愛を悪く言う人はまずいないでしょう。
「人に優しくしましょう」とは幼稚園でも教わることです。
「利己的な遺伝子」の著者で知られる動物学者のリチャード・ドーキンスでさえ利他の大切さを認めています。ドーキンスは、人間の行動はすべて利己的な性質を持つ遺伝子を運ぶための手段にすぎないと主張している人ですが、彼はまた、「人間だけが唯一、利己的な遺伝子に反逆する力がある」とも言っています。
しかし、仏教では人間の愛を小慈悲といいます。慈悲とは愛のことで、「小」という字は崩れやすく、壊れやすい不完全な偽物を表します。つまり、人間の愛は欠点のある偽物の愛ということです。
〇人間の愛の欠点
・続かない愛
・自己中心的な愛
・差別の愛
・盲目の愛
〇人間の本性は我利我利
・自分の利益は地球より重い
・人間は裏切る
・家族の死さえ悲しめない
・蜘蛛の糸
・人間に愛はない
〇人間の愛の欠点
愛を絶対的に美しくいいものだと信じ込んでいる人は多いですが、たとえば人間の愛には次のような欠点があります。
・続かない愛
人間の愛は続かない愛です。
何でも無常ですが、愛も例外ではありません。どれほど強い愛情でも、弱くなったりなくなったりします。
20年の結婚生活にピリオドを打った女優の島田陽子は、離婚理由を次のように語っています。
「20年という時間は人生の四分の一にあたります。それだけ信頼関係は築かれていると信じていました。でも、この世に変化しないものなど何一つなく、理由を考えても謎という場合もあります。人は変わるのだと、それだけです」
離婚したタレントの田中律子は「結婚したときは王子様と思ったけど、王子様じゃなかった」と言いました。
「愛は結婚の夜明けであり、結婚は愛の日没である」と言った人もいます。
「百年の恋も一時に冷める」という言葉もありますが、実態を知って一気に冷めることもあります。
芥川龍之介は、「字が下手だったのを見て好きだった女が急に嫌いになった」と告白しました。
もちろん、無常なのは男女の愛だけではありません。
理学博士の川田薫は、生命エネルギーの重さを測るためにラットを殺した時の心境を次のように語っています。
「本来はそれを自分の体でやろうとしたんですね。でも自分でやってしまっては、死んでしまいます(笑)。それでは、実験ができないということで、ラットでやることにしたのです。
ラットでやろうと思うと、その瞬間すごいメッセージが出てくるのですね。それは生まれて初めてのことでしたが、『お前とラットで何が違う』、と。今までそういう概念はまったくなかったのです。(中略)
そこで友人に相談すると、『筑波にたくさん研究所があるんだから、ラットを殺して実験している研究者はたくさんいる。そこへ行って借りればいいだろう』と言われました。
『そうか、借りればいいのか。よし、そうしよう!』と思った、またその瞬間です。
『自分で手を下さないなら、それでいいのか?』と、また何者かに言われた・・・・。そのような感覚が、たしかにあったのです。これは大変なショックでした。そうです。たとえ他人が手を加えたのだとしても、ラットの命を奪うことに変わりはないのです。もうこの実験はできないなと思いました。
しかし一方、それでも私には、この実験をどうしてもやりたい、やらなければならない、という思いが強くありました。そこで私はこの『見えない存在』に向かってこう訴えました。
『ごめんなさい。人間は、私川田薫は非常に傲慢です。そんな私ですが、もしラットのエネルギーの重さを量れたら、人間に対して大切なメッセージを伝えることができるのです。ラットの尊い命は犠牲になってしまうけれど、我々人間の意識をこれで変えることができる。だから、どうぞやらせてください。本当にごめんなさい』」
・自己中心的な愛
人間の愛は自分の都合を優先する、自己中心的な愛です。
「すべての生物は、自分の利益が高まるように利己的に行動している。そして、利害が対立する相手とは競争したり、時には戦ったりする。もちろん、自然界には助け合いの関係もある。しかし、それも助け合うほうが得だから、助け合っているのである。ただ、それだけのことなのだ」(稲垣栄洋/静岡大学農学部教授)
小説家の有島武郎は、「愛の表現は惜みなく与えるだろう。しかし愛の本体は惜みなく奪うものだ」と言いました。
