「とんよく」と読みます。書いて字の如く、欲を貪るように求める心で、一般的に欲や欲望といわれるものです。
人間が住む世界は欲界といい、欲望にとらわれた生物が住む世界です。無常の幸福を求める人を小欲の人、菩提を求める人を大欲の人といいますが、人間は小欲を満たすことばかりに目が向いています。
・悪に染まりやすい
・五欲
・食欲
・財欲
・色欲
・名誉欲
・睡眠欲
・悪に染まりやすい
欲そのものは善でも悪でもなく、活かすことも可能です。
生物学では、生存戦略上有利であるため人間に感情が生まれたと考えられています。怒りの感情は敵に対応するため、性欲は種として繁栄するため、孤独感は1人で生きることを避けるためといった具合です。
一方で、欲は悪に染まりやすいという性質があります。たとえば、金が欲しい(財欲)と思って盗み(偸盗)という罪悪を造ったり、名誉を守りたい(名誉欲)と思って嘘(妄語)という罪悪を造ったりするという具合です。小説家のチェーホフは、「飢えた犬は肉しか信じない」と表現しました。
第2巻でも説明した通り、いくら欲を満たしても満足することはなく、それどころかもっと欲しいもっと欲しいとなります。
貪欲含め三毒は恐ろしく、経には「どれほど学問にたけ、意思が強くとも一度欲に溺れたら破滅する」と説かれています。
・五欲
代表的な欲として5つ説かれており五欲といいます。以下、欲求の強い順です。
食欲:食べたり飲んだりすることに対する欲求
財欲:金や財産に対する欲求
色欲:性に対する欲求
名誉欲:名誉や権力に対する欲求
睡眠欲:睡眠に対する欲求
頭文字をとって、「しょく・ざい・しき・みょう・すい」と覚えると覚えやすいです。五欲について、1つ1つもう少し詳しく説明します。
・食欲
現代の日本は飽食の時代なので、食欲の強さは普段感じないかもしれませんが、満たされない極限状態になると恐るべき本性が表れます。いくつか事例を紹介しましょう。
信長の家臣であった太田牛一が著した信長の一代記「信長公記」には、鳥取城の兵糧攻めについて次のように書かれています。
「初めのうちは、5日に1度、あるいは3日に1度、鐘をつき、それを合図に、雑兵が全員で柵ぎわまで出て来て、木の葉や草を採り、特に稲の切り株は上々の食い物であったようであるが、後にはこれらも採り尽くし、城内で飼っていた牛馬を殺して食い、寒さも加わって、弱い者は際限もなく餓死した。餓鬼のように痩せ衰えた男女が、柵ぎわへまろび寄り、苦しみ喘ぎつつ『引き出して、助けてくれ』と悲しく泣き叫ぶ有様は、哀れで見るに堪えなかった。
これらの者を鉄砲で撃ち倒すと、まだ息のある者にも人々が群がり、手に手に持った刃物で手足をばらし、肉を剥がした。五体の中でも特に頭部は味がよいと見えて、一つの首を数人で奪い合い、取った者は首を抱えて逃げて行った。まったく、命を守る瀬戸際となると、こんなにも情けないことになるのであった」
また、アウシュビッツの強制収容所での体験を綴ったヴィクトール・フランクル著「夜と霧」にも、次のような話が紹介されています。
「収容所での最後の数か月というものは、食料不足が深刻化(収容所職員は依然として肥っていたが)、囚人たちは人肉嗜食に頼るまでにいたった。友人は死体の片づけに従事していたとき、十にひとつくらいの割合で死体の股やその他の部分が切り取られて食べられているのを発見した。私もこの目で1人の囚人がナイフを死体に突き刺し、脚の一部を切り取り、それを急いで口に押し込んでいるのを見ました。真っ黒になった死体から、一片の肉を切り取って食う。それは、見るも恐ろしい光景でした。でも、そんなことまでしなければならないほど、囚人たちは追いつめられていたのです」
そして、ニューギニア戦線での体験を綴った、梅原千治(東京医科大学教授)の「飢餓の戦記」にも次のように書かれています。
