「人間の愛は小慈悲だから、しないほうが楽だし、やらないでいよう」などと思うのは間違いです。

「掃き溜めと金持ちは溜まるほど汚い」という諺もありますが、利他をしないと自然と心が汚くなるように人間はできています。現代は、親密な人間関係を築かなくても生きることができてしまうので、意識的に利他をする必要があります。

そして、何より利他をしないと求道が進みません。

「利他をしないと自己はわからない」「利他以上にやることはない」といってもいいくらい、求道において利他は非常に重要なものです。

〇2種類の仏教
・自利仏教
・利他仏教

〇2種類の利他

〇自利利他
・自他不二
・なぜ利他をすると自利があるのか

〇利他は自己を知る手段
・利他も限界のある幸せ
・愛は学ぶべきもの
・利他は悟りのキーファクター
・利他心を起こさせる
・お盆と利他の関係
・誰もが餓鬼になっている

〇利他に徹する
・自利を捨てる
・形だけでもやる
・時間も金も人のためにある
・利他を基準に考える
・利他ができるうちにやる

〇何を与えるか
・無常の幸福
・法

〇福田
・恩田
・敬田
・悲田

 

〇2種類の仏教

仏教は大きく、自利仏教と利他仏教とに分けられます。

・自利仏教

自利とは自分の幸せのことです。人を救うことよりも、自分の救いを優先する仏教です。小乗仏教ともいいます。

 

・利他仏教

自分の救いよりも、人の救いを優先する仏教です。大乗仏教ともいいます。こちらが正しい釈迦の教えです。

 

〇2種類の利他

1億円持っている人が1万円出すのと、1万円しかない人が1万円出すのとでは1万円に対する「念い」が違い、価値が違います。まったく同じ行為に見えても、心に目を向ければ1人1人違うのです。

同様に、人生の目的に向かっている人がする利他と、世間の人がする利他とでは違います。阿弥陀仏に心をかけて行う善を係念の善、そうでない善を汎爾の善といいますが、死の解決をするには係念の善が必要です(詳しくは第6巻)。

 

〇自利利他

仏教には自利利他という教えがあります。

人を幸せにすると自分に幸せが返ってくるという教えであり、人を救うことは自分を救うことという教えです。逆に言うと、人を不幸にすると自分に不幸が返ってくるという教えであり、人を苦しめることは自分を苦しめることという教えです。

・自他不二

不二とは、紙の裏表のように、二つではないが一つでもなく、互いが密接に関連しあっているということですが、「自分」と「他人」は不二であり、切っても切り離せない関係にあります。

 

・なぜ利他をすると自利があるのか

利他をすれば必ず自利がやってくるとは、因果の法則の1つである、善因善果の法則ということです。

第1巻から説明してきたように、結論から言うと、人間は愚痴の煩悩があるため深く信ずることはできません。だから救われないのですが、利他をして自利が返ってこないことは千に一つ万に一つありません。

盗跖のように悪の限りを尽くしながら恵まれた生活をする人もいれば、顔回のように一生懸命善をしながら不幸な一生を終えた人もいますが、どちらも因果の法則で説明することができます。

 

〇利他は自己を知る手段

利他をする目的は自己を知るためです。自己がわかるというのが1番の自利になります。

・利他も限界のある幸せ

世間でも幸福研究が盛んですが、結論をみると、「金や名誉といった名利に価値を置く人ほど幸福度が低く、愛に価値を置く人ほど幸福度が高い。だから人を幸せにしましょう」という流れが多いようです。

このように利他で幸せになろうと考える人は多いですが、「人を幸せにする幸せ」も無常の幸福の1つにすぎません。

つまり、第2巻で説明したように、「続かない」「安心できない」「満足できない」「相対的」「苦しみが解決できない」「不幸になる人を生む」「有無同然」といった致命的な欠点がある不完全な幸福です。

幸福が無常の幸福になっている限り、無常の幸福を与えて無常の幸福が返ってくることの繰り返しにすぎません。利他をするのは大変なことであり、利他をしないと幸せが得られないという境地は、善悪の区別がある不完全な境地です。

残念なことに、今日、この不完全な境地を「」だと思っている人が多くいます。たとえば、脳科学者の中野信子は「仏」について次のように語っています。

「法華経を最高の経典として称えた日蓮は、仏という存在を固定的にはとらえず、菩薩道を行じつづけていく凡夫の姿の中に仏があると説いています。この話は、脳科学的な見方からも納得できる話です。『成仏=仏になる』というゴールがあって、そこにたどりついたらもう菩薩行をしなくてもよいというなら、それ以後は脳にとってなんの刺激もない、退屈な状態に苦しみ続けなければならなくなってしまいます。幸福感は感じられず、脳もどんどん衰えていってしまうでしょう」(中野信子著「脳科学からみた『祈り』」より)

