どんな偉大な仏教者でも最初は善人様です。聴聞し求道が進むにつれ、徐々に分厚い化けの皮が剥がれ悪人になることができます。

〇相対善悪から絶対善悪へ

仏教の最終目的は、絶対の世界へ導くことです。

相対善悪の重要性

いきなり、絶対の善悪を説いたところで、相対的な智恵しかない人間にはわかりません。ですので、絶対的な善悪を認識させるために、まずはわかりやすい相対的な善悪を説かれたのです。

 

・善をするほど悪が見える

善をしないと悪が浮き彫りになりません。

「松陰の暗きは月の光かな」という古歌があります。月の光が輝けば輝くほど松の影は暗く濃くなっていくという意味ですが、善と悪の関係もこのたとえと同じことがいえます。つまり、善を行えば行うほど、自身の罪悪がハッキリと見えてくるのです。善をしないと罪悪の自覚はできず、罪悪を罪悪と思えません。

先に見た通り、戦時には集団で麻痺してしまい、殺人でさえ罪悪感を感じなくなってしまいます。それと同じように、現在、集団で麻痺していることが数多くあるのです。

また、戦争が終わり正常になって初めて、戦時が異常だったことに気づきます。それと同じように、善をして正常になって初めて、今の自分が異常だったことに気づきます。そして、「なぜ今まで、こんな当たり前のことに気づかなかったのだろう」と不思議に思い悔やむのです。

 

・相対悪から絶対悪へ

一生懸命善をし、十悪や五逆罪といった相対悪を見つめることで、やがて謗法罪や一闡提といった絶対悪が見えてきます。人間には、膨大な罪悪(絶対悪)を自覚できるだけの能力が備わっているのです。

別な見方をすれば、相対的な善には、絶対の世界へ導く強い力があるともいえます。ですので、相対的な善や悪、苦や楽だからといって侮ることはできません。

 

・表現できない罪悪

絶対悪は、相対智の人間にはわかりづらいものです。

相対悪を造れば相対苦が返ってきますが、相対苦でさえ強くなれば筆舌に尽くし難い苦しみです。まして絶対悪です。造れば苦の極みである絶対苦となって返ってきます。

口に出してしゃべれたり、言葉で表現できるような罪悪は大した罪悪ではありません。罪悪ではありますが、そんな罪悪ではなく、もっともっと深刻な罪悪があるのです。そして、その筆舌に尽くし難い世界は聴聞でしか知ることができません。

 

・もっと大きな悪に目を向ける

罪悪には大小レベルがありますが、人間の善悪観はトンチンカンで、大きい罪悪を大きい罪悪と思えません。たとえば、頭では謗法罪が1番重いと聞かされても、腹底では法を謗ることより親を殺すほうが重いと思っています。

人間の本性が悪性だと思っている人も多く、罪悪感に苛まれ苦しんでいる人も多いですが、今見えている罪悪は氷山の一角にもならないレベルです。それは、たとえるなら膨大な1億の罪悪に目を向けず、1や2の罪悪を気にしているような状態です。

世間でいう善人や悪人といった言葉は、目くそが鼻くそを笑っているような世界で、高が知れています。絶対悪が見えるまで、もっともっと罪悪観を問い詰める必要があります。

 

・目的に向かうことが大前提

小さな罪悪であっても造らないよう努めることは大切ですが、悪をやめ善をすることの目的は絶対悪という大きな罪悪を知るためであり、死の解決のためです。悪をやめ善をすることは死の解決のための手段です。相対善悪は絶対善悪や死の解決へ導くための手段であり方便であるといえます。

ですので、たとえば、小さな罪悪を気にするあまり、大きな罪悪に目を向けることができないということがあれば、小さな罪悪を気にするということが悪になってしまいます。たとえば道徳・倫理を忠実に守っていることを誇りに思い、さも人生の帳尻が合っているかのように思っている人は多いですが、それは自惚れです。

道徳的な善悪に限らず、どんなに悪をやめ善をしたところで膨大な罪悪は帳消しにできません。膨大な罪悪を帳消しにすることを問題にすべきです。その方法が死の解決ですので、死の解決をしているかどうかを問題にすべきなのです。