「敵陣から漂って来る肉を焼く匂いに、飢え果てた兵らはたまりかねて突撃し、全滅した。椰子の実を獲ろうと登れば、たちまち敵陣に狙われ、猿のように打ち落されて死んだ」
「白人の肉を白豚と呼んだ。白豚の肉を切り取って飯盒一杯煮て食った兵隊もあった」
「私の部隊の一人の兵は、戦友から三升の米を奪おうとして、小銃を向けて射ち殺した。彼もまた直ちに捕えられ銃殺に処せられた。この加害者は大学出のインテリであり、しかも僧籍の兵であった」
同じく、ニューギニア戦線での体験を綴った、尾川正二(関西学院大学講師)の「極限のなかの人間」にも次のような記述があります。
「腐木に巣食う蛆、数匹の分配をめぐって、流血の騒動をひきおこす」
「白人・黒人を、白豚・黒豚と呼ぶようになってきた」
「8,9割が(人を)食うだろうというのが生き残ったものの答えだった」
「ある夜、国民兵のたった1人の生き残りであるO兵長の告白をきいた。
『人間て、つまらんものですね。自分は、気の弱い男だと思っています。なんにも、できはしません。だのに、自分の心の内をさぐってみると、誰かが自分の飯盒の中に入れてくれないかと、ひそかに期待している気持ちがあるんです。こうして打ち明けて、自分を恥じてみても、明日もまた同じことを待っているように思われるんです。もう、なさけのうて・・・・・』というのである。160センチそこそこの単身、3つ年長だったが童顔そのもの、顔のつくりもすべてが円く、いかにも人のよさを全身に示しているような男だった」
「限界状況における人間実験だった。人間がいかにありうるか、の恐ろしい試練だった。身の皮を引き裂いて、なかを覗いてみよと──」
他にも、たとえば天保の飢饉では、自分の子供を殺し半分食べ半分売り歩いたといった記録も残っています。
五欲の中で、最も強い欲が食欲とされています。つまり、極限状態に置かれた時に、食欲が最優先されるのです。
千日回峰行(詳しくは第6巻)を満行したという塩沼亮潤は、1番きつかったことは寝れないことでも横になれないことでもなく、水を飲めないことだと語っていました。
「hunger is the best spice(空腹は最高の調味料)」という諺もありますが、それだけ食欲は強いということです。
第2巻でも紹介したように、天下統一を果たした豊臣秀吉は贅の限りを尽くしていますが、後年、「位が高くなっていろいろ贅沢なものを食べたが、貧しい時代腹が減ったときに食べた麦飯ほど美味いものはなかった」と語っています。
・財欲
A「あなたが一番影響を受けた本はなんですか」
B「銀行の預金通帳だよ」(バーナード・ショー/劇作家)」
財欲は、1円でも多く金が欲しいという欲です。
小説家の武者小路実篤は、「金のある者は、金があるために不正をし、金のない者は、金がないために不正なことをする」と言いましたが、金が有っても無くても欲しい欲しいと餓えているため、縁さえくれば財欲からいろんな罪悪を造ってしまいます。
「サラリーマンが嵌まる甘い罠『着服』の誘惑——最初はほんの出来心だった・・・・」
週刊誌にこんなタイトルの記事がありました。
「初めは、私の経理上のミスだったんですよ。ごく単純なミス・・・・。それが30年以上勤めた会社を裏切る結果につながった。心の、弱さですかね」
こう語る村上重雄氏(仮名・62)は、神奈川県内の工務店(従業員約30人)で経理を担当し、30年以上勤め、社長からの信頼も厚かったといいます。
「あるとき、ネジやクギなどの金物を買っていた取引先のひとつから『未払いがある』と連絡があったんです。おかしいと思って銀行の出金記録を確認したら、私が口座番号を間違ったらしく、誰だかわからない個人の口座に代金を振り込んでいました」
金額は2、3万円程度だったといい、村上が最初に思ったことは、「ああ、面倒だな」だったそうです。
「2、3万円のために大騒ぎして、銀行に話をしたり、返金を求めたり、社長に怒られたりする。そう考えたら気が重くなってしまって。
