たとえば、10cmの鉛筆があるとします。この鉛筆は20cmの鉛筆よりは短いですが、5cmの鉛筆よりは長くなります。10cmの鉛筆そのものは、長いとも短いとも言い切れません。このように、比較するものによって変化することを相対的といいますが、善悪も相対的であり相対善悪といいます。つまり、絶対的な善や悪は存在しないということです。

たとえば、殺人も相対悪です。殺人を絶対悪だと思っている人は多いですが、そういう人でも、たとえば死刑や安楽死といった問題となれば価値観が揺らぐでしょう。

光市母子殺害事件で妻と娘を殺された男性は、「国家が死刑にしないなら、私が殺す」と言いましたが、家族が殺されれば誰でも彼のように、「犯人を殺しても殺しても飽き足らない」という感情が沸き上がります。

2019年内閣府調査によれば、「死刑制度について『やむを得ない』と答えた人は80.8%で、『廃止すべきだ』の9.0%を大幅に上回り、死刑容認の理由は、『廃止すれば被害者や家族の気持ちがおさまらない』(56.6%)が最多」とあります。

人間にはこの感情があるため、戦争をなくすことは難しいでしょう。イギリスの動物学者、デズモンド・モリスは、世界的ベストセラー「裸のサル」で「皮肉なことに、仲間を助けようとする根強い衝動の進化こそ、戦争という大惨事のすべての原因なのである」と言います。また、戦時中には、多くの敵を殺すことで称賛され勲章が授与されます。

安楽死の問題では、単なる延命治療について、「やめたほうがよい」、または「やめるべきである」と回答した人は、一般国民で74%となっています。(平成15年厚生労働省)

このように、「殺人は悪とは限らない、場合によっては殺人も善だ」と思っているということです。

 

〇善悪がコロコロ変わる

「禍福は糾える縄の如し」という諺があるように、善が悪になったり、悪が善になったりとコロコロ変わります。

たとえば、次のように車で送ってあげることは親切であり善ですが、その車が事故に遭えば悪に変わるといった具合です。

 

1:車で送ってあげる(善)

2:車が事故に遭う(悪)

 

金持ちになったために狙われて殺された人は数多くいます。

「有名になる」「仕事に成功する」「恋愛が成就する」「結婚する」「子供が生まれる」「病気が治る」「受験に合格する」等々、世間一般で幸せや成功、善とされていることすべてにいえます。善い結果を受けたと思っているかもしれませんが、悪い結果を受けたのかもしれないのです。

「成功も、その人にとっては試練なのです。あの人がもし、あのとき、あんな成功をしなければ、もっとまともな人生であっただろうな、ということはいくらでもあるのです」(稲盛和夫/経営者)

 

逆もしかりです。苦を悪、楽を善と思いがちですが、後になって「あの苦しい経験があったから今の自分がある」などと感謝することはよくあることです。

科学では、実験の失敗から新しい発見をすることもよくあります。マイケル・ジョーダンは高校の時にバスケチームから外され、ウォルト・ディズニーは創造性が足りないという理由で新聞の編集者をクビになり、ビートルズは「もうギターバンドは流行らない」と言われてレコード会社を追い返されています。

東京オリンピックの開催に反対していたものの、選手の活躍を見るや「開催してよかった」と変わった人も多くいました。

「貧乏になる」「嫌われる」「仕事に失敗する」「失恋する」「離婚する」「子供を失う」「病気になる」「受験に落ちる」等々、世間一般で不幸や失敗、悪とされていることすべてにいえます。悪い結果を受けたと思っているかもしれませんが、善い結果を受けたのかもしれないのです。

 

・死ぬまでわからない

2で終わらずさらに3、4、5、6・・・という具合に、善悪は無限に変わっていきます。時間的に最後を基準にしないと、その時点の善悪は判断できません。人生における最後とはですので、死を基準にしないと正確には判断できないということになります。

 

・近視眼的な善悪観

ところが人間は極度に近視眼的です。

「人間は時間的に近視眼的である。煙草が喫煙を開始して数十年後でなく1週間後での発ガンの原因となったとしたら、タバコ業界が全世界で兆ドル規模の産業になど決してならなかっただろう」(ディーン・ブオノマーノ/カリフォルニア大学ロサンゼルス校神経生物学・心理学部教授)

 

