無常観といっても、強弱があります。

たとえば、寂しいとか虚しいといった無常観はまだ弱く、もっと強くなれば恐怖を感じるようになります。死が自分に迫っていることがわかれば、寂しさではなく恐怖を感じます。

平生元気がいい時に観じる無常は、ほとんどの場合、弱い無常観です。そのため、死を解決したいとまでは思わなかったり、求道を始めても途中で脱線したりしてしまいます。

今日、優れた仏教者と評される人でも、無常がわかっていない時期がありました。

「往生要集」で有名な源信がまだ若い頃、出家していた姉の願西尼を訪ねたことがありました。その時、願西尼はいつになく容(かたち)を改めて、源信に「無常とは何か」と問いました。すぐに源信は「花に嵐、月にむら雲」と答えました。それを聞いた願西尼はひどく落胆し、次の歌を書いて示しました。

「出づる息 入る息待たぬ 世の中を 君はのどかに ながめつるかな」

無常とは、散りゆく花や、雲に隠れる月といったものではなく、あなた自身が死ぬことをいうのですよ、という戒めの歌です。これに大きな衝撃を受けた源信は、その後、死を見つめることに専念したといいます。

この時の源信の無常観は文学的な無常であり、のどかな無常です。死が他人事になっています。

 

・四馬の譬喩

無常に驚く人を4通りの馬にたとえた、「四馬の譬喩」があります。

 

1.鞭影を見て驚く馬

例:火葬場の煙や花が散るのを見て無常に驚く人

2.鞭、毛に触れて驚く馬

例:知らない人の葬式や霊柩車を見て無常に驚く人

3.鞭、肉に当たって驚く馬

例:親戚や知人の死を見て無常に驚く人

4.鞭、骨にこたえて驚く馬

例:肉親の死を見て無常に驚く人

 

先に説明した通り、人間はどんな状況に追い込まれても、無常を無常と思えません。鞭が肉を裂き、骨を砕いても本性は少しも驚くことができません。四馬の譬喩のどれにも当てはまらない駄馬の中の駄馬なのです。

無常観の目的は、この無常を無常と思わない屍のような心を白日の下に引きずり出し、驚くことにあります。無常を無常と思わない心に驚くのです。

 

・「死が怖い」

「死が怖い」という人も多いですが、それはまだまだ弱い死の恐怖です。ですので、もっと死を問い詰め、本物の強い死の恐怖を知る必要があります。

第1巻でも紹介しましたが、浄土真宗本願寺派祐光寺の住職、野々村智剣は次のように言っていました。

「仏教の原理にしたがう限り、いま現在、あなたの来世は、すでに決まっている。地獄行きの自覚すらないあなたなら、確実に地獄におちる。その理由は、ほかでもない。あなたは日常に、地獄行きの罪を重ねつつあるからである。仏教の道理は因果応報である。悪いタネを播けば、悪い実がなる」

しかし、彼が命にかかわる重い病気にかかった時のことです。

「そのとき私は、大きな恐怖を抱いた。1つは死の恐怖、そしてもう1つは『地獄』の世界そのものに対する恐怖であった。健康なとき、地獄はこんなに恐ろしいところだと得意気に話、それを文章にしていた私は、病をきっかけに、私自身がおちなければならない地獄の恐怖について、熱心に筆を走らせていたのだということに気づかされた。実際に地獄の門口に立たされていたのである」

「すさまじい責苦の地獄におちねばならぬ『罪』の実感がありすぎるために、他人事ではなく、筆者自身の戦慄だったといってよい」

どんなに死後は地獄だと知り、死は怖いものだと思い、人に説教する立場であっても、実際の死はまったくわかっていないのです。

江戸中期の禅僧、白隠は死後の地獄が問題になり、それがきっかけとなって仏門へと入りました(詳しくは第1巻)。しかし彼は、一生涯、聖道門の修行をして終わったことから、それほど強い無常観ではなかったことがわかります。強い無常を観じれば自力仏教では消せないことがわかるからです。聖道門や自力仏教について第6巻で詳しく説明します。