もしこれが「仏」の境地なのであれば完全な境地とは言えないはずです。仏教教学上からいっても間違っており、詳しくは後述します。

 

・愛は学ぶべきもの

愛は、他の無常の幸福同様、人生の目的ではなく、自己を知るための手段です。愛は幸せになるために求めるべきものではなく、学ぶべきものです。手段の価値しかないともいえますし、手段として大きな価値があるともいえます。

世を見渡せば、「綺麗で美しい愛、純粋な無償の愛がある」という主張で溢れてしまっています。意識するとしないとにかかわらず、自分に対しても人に対しても嘘をついているのです。完全な愛があると思っていれば、「裏切られた」と恨んだり、理想と現実のギャップに苦しむことになります。

不完全な愛だと頭でもわかっていれば、裏切られても「仏説の通りだった」と学ぶことができます。詩人の石川啄木は、「ひとりの人と友人になるときは、その人といつか必ず絶交することあるを忘るるな」と言いましたが、どんな人間関係にも同じことがいえます。

「愛の進化の大元をたどってみると、そもそもの愛は『個と種を維持するために用意された生物学的な仕組み』であると思われます。そしてより高度な『無償の愛』は、生物進化に伴って派生した『愛』の亜種と見ることができます。そうだとすると『愛は生きる目的』ではなく、どちらかというと『愛は生きるための手段』だといえます」(台場時生著「人工超知能が人類を超える」より)

 

利他をする生き方が幸せな生き方だと思いながらも、愛の欠点にも気づき苦しんでいる人もいるでしょう。そのような人も、愛が目的ではなく手段だと考えると納得できるはずです。

 

・利他は悟りのキーファクター

自利利他は、大乗仏教の根本精神です。

怒る時も私憤からではなく、正論を言う時も理性だけでなく、どんな時でも常に、根底に利他心が流れていなければなりません。

説明したように、現代では利他が健康のキーファクター(重要な要因)であるという人は多いですが、それだけでなく悟りへのキーファクターでもあると大乗仏教では説くわけです。

むしろ健康にいいというのはオマケにすぎず、悟りに近づけるというもっと大きな力を利他は秘めているということです。第1巻で説明した内容に加え、科学が明らかにした世界は、それを裏づけているのではないでしょうか。

たとえば、ジャコモ・リゾラッティ(パルマ大学人間生理学教授)が発見したミラーニューロンもその1つではないでしょうか。

「私たちは、他者が体験している痛みや悲しみ、嫌悪感を知覚すると、自分がそうした情動を経験するときに関与するのと同じ大脳皮質領域が活性化する。ここから、私たちと他者をつなぐ絆がいかに強力で深く根づいたものであるかがわかる。換言すれば、『私たち』を抜きにして『私』を考えるのは、奇妙この上ないのだ」(リゾラッティ)

 

「科学者たちは私たちがお互いを大切にすることは、人間の本能に矛盾していないことも発見しました。私たちの頭脳にあるミラーニューロンの発見がそれを示しています。ミラーニューロンは、私たちが行動しているときや何かを経験しているときにだけではなく、誰かが私たちの周囲にいるときにも発射されます。他者の悲しみや喜びを見ることが、私たちの脳にまるで自身の悲しみや喜びのような反応を引き起こすのです。

同情や共感は、私たち自身を惑わす何かではなく、人間がもともと持つ潜在能力であり、ニューロンシステムの構造に、それらが織り込まれている、と考えるべきことなのです。私たちが、自己中心的な群れをなして資源と生存を争うのではなく、コミュニティでの調和した生活を発展させていくことは、人間がもともと持っている能力のひとつなのです」(アーヴィン・ラズロ/ニューヨーク州立大学教授)

 

「互いに深く連結するように生物学的に配線され、進化的に設計されてきたことを、この細胞は教えているように思われる」

「私たちは生まれつき共感を覚えるようにできており、だからこそ社会を形成して、そこをさらに住みよい場所に変えていくことができるのだ」(マルコ・イアコボーニ著「ミラーニューロンの発見」より)

 

「自他を明確に区別し、他者を本質的に理解不可能な存在と想定する人間理解は、改訂を迫られることになるでしょう。われわれは、四六時中、他者の行動をミラリングしており、ミラーニューロンには自他が相互に乗り入れ、自他不二的に分離不可能となっているのです」(立木教夫/麗澤大学教授)

 

リゾラッティも、ミラーニューロンの働きは、利他的行動が進化したメカニズムであるかもしれないと考えています。

ミラーニューロンだけではありません。

脳の進化の原動力は社会性にあるというのが社会脳仮説の基本的な了解事項です。

ジョージタウン大学の生理学者、キャンデス・B・パートは、利他主義がなぜ免疫機能を高めるのかについて、「愛情あふれる人間関係をつくるように、人間が進化してきたからです。そのメカニズムをもっていない者は何万年も前に死に絶えたはずです」と言います。