あるタレントが、犯人扱いされ逮捕されるという内容のドッキリを仕掛けられたことがありました。絶望的な表情で落ち込んでいたところでネタばらしをされると、そのタレントは安堵の表情を浮かべ、「ありがとうございます!」と仕掛け人に対して何度も感謝していたのです。

冷静に考えればドッキリを仕掛けたほうが悪いのですが、なぜ被害者が御礼を言うのでしょうか。それだけ目先のことにしか目が向かないということです。おそらく時間が経てば感謝から怒りに変わることでしょう。

ストックホルム症候群と呼ばれるものがあります。これは、極限状態に置かれた被害者が犯人に対して好意的な感情を抱く現象です。

 

・人間に善悪はわからない

しかし、時間が経つほど善悪はコロコロと変わり、最終的にどうなるのか把握することは非常に難しい問題です。バタフライ効果というのがありますが、チョウが羽を動かすだけで遠くの気象が変化し、竜巻が起こることもあり得るのです。

あまりに複雑すぎて、善悪は人間の智恵ではわからないといえます。

「バタフライ効果は大げさに聞こえるが、いまやわれわれはそれが真実であることを自然界や人間社会のあらゆる場面で日常的に見ている。気象、洪水や土砂崩れ、株価暴落、一瞬のよそ見が引き起こす悲劇的な交通事故、ばかげたもめごとからいっきに軍事衝突に発展する国家間の対立。

この世界に完全な秩序は存在せず、すべての出来事は無限に変転し、まったく同じことは2度と起こらない。たえず生じる取るに足らない小さなきっかけが、明日には全体を混沌と無秩序へと導く、これが現実世界の本質だとカオス理論は述べている」(矢沢サイエンスオフィス「科学の理論と定理と法則」より)

 

たとえば、「やっていいことと悪いことぐらいわかる」と思っているのは、まだ相対善悪がわかっていません。やっていいことと悪いことの区別もつかないのが、人間の本当の姿なのです。

「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり」(正像末和讃)

(訳:何が善で何が悪かがわからないという人は皆、真の心を持った人である。善悪がわかると言っている人は、大嘘つきの姿をしているのである)

 

・善知識

善悪というのは非常に複雑ですので、それがわかる先生の存在が非常に重要になります。そういう先生を仏教では善知識といいますが、善知識については第6巻で詳しく説明します。

 

〇一切は善でも悪でもない

この世の一切は白紙のようなもので、善にも悪にも変えることができます。華厳経には、「牛、水を飲めば乳とする。蛇、水を飲めば毒とする」と説かれています。

「柳下恵は飴を見て老人を養う物とし、盗跖は錠を開くるに良き物とす」という諺があります。

中国は周の時代の大盗賊、盗跖は盗みに入るための道具に水飴を使いましたが、弟の柳下恵は老いた母親に孝行するために使ったという意味です。

仏教には不二という言葉があります。紙の裏表のように、二つではないが一つでもなく、互いが密接に関連しあっているということですが、善悪は不二です。

・善と悪はワンセット

善悪というのは人間の心が生み出したものであり、一切は、善と悪の両面があります。「100%善だけ」とか「100%悪だけ」ということはなく、比較の問題です。

「タオ自然学」で知られる物理学者のフリッチョフ・カプラは、「科学はわれわれを仏陀に導くこともできるし、あるいは爆弾に導くこともできる」と言いました。

自動車は便利ですが、多くの死者も出します。

新型コロナウイルスのため自粛して蔓延を防げたと思ったら、今度は経済活動が停滞、そうかと思えば一方で自然環境が改善しインフルエンザも激減しました。ワクチンもメリットとデメリットの両方があるから賛否両論が出るわけです。

パラケルススという医師は「あらゆるものは毒であり、毒無きものなど存在しない。あるものを無毒とするのは、その服用量のみによってなのだ」と言いました。

どんな苦しみにもメリットがあり、どんな楽しみにもデメリットがあります。

善い結果を受けたと思っているかもしれませんが、必ず悪い結果も受けています。悪い結果を受けたと思っているかもしれませんが、必ず善い結果も受けています。正確にはこういうことがいえます。