「万事、信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことを僻ことと仰せられ候う」(御一代記聞書)

(訳:何事にしても死の解決をしていないから悪なのだ。善知識が悪と言うのは、死の解決をしていないことを間違いだと言うのだ)

 

「罪の有り無しの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰、いくたびもいくたびも、よし」(御一代記聞書)

(訳:罪が有るか無いかを議論するより、信心を獲たか否かを何度も何度も問題にすべきだ)

 

早急に善悪観をイチから見直さないと、大変な結果を招いてしまいます。

 

・死の解決をするまで善人様

求道することで少しずつ悪人になることができますが、結論から言うと、死の解決をするまではどんな人も善人様です。人間は、どこどこまでも自分が悪い人間だとは思えません。ほとんどすべての人は善人様のまま、真実の自己を知らずに死んでいくことになります。

 

〇善の具体例

厳密には、何が善となるかは人によって異なり、同じ人でも時と場合によって異なりますが、具体的にどのような行為が死の解決に向かう行為となりやすいのか、大まかな具体例を挙げます。以下、重要な順です。

 

1.聴聞(仏教を聞くこと)

2.開顕(人に仏教を伝えること)

3.勤行(経典を読むこと)

4.教学(仏教の勉強をすること)

5.六波羅蜜

「波羅蜜」とは、「到彼岸」や「度」とも訳され、悟りを得るための修行法を意味します。波羅蜜を簡単にいうと、道徳・倫理的な善を一生懸命実行するということです。波羅蜜には大きく、次の6種があり、六波羅蜜といいます。六波羅蜜は六度万行ともいいます。

 

布施:親切をする

持戒:戒律(約束や道徳規範)を守る

忍辱:忍耐する

精進:努力する

禅定:反省する

智恵:仏の智恵、教育を身につける

 

以上、「善」の具体例を挙げましたが、あらゆる善は「聴聞」にまとめることができます。

 

〇善の心がけ

善をする目的は自己を知るためです。ただ、やみくもに善をするのではなく、善を行っている時の自分の心を見つめることが大切です。

・純粋な善に近づける

結論から言えば、純粋な善は人間に不可能ですが、純粋な善に近づけようと努力することが大切です。善をする時には、三輪を空じる(捨てる)必要があり、これを三輪空といいます。善をすれば必ず、「善をしてやった」と自惚れるため、その心を諌めるということです。純粋な善をしようとしてもできない自分の心を見つめながら一生懸命善をすることに意味があるのです。

 

・善は心の問題

善とは物質的な問題ではなく、心の問題です。まったく同じ行為であっても、その人の心理状態によって大きい善になったり小さい善になったりするのです。

たとえば、何でもない時にする善は大した善ではありませんが、くたくたに疲れている時にする善は、強い「念い」が働き、より大きな善となります。また、1億円持っている人が1万円捨てるのと、1万円しか持っていない人が1万円捨てるのとでは、1万円に対する「念い」が異なり、1万円の価値が異なります。

「長者の万灯より貧者の一灯」という諺があります。

「金持ちの多くの喜捨より、貧者の心のこもったわずかの喜捨のほうが功徳が大きい」という意味ですが、この諺は次の経典にある話に基づいています。

仏教に帰依したアジャセ王が、釈迦と弟子たちを供養するために燃灯会を開いた時のことです。おびただしい数の灯が城から祇園精舎まで連なり、夜を鮮やかに彩りました。

それを、難陀という女乞食が見ていました。彼女は、日頃から仏に何か供養したいと思っていましたが、貧乏で何もできませんでした。しかし、王の供養を見て感動し、奮い立ちました。油を買うために、物乞いをして歩くことにしたのです。

老体にむち打って一日中歩き、やっとのことで二銭手にすることができました。それを持って難陀は油屋へ行きますが、二銭では一灯分にもなりませんでした。そこで難陀は髪を切り落とし、店主に頼みました。

