本願は誓願ともいい、約束という意味です。
〇本願ができるまでの流れ
〇十八願
〇本願力
〇どんな極悪人でも救う
〇悪人を優先して救う
〇すべての仏の願い
〇本願成就文
〇本願ができるまでの流れ
阿弥陀仏にも求道していた時代があり、その頃の名を法蔵菩薩といいます。阿弥陀仏の本願は、正確には法蔵菩薩の時に立てた誓願となります。大無量寿経には本願生起の御有様が説かれているので簡単に紹介しましょう。
久遠の昔、錠光という如来が世に出でて、無量の衆生を救い涅槃に入りました。続いて、光遠、月光などの53の如来が次々と世に出て涅槃に入りました。そして、54番目の仏として世自在王仏が世に出ました。
時に、1人の国王があり、世自在王仏の説法を聞いて深く感動しました。国王は、国も王位も捨てて出家し、法蔵と名乗りました。法蔵菩薩は世自在王仏の御所に詣り、恭しく跪き合掌して言いました。
「世尊、どうか私のために広く法をお説きください。その教えの通り修行し、最勝の浄土を建立したいと思います。一切衆生の苦しみの根源を解決させたいからです。たとえ苦難の毒中に身を沈めても、耐えて修行に励み、決して後悔しません」
それを聞いた世自在王仏は、「どのような修行をして浄土を建立するかは、汝自身で知るべきであろう」と突き放すように言いました。
しかし、法蔵菩薩は訴えます。
「その教えはとても深くて広く、私などには知ることができるものではありません。どうか、諸仏浄土の成り立ちをお説きください。その教えを承った上で、お説きになった通り修行し、私の願いを叶えたいと思います」
世自在王仏は、法蔵菩薩の志願の動かざることを知り、この菩薩のために教えを説きました。
「たとえば、ただ1人で大海の水を升で汲み取ろうとしたとしよう。果てしないときをかけてそれを続けるなら、底まで汲み干して、海底の妙法を手に入れることができる。これと同じように、人が精進して、一心に道を求め続けるなら、目的は必ず達せられるだろう」
このように言うと、世自在王仏は二百一十億の諸仏浄土を見せ、1つ1つの浄土の優劣と、そこに住んでいる人々の果報の善悪を説きました。
法蔵菩薩は、それらの浄土をすべて見終わると、極めて澄んだ心で五劫の間思惟し、未だかつてない誓願を立てました。それは、信ずる1つで救うという誓いでした。次に、その願を成就するために、兆載永劫の修行をなされ、ついに仏覚を得て阿弥陀仏となりました。あわせて、極楽浄土を荘厳し、衆生が受け取る1つで救われる六字の名号を完成したのです。
〇十八願
阿弥陀仏の本願は大きく48に分かれますが、その中で、次の36文字からなる第十八願を王本願といい、最も重視します。なぜなら、阿弥陀仏の本願のエキスが、この36文字に凝縮されているからです。
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」(大無量寿経)
(書き下し:設い我仏を得んに 十方の衆生 至心に信楽して 我が国に生まれんと欲うて乃至十念せん 若し生れずば 正覚を取らじ 唯五逆と正法を誹謗せんことを除かん)
(訳:私が仏になる時、すべての人々が心から信じて、私の国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、仏の命を捨てよう。ただし、五逆の罪を犯した者と謗法の罪を犯した者は除く)
要約すると、「私を信じなさい。すべての人々の死を必ず解決させる」という意味になります。
阿弥陀仏の本願といった場合、一般的にこの第十八願を指します。第十八願は、「至心信楽の願」「選択本願」「念仏往生の願」などともいいます。
・乃至十念
「乃至十念」とは、「御礼の念仏は何回でもいい、称えたくなかったら称えなくてもいい、数は問わないぞ」という意味です。
「『乃至』は、かみ・しもと、おおき・すくなき・ちかき・とおき・ひさしきをも、みなおさむることばなり。多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、法蔵菩薩の願じまします御ちかいなり」(唯信鈔文意)
(訳:「乃至」は、上と下、多いと少ない、近いと遠い、久しいをも、すべて収める言葉である。念仏は数多く称えなければならないとか、あるいは一回だけ称えればいいといったことにこだわる心を止めさせるために、法蔵菩薩が願われたお誓いである)