「親切は集団のメンバーのあいだに強い絆を作り、集団を強くする。この強さが生き残りを左右するのだ」(デイビッド・ハミルトン)

 

「狩猟採集時代の人類は協力集団を形成して生き残ってきました。その集団のメンバーは互いに他者を助けることで、集団全体として生活が成り立っていました。だから私たちには、進んで人助けをすると嬉しくなる傾向や、人助けをするのは義務であると思う傾向が強くあるのです」(石川幹人/明治大学教授)

 

「人間と人間を結びつける目に見えない力を注意深く眺めてみると、さらに深遠なことがわかってくる。私たちの脳も体も、別個にではなく集団で機能するよう設計されているのだ。社会的なつながりは、たんなる潤滑油ではなく、人間のオペレーティングシステムの基本的な構成要素なのだ」(ジョン・T.カシオポ/シカゴ大学教授)

 

「自分の考えを他人に効果的に伝達する能力こそがおそらく、表記が私たちに与えてくれた一番重要な力であり、人間の文化の軌道に最も深遠な影響を与えてきた力なのだ」(「ヒトの目、驚異の進化」より)

 

「ヒトは、利他主義をテコとして個体レベルだけでなく集団レベルの選択の結果として生まれた。そこに言語の発生が加わることで、遺伝と文化の共進化という進化のブースターがもたらされる」(吉川浩満著「ヒトの社会の起源は動物たちが知っている 『利他心』の進化論」より)

 

「最古のヒトの種が誕生してから、脳が巨大化するにつれ、社会的交流に費やされる時間も増加した。この上昇傾向はオックスフォード大学のロビン・ダンバーが推測している。ダンバーは現存するサルと類似年の二種類の相関関係を用いた。1つは集団の規模と毛づくろいの時間の関係、2つ目は類人猿の集団規模と脳の容量との関係である。この手法をアウストラロピテクス属と彼らから生まれたホモ属の系統の種に広げれば、1日当たりの『社交に要する時間』は約1時間から、ホモ属の最古の種で2時間、現生人類では4時間から5時間に増えた可能性を示唆している。要するに、社会的交流の時間が増えることが、脳がより大きく、知性がより高度に進化するカギだったのである」(エドワード・O・ウィルソン)

 

「生物には、自己保存の本能があると同時に、他者と協調しようとする本能も存在し、この本能は生物学的要因として本来、備わっているものなのです」

「他の人の気持ちに寄り添い情けや愛情をかけることが視床下部でのオキシトシン発現を増加させる要因になっています。オキシトシンは心臓血管系を強くし、新陳代謝を円滑に保ち、痛みを和らげ、抗ストレス性を強めるなどの作用に関連しています」(高橋徳/ウィスコンシン医科大学名誉教授)

 

「人が心をひとつにできる関係を持てるとなぜ良いのか、根拠の1つは、愛情ホルモン、幸せホルモンなどとも呼ばれるオキシトシンがたくさん出るようになるためです。オキシトシンは妊娠、出産、授乳など子育ての際に重要な役割を果たすこと、抗ストレス作用が働くこと、多幸感を与えるなど、様々な働きをすることがわかっています。(中略)

オキシトシンは前頭前野の活性を変えて、自分と他者を同志として捉える効果を持っていること。また自身と他者の区別を少なくする効果があり、自分のことでなくとも、他者に対して自分ごとのように反応する効果を高めること。また、成功は自分によるもの、失敗は他責という考えを減少させる効果があり、他者を助け、他者を生かすように脳を使う効果があることもわかりました」(岩崎一郎)

 

「遺伝子は、自身の繁栄を目指すという意味においては利己的な存在なのでしょう。実際、無性生殖のみを行う細菌は、まったく利己的にしか見えません。

しかし、有性生殖のシステムを持つようになった生物は、利己的なだけでは生きていけないのです。生殖細胞が減数分裂して卵子と精子をつくり、1つの受精卵を産み、新たな個体をつくり上げていく、この壮大なドラマは、利己的な遺伝子に支配された細胞だけでは、ストーリーを進めていくことができません。『自ら死ぬ』という利他的なふるまいがなければ、種の存続に適した個体をふるいわけることも、精巧な身体の形をつくることも、複雑な生命活動を維持していくことも不可能だからです。もし遺伝子が『自分を殖やすこと』だけを考えていれば、結局、生物はいまのような繁栄も進化もできなかったことでしょう。

遺伝子が利他的な存在であるということをもう少し丁寧に表現すれば、『遺伝子が真に利己的であるためには、利他的に自ら死ねる自死的な存在でなければならない』ということになるのではないかと思います」(田沼靖一/東京理科大学教授)

 