無常観が問い詰まるにつれ、寂しさから恐怖となり、最後は黒闇(無明)となります。第2巻でも説明しましたが、「色」というのは自己のフィルターを通して見えるものですので、深層の自己であり不変の心理であり苦悩の根源である無明の色、つまり黒闇がこの世の本当の色ともいえます。

先に事例も紹介したように臨終に無明が見えますが、臨終では遅いので、平生元気がいい時に無明を引きずり出す必要があります。

 

・死の恐怖を感じるように生命は進化している

死の恐怖は、死後が地獄であることを警告するシグナルといえます。死の恐怖を直視し、中に入り込んでくるよう自然は望んでいるのでしょう。

「本当に人間は死ぬために生まれてきたのだ。それは人間の運命である。それが運命であるなら、人間は泰然自若として平気で死ぬようにできていてもよさそうなものであるのに、実はそうではない。人間は死を怖れる」

「真理は、人生存在の意義は死によって消滅することである。人間の智識が進むにつれて、否応なしにこの怖ろしき真理と直接対面せねばならぬ。こう考えてみると、生命の進化が無意味になってくる。人間が進化すれば、その智識が進むにきまっている。智識が進めば、死の意味を知らざりしものが、それを知るようになり、その結果、死の恐怖が高まり、生をあじわうことがますます深刻となってくる。生命の進化は人間を不幸に導くということになる」(福来友吉)

 

「自然は、老いや死への恐怖をある意味を持って人間に投げかけているにちがいない。その恐怖は、それから逃れるためのものではなく、その恐怖の中に入り込んでくることを望んでいるはずなのだ。

というのは、その不安定な幸福の中で、必ず、我々は、心の奥深いところに何かある、もっと心を満たしてくれる何かがあることを感じとっているからだ。その感じがあるから、刹那的な快楽の後から、どうしようもない空虚感が襲ってくる。そして、その空虚感が、我々に、何かもっと本質的に心を満たすことのできるものを求めさせようとしているのである。

でも、我々は、その空虚な心をどうにかして満たしたい、死に対する恐怖からどうにかして逃れたいと思いつつも、どうすることもできないものだと始めから諦め、再び刹那的な快楽の中に落ち入ってしまうのである」

「死の恐怖は、悠久なる生命の存在を知らしめようとしている。死を意識させることによって、その死の恐怖を生み出している暗黒の世界に明かりを灯させようとしているのである。

そして、その暗黒の世界に明かりを灯そうとする営みこそ、動物的快楽から離れ、崇高なる心の在処を求めようとする動きでもある」

「我々を動物的欲求の渦の中から目覚めさせ、さらに進化を遂げさせようとする働きこそ、死への恐怖であり、内から聞こえてくる『人生いかに生きるべきか』という命題でもある」(望月清文)

そして、この命題に対する答えは、「自ら生と死を直視し、自らの心の奥に入って行くことの中から生まれてくるものである」と言い、この命題に答えを見つけたいという欲求こそ、「人間だけに与えられた人間的欲求であり、その欲求こそ精神的進化の目指す方向でもある。それは動物的欲求に満ち溢れた火宅に開かれた狭き門であり、闇の彼方に輝く一点の光でもある」と言います。

死の恐怖を感じるというのも人間の優れた能力の1つです。

たとえば、年を取ると様々な能力が衰えますが、死の恐怖を感じる能力も衰えるのではないでしょうか。そのことが、年齢が上がるにつれて「死は怖くない」と思う人が増える一因となっているのではないでしょうか。

死の恐怖は、死を解決するようケツを叩いてくれる有り難いものであるのに、これまで説明してきたように、人間は向き合い方がわからないから臭い物だとしか思えず蓋をしてしまいます。

死の恐怖を感じないことを誇り、死に怯えている人を笑う人は多いですが大きな間違いです。

映画「甘い生活」では、「僕は平和が怖い。何よりも怖い。地獄を隠しているような気がしてね」というセリフが出てきますが、このように普段の日常に恐怖を感じるのが正常で、日常に恐怖を感じないのが異常なのです。

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2.8 無常観
無常を直視する
無常観には強弱がある
死を直視する幸せ
不幸を勝縁にする
仏教は生きている人のためにある
平生に解決する