太宰治の小説「畜犬談」には次のように書かれています。
「犬の傍を通るときは、どんなに恐ろしくても、絶対に走ってはならぬ。にこにこ卑しい追従笑いを浮べて、無心そうに首を振り、ゆっくりゆっくり、内心、背中に毛虫が十匹這っているような窒息せんばかりの悪寒にやられながらも、ゆっくりゆっくり通るのである。つくづく自身の卑屈がいやになる。泣きたいほどの自己嫌悪を覚えるのであるが、これを行わないと、たちまち噛みつかれるような気がして、私は、あらゆる犬にあわれな挨拶を試みる」
犬を人に置き換えれば、「人間失格」の対人恐怖症の世界です。太宰が犬にも人にも、これほど愛情を振りまくのは自分が可愛いからです。そのことを太宰の妻である美知子夫人は「回想の太宰治」の中で次のように語っています。
「一緒に歩いていた太宰が突如、路傍の汚れた残雪の山、といってもせいぜい50センチくらいの山にかけ上がった。前方で犬のケンカが始まりそうな形勢なのをいち早く察して、難を避けたつもりだったのである。
それほど犬嫌いの彼がある日、後についてきた子犬に『卵をやれ』という。愛情からではない。恐ろしくて、手なずけるための軟弱外交なのである。人が他の人や動物に好意を示すのに、このような場合もあるのかと、私は怪訝に思った。
『恐ろしいから与えるので、欲しがっているのがわかっているのに、与えないと仕返しが怖ろしい』
これは他への愛情ではない。エゴイズムである。彼のその後の人間関係を見ると、やはり『子犬に卵』式のように思われる。
がさて『愛』とはと、つきつめて考えると、太宰が極端なだけで、本質的にはみなそんなもののようにも思われてくる」
ビートたけしは次のような話をしています。
「結局、自分にとってアフリカで難民が何人死のうが、ヘルツェゴビナで撃ち合いやろうが、日本人でいるかぎり何も思ってないじゃん。で、食いたくないタイ米を援助として送るなんていってる程度だもん。そのくらいのことしか頭にないんだよ。完全な投げ銭ってのはしないのであって、後で取り返そうと狙っているんだ」
政治家のシャルル・ド・ゴールは、「支配者になろうとして、政治家は下僕のふりをする」と言いましたが、これは政治家に限りません。
哲学者のモンテスキューは、「友情とは、誰かに小さな親切をしてやり、お返しに大きな親切を期待する契約である」と言いましたが、これは友情に限りません。
自分の利益を一切期待しない純粋な愛を与えることは、人間にはできないのです。自分の利益の延長としての利他ということであり、この点、ドーキンスと共通点があるでしょう。彼は、利他的行動が多くの動物にみられる理由について、利他的に振舞ったほうが結果的に自分の遺伝子の生存の可能性を高めるからだと書いています。
それは最も純粋な愛に近いといわれる親の愛であっても同じです。
「生命原則の『個体が生き残る』ことと『種が繁栄する』ことは並列ではなく、まず個体として生き残ることが先で、次に種が繁栄するために行動する。私たちの視野が狭い理由は、まず個体として生き残るために必要な機能」(高橋祥子著「生命科学的思考」より)
何の利益も求めない無償の愛を与えていると思っている人は多いですが、それは自惚れです。裏切られて初めて有償の愛だったことに気づく人も多いです。愛とは、己を利するためにする狡猾な演技であり商売ともいえます。
・差別の愛
人間は自己中心的であるために、どうしても差別心があります。
たとえば、遠いアフリカの子供が餓死しても、自分の子供のかすり傷ほども驚かないでしょう。これは、アフリカの子供と自分の子供とで愛情に差別があるためです。
「人間は生まれつき人種差別的、自民族中心主義的なのであり、むしろ社会化と教育を通じて、そのような性癖を抑制することを学ぶのである」(アラン・S.ミラー/北海道大学教授/「進化心理学から考えるホモサピエンス 一万年変化しない価値観」より)
「一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ」
