象徴です。観音菩薩は、阿弥陀仏の慈悲の象徴です。たとえば千手観音が有名ですが、たくさんの手は空間的な無限大を表し、あらゆる衆生を助ける心を表しています。象徴化する意味は、ハトが平和の象徴であるように、形がなくわかりにくい阿弥陀仏の実態をわかりやすくするためです。
ちなみに釈迦の脇士は文殊菩薩と普賢菩薩になります。文殊菩薩は、釈迦の智恵の象徴です。「三人寄れば文殊の知恵」という諺にもなっています。普賢菩薩は、釈迦の慈悲の象徴です。
・常に心にかける
聴聞や開顕、勤行といったことはもちろんのこと、どんな時でも阿弥陀仏に心を掛けるということです。
田舎から江戸に出てきた男が、スリにあったと大岡越前守に訴えました。
「そうか、しっかりかけていたか?」
大岡越前守が尋ねると男は、「はい、首にしっかりとかけていたのに取られてしまいました」と答えました。
それを聞いた大岡越前守は、「それではダメだ。心にしっかりとかけなければこの江戸では取られてしまう。以後、心にかけられよ」と言ったといいます。
阿弥陀仏も、しっかり身につけるだけでは不十分で、しっかり心にかける必要があります。
・一向宗
阿弥陀仏だけに向かうために一向宗といわれたりしますが、これはこちら側から名づけたものではありません。周りにそう言わしめるぐらい阿弥陀仏一仏に向かっているということです。
「一向宗といふ名言は、さらに本宗より申さぬなりと知るべし」(御文)
(訳:一向宗という名言は、本宗から言い出したことではないと知るべきである)
・阿弥陀仏に向かわなければ助からない
阿弥陀仏一仏に向かわなければ救われないから、これほど強調するのです。
「皆々心を一つにして、阿弥陀如来を深くたのみたてまつるべし。その他には、いずれの法を信ずというとも、後生の助かるということ、ゆめゆめあるべからずとおもうべし」(御文)
(訳:阿弥陀仏一仏だけを深く信じなさい。それ以外は、どんな法を信じようとも、後生が助かるということは絶対にない)
蓮如一期記には、「位牌、卒塔婆をたつるは輪廻する者のすることなり」とも説かれています。
庄松が、ある仏教徒の家へ行った時のことです。
あろうことか家には神棚が飾ってありました。それを見るや庄松は、「間男見つけたり!間男見つけたり!」と叫びました。すると家の主人は、「娘が病気になって藁にもすがる思いだったんだ。許してくれ、許してくれ」と泣きながら言ったといいます。
・阿弥陀仏以外は捨てる
阿弥陀仏以外の仏や菩薩、神々には人間を救う力がないため、すべて捨てます。
「あまた、御流に背き候う本尊以下、御風呂の度毎に、焼かせられ候う」(御一代記聞書)
(訳:阿弥陀仏以外の本尊等は、火を起こすたびに焼いた)
〇名号本尊
本尊というと、木像や絵像などを思い浮かべるかもしれませんが、南無阿弥陀仏の六字の名号が正しい本尊です。これは、「名号を聞く1つで救われる」という本願成就文に由来します。
・名号は形にとらわれにくい
木像や絵像は感情が刺激されやすく、形にとらわれてしまい、阿弥陀仏の姿を正しく認識できなくなるという欠点があるため、名号を本尊とします。
「木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」(御一代記聞書)
(訳:木像より絵像、絵像より名号が本尊としてふさわしいのである)
・破壊と創造の繰り返し
どうしても名号を通して形のある阿弥陀仏、特に擬人化した阿弥陀仏を想像してしまいますが、どんな阿弥陀仏を思い浮かべても間違いです。
聴聞しては間違った信じ方をしていたことに気づき(破壊)、そしてまた新しい信じ方をし(創造)、という具合に信仰というのは破壊と創造の繰り返しであり、そうして求道は進んでいきます。
・理想の本尊
名号そのものの価値は変わりませんが、善知識と阿弥陀仏の関係から、自分が尊敬する善知識が書いた名号が理想的で、信仰が進みやすくなります。
〇安置する場所
本尊は、唯一の救い主である阿弥陀仏そのものであるため疎かにできません。安置する場所が必要です。
・仏壇
仏壇は阿弥陀仏を安置する家です。ですので、求道者はもちろん、仏教を尊く思う者であれば仏壇は必要不可欠です。本尊の扱いにはくれぐれも注意し、火事が起きた時でもすぐに持ち出せるようにしておきます。
・携帯用
ペンダントにしたり、携帯して身につけることも尊い行為となります。基本的に、寝る時を含め、入浴時以外は常に身につけてもいいものですが、疎かにしないよう注意しなければなりません。
〇数珠
阿弥陀仏を礼拝する時は必ず数珠を持ちます。
「数珠の一連をも持つ人なし。さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり」(御文)
(訳:数珠を持たずに阿弥陀仏に向かうことは、阿弥陀仏を素手で掴むようなものである)
第2章 阿弥陀仏
2.1 仏とは
2.2 阿弥陀仏の認識
2.3 阿弥陀仏の本願
2.4 南無阿弥陀仏
2.5 念仏
2.6 本尊
2.7 仏壇
2.8 勤行
2.9 阿弥陀仏の光明
2.10 信じ難い
2.11 極楽浄土