阿弥陀仏は絶対の仏なので、相対的な智恵しかない人間には認識が非常に難しい存在です。経には次のように、阿弥陀仏が時間的にも空間的にも超越した存在であり、いかに認識が難しいかが説かれています。

「かの弥陀如来は来って来るところなく去って去るところなし、生なく滅なく過現未来にあらざるなり」(無量寿荘厳経)

(訳:阿弥陀仏は、どこから来た仏でもどこかへ去っていく仏でもない。生じる仏でも滅する仏でもなく、過去の仏でも現在の仏でも未来の仏でもない)

そのため、「架空の仏」と思う人も多く、仏教を長く聞いている人でも「本当にいるのだろうか」と思う人は多いです。

庄松は、ある未信(死の解決をしていないこと)の同行と次のようなやり取りをしています。

「庄松さん、どうも私は求道しても喜べない」

「助からずに有難くなれるか。助かったらはっきりするぞ」

「でもなぁ、極楽に阿弥陀さんがおられるとはいうけれど、目に見えぬゆえ、どうも信じられず身が入らない」

「この山の向こうには阿波の国があるぞ」

阿波の国(現在の徳島県)は目には見えませんが、山の向こうに確かにあります。それと同じように、極楽浄土も目には見えないけれど確かにあるということを庄松は言っているのです。庄松はこういう言い方をしていますが、第1巻から説明してきたように目には見えない世界を知る方法は他にもあります。

明治時代の僧侶で清沢満之という人がいます。

真宗大学(現在の大谷大学)を建設した人であり、彼の思想は本願寺を支配するほどの大きな影響力があります。その思想の内容は、彼が死の一週間前に著した「我が信念」の中に端的に表れているので、重要なところを抜粋します。

「第一の点より云へば、如来は私に対する無限の慈悲である。

第二の点より云へば、如来は私に対する無限の智恵である。

第三の点より云へば、如来は私に対する無限の能力である。

斯くして私の信念は、無限の慈悲と、無限の智恵と、無限の能力との実在を信ずるのである。

無限の慈悲なるが故に、信念確定の其の時より、如来は、私をして直に平穏と安楽とを得しめたもう。私の信ずる如来は、来世を待たず、現世に於いて、すでに大なる幸福を私に与えたもう。

私は他の事によりて、多少の幸福を得られないことはない。けれども如何なる幸福も、この信念の幸福に勝るものはない。故に信念の幸福は、私の現世に於ける最大幸福である。これは私が毎日毎夜に実験しつつある所の幸福である。

来世の幸福のことは、私は、まだ実験しないことであるから、ここに陳ぶることは出来ぬ」

「我が信念」は、今日、「明治の歎異抄」とも評されているほどのものですが、この文章には間違いが少なくとも2つあります。

1つは、智恵と慈悲そのものが如来だと言っている点です。

智恵と慈悲は阿弥陀仏の属性であって阿弥陀仏そのものではありません。阿弥陀仏は智恵と慈悲の覚体といわれるように、阿弥陀仏には覚りの体、すなわち智恵と慈悲をそなえた本体があります。その本体は私たち人間と同じように、喜怒哀楽を感じられます。だからこそ、仏教徒は阿弥陀仏が喜ぶ行いをし、悲しむ行いを止めようと努めるのです。また、毎日の勤行時に、新鮮なお仏花と炊き立てのお仏飯を1番最初に阿弥陀仏にお供えし、恭敬礼拝するのです。阿弥陀仏は、「智恵そのもの」とか「真理そのもの」といった冷たい存在ではありません。

もう1つの間違いについては、後述する「死の解決の境地」のところで説明します。

〇阿弥陀仏のいる場所

阿弥陀仏は実在する方ですが、どこにいるのか説明します。

・遠くにいる

阿弥陀経には次のように、遥か遠い極楽浄土にいると説かれています。

「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽と曰う。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして説法したまう」(阿弥陀経)

(訳:地球から西の方へ十万億の諸仏の国々を過ぎたところに、極楽という世界がある。そこには阿弥陀仏という仏がおり、今現に法を説いている)

 

・近くにいる

一方、観無量寿経には、「阿弥陀仏、ここを去ること遠からず」と、阿弥陀仏がすぐ傍にいると説かれています。一見すると阿弥陀経の説明と矛盾しているように見えますが、そうではありません。観無量寿経疏には次のように説明されています。

 

分済不遠:人間の目からは遠いが、分済の違う阿弥陀仏から見れば遠くない

去時不遠:死の解決をすれば、臨終に一念で極楽浄土へ往生できるから遠くない

観境不遠:死の解決をして仏凡一体の身になれば、阿弥陀仏をはっきりと自覚するから遠くない

 

〇感応道交

死の解決の体験がない限り、基本的に阿弥陀仏はわからない存在です。では、死の解決をしないとまったく認識できないのかというとそうでもありません。信仰が進むと、阿弥陀仏と感応しあい、念力を感じられるようになります。これを感応道交といいます。

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第2章 阿弥陀仏
2.1 仏とは
2.2 阿弥陀仏の認識
2.3 阿弥陀仏の本願
2.4 南無阿弥陀仏
2.5 念仏
2.6 本尊
2.7 仏壇
2.8 勤行
2.9 阿弥陀仏の光明
2.10 信じ難い
2.11 極楽浄土