自己の罪悪を見て見ぬふりをするのではなく、直視することが人間として正しい生き方です。

〇悪人

仏教で説かれる「悪人」とは、自分の罪悪を自覚して苦しんでいる人であり、反省して罪悪を造らないよう努力している人のことです。

・悪人は人間関係がよくなる

人間は人の欠点はよくわかりますが、自分の欠点になるとわからなくなるものです。お互いが「自分は正しい」と思っていれば衝突しやすくなりますが、自分の非を自覚できれば衝突は起こりにくくなります。

イギリスの思想家、カーライルに一人の婦人が悩みを相談しに来ました。婦人は、「家族が私の気持ちをわかってくれない」と涙ながらに語りました。それを聞いていたカーライルは何を思ったのか、婦人にタンスを調べるようアドバイスしました。

「乱雑になっている衣服があったら整頓したり綺麗にすること。私が申しあげるのはそれだけです」

婦人には理解できませんでしたが、それでもやってみようと思い帰宅しました。

そして、一週間後、婦人が笑顔でカーライルのもとへやってきました。

「恥ずかしいことですが、まったく整頓されていませんでした。やるべきことをやらずして人に自分の気持ちをわかってもらおうなどとは虫がよすぎる、先生はそう言いたかったのですね」

裁縫箱の針も糸も乱雑に入っていたことや、タンスの中の衣服も整頓されていなかったことなどを話しました。そして、気がついたら家中の整理を始めており、なぜこんな基本をおろそかにしてしまったのか、と恥ずかしくなったといいます。

これでは何事も上手くいくはずがない、と知らされたことをカーライルに話すとカーライルは、にっこり笑って頷いたそうです。

「李下に冠を正さず」という諺があります。李(すもも)の木の下で冠をかぶりなおそうとして手を上げると、実を盗ろうとしていると誤解を与えるから、そこでは直すべきではないという意味です。誤解を招くような行動はすべきではないということのたとえです。これも相手の立場に立てないと簡単にケンカになってしまう例といえます。

ある時、一灯園の創始者、西田天香が庄松に言いました。

「娑婆は堪忍土。庄松さん、人は人を許して生きていかなければなりませんね」

すると庄松は、「いえいえ、私は人に許されて生きています」と言ったといいます。

人に迷惑をかけ、人を苦しめなければ生きられないのが人間です。庄松と天香の差は、そのことを知っていた悪人と知らなかった善人様の差であり、仏教とそれ以外の宗教の差といえるでしょう。

 

・悪人は人の心がわかる

意識するとしないとにかかわらず、人間は自分の心を通して人の心も把握しようとしています。自己を深く知るほど、つまり悪人になるほど、人の心も深くわかります。浅い自己しか知らない人は、人の心も浅くしかわかりません。人の心を知るという点については第5巻でも説明します。

 

・悪人は足るを知る

仏教には「足るを知る」という言葉があります(詳しくは第3巻)。人間は、すぐ有ることが当たり前になり、感謝を忘れます。また、無い事ばかりに目が向き、もっと欲しいもっと欲しいと飢え渇きます。そして、失って初めて有難さを知るのです。

悪人は足るを知り、感謝を知り、恩を知ります。

人間の本当の値打ちからいえば1円の価値もありません。「服を着るにも値しない人間である」ということから裸で説法した僧侶もいます。女性は目のやり場に困ったでしょうが、それはともかく、この僧侶の気持ちはわかります。どんな極貧生活でも贅沢すぎるのであり、息を吸えるだけで、生きることができるだけで贅沢すぎるのです。多くの人はそうは思えないでしょう。それは極悪人の自覚がないからです。

中村久子という人を紹介しましょう。

この人は、ヘレン・ケラーが「私より不幸な人、私より偉大な人」と称賛した人です。

明治30年に生まれた久子は、2歳の時に凍傷になり、その後、それがもととなって突発性脱疽となり、両手両足を失ってしまいます。

しばらくして、盲目にもなりかけると、手足もなく、眼も見えなくなってはかわいそうだと思った母親は心中しようとします。結局、この時は久子が「死んでは嫌だ」と言ったため思いとどまります。