大して価値がない物を貰った時は感謝する心がでませんが、高価な物を貰うと大きく感謝する心が生まれ、御礼をしたくなります。そして、あまりに高価な物を貰うと、「どう返したらいいだろうか」と苦しいほどに御礼に困るようなります。死の解決は、この上なく価値が高い貰い物ですが、「御礼で苦しめたくない」ということまで阿弥陀仏が見通しているのです。
・唯除五逆誹謗正法
この言葉の真意について、親鸞は次のように説明しています。
「唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべし、としらせんとなり」(尊号真像銘文)
(訳:唯除とは、ただ除くという言葉である。五逆罪を犯した極悪人を嫌い、仏法を謗る罪の重さを知らせようとされているのである。この2つの罪の重さを示して、すべての人々が皆もれずに往生できるということを知らせようとされているのである)
親は子供が悪いことをすれば厳しく叱りつけ、あまりに酷ければ「家から出てけ!」と怒鳴ることでしょう。しかし、このように厳しくする親の真意は、本当に家から出ていってほしいのではなく、子供に自分の過ちを反省させることにあります。悪いことしているのに、「あなたは悪くないよ」などと甘やかしていれば教育になりません。
このように、五逆罪と謗法罪という重い罪悪を造っている極悪人であることを自覚させて救おうとするのが、この言葉の真意です。別の言い方をすれば、極悪人の自覚ができれば他力が働き救われますが、自覚できなければ救われないということです。
・方便の本願
第十八願以外の本願は、第十八願へ導くための方便の本願となります。
「弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。余の四十七は、この願を信ぜしめんがためなり」(安心決定鈔)
(訳:阿弥陀仏の本願は四十八あるが、第十八願を本意とする。他の四十七の願は、第十八願を信じさせるためである)
ちなみに、第十九願と第二十願は次のようになっています。
・第十九願
「設我得仏 十方衆生 発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国 臨寿終時 仮令不与 大衆囲繞 現其人前者 不取正覚」(大無量寿経)
(書き下し:設い我仏を得んに 十方の衆生 菩提心を発し 諸々の功徳を修し 至心に発願して 我が国に生まれんと欲はん 寿終る時に臨みて 仮令大衆と囲繞して 其の人の前に現ぜずば 正覚を取らじ)
(訳:私が仏になる時、すべての生物が真実の幸福を求める心を起こして、様々な善を行い、心の底から私の極楽浄土に生まれたいと願うなら、臨終に多くの聖者と一緒にその人の前に現れよう。もしそうでなければ、仏の命を捨てよう)
第十九願は、「修諸功徳の願」「至心発願の願」ともいいます。
・第二十願
「設我得仏 十方衆生 聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心廻向 欲生我国 不果遂者 不取正覚」(大無量寿経)
(書き下し:設い我仏を得んに 十方の衆生 我が名号を聞き 念を我が国に係けて 諸の徳本を植え 至心に廻向して 我が国に生まれんと欲はんに 果遂せずば 正覚を取らじ)
(訳:私が仏になる時、すべての生物が私の名号を聞き、私の極楽浄土に念いをかけて様々な善を行い、心の底から私の極楽浄土に生まれたいと願うなら、必ず叶えよう。もしそうでなければ、仏の命を捨てよう)
第二十願は、「植諸徳本の願」「至心廻向の願」ともいいます。
〇本願力
本願には力があり、本願力といいます。業に力があり、業力と言うのと同じです。
・他力
現代では、「他力本願ではなく、自分の力で解決すべきだ」という具合に、他力を「他人まかせ」の意味に使われたりしますが、これは間違いです。他力とは、阿弥陀仏の本願力のことをいいます。
「他力と言うは、如来の本願力なり」(教行信証)
(訳:他力とは、阿弥陀仏の本願の力である)
・念力
心で思ったり念じることには力があり念力といいますが、本願力は阿弥陀仏の念力になります。そのため、阿弥陀仏の本願力を大願業力ともいいます。
「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」(観無量寿経疏)
(訳:すべての人間が往生できるのは、みな阿弥陀仏の大願業力によるのであり、これを最上の力としないものはないのである)
・死の解決
阿弥陀仏の本願力には、すべての人間の死を解決させる力があります。
「偏に本願をたのみまいらすればこそ他力にては候へ」(歎異抄)