涅槃経には次のような話があります。

ある家に、非常に美しい女がやってきました。

「私は功徳大天と申します。私は伺った家に望むだけの財宝をもたらすことができます」

家の主人は喜び早速もてなそうとしますが、傍にもう1人醜い女がいたことに気づきます。

「私は黒闇と申します。私が伺った家は財宝を失います」

それを聞いた主人は怒り、刀をふりあげて追い出そうとします。しかし、黒闇は言いました。

「私は功徳大天の妹です。姉とはいつでも一緒に行動しています」

主人が功徳大天に確認すると、確かにそうだと言います。

「私はいつも幸せをもたらし、妹はいつも不幸をもたらします。私を愛するなら妹も一緒に愛してもらう必要があります」

主人は驚き、両方追い出すと平穏がやってきたという話です。

徳川家康に関する有名な話に次のようなものがあります。

ある宴の席で、家康は「1番美味いものは何か」と側室のお梶に聞きました。するとお梶は「塩でございます。塩がなければどんな料理も美味しくできません」と答えました。さらに家康は「一番まずい物は何か」と聞きました。するとお梶は「塩でございます。どんな美味しいものでも塩を入れすぎたら食べることができません」と答えました。それを聞いた家康は「まことに、そなたの言うように、美味いも不味いも塩加減じゃ、とかく世の中はよきにつけ悪しきにつけ、塩加減1つじゃ、忘れまい、忘れまい」と言ったといいます。

 

・悪を善にする努力

悪とされていることも、ある程度は考え方次第で善にできます。次のような言葉はそのことを教えています。

 

「世の中には幸福も不幸もない。ただ、考え方でどうにでもなるのだ」(ウィリアム・シェイクスピア/劇作家)

 

「不幸はナイフのようなものだ。ナイフの刃をつかむと手を切るが、とってをつかめば役に立つ」(メルヴィル/小説家)

 

「異なる精神にとっては、同じ世界が地獄でもあり、天国でもある」(エマソン/哲学者)

 

「楽観主義者はドーナツを見、悲観主義者はドーナツの穴を見る」(オスカー・ワイルド/劇作家)

 

「私は実験において失敗など一度たりともしていない。この方法ではうまく行かないということを発見してきたのだ」(トーマス・エジソン)

 

第3巻でも不幸を勝縁にする大切さは説明しました。

 

・善悪がある世界は苦しみの世界

頭では善悪が不二であることがわかっていますが、腹底ではそうは思っていません。どうしても善悪の区別をしてしまい、絶対的な善や悪があると思ってしまうのです。そのことがわかる次のようなエピソードもあります。

「往生要集」で有名な源信が7歳の時のことです。川で遊んでいると、比叡山の僧侶がやってきて弁当箱を洗い始めました。それを見て源信は尋ねました。

「お坊さん、どうしてこんな汚い水で洗っているのですか」

「浄穢不二といって、私たちには綺麗も汚いもないのだよ」

こう答える僧侶に源信は再び尋ねました。

「ではなぜ洗うのですか」

洗うということは汚いと思っているということであり、綺麗と汚いの区別、つまり善悪の区別をしているではないか、と源信は指摘したのです。

僧侶は返答に詰まり、偉い智恵のある子だなと感心したといいます。

この話からは、自力仏教の限界もわかります。この時代の比叡山の僧侶ですから、それなりに一生懸命修行していたでしょう。それでも、どうしても善悪を区別してしまう境地にとどまっていたのです。

このように言っていることとやっていることが矛盾しているのを見て、「仏教は大したことがない」と侮る人も多いでしょう。

善悪や苦楽の区別がある世界に真の安らぎはありません。第1巻から説明してきたように、善悪の区別がない境地は実在し、人間はその境地に達することが可能であり、可能であるだけでなく人生の目的です。そして、その境地に出るには自力仏教ではなく他力仏教でなければならないのですが、これについては第6巻で詳しく説明します。

 

〇悪に強ければ善にも強し

「悪に強ければ善にも強し」という諺があります。悪を徹底している人は、善に向いた時にも徹底するようになるという意味です。逆に言えば、悪に中途半端な人は、善にも中途半端という意味でもあります。

その人の行為が善か悪かという視点も大切ですが、徹底しているか中途半端かという視点も大切です。たとえれば、振り子のようなものです。左に大きく振れれば右にも大きく振れ、左に小さく振れれば右にも小さく振れます。

 

・善悪を区別している

正しいか否かは別として、「悪をしよう」と自覚しているということは、「善とは逆のことをしよう」と自覚しているということであり、善と悪を明確に区別しているということです。

 

・悪に鈍感な人は善にも鈍感

悪を徹底している人は悪に敏感な人であり、善にも敏感な人です。逆に、悪を造っているのにその自覚が無い人は、悪に鈍感な人であり、善にも鈍感な人です。

 