生物学者のN・K・ハンフリーは、「他者の情動状態を感知する能力は遺伝子を広める上で有利だったので、人間の知性の発達ばかりか、人間の意識そのものの発達につながったかもしれない」と推測しています。

悟りの研究をしている神経科学者のアンドリュー・ニューバーグ(トーマス・ジェファーソン大学医学部教授)は次のように言います。

「報告によれば、人が悟りを体験している最中には他人への思いやりをより強く感じていることが多いようだ。だから、思いやりと親切心を育てれば、悟りへの道を拓くことにもなる」

「愛、ゆるしと思いやりの感情を育てれば、コルチゾールの分泌も減り、からだのストレス負荷も減少できる。コルチゾールのレベルが低下すれば免疫力も急増して、脳はより効率よく働けるようになるのだ」

また、臨死体験をした人はよく、「物質的な幸福に価値を感じなくなり、愛が最も重要だと思うようになった」といったことを言います。

精神科医のレイモンド・ムーディーは、臨死体験者に共通して現れる重要な心境変化について次のように強調しています。

「息を吹き返すと、すぐにほとんど全員が、『愛は人生で最も大切なものだ』と言うようになる。人間がこの世に生を受けるのは、愛のためだと言う者も多い。大半の者は、幸福と達成願望は愛の証明であり、愛に比べると他のものは色あせて見えるという。

このことを悟ることにより、臨死体験者のほとんどが、根本的に価値観を変えてしまう。自分の信念に凝り固まっていたものが、人間はそれぞれ大切だと思うようになり、有形の財産こそあらゆるものの頂点にあると思っていたものが、同胞愛を重んずるようになるのである」

医師で前世療法の施術も行っている加藤直哉は、次のように語っています。

「過去世療法という1つの学問が、カルマの法則の存在を肯定します。とすると、私たちは人生の生き方に1つの指針を得ることができます。それは『人に優しくしなければならない』ということです。人をいじめれば、カルマの法則で考えれば、いつか必ず自分に返ってきます」

高橋徳は、次のように魂の進化のキーファクターは利他であると言います。

輪廻転生については、幾多の報告があり、疑問の余地はありません。(中略)個々の魂は、最終の目標点を目指して進化すべく、様々な体験を蓄積していきます。そして魂が進化の究極の目標に到達できたとき、私たちはこの物質の世界に生まれ変わる必要がなくなります。魂の進化には宗教心を育む事が重要ですが、この宗教心は『利他の心』と言い換えることができます」

「仏教徒が瞑想や祈りの行為によって深い宗教的境地に達すると、瞑想者は『自分と外界との区別がなくなり、自分が孤立した存在ではなく、万物と分かちがたく結ばれてる』という実感を味わいます。

そしてこの宗教的境地に達するときには、脳の『方向定位連合野』という部分の活動が低下することがわかっています。『方向定位連合野』は『頭頂葉』の一部で『自分』と『他者』の境界を認識する部分です。興味深いことにこの宗教的境地は『自己と他者の境界がなくなるような感覚』であることです。その無境界の感覚と『方向定位連合野』の活動が低下していることとが密接に関連しています」

ドーキンスは、「利他性は、それを支えている遺伝子の利己主義を最大限にする手段となり得る」と言いましたが、「最大の幸福」は死の解決ですので、利他は死の解決のための重要な手段となり得るのです。

第2巻から見てきたように、無常観や罪悪観を問い詰めることは利他心につながります。愛情(利他心)と無常観罪悪観は密接な関係があるのです。利他をすることで無常観や罪悪観が問い詰まって自己がわかり、さらに利他心へとつながり・・・というサイクルを自然は望んでいるのではないでしょうか。

また、人を幸せにする幸福は他の幸福と質が異なる幸福だと言いましたが、利他が菩提(真実の幸福)へのキーファクターということであれば、「菩提と種類が似ている幸福」とでもいうような幸福となっている可能性はないでしょうか。

 

・利他心を起こさせる

利他は死の解決をするために非常に重要であるため、釈迦を始め、仏教者は人間に利他心を生じさせるため、様々な手を使っています。たとえば、托鉢や乞食(こつじき)といった行為は、自分が欲しくてやっているのではなく、縁を結ぶためであり、相手に大切なものを出させて利他心を生じさせるためにやっているのです。

釈迦の弟子であるカルダイは、あるバラモンの妻が非常に欲張りだと聞き、済度しようと思いました。

物乞いが来るのを嫌っていた彼女は、門を固く閉ざして餅を作っていました。そこへ、カルダイが神通力を使って地中をくぐり抜け庭先に現れたものですから、バラモンの妻は驚きました。