(訳:ただ阿弥陀仏の本願力の働きに身をまかせるからこそ他力なのである)
〇どんな極悪人でも救う
阿弥陀仏の本願は、すべての衆生を救う本願です。優れた人間だけでなく、どんな極悪人でも救ってくださいます。すべての仏に本願がありますが(釈迦にして五百願)、人間のような極悪人を救う本願は阿弥陀仏の本願だけです。ですので、仏教で本願といえば阿弥陀仏の本願を指します。
「仏の顔も三度まで」という言葉が流布しているようですが、何度でも救おうとされるのが阿弥陀仏です。
「如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき」(正像末和讃)
(訳:阿弥陀仏の本願という救いの船がなければ、この苦悩の海をどうして渡ることができようか)
「生死の苦海ほとりなし ひさしくしずめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」(高僧和讃)
(訳:この世は際限がない苦悩の海のようである。遠い昔から苦海に沈んでいる私たちを、阿弥陀仏の本願の船だけが、必ず乗せて救ってくれる)
「そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんと思召したちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄)
(訳:無数の罪悪をもつこの身を、唯一助けようと思われた阿弥陀仏の本願の、何と有り難いことであろうか)
「それ十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、むなしく皆十方三世の諸仏の悲願にもれて、捨て果てられたる我等ごときの凡夫なり。しかればここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの、諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫、五障・三従の女人をば、弥陀にかぎりて、われひとり助けんという超世の大願をおこして」(御文)
(訳:すべての人間は、諸仏が見捨てるような極悪人である。そんな我々を救おうとして、諸仏の師である阿弥陀仏一仏だけが無上の大願を起こし、立ち上がってくだされた)
・信ずるだけで救う
賢愚・貴賤・貧富・美醜・老若・男女etc.あらゆる差別に関係なく、阿弥陀仏を信ずる1つで死の解決ができます。
「賢愚を択ばず、緇素を簡ばず、修行の久近を論ぜず、造罪の重軽を問はず、ただ決定の信心すなはちこれ往生の因種ならしむ」(観無量寿経義疏)
(訳:頭が賢いか愚かか、出家か在家かに関係なく、また、修行時間の長い短いを論ぜず、造る罪悪の軽い重いを問わず、ただ信心が決定することだけが往生の因なのである)
「速入寂静無為楽 必以信心為能入」(正信偈)
(書き下し:速に寂静無為の楽に入ることは、必ず信心を以て能入と為す)
(訳:速やかに極楽浄土に入るには、他力信心を獲るしかない)
「多聞浄戒えらばれず 破戒罪業きらはれず」(帖外和讃)
(訳:仏法を多く聞いたとか、清浄で正しい戒を守るといったことに関係ない)
「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」(歎異抄)
(訳:阿弥陀仏の本願は、老若や善悪に関係ない。ただ信心一つで救われると知るべきである)
「その信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて正行に帰するをもって本意とす。その正行に帰するというは、何のようもなく、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり」(御文)
(訳:死の解決をするには、智慧や才学も問わず、貧富も問わず、人間の善悪も問わず、性別も問わず、ただ諸々の雑行を捨て阿弥陀仏を一心一向に信ずる一つで救われるのである)
「他力の信心といふことを詳しく知らずは、今度の一大事の往生極楽はまことにもって叶うべからずと、経釈ともに明らかにみえたり」(御文)
(訳:阿弥陀仏から他力の信心を賜わらなければ、極楽浄土に往生することは絶対にできない。どんな経典や聖教にも明らかである)
・弘誓の強縁
あらゆる衆生を救うという広大な誓願であるため、阿弥陀仏の本願のことを「弘誓の強縁」ともいいます。