それで本来、支払うべきだった会社には改めて支払いをした上で、間違って支払いをしてしまった分はパソコンで適当に架空の請求書を作って、経理書類に混ぜておいたんです。直後に決算があって、書類は税理士に一式渡したけれども、何も言われなかった。幸か不幸か、バレなかった」
「『なんだ、1万円や2万円くらい、どこかに行ったって、わからないじゃないか』と思ってしまったんです。それがいけなかった・・・・」
合計で100万円もの金を着服し、返そうとは思っていたが、やめられなかったといいます。
「ところが、いざやめようとすると、『せっかくこれまでバレないで来たのに、やめる必要があるのか』という思いが浮かんで消えないんです。麻薬の禁断症状っていうのも、ああいう感じなんでしょうね。歯を食いしばっても着服をやめて、返金するというふうに舵が切れなかった・・・・」
やがて、経営改善のため、仕入れ先を見直す話が持ち上がり、書類を再確認した社長が不審に気づきバレたといいます。
「おカネを取っている間は怖くて怖くて、目立ちたくない、ミスしたくないと思っていた。同僚と楽しく飲みに行くカネがほしかったのに、ヘタなことは口走れないと、付き合いも悪くなった。いいことなんて、実は全然なかったですよ。あのとき、カネが動かせると気づきさえしなければ・・・・。それさえなければ、こんなことにはならなかった」
同じようなことは大企業でもあります。
たとえば、54歳の三井住友銀行元副支店長の男が、9年間で11億円をだまし取った事件がありました。報道によれば、男は、行員の入力ミスをきっかけに、間違った数値を入力してもシステム上、何も齟齬が生じないバグに気づき、バグを悪用し始めたといいます。国税当局が不正を察知し、当局の指摘を受け、三井住友銀行が調査したところ男は関与を認め、解雇されました。銀行関係者は、「あとで調査したところ、この手口で現金をだまし取っていたのは彼だけだった。よほど手続きに精通していなければ、見つからないシステム上のバグだった」と指摘します。
製紙大手・北越紀州製紙の子会社の元総務部長が、2015年までの15年間に計24億7600万円を着服した事件もありました。これは着服金額が最も大きい事件だそうです。
デロイトトーマツの「企業の不正リスク調査白書2018-2020」によれば、調査対象企業の46.5%で過去3年間に何らかの不正が発生しており、そのうち「横領」は66.7%(複数回答可)を占め最多とのことです。元特捜部主任検事の前田恒彦は次のように述べています。
「この種の事件は、事実上一人で資金管理を行っている者による一時流用とその穴埋めからスタートし、形だけの監査で犯行がバレないことで次第に着服額が膨らんで大胆になっていき、穴埋め不能になったころに監査方針が変わったり、人事異動で資金管理の担当が後任者に変わるなどし、内部調査でバレるというパターンがほとんどです」
彼らも最初は1円のミスもしないよう気を張っていたことでしょう。まさか、こんなことをするようになるとは、その頃は思いもしなかったでしょう。
経理など、金に近い仕事をしている人は、よくよく注意する必要があります。金庫番と金庫破りは紙一重です。
他にも、火災跡で窃盗した消防士や、出動手当が欲しくて放火した消防団員、救急搬送中の男性から財布を盗んだ救急隊員、遺産の寄付業務を受任して横領した弁護士、特殊詐欺対策を悪用して金を騙し取った警察官というのもいました。
もっと酷いと、人を殺してしまうこともあります。
元県警浦和署巡査部長の中野翔太被告は、現金を盗もうと住宅に侵入、寺尾俊治さんを殺害したとして無期懲役が確定しました。中野被告は、寺尾さんの父親の検視で寺尾さん宅を訪れたことがあり、この際に多額の現金があることを知ったといいます。
アメリカでは18歳の女子学生が、「大富豪」からの依頼で親友を殺害するという事件もありました。この女子学生は、ネット上で自称大富豪から、「900万ドル(約9億7,480万円)支払うから誰かを殺し、殺害の様子を動画と写真に撮って送ってほしい」と頼まれたそうです。この自称大富豪は21歳の男で富豪ではありませんでした。
