経典は膨大な量ですが、死者のために説いた経は一つもありません。

・死体は抜け殻
・追善供養で死者は救えない
・葬式仏教
・葬式自体は否定しない
・葬式に出る時の心がけ

 

・死体は抜け殻

中身が抜けた死体は単なる物質です。

「お釈迦様が死なれたら骨はどうしたらいいでしょうか」と尋ねた弟子に対して釈迦は、「骨なんかどうでもいいのだ」と言っています。

また、「庄松さんが死んだら墓を建ててあげましょう」と言われて庄松は、「オラは石の下におらぬぞ」と言っています。

 

・追善供養で死者は救えない

追善供養とは死者に行う供養のことです。具体的には、盛大な葬式を開く、高額な戒名や法名を与える、立派な墓を建てるといった行為ですが、追善供養で死者を救うことはできません。

ある時、弟子の1人が、「お釈迦様の尊いお言葉を死者に唱えると死者が助かる、と言う者がいますが本当でしょうか」と釈迦に尋ねました。現代の葬式仏教の芽が当時からすでにあったのです。

すると釈迦は、小石を手に取って池に投げ入れました。

「あの沈んだ石に向かって、『石よ、浮かびあがれ』と言ったら浮かぶだろうか」

「いえ、石は石の重みで沈んだのですから浮かぶはずがありません」

「そうだろう。死者は自身の業の重みで地獄に沈んだのだから、いくら私の言葉が尊いからといって死者に唱えても助からないのだ」

歎異抄には、「親鸞は父母の孝養のためとて、念仏一辺にても申したること、未だ候はず」とあります。

「親鸞は死んだ父母のためを思って念仏したことは、未だかつて一度もない」という意味です。孝養とは追善供養のことです。

ある人が、葬式でお経を読んでもらおうと、一休を呼んだ時

のことです。どういうわけか、一休は金槌を持ってやってきました。

案内されて死体の枕元に立つと、何を思ったのか、一休はいきなり死体を金槌でがつーんと叩きつけました。

「一休様!何をするんですか!」

驚く一同をよそに、一休は死体に向かって尋ねました。

「おーい、何か言ったか?」

返事がないことを確認すると再び一休は、がつーんと叩きつけました。

「これは死んどるから、有難いお経を聞くことができないな」

こう言って一休は帰って行ったといいます。

ちなみに第1巻では「勝五郎の生まれ変わり物語」を紹介しましたが、死んで幽霊となった勝五郎は「僧侶が経を読んだがどうにもならず、何の意味もないのに彼らは金銭を取っているだけなので憎く思えた」と語っています。

 

・葬式仏教

このように仏教は死者供養を否定しています。それなのに葬式を一大事とするなど間違った仏教が流布しており、そのため「仏教は死者のためにある」と思っている人は多いです。

次のような小話もあります。

ある医者が時計を落としてしまいました。どこを探しても見つかりません。

その時計を、偶然通りかかった僧侶が見つけました。そして、誰も見ていないことを確認すると自分の懐に入れてしまいました。

医者が探していると、向こうからその僧侶がやってきました。

「お坊さん、この辺りで時計を見ませんでしたか?」

僧侶は見ていないと言います。すると、僧侶の懐に時計が見えました。

「その時計、どうされたのですか?」

しかし、僧侶は白を切ろうとします。

すると医者は、何を思ったのか聴診器を取り出し時計にあてました。

「この時計、まだ生きているようです。死んだらあんたに渡します」

こう言って、時計を持って去っていったといいます。

この話は、現代人が仏教に対してどのように思っているかを、よく表しています。

「日本の葬儀では経典が読まれますが、この難解な仏教哲学を死者はどう受け止めることができるでしょう。死後の一瞬だけ、仏教思想の神髄が形式的に読まれ、ほとんどその意味が理解できないというのが、私を含めて平均的な日本人ではないでしょうか。生前に即物的で現実的な人生を送った故人にとり、最も遠い世界だった哲学を死の直後に聞かされるのはとてもブラックな皮肉ではないでしょうか」(NHKスペシャル「チベット死者の書 仏典に秘められた死と転生」より)

 