7歳の時に父が死ぬと、母は自立できるよう厳しくしつけることにします。

やがて努力の甲斐があって、肘までしかない両腕と口を使って、1人で針に糸を通し縫物ができるようになります。編み物、洗濯などすべて口で行い、見世物となって稼ぎます。

他にも、いじめや差別、弟や夫の死、関東大震災etc.久子の人生は不幸の連続でした。

「お前さえ無かったら、大事な長男をあんな所へやらなかったのに、お前があるばっかりになぁー」

「お前さえ無かったら、こんな苦しい思いはしないのに・・・」

久子は、「母のこうしたくり言を幾十度、幾百度聞かされた」と言います。

母を恨み、自分の運命を恨んでいたそうですが、仏教と出遇い変わったといい、厳しくしつけた母に感謝しています。

「昔はなんときつい母だろうと恨んだものでしたが、今から考えますとこれが母の大きな慈悲だった」(久子)

久子は、「ある ある ある」というタイトルの詩を書いています。

 

「さわやかな秋の朝 

『タオル取ってちょうだい』

『おーい』と答える良人(おっと)がある 

『ハーイ』という娘がおる 

歯をみがく

義歯の取り外し

かおを洗う

短いけれど

指のない

 

まるい強い手が

何でもしてくれる

断端に骨のない

やわらかい腕もある

何でもしてくれる

短い手もある

 

ある ある ある

 

みんなある

さわやかな

秋の朝」

 

また、久子は次のようにも書いています。

「真理の鏡によって 自分の心のとびらを そうっと開いてのぞく そこにはきたない おぞましい自己がある」

 

・悪人は善をする

悪人は善にも悪にも敏感で善を一生懸命しますが、善人様は善にも悪にも鈍感で多くの悪を造ってしまいます。

知らないで造る罪悪は、知っていて造る罪悪より重いということがあります。たとえば、自分がウイルスに感染していることを知っていれば人前に出ないようにしたり、未然に防ぐことができますが、知らなければウイルスを撒き散らすことになります。経には、火の怖さを知らない赤ん坊が、思い切り手を突っ込んで大火傷を負ってしまうようなものであると説かれています。

このように、罪悪を罪悪と知らずにやっている行為は恐ろしく、悪意がなくとも、「知らなかった」では済まない取り返しのつかない問題があるのです。

「問題のある行動につながりかねない様々な影響力を知っておけば、そういったものを見極め、その影響力が最大になる前に止められる可能性が高まることだ。誰でも大きな害をもたらす側になり得ることを理解すれば、人はもっと注意深く、もっと忍耐強くなれるはずだ」(ジュリア・ショウ/ロンドンサウスバンク大学法社会学部上級講師)

 

ちなみに根源的な無知のことを無明といいますが、その恐ろしさを人間は知りません。

 

・悪人は菩提を求める

悪人になるということは、真実の自己を直視するということであり、本当の自分を取り戻すということです。

しかし、善人様は自分を否定しており、自分の心を綺麗だと思っています。つまり、この穢土(この世のこと)の世界を綺麗に見ているということですが、これでは真実の世界に対して憧れません。

 

・悪人こそ救われる

仏教は悪人になる教えであり、悪人こそ救われます。これを悪人正機といい、悪人こそ救われる正しい根機(心)という意味です。

「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄)

(訳:善人でさえ救われるのであれば悪人はなおさら救われる)

 

「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」という言葉もありますが、自己を知る人間、つまり悪人は強いです。愚か者ほど強いものはありません。己を知らない人間は、一見すると強そうに見えても、無知からくる狂った自信であり、実態は脆いです。

 