「自分の身に降りかかってこない限り、何も他人や社会のためにやらないでしょうが。たとえば、家族から銃の犠牲者が出ないと、銃の規制に取り組むことはないんだ。結局、自分で痛みを感じたヤツが『それは許せない、嫌だ!』って主張するだけであって、なかなかボランティアとか善意ってのは力を持てないね。嘘の善意でもないよりはマシかもしれないけど」(ビートたけし)
もっと言えば、自分の子供に対してさえ差別があります。たとえば、自分になついて甘えてくる子供のほうが、そうでない子供より可愛いといった具合です。
「親は義理の子供より血のつながった子供をかわいがるばかりか、実の子供でもかわいがり方に差があり、知能、容貌、健康、社会性に優れた子供を優先する傾向がある」(アラン)
「差別」には大きく次の2つの意味があり、往々にして両者がごちゃまぜになって使われています。
1.不平等や見下す、軽蔑といった意味
2.区別、分別、違いといった意味
誰もが口では、「差別してはいけない」「人間の命は平等」といった具合に、軽蔑の意味で差別することは悪いことだと言います。しかし、本心ではそうは思っていません。区別だと割り切れず、蔑視の感情が入ってしまうのです。
「招かれざる客」というアメリカ映画があります。
日頃から人種差別反対を説いている白人の家に、娘が黒人の恋人を連れてくるのですが、その頃からその娘の親の心は揺れ動くのです。口では人種差別反対を説いていながら、いざ自分の娘が黒人の恋人を連れてくるとなると、いい気持ちがしません。本心では別れてほしいと願うのです。このような本音と建前に苦しむ様子が描かれています。
人間社会は、上から下まで差別で溢れています。
イギリスのヘンリー王子と妻のメーガン妃は、王室メンバーから、「生まれてくる子の肌の色はどれぐらい濃いだろうか」「子供はどんな見た目になるかな?」と言われたことを明かしています。
もちろん日本でもあります。
長年部落問題に携わり、同和対策事業特別措置法を作る立役者となった磯村英一(都立大学名誉教授)は、「法律では差別はなくならない。同じ人間なのだという発想に立たねばならぬことを痛感している」と語ります。部落差別は根深く、法律ができた今でも結婚や教育の妨げとなっている現実があります。
また、民俗学者の赤松啓介は著書「差別の民俗学」の中で次のように語っています。
「われわれ人間、あるいは人間社会から排他や差別という精神構造(共同幻想)、社会機能を取り除くことは不可能で、ただある時代、ある社会段階では、それぞれに相応した手段、方法が発生し、発達し、その時代なり、その社会なりが崩壊するようになると排他や差別の機構、内容も変化し、次の新しい時代、あるいは社会に相応したものになると考えられる」
ある人が交通事故で瀕死の重傷を負い、輸血が必要となった時の話です。部落の人が名乗り出たところ、患者の親族が「部落の人間の血はもらえない」と拒否したといいます。命よりも差別意識が優先されたということです。
平成最悪とされる犠牲者を出した障害者福祉施設「やまゆり園」での殺傷事件。植松聖被告は、「人ではないから殺人ではない」と主張します。社会学者であり、重度の知的障害がある娘を持つ父親でもある最首悟(和光大学名誉教授)は植松と面会した感想を、「植松被告は精神障害でも薬物中毒でもなく、正気だったと確信した」と語っています。
植松だけでなく、すべての人間に差別心があるのです。この事件について、精神保健福祉士で全盲の障害者でもある藤井克徳(日本障害者協議会代表)は次のように語っています。
「実はこの差別意識は人間の性ともいえるものです。今回の事件を通して、自分の中にも『小さな植松』が潜んでいるということ、つまり『内なる差別』に気づくことが大事です。障害者施設の必要性は認めつつ、家の近所に建つとなると、反対運動が起きるのもその一例です」
第1巻でも見たように、真実を追究することが仕事であるはずの科学者にもいじめがあります。
人間には弱い者いじめをしたい心があります。ホームレスのいじめや介護施設での虐待といったニュースが連日流れてきますが、こういった事件の加害者と同じ心が自分の中にもあるのです。fMRIなどを使って無意識の差別心を調べた実験も数多くあります。人間は皆、差別の自覚がなく差別しており、いじめている自覚がなくいじめているのです。