「これで何とか一灯の油を分けてください」

店主は不思議に思いました。

「この金で食べ物を買えばいいのに、どうしてそんなに灯油が欲しいんだ」

すると、難陀は目に涙を浮かべて答えました。

「お釈迦様のような善知識には百劫に一度くらいしか遇えそうにありません。貧乏な自分でも後世のため功徳が積みたいのです」

それを聞いて感動した店主は、灯油二合分のところ五合に増やしてくれました。

喜んだ難陀は釈迦の所へ行き、心からの一灯を捧げました。難陀の一灯は、ひときわ明るく輝きました。

燃灯会が終わり、釈迦の弟子の目連が灯明を消し歩いていると、一灯だけどうしても消えない灯がありました。それは、難陀の一灯でした。不思議に思った目連が釈迦に尋ねると、釈迦はこう言いました。

「これはお前の力では消せるものではない。たとえ山を揺るがすような大風でもその明かりは消えない。なぜなら、難陀の深い喜捨の心によって捧げられた一灯だからだ。難陀はこの喜捨の功徳によって、未来必ず須弥灯光如来となるであろう」

心がいかに重要かということですが、念のため言うと、貧乏になったほうがいいといった単純な話ではありません。

 

・形だけでもやる

難陀の一灯のような善が理想ですが、人間には中々できません。ですので、そのためにまずは形だけでもいいので、何度も何度も心を込めて善をするという視点も大切です。

良くも悪くも行動した通りに心が作られていきます。心がきちんとしてなくとも、きちんとした行動をすることで心もきちんとなっていきます。心がきちんとしていても、だらしない行動をすることで心もだらしなくなっていきます。

 

・善因は必ず善果となる

善い行いをすると必ず善い結果が返ってくるという法則が善因善果の法則です。善い行いをしても善い結果がなかなか出ない時は、善業の貯金をしていると思ったらいいのです。

 

・善をすればいいだけ

インドの説話集、屍鬼二十五話には、次のように語る場面があります。

「ねえ君、話してくれ給え。君は聡明そうなのに何をそう悩んでいるのか。幸せは善行から生じ、苦しみは悪行から生ずると決まっているのに。もし君の憂鬱が苦しみから来るものなら、善行を行い給え。どうして自殺なんかして地獄の苦しみを望むのか」

幸せであろうが不幸であろうが、過去の行いが結果となっているだけです。幸せだといっても、喜んでばかりもいられません。不幸だといっても、嘆いてばかりもいられません。未来のために善をしていく必要があります。仏教は、自由意志で悪い縁を遠ざけ、善い縁を近づけるよう努力する、努力主義、全力主義の教えです。

 

・結果はカス

「結果」は正確には「行いの結果」であり、本質は「行い」にあります。行いで結果が決まるからです。ですので、注力すべきは行いであって、結果に一喜一憂したりするのは正しい受け止め方ではありません。種まきをする過程にこそ、ありとあらゆるものが詰まっており、結果はオマケでありカスだと思うべきなのです。ビサーカーという釈迦の弟子は、甘い飲み物を美味しそうに飲んでいる長者を見て、「古いものを飲んでいる」と表現しました。

「不幸な人は希望をもて。幸福な人は用心せよ」というラテンの諺もありますが、相対的な幸福に振り回されず、どんな時も常に冷静でいるよう意識すべきです。

 

・小さな種まきで大きな結果は出ない

たとえば、小さな種まきで大きな結果がやってきたら、因果の法則に反するので怪しむべきです。この時に「自分の努力」だと思ってしまうと、ツケがまわってきて痛い目に遭います。

 

・裏表なく善をする

「偉大な大工は、誰も見ないからといって、床裏にひどい木材を使ったりはしない」(スティーブ・ジョブズ/経営者)

 

人相手の生活だと裏表のある生活となりやすいので、因果律相手の生活をし、裏表のない生活をすべきです。人間は人にバレることに怯え、法律に怯えてばかりですが、因果律に怯えるべきです。山奥に咲く花は、人が見ていようがいまいが、綺麗に満開に咲き誇っています。人が通る時だけ咲いて、通らない時はしぼんでいる、ということはありません。このような裏表のない善を心がけることが大切です。

