死は確定しているのですから、本当は生まれてすぐにこの事実に驚くべきですが、これまで説明した通り、人間には強力な妄念があるため驚くことが非常に難しくなっています。そのため、ほとんどの人は平生に弱い無常を観じ、臨終に強い本物の無常を観じて一生を終えていきます。
どんなに無常に鈍感な人でも臨終に激しい無常に驚き、強い菩提心が生じます。「全財産を投げうってでも死を解決する方法を知りたい」と願うようになるということであり、仏法の本当の価値を知るということです。
「このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや」(持名鈔)
(訳:死の解決をして苦悩の輪廻から解脱することができるならば、一世の短い命を捨てること等ものの数ではなく、惜しくもない。まして財宝を捨てることなど言うまでもない)
しかし、この流れでは遅いので、平生元気がいい時にゾッとするような強い無常を観じなければなりません。仏説譬喩経の旅人のように、すべての人間は絶体絶命の状況にすでに置かれており、それに気づき驚く必要があります。そうすれば自ずと必死の求道ができるようになります。
臨終でわかるより、人生の早い段階で強い無常を観じるというのは幸せなことなのです。
・臨終に期待する求道者
臨終に期待する求道者もいます。死が近づけば労せずして真剣になれると考えているのでしょうが、これはあまりに危険な考えです。臨終は、苦しみが激しくてとても真剣になれるものではなく、時間も短くほとんどは間に合いません。平生元気がいい時に最後まで求め切るべきです。
「もし人いのちをはらんとするときは、百苦身にあつまり、正念みだれやすし。かのとき仏を念ぜんこと、なにのゆゑかすぐれたる功徳あるべきや」(唯信鈔)
(訳:臨終には、ありとあらゆる苦しみが襲いかかってきて、正念は乱れやすい。このような時に阿弥陀仏を念じたとして、どれほどの功徳があるだろうか」
・仏教は若い時にやるもの
勝縁にしようと努めることも大切ですが、人生には勝縁にすることが非常に難しい激しい苦しみがあります。ですので、特に若くて健康な時に求め切るべきです。何事も若い時が勝負ですが、特に仏教は若い時にやるべきであり、早ければ早いほどいいです。
「若きとき、仏法は嗜め。年よれば、行歩もかなわず、眠たくもあるなり。ただ、若きとき、嗜め」(御一代記聞書)
(訳:若い時に求道すべきである。年を取れば、説法を聞きに歩いて行くことも難しく、聴聞しながら眠くなってしまう。ただ、求道は若い時にすべきなのである)
第2巻でも説明したように、長く生きるほど世間の垢が染みつき、世間から仏教への転換、外から内への転換が難しくなります。
若い時は神経回路も柔軟性(可塑性)を保っており、でき立ての柔らかい餅のように、どんな形にも変えやすいものです。しかし年を取ると、時間が経ってカチカチに固まった餅のように変えにくくなってしまいます。
「若い脳は様々な面で成長しているため、早期の訓練はその後の成長の軌道を左右し、大きな変化につながっていく。いわゆる『若木矯正効果』で、小さな若木の伸びていく方向を少し変えてやると、やがてその若木から伸びていく枝の形は大きく変わるが、一方、すでに大きく育った枝に力を加えても、影響は軽微にとどまるのと同じだ」(アンダース・エリクソン/フロリダ州立大学心理学部教授)
仏教を「年寄りの慰みもの」ぐらいのイメージを持っている人は多いですが、とんでもないことです。
・年を取ってわかっては遅い
世間が信頼を置く科学が心を対象にしていないこともあり、人間は、自分で体験するまでなかなか理解できません。そのため手探りで生きることを強いられます。
「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前向きにしか生きられない」(キルケゴール/哲学者)
「人生は狂人の主催に成ったオリンピック大会に似たものである。我々は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ」(芥川龍之介)
若い時に仏教を聞いてもわからず、色々な経験をして年を取って初めてわかるようになったという人は多いです。詩人のエッシェンバッハは、「若い時われわれは学び、年を取ってわれわれは理解する」と言いました。しかし、この流れでは遅いのです。体験というのは、強い力がある一方で遅いという欠点があります。死は、その最たるものです。
ですので、体験以外の方法でまずは先に頭だけでも理解することが大切です。政治家のビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言い、芥川龍之介は、「これまでの自身の経験に照らし合わせることが大切である」と言っています。こういったことも大切ですが、仏教では聴聞を勧めます。
・人間は精神年齢
だからといって、年を取ってしまったからもう無理だと絶望するのも間違いです。本当の手遅れというのは死です。ですので、どんな境遇であっても生きていれば救われる可能性が残っています。
肉体年齢も重要ですが、それ以上に精神年齢が重要です。新生児や幼児ほどではないですが、成人の脳も可塑性を持つこともわかっています。60の手習いという言葉がありますが、世間事でも意欲的な高齢者はたくさんいます。
また、年を取ることは大きなハンデですが、一概に悪だとは限りません。これまでの経験を活かせるかもしれません。だらだら求道している若者を一気に追い抜けるかもしれません。年を取ってから仏教と出遇い、真剣な聴聞をして短期間でゴールした人もいます。その後の求め方にかかっているということです。
逆に、肉体は若くても、心が老いた若者も多くいます。若くして仏教と出遇いながら、だらだらとした聴聞を続け、結局ゴールできなかった人はゴマンといます。実にもったいないことです。
・今日が一番若い
今日より若い日は、これからありません。ある60歳の人が、「30歳に戻れたら不眠不休で働ける」と言っていましたが、今の自分から見れば、過去の自分は可能性がいっぱいあるように見え、羨ましく思うでしょう。「ああしとけばよかった」と後悔していることもあるでしょう。