「さては餅を取りに来たな!だめだ、たとえお前の目が飛び出したって餅はやらないよ!」

それを聞くや、カルダイは2つの目玉を飛び出して見せたので、また驚きました。

「しつこい奴だな。お前が死んだってこの餅はやらないよ!」

それを聞くや、カルダイはすぐに死んでみせました。これにはさすがに慌てました。

「ま、まってくれ!ここで死んでもらっては困る!餅をやるから生き返ってくれ!」

すると、カルダイはすぐ生き返りました。バラモンの妻がしぶしぶ餅を1つ渡そうとすると、他の餅が全部その餅にくっついてしまい、それをカルダイは持って行こうとしました。

「誰が全部やるといった!餅返せ!」

慌ててカルダイを追いかけているうちに、やがて釈迦のところまでやってきました。

「あんたの弟子が餅を盗んでいった!」

「カルダイは餅が欲しかったのではない。お前の欲深を済度しようとしたのだ」

その釈迦の言葉で、バラモンの妻は自分のの深さに気づきました。そして、釈迦の勧めで餅を全部供養することにしました。大勢の僧に配り始めると、不思議なことに餅はたやすく1つ1つにちぎれました。

釈迦は最後の1つを手に取り、それを水の中に投げ入れるよう言いました。バラモンの妻がその通りにすると、餅はボっと燃え上がりました。釈迦は言いました。

「これはお前の物惜しみする心が火となって燃えているのだ」

この話は、布施の大切さや、利他心を起こしても、なお欲に執着する心根のしぶとさ、そして人間の善が雑毒の善であることを教えているのです。

 

・お盆と利他の関係

ここでお盆について少し説明します。

お盆を先祖供養のイベントだと思っているでしょうが、そうではありません。

お盆は盂蘭盆の略で、盂蘭盆とはサンスクリット語のウランバナに漢字をあてたものです。中国語で倒懸と訳し、「逆さに吊るされて苦しんでいる者」を意味します。

お盆の起源は、盂蘭盆経にある次の目連の話にあります。目連は、釈迦十大弟子の中でも特に強い神通力があったという人です。

親の恩に報いたいと思った目連が、神通力を使って世界を見渡したところ、亡き母が餓鬼界に堕ちて骨と皮だけの姿で苦しんでいるのが見えました。目連は酷く悲しみ、母に水や食べ物を食べさせようとしますが、口に入る前に燃えてしまいます。

自分の力ではどうにもできないと思った目連は、釈迦に助けを求めました。すると釈迦は、「汝の母の罪が深いため、汝1人の力ではどうしようもない。母を救うには、夏の修行が終わる7月15日に百味の飲食を大徳衆僧に供養せよ」と言いました。目連がその通りにしたところ、母は苦しみから抜け出すことができたといいます。

この話を見てわかる通り、お盆は餓鬼界に堕ち、逆さ吊りになって苦しんでいる者を救う日です。ところが、この話が日本古来の祖先崇拝の信仰と結びついて、今日的な先祖供養の行事となってしまったのです。

 

・誰もが餓鬼になっている

では、どんな人が逆さに吊るされて苦しんでいるのでしょうか。餓鬼事経には財護という餓鬼が出てきます。

財護は、前世では大金持ちだったものの布施することはなかったと懺悔します。そして、いつも戸を閉めて財宝を眺めるのを楽しんでいたため、地震に逃げ遅れ財宝に埋もれて死んだのだといいます。このように話すと、財護は次のようにつぶやき悔やみます。

「われ未だ食物も飲物も知らず。物惜しみする人はすべて滅び、滅ぶものはすべて物惜しみする人なり。餓鬼はそれを実によく知れり。われ前世には物惜しみなりき。多くの財宝を持ちながら、布施することなかりき。施物はありしも、己が庇護所を作ることなかりき。それ故に、己が業の果を受けて、われ後に至りて後悔するなり」

このように我利我利亡者の末路は悲惨です。

しかし、誰もが財護やバラモンの妻のような生き方をしています。ですので、餓鬼のような我利我利の心を見つめながら自ら利他に努めるのはもちろん、人にも利他を勧める必要があります。

 

〇利他に徹する

先に説明した人間の愛の欠点を自覚し、完全な利他ができるよう努めることが大切です。結論から言えば、そのような利他は人間にはできませんが、近づくことはできます。

たとえば、差別の愛であれば、平等の愛が与えられるよう努めるということです。どんなに身分が低い人であろうが平等です。

釈迦十大弟子の1人である阿難が、スードラの娘に手を差し伸べた時のエピソードが伝わっています。

当時のインドにはカースト制度という4つの身分制度がありました。司祭のバラモンを頂点に、クシャトリア(王族)、ベイシャ(庶民)、スードラ(隷民)と続きますが、最下層のスードラは虫けら同然の扱いを受けていました。

今でもカーストの意識は根強く残っています。そのため下位カーストの人が自殺したり、異なるカーストと結婚した人を親族が殺してしまう「名誉殺人」といった事件は後を絶ちません。事例を紹介しましょう。