・人間は中途半端

詩人のポープは、「人間はすべて善でもあり、悪でもある。極端はほとんどなく、すべて中途半端だ」と言いましたが、人間は、善と悪の両方を中途半端にしています。

 

・最初の動機は何でもいい

求道を始めるに至る経緯は千差万別ですが、最初の入り方はあまり問題ではありません。その後の聞き方のほうが重要です。

「悪人」に限らず、「不真面目」「軟弱」「いい加減」「無責任」「わがまま」「飽きっぽい」等々、世間的に悪い評価を受けている人がいますが、その人は悪に強い可能性があります。逆に、世間的に良い評価を受けていても、その人は善に弱い可能性があります。

もちろん、これだけでは判断できません。ただのクズもたくさんいます。ですが、世間的な評価だけでは判断できないのも確かです。

釈迦の弟子にアングリマーラという人がいました。彼は様々な経歴がある弟子の中でも特異な存在でした。優しくて聡明な男でしたが、邪師に騙されて1000人殺せば天界に生まれると思い込まされ、実際その通りに多くの人を殺し、彼らの指を切り取って首飾りにしていました。アングリマーラとは「指の首飾り」という意味です。

999人殺し、最後に自分の母親を殺そうとしたところで釈迦に出くわします。そこでアングリマーラは釈迦を殺そうとしますが、いくら追いかけても釈迦は遠ざかるばかりでした。「止まれ」と叫ぶアングリマーラに、釈迦は「私は止まっている。お前が止まっていないのだ」と説いたといいます。教化されて弟子となったアングリマーラは、その後、悟りを開きました。

バラモンの家に生まれた龍樹は、どんなことも一度聞いただけで理解できたといいます。青年時代には天文学や地理学など、多くの学問に精通し、他に並ぶものもなく名声も広がっていました。

学び尽くしたと思った龍樹は次に、快楽にふけることが何よりも楽しいだろうと考えました。そこで、国内の美女が集まっている王宮に目をつけました。3人の親友とともに王宮に忍び込むや、宮中の美女を皆、犯してしまいました。やがて、何人かの官女が身ごもったことが発覚すると、王は激怒し、曲者を見つけ次第殺すよう兵士に命じました。そこへ4人がやってきたものですから、たちまち兵士に囲まれ、すぐに3人の親友は殺されてしまいました。幸い龍樹は王を盾にして何とか逃れることができました。

友人を失い世の無常を強く感じた龍樹は、やがて仏門に入ります。爆発的な求道を開始すると、たちまち死の解決まで求め切りました。最終的に、インドの歴史で釈迦がいなかったら龍樹が最高の偉人だっただろうといわれるまでの人になりました。

耳四郎という大泥棒は、たまたま盗みに入った寺で説法を聞いて仏教徒になりました。

弁円という山伏は、親鸞の隆盛を妬み、親鸞を殺そうとしましたが、そのことをきっかけに仏教徒になりました(詳しくは第6巻)。

東条英機は、戦争指導者として多くの人を殺し、自身も死刑となりましたが、刑務所で仏教と出遇いました(詳しくは第6巻)。

彼らが造った悪は、結果的には悪ではなかった可能性があります。

念のために言いますと、罪悪を造ったほうがいいとか、罪悪感を感じなくてもいいといったことでは決してありません。

 

〇相対善悪を腹底で知る

腹底から相対善悪を知る必要があり、そのためには一生懸命悪を止め、善をするよう努めなければなりません。「善悪がわからない」とわかるまで善をする必要があるのです。

・善悪がわかってくる

善悪は非常に複雑ですが、求道していくと「今、この瞬間何をすれば善になり悪になるのか」が、ある程度、自ずと体験的にわかるようになってきます。

 

・善悪がわからなくなってくる

行学(行動して学ぶこと)の結果、善悪が相対善悪であることが体験的にわかってきます。つまり、求道が進むにつれ、何が善で何が悪なのかわからない自己が見えてくるということです。死の解決に近づいているのか遠ざかっているのか、何が近づく行為なのかがわからなくなってくるのです。

「是非しらず 邪正もわかぬ このみなり」(正像末和讃)

(訳:善悪も正邪もわからないのがこの私である)

 

「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」(歎異抄)

(訳:何が善であるか何が悪であるか、どちらもまったくわからない)

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第1章 善とは悪とは
1.1 善悪観の違い
1.2 相対善悪