もちろん差別やいじめは、人間に対してだけではなく他の生物に対してもあります。人間は生物の命の価値を同じだと思っていません。犬や猫といった人間に近い種は愛しても、虫や魚といった遠い種は殺しても何とも思わないといった具合です。動物愛護系の本はかなり多いですが、ほとんどは哺乳類や鳥類といった人間に近い種に関するものですし、動物愛護法を見ても種によって差別があることがわかります。天然記念物として守られる動物もいれば、害獣として殺される動物もいます。犬や猫を食べる国もあると聞けば日本人は嫌悪しますが、日本人が馬やクジラ、タコを食べると聞けば外国人は嫌悪します。
解剖学者の養老孟司(東京大学名誉教授)は次のような差別をしていたことを告白しています。
「30代の後半の一時期、私は動物や虫を殺せなくなったことがありました。急に殺生ができなくなった。解剖に使うのは死体だから、殺す必要はない。だから、それには支障がないのですが、実験に使うネズミも飼っていると情が移ってきて、殺せなくなった。
それでどうしたかというと、わざわざ野生のネズミを捕まえてきて実験に使ったりもしました。殺すという行為は同じなんですが、捕まえてくるという要素が入ると、狩猟のような感じがして、自分の心を合理化しやすかったのかもしれません」
俳優の松方弘樹は、「撃つときに鹿が眼に涙を流しているのを見て、狩猟をやめた」と語っていましたが、その後、釣りを趣味にしたことから、鹿と魚とで彼の愛情には差別があったといえます。
このように人間は動物に対して差別心がありますが、その差別心は人間にも向けられているのです。
正像末和讃には、「愛憎違順することは 高峯岳山にことならず」と説かれています。「自分の意に従い利益となってくれるような人やものは愛し、その逆は憎む、この落差は起伏が激しい高い山のようである」という意味です。
・盲目の愛
人間の愛は、物事の分別がつかない盲目の愛です。
第4巻でも説明したように善悪というのは非常に複雑です。愛情から相手のために良かれと思ってやってあげたことが、結果として相手を傷つけたり裏目に出ることがあります。
ハチミツを与えられた生後6か月の男児が死亡するというニュースがありました。1歳未満の赤ちゃんがハチミツを食べることによって乳児ボツリヌス症にかかることがあり、ハチミツは1歳未満の赤ちゃんにはリスクが高い食品です。男児の家族は、そのことを知らなかったといいます。
ヨーロッパには「地獄への道は善意で敷き詰められている」という格言もあります。
火を消そうとして、水と間違えて灯油をかけてしまい家が全焼したというコントのようなニュースもありましたが、人間の愛はどれも、これと似たようなところがあります。
愛情からデマを広めたり、寄付金詐欺やオレオレ詐欺に騙されたりすることがあるのです。親切にされて最初は感謝していたものの、段々と親切にされることが当たり前になり、感謝を忘れ、不満を言い始め、親切にされなくなると恨むようになる、という流れもよくあることです。
善悪は非常に複雑ですが、因果の法則は、そういった人間側の都合を一切考慮してくれません。人間関係であれば、「知らなかったのだから仕方ない」とか「愛情からやったのだから許そう」と大目に見てくれることもあるかもしれませんが、自然法則である因果の法則にはそういった容赦は一切ないのです。
中国は唐の時代、希運という禅宗の高僧がいました。希運は幼少から出家していたため、母親は何とかして希運に会いたいと思っていました。
ある日、母の様子が気になった希運は郷里を訪ねることにしました。母に遇うことができましたが、修行の妨げになると思い親子名乗りはしませんでした。
涙をこらえて舟に乗ろうとすると、希運と気づいた母が追いかけてきました。舟はすでに岸を離れ遠くにありましたが、狂乱状態の母は河に飛び込みました。流される母を見て、希運は松明を河に投げ入れるのみでした。そして、心の中でこう叫びました。
(1人出家すれば、一族は皆、天上界に生まれるとあります。希運は真の出家となり、必ずや母上を天上界に生まれさせて見せます。どうか悪く思わないでください・・・・)
聖道方便の仏教に迷ったために、母を見殺しにするという悲劇を生んでしまったのです。
ちなみに禅宗では、葬儀の時に松明を投げ入れる儀式がありますが、この希運の故事に由来します。