また、裏での行為はどうしても表に出てくるものです。

太宰治は、ある詩人から、次のように忠告されたといいます。

「その作家の日常の生活が、そのまま作品にも表れております。ごまかそうったって、それはできません。生活以上の作品は書けません。ふやけた生活をしていて、いい作品を書こうたって、それは無理です」

しかし、人が見ていないところではインチキをするのが人間です。そのことを調べた実験は数多くあります。

「調査結果は、全員が心の中で損得勘定をしていることをはっきりと示している。もう1つ付け加えると、ほとんどの人は、その瞬間は愉快であったにしろ、自身の道徳規範に反する選択に簡単に引き込まれてしまった。言い換えれば調査結果は、誰にも説明する必要のない状況では、ほとんどすべての人の自制心が利かなくなってしまうことを示している」

「大半の人は、利己的な行動をとるだけでなく、自分と同じ勝手な振る舞いをした人間に対しては躊躇なく非難する。少し言い方を変えれば、ほとんどの人は自制心を働かせて道徳規範をきちんと守ることができない上に、さらにおそらく最も驚くべきは、自分のやった不正行為は容認するのである。誘惑に負けただけでなく、あとから自分のとった行動にはきちんとした理由があると信じ込んでしまうのだ。こうした現象は、自分の誤りから学ぶという点に関していえば、まさに諸悪の根源になりうるのが想像できるはずだ」(デイヴィッド・デステノ/ノースイースタン大学心理学教授)

 

どれほど因果の法則を信じ、裏表なく生きていると自負する人であっても同じことです。死の解決をしない限り、因果の法則を露塵の疑いもなく信じること(深信という)はできません。

ですので、互いに監視し合うシステムをつくるというのも大切です。ちなみに、たとえ人間は見てなくとも仏は見ており、心の行いも知ることができます(詳しくは第6巻)。仏でなくとも見える人や衆生には見えます。プライバシーなどというのは本質的にはないともいえます。

24時間365日、生活のすべてを人に見られたら苦痛でしょう。お笑いタレントの濱口優は、これまで行った数ある過酷なロケの中で、スケルトン生活(外から丸見えのまま生活を送るロケ)が今までで1番過酷だったと語っていました。多くの衆生から見られていることがわかれば、きっと苦痛に感じるはずです。

 

・善は大変

善をするのは大変なことです。

善い結果を受けている人は過去に善をしたということなので、その点は称賛に値します。もっとも、世俗的な成功を善としたならばの話です。こんなエピソードもあります。

ある僧が大名に恭しく合掌しました。それを見た連れの人が不審に思い、「そなたは、あのような権力を認めるのか」と非難しました。するとその僧は、「私は世俗的な権力に額づいているのではなく、過去世の善業を拝しているのだ」と答えたといいます。

しかし、安心してもいられません。善い結果を受け続けるには、これからも善をしていく必要があります。衹夜多尊者という僧は、月氏国の王に向かって、「来た道はよかった。これからも気をつけられよ」とアドバイスしたといいます。

 

・バカみたいに善をする

求道は非常にデリケートな道で、1度悪に染まってしまうと、死の解決ができなくなるぐらい打撃を受けてしまいます。

しかし、人間は近視眼的で、かつ悪に染まりやすい生物です。7歳の源信が指摘したように、どうしても善悪を区別し、善悪に影響されるのが人間です。

ですので、求道者は一生懸命善をすべきです。人間心理からいって、悪はとても使いこなせるものではありません。善と悪の両方を自由に使い分けることができるのは、死の解決をした人だけです。善悪がわかる先生、つまり善知識の監視下であれば別ですが、求道中の人間は善をバカみたいにやるぐらいがちょうどいいのです。

 

・怒りが出るぐらい善をする

人間の善は雑毒の善ですから、一生懸命善をしている人は怒りやすいです。逆に、怒りがでない人というのは、あまり善をしていない人ということになります。悪を見て怒らない人というのは、悪を悪と思っていないということであり、悪に鈍感な人です。もっと言えば、怒りのない人というのは人格的にゼロであり、心が死んでしまっているのです。

 