そして、仏教は葬式仏教と揶揄され、僧侶は「死者に群がるハゲタカ坊主」と非難される始末です。

間違った葬式はやめるべきです。

「『親鸞閉眼せば、賀茂河に入れて魚に与うべし』と云々。これすなわち、この肉身をかろんじて仏法の信心を本とすべきよしをあらわしまします故なり。これをもって思うに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もっとも停止すべし」(改邪鈔)

(訳:「親鸞が死んだら、鴨川に入れて魚に与えてくれ」と言った。これはつまり、肉体ではなく信心を重んじるべきであるということを表している。これをもって思うには、葬式を一大事とするべきではなく、そのような間違った葬式は止めるべきである)

「肉体を魚に与えてくれ」とは衝撃的な言葉ですが、この言葉には魚を食べていたことに対する罪悪感や、魚にも仏縁を結ばせたいという利他心も込められています。

蓮如も「自分が死んだら、山に捨てて山犬に食わせてくれ」と言っており、さらに蓮如一期記には、「位牌、卒塔婆をたつるは輪廻する者のすることなり」とあります。

「死者のために何とかしてあげたい」と願う相手の無知につけこみ、死者のためになると言って経をあげたり、墓を建てたり、法名をつけたりして金をとる、これは詐欺であり、不浄説法であり、絶対にやってはならない悪魔の行為です。僧侶がこの教えを知らないはずがありません。よく知っているにもかかわらずやっているから、彼らはたちが悪いのです。遺族も騙されていながら感謝してしまっています。

現代の葬式に、人間の迷いの姿を見ることができます。

 

・葬式自体は否定しない

今の葬式は間違った葬式だから否定されるのであって、葬式自体は否定されていません。

葬式は無常観を問い詰める場にすればいいのです。大切な人の死体を前にすれば無常観も問い詰まります。葬式はこのようなメリットもあるので、たとえば蓮如は、自分の死体を見せるよう指示しています。墓参りや盆など、死者供養のためとされている場のすべてに同じことがいえます。

ちなみに法名は、つけるにしても、死の解決をした人につけるものです。「法」とは、サンスクリット語のダルマの中国語訳で、日本語では「真実」という意味です。つまり、法名とは「真実の名」ということであり、真実の自己を知った人につけるものなのです。また、真実の自己は極悪人ですので、つけるにしても、「愚禿釈親鸞」のようになるのであって、立派な法名をつけようとは思いません。己知らずだから立派な法名をつけてしまうのです。

 

・葬式に出る時の心がけ

どうしても世間の間違った葬式に出なければならない状況になった場合、次のような点に気をつけるべきです。

まず、無常観を問い詰める場にすることです。

また、死者に向かって礼拝しないことです。礼拝の対象は阿弥陀仏だけです(詳しくは第6巻)。

そして、結縁のご本尊を必ず入れることです。納棺の際、死体の懐に南無阿弥陀仏の六字の名号を入れることで仏縁を結ばせることができます。ちなみに、中有界の衆生(いわゆる幽霊)でも仏縁を結ばせることができます。

生まれ変わり研究の中では、実験的母斑の事例も紹介されています。これは、臨終に近い人の体や遺体に印をつけると、その人物が、その目印と一致する母斑を体にもって生まれ変わって来るというものです。この実験的母斑について、生まれ変わり研究を行っているヴァージニア大学のジム・タッカーは2つの仮説を立てています。

1つ目は「死後にも存続する意識が、しばらくの間、遺体の周辺に留まるという可能性」、つまり、「体につけられた目印がその意識に感情的な影響を及ぼし、その結果として母斑が発生するということなのかもしれない」

2つ目は「目印そのものよりも、目印をつけた人がそのときに唱えた祈りのほうが重要だという可能性」、つまり、「死を迎えようとしている者に、あるいは既に死亡した者に向かって、その目印を持って生まれ変わってほしいと、目印をつけた人が念じると、その人の意識が故人の意識と結びつき、その結果として母斑が発生するのかもしれない」

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2.8 無常観
無常を直視する
無常観には強弱がある
死を直視する幸せ
不幸を勝縁にする
仏教は生きている人のためにある
平生に解決する