まずは、世間と仏教とで善悪観がどのように違うか簡単に見てみましょう。

〇世間の善悪観

世間一般の善悪の基準として代表的なものが、「法律」や「道徳・倫理」です。道徳・倫理は、「慣習」「文化」「マナー」「伝統」といったものを含む広い概念です。

・欠点

これらの基準は人(大衆)が作ったものですので、中途半端で不完全なものです。心の行為は対象になっていませんし、身体や口の行為も1部しか対象にしていません。

ですので、たとえば時代や場所によって変わります。日本の法律やモラルとアメリカの法律やモラルは違いますし、同じ日本でも、現代と100年前とでは違います。日本では大麻が違法ですが、アメリカでは合法、現代の日本では覚醒剤は違法ですが、戦時中は合法という具合です。もっと正確に言えば、隣の人の善悪観とも、1秒前の善悪観とも違います。善悪観は刻一刻と変化しています。

善だとされていたことが悪になったり、悪だとされていたことが善になったりします。善人と評価されていた人が悪人と評価されるようになったり、悪人と評価されていた人が善人と評価されるようになったりするのです。

 

・根深い価値観

これらの善悪観は小さい時から教育されることもあり、意識するとしないとにかかわらず非常に根深く染みついています。

そのため、絶対的な善悪の基準だと思う人も少なくありません。

上に挙げたような欠点は多くの人が頭では理解できますが、現実問題になると中々そうは思えません。たとえば、法律に反したり、この基準から外れた人がいれば、咄嗟に非難し、絶対的な悪人だと見なしたりします。

 

・悪しき価値観

芥川龍之介は、「道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺である」と言いましたが、苦しみの根本原因を辿っていくと、道徳・倫理があることは少なくありません。そのため、道徳・倫理そのものは、本来善でも悪でもありませんが、仏教では「苦や悪を生む悪しき価値観」ぐらいの意味合いで使われることが多いです。

いたずらに破壊するということではなく、捨てるべき道徳・倫理とそうでないものがあるということです。長い歴史の中で風雪に耐えてきたものなので真実であることも多く、仏教の善悪観と比較しても共通点は多いです。

 

・真実が見えてこない

人間は、この善悪観で真実を追究しようとします。たとえば宗教の良し悪しも、この善悪観で判断しようとします。

フランスで採択された「アラン・ジュスト報告書」なるものがあります。簡単に言えば、おかしい宗教かどうか判定する国際的な指針とされているものですが、構成要件として次の10項目が列挙されています。

 

1.精神の不安定化

2.法外な金銭的要求

3.住み慣れた生活環境からの断絶

4.肉体的保全の損傷

5.子供の囲い込み

6.反社会的な言説

7.公秩序の攪乱

8.裁判沙汰の多さ

9.従来の経済回路からの逸脱

10.公権力への浸透の試み

 

指針の1つと断っているとはいえ、これは抽象的な指針あり、10項目すべてにメリットとデメリットの両方があります。すべて満たしても悪い宗教とは限らないですし、どれにも当てはまらなくとも良い宗教とも限りません。この指針では、正しい宗教を潰したり、間違った宗教を野放しにしたりしてしまうでしょう。

他にも「おかしい宗教の定義」のようなものは世にたくさん出回っていますが、どれもだいたい似たようなものになっています。

 

・合法に潜む巨悪

ほとんどの宗教団体は合法的に活動します。世間の目を欺きながら徐々に巨大化し、強権を握った時に一気に牙をむくという流れもあり得ることです。ナチスがユダヤ人を大量虐殺したようなシナリオが起こり得るのです。

ですので、そうなる前に1人1人が早い段階で善悪や宗教についてよく知る必要があります。歴史学者のイアン・カーショーは、「アウシュヴィッツへの道は憎悪によって建設されたが、それを舗装したのは無関心であった」と言いました。

オウム真理教も事件前は信者も多く(最盛期には日本で約15,000人、ロシアで約35,000人)、テレビに出たり著名人との対談もよく行っていました。世間が(信者もですが)批判し始めたのは事件後、つまり違法行為後のことです。オウムは、あのぐらいの規模だったため被害もあの程度でしたが(もちろん被害者からすれば大惨事ですが)、もっと巨大になってから牙をむいていれば、もっと多くの人が被害に遭ったはずです。

ヒトラーが権力の座についた時、大衆が支持しました。

牧師のマルティン・ニーメラーもその1人でしたが、やがて弊害に気づき批判したため強制収容所に送られました。生き延びた彼は、「普通の人々」がホロコーストに加担していたと言い、無関心の危険性を訴える次のような詩を残しています。

「まず彼らは社会主義者を襲った。私は声を上げなかった。社会主義者ではなかったから。

次に彼らは労働組合員を襲った。私は声を上げなかった。労働組合員ではなかったから。

次に彼らはユダヤ人を襲った。私は声を上げなかった。ユダヤ人ではなかったから。

次に彼らが私を襲った。私のために声を上げる人はもう残っていなかった」

 

・モラル宗教

その時代、その場所の法律やモラルに合わせて根本教義を変える宗教は多々ありますが、そんな宗教は真実の宗教とはいえません。

一方、仏教は時代や場所に関係ない不変の真理を説いています。仏教を、道徳・倫理に毛が生えた程度のものだと思っている人がいますが、そうではないのです。

しかし、今日、モラル仏教徒に成り下がってしまったエセ仏教徒も数多くいます。道徳・倫理が善悪の基準だと思っている仏教徒がたくさんいるのです。

 

〇仏教の善悪観

仏教の善悪観を見てみましょう。

・死の解決

仏教では、死の解決(悟り)が善悪の基準となります。第1巻から説明してきたように、死の解決が人生の目的でありゴールだからです。つまり、死の解決に近づくことをもって善とし、遠ざかることをもって悪とします。

ですので、どんなに道徳的に悪とされる行為をしても、死の解決に近づいているのであれば、仏教の目から見れば、それは善となるのです。逆に、どんなに道徳的に善とされる行為をしても、死の解決から遠ざかっているのであれば、仏教の目から見れば、それは悪となります。仏教では様々な善悪が説かれますが、この基準が大前提となっています。

ただ、単純に楽果を善、苦果を悪という場合もあります。

死の解決に近づくか否かの意味で使っているのか、道徳的な意味で使っているのか、文脈から判断する必要があります。

 

・因果の法則

第1巻で説明したように、仏教は因果の法則を説いており、因果律ともいいます。人間が作る法律は不完全ですが、自然法則である因果律は完全です。死の解決が善悪の基準であることは、因果の法則から導くことができます。

将来的には因果律が科学で証明され、因果律を基準にして法律が組み立てられるかもしれません。そうなると、罰を与えるという点では因果律が狂いなくもたらすので、抑止力として存在するといった具合に法律の意義も変わるでしょう。

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第1章 善とは悪とは
1.1 善悪観の違い
1.2 相対善悪