「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものを憐み、悲しみ、育むなり。しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めて有りがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
今生に、いかに、愛し不便と思うとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候」(歎異抄)
(訳:聖道門の慈悲と浄土門の慈悲とでは違いがある。聖道門の慈悲は、ものをあわれみ、悲しみ、育むことであるが、思うように救うことは極めて難しいのである。それに対して浄土門の慈悲は、死の解決をして速やかに仏となれば、大慈悲心でもって思い通りにすべての生物を救えるのである。
今生でどれほど、愛しく不憫に思っても、思い通りには救い難いので、聖道門の慈悲は一貫しない不完全な慈悲である。だから、死の解決をすることだけが一貫した完全な大慈悲心なのである)
聖道門・浄土門については第6巻で説明します。
仏の慈悲を大慈悲といいます。「大」には「完全」「本物」「絶対」といった意味があります。人間の愛は、欠点のある不完全な愛ですが、仏の愛は完全な愛です。
以上、愛の欠点を説明しましたが、程度の差はあれ、このような欠点に気づいている人は多いでしょう。
〇人間の本性は我利我利
利他とは逆に、自分の幸せを優先することを仏教では我利我利といい、我利我利の人を我利我利亡者といいます。
結論から言えば、すべての人間は我利我利亡者であり、自分が1番大事なのです。第1巻から説明してきた一切が、そのことを裏づけています。この点、ドーキンスの利己的遺伝子理論と共通点がありますが、やはり似て非なるものです。
・自分の利益は地球より重い
意識するとしないとにかかわらず、人間は常に、何をしたら1番利益が得られるのか考えています。身近な例で言えば、集合写真で周りがどれほど変な顔していても、自分がちゃんと写っていればいいでしょう。
「私たちは貧困が大きな苦難をもたらすことを知りながら、自分の富を分け与えることなく、高価な靴をまた一足買う。児童労働や、成人とはいえ過酷な条件の労働に基本的には反対しながら、ディスカウントショップでの買い物をやめない。私たちが声を上げないのは、自分の壊れやすい本質を守るためだ。自分は言行が一致した、倫理的で分別のある人間という幻想を持ち続けるためだ。(中略)人は自分の居心地の悪さが最小限になるように、自分が抱える矛盾に気づかなくてもよいように、社会の形を変えていく」(ジュリア・ショウ/ロンドンサウスバンク大学法社会学部上級講師)
精子も卵子も我利我利亡者で、自分の遺伝子を残す戦略を取ります。生物学者のエドワード・ウィルソンは、「個体の集団との潜在的な闘争は、細胞から帝国まで、生命のすべてのレベルに浸透している」と言いました。
人は口先では、「人間の命は地球より重い」などと言いますが、本心は誰もそんなことは思っていません。本心は、「自分の利益は地球より重い」と思っています。批評家のウィリアム・ハズリットが言ったように、「何百万という人類の滅亡よりも、自分の小指のけちな痛みのほうが心配なもの」なのです。
・人間は裏切る
「ブルータスお前もか」
信頼していた腹心、ブルータスに裏切られたカエサルの有名な言葉ですが、どんな人間もいざとなったら自分の利益を優先し、裏切ってしまいます。
太宰治の有名な作品に「走れメロス」があります。
世間では、この小説を美しい友情物語として評するでしょうが、自己を見つめる人なら、そうではないことが簡単にわかるでしょう。メロス自身も言っている通り、彼は友人のセリヌンティウスを心で裏切っていますし、セリヌンティウスもメロスを疑っています。そう書いてあるのに、このような事実に蓋をしようとする心理が人間には働きます。
「カルネアデスの板」のような状況に追い込まれたらどうするでしょうか。つまり、「自分」「親」「子供」「恋人」「友人」のうち、1人しか助からないという状況に追い込まれた時に、誰を助けるでしょうか。平生元気がいい時には、「自分の命を犠牲にしてでも大切な人を守る」などと言う人は多いですが、いざとなった時に本当にその通りにできるでしょうか。