誰もが金に夢中になり、金の心配をしていますが、そうしている間に死が突然やってきます。金を数えていて階段から落ちて死んだ人や、偽札に群がり将棋倒しになって死んだ人もいますが、どの人間の生き方もこれらと大差ありません。
釈迦が阿難と一緒に農村を歩いていた時のことです。釈迦は歩みを止めて、阿難を振り返り、「ここに恐ろしい毒蛇がいる」と言いました。阿難がみると、道端に黄金の詰まった袋が落ちていました。
「さようでございますね。誠に恐ろしい毒蛇です」
2人はそのまま立ち去りましたが、これを1人の男が見ていました。男が近寄り、その袋を見つけるや、「これのどこが毒蛇なんだ」と喜んで持ち帰ってしまいました。
しかし、後日、盗人と思われて捕まります。厳しく責められた男は嘆きました。
「お釈迦様がおっしゃったことは本当だった。あの袋は恐ろしい毒蛇だった」
それを聞いて王は不思議に思いました。そして、事情を聴き改めて釈迦の偉大さを知ったといいます。
・色欲
「インド独立の父」ガンジーは、今日「聖人」と評されている人ですが、彼には次のようなエピソードがあります。
具合の悪い父をガンジーが看ていた時のことです。突如、性欲にかられたガンジーは、父親の世話を叔父にまかせると、熟睡中の妻を起こし行為に没頭しました。その間に父親が死んでしまい、死に目にあうことができませんでした。その時の行為をガンジーは、「大いに恥じ、大いに悲しんだ」と言い、次のように語っています。
「私の孝行心は測り知れないものであり、そのために何もかも捨てることができる、といつも思っていましたが、仕えているときにも私の心は性欲を捨てられないでいました」
それ以来、ガンジーは夫婦の交渉を絶ったといいます。
どんなに真面目そうに見える男でも内実は性欲が渦巻いています。
性科学者のアルフレッド・キンゼイは、「人間男性は、もしも社会的束縛がなければ、全生涯を通じて乱婚的に性的パートナーを選択することであろう」と言います。
さらに心に目を向ければ、ある哲学者が言ったように、「もし男が目だけで女をはらませることができるならば、80、90のお婆さんに至るまで、道行く女性は1人残らず妊娠する」のです。
八大地獄の1つに衆合地獄というのがあり、さらにその中に刀葉林地獄というのがあります。
この地獄には天を摩すような大樹がそびえたっています。葉は鋭い刃ででき、焔を吹いています。
罪人が樹の頂きを見ると、美しい女がこっちに向かって媚びを売り、手招いています。それを見るや罪人は、われを忘れ登ろうとします。
刃に肉が切り裂かれ骨を削られて血だらけになりながら、やっとのことで頂上に着き、いざ抱こうとすると、女はこつぜんと消え地上に現れます。そして、「あなたを慕って下りてきました。早く抱いてください」と、再び媚びを売ります。
罪人がこれを見て、また、われを忘れ降り始めると、刃が今度は一斉に上を向き、罪人を切り裂きます。
やっとのことで地上に下り、今度こそはと女を抱こうとすると、またこつぜんと消え頂きに現れます。これを無量の間繰り返すといいます。
性欲に振り回される人間の姿によく似ています。
人間は意識するとしないとにかかわらず、性の問題に苦しんでいます。
「ああ、世の中には面白くないことがたくさんある。神様、あなたは女までお作りになりました」(ロシアの諺)
「君の人生に女が入ってくる。素晴らしいことだ。出ていってくれたらもっと幸福なのに」(ポール・モラン/作家)
「女人は我々男子には正に人生そのものである。即ち諸悪の根源である」(芥川龍之介)
女の性欲も相当です。ペニスの形からもそれがわかり、他人の精子を取り除くために今の形になったといわれています。
色欲については第8巻で詳しく説明しているので参照ください。