インド西部ラジャスタン州の村に住んでいたラーマ・クンワルさんは、8年前に家族の意向に反して異なるカーストの男性と結婚し、村を離れて暮らしていました。

8年経ち、もう家族が結婚を許してくれていることを期待して帰省しますが、これが間違いでした。まだ怒りが収まっていなかった兄弟に焼き殺されてしまったのです。地元当局者は、「彼女は今なら両親が許してくれると思っていたが、兄弟たちは彼女が村に戻ったと知るなり、すぐにクンワルさんのいた家に駆けつけ、彼女を引きずり出した」と話します。クンワルさんが助けを求めて叫んでも、誰も助けようとしなかったといいます。

また、14歳と15歳の姉妹が集団でレイプされた後に殺され、死体を木につるされた事件がありました(犯人のうち少なくとも2人は警察官)。この時、姉妹の親が警察に訴えても、スードラだからという理由で相手にされなかったといいます。ちなみにこの事件では、村人が抗議のため死体を吊るしたままにし、それがテレビ中継され、ネットでもすぐに画像を見ることができます。

高位カーストの男が下位カーストの12歳の少女をレイプした事件もありました。この時、男が住む村のコミュニティリーダーは、男に「罰」としてこの少女と結婚するよう命じ、さらに結婚後、少女は男の家族に暴行され殺されたといいます。

憲法で禁止された現代でもこのような酷い差別があるのですから、釈迦の時代は想像を絶するものだったはずです。スードラに手を差し伸べようものなら自分も酷い迫害を受けてしまいます。しかし阿難はそれをやったのです。

また、どんなに身分が高い人であろうが平等です。

世間の価値観からいえば、たとえば天皇ほど偉い人はいないと思っているかもしれませんが、一切関係ありません。すべての人間は煩悩具足の凡夫であり極悪人です(詳しくは第4巻)。

建礼門院は、仏道入門にあたり簾の中から手だけを出して戒めを受けようとしたため、「簾をあげられよ」と注意されました。

親鸞の弟子の1人が、親鸞の悪口を散々言って去っていこうとしたことがありました。別の弟子が、「あいつは許せない。去っていくのなら渡された本尊や聖教を取り返すべきだ」と怒ったのを聞いて、親鸞は次のように諭しています。

「本尊・聖教を取り返すこと、甚だ、しかるべからざることなり。そのゆえは、親鸞は弟子一人ももたず、何事を教えて弟子というべきぞや。みな如来の御弟子なれば、皆共に同行なり。(中略)かの聖教を山野に棄つというとも、そのところの有情群類、かの聖教に救われて、ことごとくその益を得べし。しからば衆生利益の本懐、そのとき満足すべし。凡夫の執するところの財宝の如くに、とりかえすという義、あるべからざるなり」(口伝鈔)

(訳:御本尊や御聖教を取り返すなどとは、とんでもないことだ。親鸞は、弟子を1人も持っていない。何を教えて弟子ということができようか。皆、仏の弟子であり同行なのだ。(中略)たとえ聖教が捨てられても、そこのところの生物が仏縁を結ぶことになるだろう。御本尊や御聖教を世間の宝物の如くに思い、取り返すなどと言ってはならない)

同行とは、「極楽に行くために同じ行をしている人」を意味します。

これは「万人は平等である」という宣言ですが、時代背景を知ることも重要です。今から800年も前の、しかも鎌倉時代という封建制の時代に言った言葉です。身分制度が厳しく、生まれながら貴賤があると思われていた時代です。江戸時代の医師、山脇東洋は「どんなに偉い人だろうが野蛮人だろうが、内臓はみな同じ」と言い、福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言いましたが、それよりもずっと前にこのような宣言をしていたのです。

蓮如も「私は門徒によって生きている」と言い、仏教を気持ちよく説けるのも会員がいるおかげだと言っています。

弟子と先生の間の壁だけではなく、怨む者と怨まれる者、悪口を言う者と言われる者等々、一切の壁がありません。仏教には怨親平等という言葉があります。怨は自分を怨む者、親は自分を愛する者です。

日本は仏教国なので、意識するとしないとにかかわらず、この教えが広く浸透しており、日本人の善悪観に影響を与えています。

このような平等観は、他の宗教、たとえばキリスト教と比べてもまったく違います。少し見ればわかりますが、聖書は差別で溢れています。たとえば、旧約聖書「創世記」には次のように書かれています。

 

「海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生物を支配せよ」

「生きているものはみな、あなた方の食物である。緑の草と同じようにすべてのものをあなた方に与えた」

 

あまりに人間に都合がいい教えです。

「環境を支配せよという聖なる命に従った結果は明白である。人間は増え続け、ますます地球の資源を搾取する一方である。東洋では人間のコミュニティや居住環境は自然の中に組み込まれた不可分の一部であると説いているのに、西欧の人々は地を支配し奉仕させるべく汲々としていたのである」(アーヴィン・ラズロ)