第2巻で説明した通り、幸せという結果を得るには、自由意志で悪縁を捨て良縁を選び取る必要がありますが、弘誓の強縁以外、何を選ぼうが真の幸せは手に入りません。阿弥陀仏から賜る弘誓の強縁と人間の凡心が因縁和合して、死の解決という結果を獲ることができます。
この仕組みは炭素と熱の関係でたとえることができます。炭素(凡夫の心)に普通の熱(名利)という縁が結びつくと炭(無常の幸福)となりますが、炭素に高熱高圧(弘誓の強縁)という縁が結びつくとダイヤモンド(死の解決)となるようなものです。
教行信証には、「心を弘誓の仏地に樹て」と説かれています。死の解決をせずに生きることは、崩れやすい地にビルを建てているようなものです。死という巨大な地震がくれば、跡形もなく崩れ去ってしまいます。死の解決をしない限り真の安心はないのです。
・命がけの誓い
阿弥陀仏は十八願に、「若不生者 不取正覚」と誓っています。これは、「もし死を解決させることができなければ、命を捨てる」という意味です。
「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり」(浄土和讃)
(訳:阿弥陀仏が命がけの誓いをされているから、一生懸命求道すれば、必ず死の解決ができるのである)
〇悪人を優先して救う
阿弥陀仏の本願は、すべての衆生を救う本願ですが、悪人を優先して救います。
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄)
(訳:善人でさえ救われるのであれば悪人はなおさら救われる)
・なぜ悪人を優先するのか
第4巻で説明した通り、悪人とは、自己の罪悪を知って苦しんでいる人であり、善人とは、罪悪を造りながら造っている自覚が無く、善をしていると自惚れている人です。人間もそうですが、苦しんでいない人より、苦しんでいる人を先に救おうとします。
「しかるに諸仏の大悲は苦ある者に於てす、心偏に常没の衆生を愍念したまう」(観無量寿経疏)
(訳:仏の慈悲はより苦しんでいる人により重くかかるのであり、その心は偏に苦悩の海に沈み切っている人をあわれんでいるのである)
「たとえば一人にして七子有らん。この七子の中に、(一子)病に遇えば、父母の心平等ならざるに非ざれども、しかるに病子において心則ち偏に重きがごとし。大王、如来も亦爾なり。諸々の衆生において平等ならざるに非ざれども、しかるに罪者において心則ち偏に重し」(教行信証)
(訳:たとえば、ある人に七人の子供がいたとしよう。この七人の中で、一人病気になる子がいれば、親心はすべての子に平等でないはずがないが、この病気の子には特に心がかかるようなものである。阿弥陀仏もまた同じように、すべての生物に平等でないはずがないが、自己の罪悪を自覚して苦しんでいる悪人に、より心がかかるのである)
・本願ぼこり
「悪人こそ救われる」という教えを、「どんな悪いことをしても救われるんだ」とか「悪いことをするほど救われる」と誤解することを「本願ぼこり」とか「造悪無碍の異安心」といいます。「安心」とは「信心」のことで、異安心とは「異なる信心」という意味です。何と異なるかというと、他力の信心、つまり阿弥陀仏から賜る信心と異なるということです。
本願ぼこりは、悪に誇っている善人様の状態であり、当然救われません。
「弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからず」(歎異抄)
(訳:阿弥陀仏の本願には不思議な力があるからといって、罪悪を造ることを恐れないのは、本願ぼこりであり救われない)
〇すべての仏の願い
本願の内容は仏によって表向きには違いますが、根本的な目的は皆同じです。阿弥陀仏しか人間を助けることができないので、阿弥陀仏一仏に向かうよう勧めているということです。
・釈迦は阿弥陀仏の宣伝マン
釈迦は阿弥陀仏の本願を説きに還相廻向の菩薩として地球上に現れた、いわば阿弥陀仏の宣伝マンなのです。一つの星に一仏というのが基本で、釈迦は地球担当となります。
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(正信偈)
(書き下し:如来世に興出したまう所以は、唯弥陀の本願海を説かんとなり)
(訳:釈迦がこの世に出られた理由は、阿弥陀仏の本願一つを説くためであった)
阿弥陀仏の本願は、広くて深い願いであるため海にたとえています。また、「只」ではなく「唯」という字を使っています。「只」は、只で物をもらった時に使う字ですが、「唯」は唯一という意味です。