・名誉欲
「立場や地位を求め闘うことは、私たちの遺伝子に刻み込まれた本能であって、ヒエラルキーにおける立ち位置は私たちの幸福の感情を左右します。なので私たちは、自分より社会階級が低い人と自分を差別化するのにエネルギーを費やします。自分たちがどのヒエラルキーに属するか信号を送ろうとし、実際よりも少し高い社会的地位にあるように見せかけようとします」(マイク・ヴァイキング著「デンマーク幸福研究所が教える『幸せ』の定義」より)
他の欲に比べて少しわかりにくいかもしれませんが、誰もが名誉を求めています。
「兵士は、わずかばかりの色つきリボンのために、延々と命がけで戦うようになる」(ナポレオン)
「反権力を声高に言っている者は、つまり俺に権力をよこせと言っているにすぎない」(養老孟司)
「大学にも名誉教授という呼び名がある。教授には給料が出るが、名誉教授というのは、一銭の給料もない。それでも、名誉の2文字がつくと、教授たちは納得するのである」(丹波哲郎著「因果の法則」より)
「専門家は金銭的インセンティブより、自分が正しいと認められることを喜ぶ傾向がある」(スティーブン・スローマン著「知ってるつもり 無知の科学」より)
「落書きした奴は誰だ」と言っても名乗り出ず、「上手い絵だ、褒めてやろう」と言ったら名乗り出たという話や、ブサイクコンテストの参加者が「優勝者の彼は歯がないだけで中々のイケメンだ」などと審査員に抗議したという話もあります。
人間はコンピュータから褒められても喜びます。
「コンピュータでの作業後、コンピュータから作業に関するお世辞たっぷりのフィードバックを受け取った人は、そのコンピュータに対する好感度が高まりました。実は彼らには、そのフィードバックがコンピュータに前もってプログラムされていたもので、実際の作業の出来とは何の関係もないと告げていました。にもかかわらず、このむなしい褒め言葉を受け取った後は、作業の出来に対する満足度がより大きくなりました」(ロバート・チャルディーニ/アリゾナ州立大学教授)
他にもパソコンの打ち方や歩き方etc.日常の至るところで名誉欲を満たしている姿は見られます。
芥川龍之介を非常に尊敬していた太宰治は、芥川賞に異常に執着していました。選考委員である川端康成に太宰は、「遺書のつもりで書いた」という作品集「晩年」を、次の手紙と共に郵送しています。
「何卒(芥川賞を)私に与えて下さい。一点の駈け引きございませぬ。深き敬意と秘めに秘めたる血族感とが、右の懇願の言葉を発せしむる様でございます。困難の一年でございました。死なずに生き通して来たことだけでも誉めてください。私に希望を与えて下さい。老母愚妻を一度限り喜ばせてください。私に名誉を与えて下さい。早く、早く、私を見殺しにしないで下さい。きっとよい仕事できます。忠心よりの謝意と、誠実、明朗、一点やましからざる堂々のお願い、すべての運をお任せ申し上げます」
第1回芥川賞で落選した時、川端は「生活が荒れているから才能を十分に発揮できていないのではないか」と指摘しました。それに対して太宰は、雑誌で次のように反論しました。
「事実、私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った」
また、第2回芥川賞で落選した時は、選考委員の佐藤春夫宛てに次のような感情に訴える手紙を送っています。
「一言の偽りも少しも誇張も申し上げません。物質の苦しみが重なり重なり死ぬことばかりを考えております。佐藤さん一人がたのみでございます。私は恩を知っております。
私は優れたる作品を書きました。これからもっともっと優れたる小説を書くことができます。私はもう10年くらい生きていたくてなりません。私は良い人間です。しっかりしておりますが、いままで運が悪くて、死ぬ一歩手前まで来てしまいました。