 

「キリスト教では、動植物のランクは人間よりも低く最低である。ゆえに、キリスト教徒の欧米人にとっては、人間の生命と他の生物の生命とが同じ価値であることは到底認めがたいであろう。これに対し仏教では、人間をも含めてあらゆる生物の生命は、すべて等しく、かつ尊いとの『万類共尊』の思想があり、ために仏教徒の東洋人にとっては、人間生命と他の万類生命との『等価性』は西洋人よりははるかに受け入れやすいであろう」(岸根卓郎/京都大学名誉教授)

 

「スペインのキリスト教徒はサント・ドミンゴ、プエルトリコ、ジャマイカ、キューバなどを征服し、住民の100万人をほとんど絶滅させてしまいました。

さらにインカ帝国、マヤ帝国、アステカ帝国のような文明大国はスペイン人の暴虐な植民地政策による虐殺の結果、人口が激減しています。インカ帝国の人口は1600万人から108万人に、アステカ帝国では1100万人であった人口が、1600年の調査では100万人まで減少したのです。

その後、イギリスのキリスト教徒がアメリカ大陸に渡りましたが、推定1000万人いたアメリカインディアンは白人の攻撃を受け、19世紀末には実に95%が死に絶えたのです。まさに『右手に剣、左手に聖書』を携え『神』の名のもとに、先住民を虐殺したのです。

近年、イスラム教徒の残忍さをユダヤ教徒やキリスト教徒がしきりに非難していますが、一神教の『選民思想』と他民族や異教徒を敵視する『排他主義』とは表裏一体であり、イスラム教徒だけに非があるわけではありません」(高橋徳)

 

「イエスは神の愛を説いたが、イエスを信じない悪しき人々には復讐も辞さない。神と契約した者だけを差別的に優遇する思想であり、隣人愛の背後にも神の怒りが控えていた。(中略)仏教の慈悲とキリスト教の愛とは、幅が違う」

「イエスが自らを犠牲にして全人類を救済するというが、『人類の大多数が神に呪われて地獄に堕ちなければならない』という新約聖書の記述からは、とうてい『愛の福音』とか『愛の宗教』という表現を認めるわけにはいかない。実際にキリスト教信仰の正統派の解釈を受け入れなかった科学者たちは、『異端者』として火あぶりの刑に処せられたり自由を奪われたりした」(児玉浩憲/科学ジャーナリスト)

 

フランスの文豪ロマン・ロランが揶揄したように「神はネロの如き暴君」です。このキリスト教の教えも、意識するとしないとにかかわらず、キリスト教圏の人々に強い影響を与えています。

欧米人の振る舞いを見て、「なぜそんなに差別するのか」と日本人は思うでしょうが、根幹にはキリスト教の存在があります。キング牧師は公民権運動の前にキリスト教を捨てるべきでした。

 

・自利を捨てる

一切の自利を捨てようとすべきです。

たとえば、人間関係を大事にすることも大切ですが、「困った時に助けてもらおう」といった下心が混ざるので、その心を捨てようとしなければなりません。

最終的には、「自分の幸せ」の最たるものである「命」を捨てることが要求されます。普通は、ここまでして利他をしようとは思わないでしょう。利他が悟りのキーファクターであり、悟りを開かないと死後が地獄だからこそ、これほど利他を強調するのです。

一見すると仏教で説く自利利他と似たような教えは数多くあるように見えますが、すべて似て非なるものであることが、この点からだけでもわかるでしょう。たとえば、少林寺拳法には「半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを」という自他共楽の理念があります。生物学も次のように自利を捨ててはならないという立場です。

「利己主義の延長線上にある利他主義として、他者のことも考えて行動することで集団としての生存につながり、結果として自分も生き延びることになります。他人のためだからといって利己主義を完全に捨ててしまうと自分が生き延びることはできず、それはひいては集団のためにもなりません。このように、利己主義と利他主義は相反するものではなく、利己主義を拡張して他人の利益も考えられるようになったものが利他主義であるといえます」(高橋祥子著「生命科学的思考」より)

 

一方、仏教で説く自利利他は、自分の幸せを完全に捨てることが要求されます。

 

・形だけでもやる

利他とは、形やテクニック的なものではなく、心の問題です。第4巻で説明した「長者の万灯より貧者の一灯」の通りです。

「オキシトシンが作られるには、親切が心からのものでなければならない。手っ取り早く効果を獲たいからといい加減な気持ちで親切にしても、効果はあらわれない」(デイビッド・ハミルトン)

 

しかし、このような利他は難しいので、まずは形だけでも実行することが大切です。何度も続ければ、徐々に真の利他に近づくことができます。

 