日本でも戦時中、似たような状況に追い込まれた兵士の記録が残っています。救助ボートに必死にしがみつく仲間の腕を切り、自分たちだけ助かったというのです。この助かった人は後に、「あれで自分の身は救われたが心は救われていない」と語っています。
時折、パイロットが意図的に墜落させ、客を道連れに自殺するというニュースが流れますが、我利我利亡者である人間に命を預けるというのは恐ろしいことなのです。ちなみに、ハーバード大学が行った民間パイロットたちの調査によると、回答者の12.6パーセントが臨床的うつ病の診断基準を満たす状態で、「過去2週間に自殺的思考に駆られたことがある」と答えた人も4パーセントに上ったといいます。
同じ理由で医者にかかるのも本当は危険な行為です。ちなみに、ジョンズ・ホプキンス大学によれば、「医原病」はアメリカの3大死因の1つだそうです。アメリカ栄養研究所の創立者ゲーリー・ヌル博士の調査では、医原病は死因の1位で毎年約78万人が死んでいるといいます。
「全米で78万人。凄まじい数字である。ちょっとした大都市が、毎年、1つ、医者によって消滅している計算となる。言い換えれば、500人乗りのジャンボジェット機が毎日、アメリカのどこかで4機、墜落事故を起こしているのと一緒で、『病院』に行くというのは、毎日、墜落するジャンボジェットに乗り込むのと同じリスクという計算になる。ある特定のジャンボジェット機が毎日4機、必ず墜落していたら、果たして人々は、そのジャンボジェットに乗るだろうか?まともな人なら別の移動手段を考えるはずだ」(ベンジャミン・フルフォード/元米経済紙「フォーブス」アジア太平洋支局長)
「医者は負けない。負けるのはいつも患者だ。『医者は失敗を棺桶の中に葬り去る』という古い格言は、今でも通用する。医者は飛行機のパイロットにたとえられることがあるが、これは見当違いだろう。飛行機が落ちればパイロットは乗客ともども死んでしまうが、患者が死んでも医者は死なない」(ロバート・メンデルソン/イリノイ大学医学部准教授)
親は子供に何があっても守れると思っているかもしれませんが、そうではありません。
「親知らず・子知らず」と呼ばれる北陸道最大の難所があります。ここを駆け抜ける際、親は子を、子は親を顧みる余裕がなかったため、このように呼ばれているようですが、いざとなればわが子でさえ思いやれなくなるのです。
こんな話もあります。
ある家で火事があり、子供だけが取り残されてしまいました。狂乱状態の母親が家に飛び込もうとしますが、それを父親が制止しました。
「子供はまた産めばいいじゃないか」
この父親の言葉を聞いて母親は、「そうか」と納得してしまったといいます。この時の母親の心理が、すべての親、すべての人間にあるのです。
百喩経に、次のような話があります。
昔、ある愚かな男が一人の子を連れ、「わが子は7日しか生きられない」と天を仰いで大声で泣いていました。
傍にいた人はそれを聞いて不審に思いました。
「7日しか生きられないですって?冗談じゃない。今、元気に動き回っているではないですか。それに、7日ピッタリで死ぬなんて誰にもわかりゃしない。明日死ぬかもしれないし、1か月生きるかもしれない。そんなバカげたことを言うのはよしなさい」
「冗談ではありません。私の言うことが嘘か真実か、7日後に確かめにきてください」
「よーし、わかった。それではまた見ることにしましょう」
それから6日経ち、約束の日の前日となった時です。愚かな男はわが子の口をふるえる手で押さえつけ、とうとう殺してしまいました。
そんなことがあったとは露知らず、7日前に別れた人が約束の場所に現れ、死んだ子を見るや驚愕しました。
「いやいや、あなたが言った通りでした。7日ピッタリに死んでしまうとは。あなたは非常に優れた先見の明をお持ちだ」
以降、この愚かな男は、大きな名声と富を得たといいます。
この話は、名利のためなら大切なわが子でさえ殺してしまうという人間の欲深さをたとえているのです。
・家族の死さえ悲しめない
人間は人のためを思って心から悲しむことはできません。