「かの長ぜるを顕したまうことは、一切衆生をして斉しく帰せざることなからしめんと欲してなり。このゆえに釈迦、処処に嘆帰せしめたまえり。須らくこの意を知るべしとなり」(教行信証)
(訳:(釈迦が)阿弥陀仏を誉め称える理由は、すべての生物を阿弥陀仏に帰依させたいと思うからである。このため、釈迦は経典の様々な箇所で阿弥陀仏を讃嘆しているのである。この真意をよく知るべきである)
経典は阿弥陀仏を誉め称えてばかりいるので、天台の荊渓という人は、「諸教の讃ずるところ、多く弥陀にあり」と言い、「一切経は阿弥陀仏の提灯持ちじゃないか」と驚いています。
・説き尽くせなかった
釈迦は45年もの間、阿弥陀仏の本願を説き続けましたが、あまりの功徳の大きさに、「説き尽くすことができなかった」と言っています。
「我無量寿仏の光明威神の巍巍として殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、尚未だ尽くすこと能はず」(大無量寿経)
(訳:阿弥陀仏の光明の偉大で尊いことを、私が一劫もの間、昼も夜もなく説き続けても、なお説き尽くすことはできない)
・釈迦は方便の役割
つまり、釈迦は阿弥陀仏の本願へ近づけるための方便の役割を果たしているのです。
「それ、一切の神も仏と申すも、いまこの得るところの他力の信心ひとつをとらしめんがための方便に、諸々の神・諸々の仏と現れたまふいはれなればなり」(御文)
(訳:一切の神や仏は、他力の信心一つを獲させるための方便として、諸々の神や仏となって現れたのである)
・浄土三部経
「大無量寿経(大経)」「観無量寿経(観経)」「阿弥陀経(小経)」この3つを浄土三部経といい、仏教で最も重要な経典となります。大経は、阿弥陀仏の本願の四十八願中、十八願を説明した経です。同様に、観経は十九願を、小経は二十願を説明した経です。浄土三部経に説かれていることを簡単に表現すると、それぞれ次のようになります。
大経:死の解決に救う(阿弥陀仏の言葉)
観経:どんな人でも助かる(釈迦の言葉)
小経:それに間違いない(三世諸仏の言葉)
〇本願成就文
阿弥陀仏の本願だけでは不明な点がいくつかあります。その不明点を釈迦は、大無量寿経下巻の本願成就文で明らかにしています。
「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心廻向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆 誹謗正法」(本願成就文)
(書き下し:諸有の衆生 其の名号を聞きて 信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり。彼の国に生まれんと願ずれば 即ち往生を得 不退転に住す。唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん)
(訳:すべての生物は、阿弥陀仏の名号を聞き、他力信心を獲て死の解決をするのである。死の解決をすれば、生きながら往生することができ、不退転の位に至る。ただし、五逆と謗法の罪を犯す者は除く)
本願成就文で次の不明点が明らかになります。
1.どうすれば助かるのか
聞其名号(名号を聞いて)
2.若不生者の生れるという意味は死後なのか現在なのか
即得往生 住不退転(現在)
3.信心は自分で起こすのか阿弥陀仏より賜るものなのか
至心廻向(他力)
4.信心で助かるのか念仏で助かるのか
信心歓喜 乃至一念(信心)
・本願成就文が至極
本願は本であっても至極ではなく、成就文が至極、つまり最も大切です。
「三経の安心あり。そのなかに『大経』をもって真実とせらる。『大経』のなかには第十八の願をもって本とす。十八の願にとりては、また願成就をもって、至極とす」(改邪鈔)
(訳:浄土三部経の中で、大無量寿経が真実の経である。大無量寿経の中でも第十八願が根本であるが、第十八願の不明点を説明している本願成就文が最も大切である)
「横超とは、すなわち願成就一実円満の真教、真宗これなり」(教行信証)
(訳:阿弥陀仏の絶対他力を明らかにした本願成就文が、唯一真実で完全無欠な教えである)
第2章 阿弥陀仏
2.1 仏とは
2.2 阿弥陀仏の認識
2.3 阿弥陀仏の本願
2.4 南無阿弥陀仏
2.5 念仏
2.6 本尊
2.7 仏壇
2.8 勤行
2.9 阿弥陀仏の光明
2.10 信じ難い
2.11 極楽浄土