・怒りは悪とは限らない

「怒り」を絶対悪ぐらいに思っている人は多いですが、悪とは限りません。たとえば、泥棒が家に入れば当然ケンカになります。盗まれても殴られても、怒らず何もしなければ、それこそ悪というものです。ガンジーは、たまたま殺されなかっただけでしょう。怒る人がいることで全体の協調行動が増えるという研究もあるようです。

「怒りという感情はないほうがよいと考えがちであるが、社会の中に怒る人がいるというのは案外重要なことのようだ。人間が協力して暮らしていくのに、怒りが大事だというのは意外かもしれない。ただ単に怒りっぽいだけでは、人としてはとっつきにくいが、怒るべきときに怒り、過度に自己中心的な人や、社会の規範を守らない人を罰するというのは、社会の秩序を維持するために、世の中の役に立っているのかもしれない」(金井良太/認知神経科学者/元英国サセックス大学准教授)

 

もちろん、怒っている人がすべて正しいとは限りません。

また、たとえ怒りを口にしなくとも表情などに必ず表れます。こういったことがわかってくると、その人が本当に善をしたかどうか証拠の1つになり、嘘を見抜いたりすることもできます。

 

〇悪性の自己が見える

自己を追求していくと、罪悪の塊である悪性の自己が見えてきます。

「皆人の 心の底の 奥の院 たずねてみれば 本尊は鬼」という古歌もあります。

龍樹は自身を獰弱怯劣と言っています。

「獰」は悪い、「弱」は弱い、「怯」は卑怯、「劣」は劣るという意味ですから、「自分は、悪くて、弱くて、卑怯で、劣った人間である」と言っているのです。

道綽は、「もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨(しう)に異ならん」と言い、「暴風や豪雨の如く罪悪を造っている」と懺悔しています。

親鸞は無慚無愧と言っています。

「慚」とは己に恥じる心、「愧」とは人に恥じる心を意味しますので、「自分は悪の限りを尽くしながら、己に恥じる心も、人に恥じる心もない」と懺悔しているということです。人間は、「罪悪を造れば恥じる心ぐらいある」と思っていますが、「自分はその心さえない」と親鸞は言っているのです。これ以上の懺悔は、おそらく人間にはできないでしょう。

・生きながら地獄に堕ちる

膨大な罪悪が見えれば当然、大きな衝撃を受けます。普通の人でも、大きなショックを受けると気絶したり失神したりすることがあります。まして膨大な罪悪です。その衝撃でショック死することになります。肉体の死ではなく心(阿頼耶識)が死ぬのです。その即死状態を地獄一定といい、生きながら地獄に堕ちる体験です。

「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)

(訳:どのような行も及び難い自分は、地獄しか行き場がない)

 

「ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべきかたもなき身なる」(御文)

(訳:ただわが身は極悪深重の浅ましい者なので、地獄しか行き場のない身である)

 

そして、地獄に堕ちたと同時に極楽に生まれることができます。このあたりについては第6巻で詳しく説明します。

 

〇求道の難しさは罪悪の重さ

求道は非常に難しい道ですが、なぜ難しいのかというと自己の罪悪が重いからです。

・「簡単に救われるはずだ」

念仏を称えるだけで救われる」といった具合に、簡単に助かると思っている人は多くいます。

また、求道すると、「何でこんなに厳しい救い方しか無いのだろうか」とか「もっと楽な救い方がなぜできなかったのだろうか」という具合に、救い主である阿弥陀仏や善知識に対して疑問を持つこともあると思います。

他にも、「将来いいことがある」とか「死後にいい世界へ行ける」「地獄に堕ちない」等々、色々とありますが、こういった思いはすべて、自己の罪悪の重さがわかっていないことから生じます。

たとえば、凶悪犯罪者が簡単に罪が帳消しになり許されるということになったら、「虫がいいこと言うな!そんな都合のいい道理があるわけない!」と思うでしょう。罪悪の重さがわかれば、そんな簡単な種まきで重い罪悪が解決できる道理が無いということがわかります。

 

〇死の解決の境地と罪悪

詳しくは第6巻で説明しますが、死の解決をすると膨大な罪悪はすべて消えます。

・業報は受ける

仏でも因果の法則には従わなければなりません。

「仏の三不能」といって、仏でも捻じ曲げることができない3つの真理があると説かれますが、因果の法則はその1つです。ですので、死の解決をしても罪悪が消えることはなく、罪悪の結果(業報)は受けなければなりません。