同じように、未来の自分から見れば、今の自分は可能性がいっぱいあるように見えます。もっと言えば、臨終の自分から見れば、可能性は無限に思えます。
・絶対にしなければならない
死の解決をしなければ死後は地獄です。一度地獄に堕ちれば助かる方法はありません。ですので、死の解決は「絶対に」しなければならないものであり、「したほうがいい」とか「できたらいいな」というものではありません。
どんなに苦しくても、どんなに年を取っても、ずってでも這ってでも求めてゴールする必要があります。どんなに真面目な求道者でも、ゴールしなければ意味がありません。
死の解決をして極楽に行く100点の人生となるか、死の解決をせず無間地獄に堕ちる0点の人生となるか、人生は2択です。
激しい無常が吹き荒れており、見ようと思えばいくらでも見ることができます。有名な「見えないゴリラ」の実験のように、見ようと思わないと見えません。
私は東京の池袋周辺に住んで久しいですが、ご存じの通り、池袋は日本有数の繁華街です。すぐそばには病院もあります。そのため、楽しそうに歩く人と苦しみに顔を歪めて担架で運ばれていく人が、同時に目に飛び込んでくることがあります。対照的な光景です。
またある時は、人身事故の現場に遭遇したこともあります。
通勤時間帯だったので、足早に職場や学校に向かう人々の間を、白い袋に入った遺体が運ばれていきます。これも対照的な光景です。
人の苦しみを他人事として受け止め、無常を観じることができなければ、地獄という最悪の結果が待っています。
正法念処経には三天使の話があります。
ある罪人が死んで地獄に堕ちると、獄卒の手で閻魔大王の前に引きずり出されます。そして、恐ろしい形相をした大王は、大地が割れんばかりの怒鳴り声で罪人に問います。
「汝、娑婆にありし時、頭白く、歯落ち、目かすみ、肌ゆるみ、腰まがり、気力衰え、杖にすがって呻きながら歩く老人を見なかったか。これがわしが使わした第1の天使だ。
汝、長年病床にあって、飲食や排泄すら人の助けがないとできず、身心の痛みに呻き苦しむ病人を見なかったか。これがわしが使わした第2の天使だ。
汝、棺に納められ、火葬されて煙と消え失せた死人を見なかったか。これがわしが使わした第3の天使だ。
娑婆で三天使にあいながら、放逸な生活に堕し真剣に求道しなかった。今地獄に堕ちて諸々の苦を受けるのは、父母のせいでもなく、兄弟のせいでもなく、友人のせいでもない、祖先や沙門のせいでもない、他ならぬ汝自身の過ちによるのである」
詰問が終わると大王は獄卒に命じて、血の涙を流して恐れおののく罪人を地獄の猛火の中に容赦なく投げ入れます。
・急いでしなければならない
人間は死と隣り合わせであり、今日死んでもおかしくありません。今日死ねば、今日から地獄が始まるのです。今、幸せの絶頂にいようが、不幸のどん底にいようが関係ありません。ですので、一刻も早く死を解決する必要があります。
「ああ、夢幻にして真にあらず、寿夭保ちがたし、呼吸のあひだ、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失ひぬれば、万劫にも復せず。この時悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまはん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれ」(教行信証)
(訳:ああ、この世は夢、幻であって真実ではない。命は保ち難く、吐いた息が吸えなければ死んでしまう。一度死んでしまえば、無間地獄に堕ち、永遠に抜け出すことはできない。生きているうちに死の解決をしなければ、阿弥陀仏でもどうしようもできない。どうか深く無常を問い詰めて、いたずらに後悔しないでほしい)
「一日も片時も、いそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定せよ」(御文)
(訳:一刻も早く急いで死の解決をし、極楽浄土への往生を決定せよ)
「人生死出離の大事なれば、これより急ぐべきはなく、またこれより重きはあらざるべし」(御裁断申明書)
(訳:死の解決ほどの一大事より急ぐべきことはなく、これほど重いことはない)
・必ず後悔する
死の解決ができなければ、血の涙を流して後悔することになります。
「明日も知らぬ命にてこそ候うに、何事を申すも命終わり候わば、いたずらごとにてあるべく候う。命のうちに、不審もとくとくはれられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候う」(御文)
(訳:明日もわからない無常の命であり、何をしようとも死ねば意味がない。生きている間に死の解決をしなければ、必ず後悔することになる。よくよく心得なければならない)
阿育王譬喩経には、「餓鬼が寒林で屍を打つ」という話があります。
ある日、釈迦が寒林を散歩していると、泣きながら「しゃれこうべ」を打っている餓鬼を見つけました。不思議に思った釈迦が「なぜそんなことをしているのか」と餓鬼に尋ねると、餓鬼は涙で顔をくしゃくしゃにしながらこう言いました。
「私は、前世で人間に生まれておりました。このしゃれこうべは、そのときの頭です。人間界にいたときに、こいつがもっと真剣に仏法を聞いていれば、餓鬼道に堕ちてこんな苦しみを受けずに済んだでしょう。それを思うと悔しくて悔しくて、こいつを打たずにはおれないのです」
この話は、死んで堕ちる餓鬼道について説いたものではなく、人間の臨終の姿を説いています。
・無常を問い詰めるには
では、無常を問い詰めるにはどうしたらいいかというと、一言で言えば「聴聞」ということになります。無常観にしても罪悪観にしても、聴聞以外問い詰めることはできません。
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2.8 無常観
〇無常を直視する
〇無常観には強弱がある
〇死を直視する幸せ
〇不幸を勝縁にする
〇仏教は生きている人のためにある
〇平生に解決する