芥川賞をもらえば、私は人の情に泣くでしょう。そうして、どんな苦しみとも戦って生きて行けます。元気が出ます。お笑いにならずに、私を助けてください。佐藤さんは私を助けることができます。私を嫌わないでください。私は必ずお報いすることができます。
お伺いしたほうがよいでしょうか。何日何時に来いと仰れば、大雪でも大雨でも、飛んでまいります。身も世もなく震えながらお祈り申しております。家のない雀 治 拝」
「芥川賞は、この1年、私を引きずり廻し、私の生活のほとんど全部を覆ってしまいました」
「こんどの芥川賞も私のまえを素通りするようでございましたなら、私は再び五里霧中にさまよわなければなりません。佐藤さん、私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないで下さい。いまは、いのちをおまかせ申しあげます」
佐藤宛ての手紙のうち1通は、長さ約4メートルの巻紙に毛筆でしたためられたものだったといいます。
名誉欲から嘘をついたり罪悪を造ったりもします。無免許運転で同乗の少女に重傷を負わせた事故がありましたが、運転していた少年は、「同乗の少女に見えを張った」といいます。
もっと酷いと、名誉欲から人を殺してしまうこともあります。
特別養護老人ホーム「フラワーヒル」の元職員、大吉崇紘被告は入居者の1人を暴行し死亡させましたが、その動機について彼は「第1発見者になって同僚に認められたかった」と言います。
さらに自分の命より名誉を取ってしまうこともあります。
戦時中には、艦船と運命を共にする船長は少なくなかったようです。しかし、全員逃がした後で自分も逃げればいいものを、なぜ逃げなかったのでしょうか。「罪悪を感じて死んでいった」という話には嘘があり、ヒロイズムがあると思われます。ヒロイズムとは、英雄主義ともいい、英雄的な行為を称賛する考え方ですが、これは名誉欲の成せる業です。このような話は戦時中に限ったものではなく、いつの時代も多くの人が名誉欲から自殺しています。
心から他人を褒める人などいません。第2巻で説明した通り、人間は自分の都合で人を評価し、「今日ほめて 明日悪く言う 人の口 泣くも笑うも 嘘の世の中」です。芥川龍之介は、勲章を喜ぶのは軍人と子供だけだと言いました。そうであるのに人は名誉を求めてしまうのです。
「是非しらず邪正もわかぬこのみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」(正像末和讃)
(訳:善悪も正邪もわからないのがこの私である。小さな慈悲の欠片さえないのに、名誉や利益のために人から先生と呼ばれるのを好むのである)
自分はこんなぼんくらであるにもかかわらず、人から誉められると喜んでしまうという懺悔です。
ちなみに、名誉欲は権力欲ともいい、男が強い欲です。男は意地や我慢で破滅してしまうので、この点、女を見習うべきです(詳しくは第8巻)。
・睡眠欲
「朝起きて 夜寝るまでに 昼寝して 時々起きて 居眠りをする」
「世の中に 寝るより楽は なかりけり 浮世の馬鹿が 起きて働く」
これらの歌の通り、人間は寝ることが大好きです。
睡眠での失敗は誰にでもあるでしょう。睡眠を邪魔されれば、善知識だろうが親だろうが、心の中で八つ裂きにします。善知識は聴聞の妨げになるから起こしてくれたのであり、親は遅れないよう起こしてくれたのにもかかわらずです。
釈迦十大弟子の1人である阿那律は、説法中に居眠りをしたため釈迦に叱られました。それを恥じに思い眠らないでいたら目が潰れて天眼を開いたといいます。
この行為が良いか悪いかは別として、これぐらい恥に思う人はまずいないでしょう。一時的に罪悪感を感じ反省しても、同じ過ちを繰り返してしまいます。
民謡「会津磐梯山」には「小原庄助さん、朝寝・朝酒・朝湯が大好きで、それで身上潰した」というフレーズが出てきますが、彼のように睡眠欲に負けて一生を徒に明かしてしまうのです。
以上、五欲について簡単に説明しました。