 

・業報を感じない

しかし、業報を受けても、それを喜びに転じることができます。これを煩悩即菩提といいます。煩悩(悪)が即、菩提(善)に転じ変わる境地です。「即」は同時即ともいい、時も隔てず、場所も隔てず、時間の極まりを意味します。ですので、業報を悪果と感じず、結果として悪果を受けないのと等しいことになります。

「念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなき故に、無碍の一道なり」(歎異抄)

(訳:死の解決は、何も妨げとなるものがない絶対の世界である。その理由は、死の解決をした人はすべての神々が敬って平伏し、どんな悪魔や外道も妨げることはないからであり、どんな罪悪も業の報いを感じさせることができず、どんな善もこの境地に及ばないからである)

 

「一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり。命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり」(御一代記聞書)

(訳:死の解決をすると罪悪がすべて消えるというのは、他力の信心の力によって往生が定まった時は罪悪が妨げとならないので、罪悪が無いのと等しいという意味である。しかし、この世に命がある限りは、罪悪は尽きないのである)

 

・善悪に関係ない

死の解決は善も欲しからず、悪も恐れずという境地で、善悪に関係なく喜べる境地です。

「されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、偏に本願をたのみまいらすればこそ他力にては候へ」(歎異抄)

(訳:善であろうと悪であろうと因果の法則にまかせて、ただ阿弥陀仏の本願力の働きに身をまかせるからこそ他力なのである)

このような境地に出ない限り、真の安らぎはないのです。

 

〇絶対にしなければならない

死の解決をしなければ死後は地獄です。一度地獄に堕ちれば助かる方法はありません。

ですので、「悪人になったほうがいい」とか「なれたらいいな」というものではなく、絶対に悪人になって死の解決をしなければなりません。どんなに苦しくても、どんなに年を取っても、ずってでも這ってでも求めてゴールする必要があります。

どんなに真面目な求道者でも、ゴールしなければ意味がありません。死の解決をして極楽に行く100点の人生となるか、死の解決をせず無間地獄に堕ちる0点の人生となるか、人生は2択です。

・急いでしなければならない

人間は死と隣り合わせであり、今日死んでもおかしくありません。今日死ねば、今日から地獄が始まるのです。今、幸せの絶頂にいようが、不幸のどん底にいようが関係ありません。ですので、一刻も早く死を解決する必要があります。

「ああ、夢幻にして真にあらず、寿夭保ちがたし、呼吸のあひだ、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失ひぬれば、万劫にも復せず。この時悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまはん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれ」(教行信証)

(訳:ああ、この世は夢、幻であって真実ではない。命は保ち難く、吐いた息が吸えなければ死んでしまう。一度死んでしまえば、無間地獄に堕ち、永遠に抜け出すことはできない。生きているうちに死の解決をしなければ、阿弥陀仏でもどうしようもできない。どうか深く無常を問い詰めて、いたずらに後悔しないでほしい)

 

「一日も片時も、いそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定せよ」(御文)

(訳:一刻も早く急いで死の解決をし、極楽浄土への往生を決定せよ)

 

「人生死出離の大事なれば、これより急ぐべきはなく、またこれより重きはあらざるべし」(御裁断申明書)

(訳:死の解決ほどの一大事より急ぐべきことはなく、これほど重いことはない)

 

・必ず後悔する

死の解決ができなければ、血の涙を流して後悔することになります。

「明日も知らぬ命にてこそ候うに、何事を申すも命終わり候わば、いたずらごとにてあるべく候う。命のうちに、不審もとくとくはれられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候う」(御文)

(訳:明日もわからない無常の命であり、何をしようとも死ねば意味がない。生きている間に死の解決をしなければ、必ず後悔することになる。よくよく心得なければならない)

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第2章 悪人
2.1 罪悪の具体例
2.2 心の悪
2.3 すべての人間は極悪人
2.4 罪悪の自覚
2.5 宿善
2.6 求道は悪人になる道