・正しい目的が必要

無常観と同様、罪悪観も、大前提として正しい人生の目的を知っている必要があります。罪悪を直視し人間関係がよくなろうが、足るを知ることで幸せになろうが、それらはすべて無常の幸福にすぎません。世間の人間は罪悪を直視して何をするかというと、無常の幸福しか知らないため、結局、無常の幸福を求めて人生が終わります。これでは、罪悪観が手段として活きません。また、罪悪を直視し続けることもできません。

第2巻でも紹介しましたが、芥川龍之介は次のような苦しみを訴え自殺しました。

「僕自身には勿論、あらゆるものに嫌悪を感じている」

「周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい」

「若し正直になるとすれば、我々は忽ち何びとも正直になられぬことを見出すであろう。この故に我々は正直になることに不安を感ぜずにはいられぬのである」

誰でも真面目に罪悪を直視すれば、彼のように苦しみます。人生は、臭い物に蓋をして幸せに生きるか、真面目に事実を直視して苦しみながら生きるかの大きく2択です。苦しんでまで生きるだけの動機がなくなれば、芥川のように自殺するのは自然の流れです。どんなに苦しくとも罪悪を直視し続け、雑毒の善をし続ける「目的」が必要になります。罪悪を直視し悪人になる目的は、死の解決のためであり自己を知るためです。無常の幸福を求めるために罪悪を直視するのではないのです。

 

〇聞き誤る危険がある

世間一般で使われる悪人の意味とはまったく異なるため、中途半端に聞いてしまうと非常に危険です。

・カミソリのようなもの

仏教で使われる「悪人」という言葉は歎異抄に書かれていますが、歎異抄はカミソリ聖教とも呼ばれています。カミソリは大人が使えば重宝しますが、子供が使うと非常に危険なものです。同じように、歎異抄は読み解く力がある人が読めば良い本ですが、そうでない人が読むと非常に危険な本であるために、こう呼ばれます。歎異抄は未だに誰が書いたかもわかっていない、いささか無責任な本でもあり、こういった理由から本願寺の蓮如は「読んではいけない」と釘を刺しているほどです。ですので、どういう意味で使われているのか注意する必要があります。

 

・性悪説とは違う

一見似ていますが、これまでの説明から一般的にいわれる性悪説とは異なることがわかるかと思います。たとえば、性悪説は元が悪(他因自果)であると説きますが、仏教は元が白紙(自因自果)であると説くという違いがあります。

 

〇悪人は偉い人

自分の間違いを反省し直そうと努める悪人は、優れた人であり偉い人です。

天下一の画家になりたいと思っていた田崎草雲は、師である金井鳥洲の紹介で、画界の大御所、谷文晁の門を叩きました。

草雲を見るなり文晁は、絵筆と紙を突き出し、「1つ梅を描いてみよ」と命じました。草雲は、力を見せるにはこの時ばかりと渾身の力を込めて書き上げました。出来栄えには自信がありました。しかし、文晁はそれを見るや、「何だ!こんな梅なら、俺は足でも描いて見せる」と散々に嘲笑しました。ショックを受けた草雲は、その後、人が変わったように絵を描き続けました。

1年半ほど経ったある日のこと、鳥洲は文晁からの手紙を草雲に渡しました。草雲がしぶしぶ読んでみると、その内容に涙を止めることができませんでした。

「梅を描かしたが見事な絵だった。彼の画才は天性のものである。しかし、相当に慢心しているようなので故意に嘲笑した。あのような性格だから転覆の危険も大いにある。その点、注意して面倒を見てほしい」

その後も草雲は研鑽を重ね、最初の帝室技芸員(美術家最高の栄誉とされる)となるなど、大家として名を成しました。

悪人は偉い人ですが、だからといって「悪を見つめて偉いだろう」と自惚れるのは間違いです。人間には、卑下慢といって卑下して自慢する煩悩もあるので戒めなければなりません。

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第2章 悪人
2.1 罪悪の具体例
2.2 心の悪
2.3 すべての人間は極悪人
2.4 罪悪の自覚
2.5 宿善
2.6 求道は悪人になる道