第3巻で詳しく説明しましたが、家族など、大切な人が死ねば気が狂わんばかりに嘆き悲しみます。しかし、どれほど深く悲しんだとしても、心を具に見つめれば、時間と共にどうしても薄らいでしまう瞬間があることがわかります。その証拠に、一睡もせず徹夜で泣き続けることはできません。たとえ死んだ日は徹夜で泣くことができても、2日、3日と泣き続けることは難しく、睡眠欲が勝ってしまいます。酷い場合は、死んだ日でさえ徹夜で泣くことができません。人間は、家族の死にさえ悲しみ続けることができないのです。
「人のために悲しめる」という人は多いですが、それは自惚れであり自己の見つめ方が足りません。
また、自分が人の死に対してそうであるように、心から自分の死を悲しんでくれる人もいません。
・蜘蛛の糸
人間の我利我利の本性を表した例として、芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」を簡単に紹介しましょう。
極楽の蓮池のふちを歩いていたお釈迦様が、ふと池の中を見ると地獄の様子が見えました。そこにはカンダタという男が、他の罪人と一緒に蠢いていました。カンダタは、殺人や放火、窃盗など数多くの悪事を働いていた男です。
しかし、たった1つだけ善い事をしていました。
ある日、カンダタが林の中を通った時のことです。小さいクモが這っているのを見つけ、カンダタは踏み殺そうと思いました。しかし、「これも小さいながら命のあるものに違いないから、無暗に殺してはかわいそうだ」と急に思い直し、殺さずに助けてやりました。
このことを思い出したお釈迦様は、カンダタを地獄から助けてやろうと思い、極楽のクモの糸を地獄へ向かって下ろしました。
血の池で浮いたり沈んだりしているカンダタが、ふと上を見上げると銀色のクモの糸が垂れてくるのが見えました。喜んだカンダタは、早速クモの糸をつかみ登り始めました。元より大泥棒のカンダタですので、手慣れたものです。
しかし、極楽との距離は何万里もあり、簡単には上に出られません。くたびれて糸の中途で休みながら、ふと下を見ると、数限りない罪人がアリの行列のようによじのぼっていました。自分1人でさえ切れそうな細いクモの糸です。カンダタは大きな声を出して喚きました。
「こら、罪人ども!このクモの糸は俺のものだぞ!おりろ!おりろ!」
その途端、カンダタのぶら下がっているところから、急に糸がぷつりと切れてしまいました。カンダタは、あっという間に、コマのようにくるくる回りながら真っ逆さまに落ちてしまいました。
この一部始終を見ていたお釈迦様は、カンダタの無慈悲な心が、また地獄へ落したのかと思われました。
以上、「蜘蛛の糸」を簡単に紹介しました。
極悪人が時折、雑毒の善をしようと思う点、その雑毒の善でも善果となる点、我利我利の心が生じて破滅する点など、人間をうまく描写しています。
・人間に愛はない
どれほど「人間は利己的だ」とか「自分は我利我利亡者だ」と思っている人でも、「少しくらいは愛もある」と思っています。
ビートたけしは、「善意ってのは金魚すくいの紙よりも薄くて、悪意の水ですぐに破れてしまう」と表現しています。
詩人のラ・フォンテーヌは、「お互い友人だといっても、それを信じるのは愚か者。この名ほど世間にありふれたものはなく、その実ほど天下にまれなものはない」と言いました。
ドーキンスは、「利他的にみえる行為は実は姿を変えた利己主義であることが多い」という言い方をしています。
愛の欠点を説く人は多いですが、大抵の人は、このように、わずかでも愛はあるという立場です。
しかし仏教では、愛は微塵もないと説きます。
「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ」(悲嘆述懐和讃)
(訳:小さな慈悲の欠片さえもない身であり、人を救おうという心がないのが私である)
「小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」(正像末和讃)
(訳:小さな慈悲の欠片さえないのに、名誉や利益のために人から先生と呼ばれるのを好むのである)
これが真実の自己ですが、このことは、自己を見つめながら利他を一生懸命しないとわかりません。