・時間も金も人のためにある

一切は死の解決のためのツールであり使い捨てるものですが、自利利他の教えから、特に利他をするために使うものです。時間も人のためにあるのであって、自分の時間をつくるというのは我利我利の行為です。時間だけでなく、肉体や財産など一切に同じことがいえます。

しかし日々の行為を反省すれば、人のために使う時間は非常に少なく、ほとんどは自分の時間です。肉体や財産も自分のために使ってしまっています。

一休が、飢えに苦しむ人々を何とかしようと考えていた時のことです。

時の将軍、足利義政から一休に茶の誘いがきました。ある考えを思いついた一休は出席することにしました。

「将軍は珍しい古器をお集めと伺っていますが拝見できませんか」

一休が尋ねると義政は、「いろいろと珍品を集めた、見せよう」と自慢げに部屋一杯に並べました。

「どうじゃ」

「見たところ大した物はないようで」

「なに、大した物はないと言うか」

「はい、私は老子が愛用した杖、周光坊の茶碗、天智天皇月見の筵をもっております」

「ふーむ、それはまた珍しい物だ。どうじゃ、わしに譲ってくれんか」

「されば三品で三万両頂戴します」

話がまとまり、翌日、義政の使いが品物を受け取りにやってきました。すると何を思ったのか一休は、垣根の腐れ竹、猫の茶碗、破れた筵を使いに持たせてやりました。

当然、それらを受け取った義政は怒り、一休を呼びつけました。すると、一休はこう諭しました。

「世は飢えに苦しんでいるというのに、将軍は茶碗1つに千金万金を投じて今日も茶の湯、明日も茶の湯と興じておる。三万両は米に変え、将軍の御名をもって人々に与えた。将軍のいかなる名器も、あの品々以上の働きはいたすまい。私がしたことが心にそわずば遠慮なく手討ちになされませ」

これを聞いて義政は反省し、すぐに対策するよう家臣に命じたといいます。

大富豪のジョン・モーレーは、ロウソクの火もこまめに消すほどの節約家でしたが、一方で大金を寄付していたといいます。このような金の使い方が理想的です。

しかし、もっと理想的な使い方があります。それは仏法を広めるために使うことです。開顕ともいいますが、開顕については後で詳しく説明します。

 

・利他を基準に考える

利他がしやすい環境を整えていくという視点も大切です。

たとえば、仕事にしても利他がしやすい仕事を選んだ方がいいでしょう。もちろん人生の目的を知っていることが大前提です。

 

・利他ができるうちにやる

利他ができるということは有難いことです。苦しみが増せば、どうしても他人を思いやれなくなってきます。

「元気ですかー!」と叫び、「元気があれば何でもできる」というフレーズでおなじみのアントニオ猪木。

彼は、「元気を売る人間が、元気を売れなくなっちゃった」と言い、背中を丸め、杖をつきながら76歳で政界を引退していきましたが、いつかは誰もが元気を売れなくなる時がきます。

あるいは周りに利他をする相手がいなかったり、環境的な理由でできなくなるかもしれません。

他にも利他の心がけは色々とありますが、利他は善の1つですので、善の心がけにいえることは利他にもいえます(詳しくは第4巻)。

 

〇何を与えるか

「人を幸せにする」といった場合、大きく次の2つの方法があります。

・無常の幸福

ほとんどの人は、金や名誉といった無常の幸福を与えることで幸せにしようとします。無常の幸福しか知らないので無理もありませんが、第2巻でも説明したように、無常の幸福は手段としての価値しかなく、人間を根本的に幸せにすることはできません。

 

・法

死の解決をしない限り根本解決にならないので、法を与えなければ真の利他とはいえません。

「財は一代の宝、法は末代までの宝」といわれます。実際は、財は一代の宝にもなりません。

また、第2巻で説明したように、法と無常の幸福は別個のものではなく、密接な関係があります。

 

〇福田

仏教には福田という言葉があります。「福徳を生み出す田地」の意で、布施すべき対象のことです。種をまくと収穫があるように、対象に布施すると功徳が得られます。その福田に次の3つがあり、三福田といいます。

・恩田

恩に報いるべき対象のことで、恩に報いることで福徳が得られます。

対象:阿弥陀仏・善知識・父母

 

・敬田

尊敬・信仰すべき対象のことで、敬うことによって福徳が得られます。

対象:阿弥陀仏・善知識

 

・悲田

哀れみを受けるべき対象のことで、恵みを施すことで福徳が得られます。

対象:働きたくても働けず本当に困っている貧者や、病人などの苦しんでいる人

1億円持っている人に1万円あげるのと、1円しか持っていない人に1万円あげるのとでは、相手にとって1万円の価値が違い、有難さが違います。

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第1章 利他
1.1 愛の力
1.2 人間の愛は偽物
1.3 求道は利他の道
1.4 恩