「死は怖くない」と言う人は多いです。関連して、たとえば「死にたい」「いつ死んでも満足」「死ぬ覚悟はできている」「若くして死ぬのも嫌だけど、あまり長生きし過ぎても嫌だ」「死は怖いと思うけど1番怖いものではない」といったものもあります。
しかし、これらの言動はすべて本心ではありません。このように思ってしまう理由は、簡単に言えば自分の死が遠いからです。平生元気がいい時に想像する死と、実際の自分の死との間には「底なし」といっていいほどの深い深いギャップがあります。
先に説明した通り、死の恐怖といっても強弱があり、強い死の恐怖を感じれば、「どれほど苦しい思いをしようが永遠に生きていたい」という本心が剝き出しになるのです。
フリーアナウンサーの黒木奈々は、ガンになり、今回見つけられなかったら2年後には命はなかったと医師に言われた時の心境をこう語っています。
「怖かった。『死』がこんなに近くにあったなんて考えたこともなかった。私は昔、バカなことを言っていたことがある。
『人生、細く長くは嫌だ。太く、短くでいい』と。その発言、撤回したい。ごめんなさい。『太く短く』なんて嫌。太く、長くがいい」
「何かあると冗談で『あー死にそう』などと言っていた。今は絶対にそんなこと言えないし、自分の周りの人にも絶対に言ってほしくない。今まで当たり前のように使っていた言葉もずっしりと重く、一言一言が胸に響く。もしもいつか子供ができたら、そんなこと絶対に言ってはいけないと教えようと思った」
このように語り、彼女は間もなくして逝きました。
ある芸能人が、初めてバンジージャンプを体験した時を振り返り、「柵の手前は何とでもいえる。柵を超えると恐怖で震えが止まらなくなる」と語っていました。命綱があり助かる保証があるとわかっていても、震えが止まらないほどの恐怖を感じます。まして、命綱がない実際の死は想像を絶する恐怖です。
「死んだら死んだで、その時はその時だ。怖がっても仕方ない」などと高を括っていた人が、いざ死に直面すると怖いと言い出す、こういう事例はゴマンとあります。
いくつか、その人の置かれた状況ごとに分けて紹介しましょう。
・死刑囚
・医師
・超心理体験者
・僧侶
・成功者
・老人
・兵士
・自殺者
・誰もが死は未経験
・死刑囚
残忍な死刑囚は、一見すると死など恐れていないように見えますが、果たしてどうでしょうか。
画家や教師と偽り、2か月足らずの間に女子高生を含む8人の女性を暴行して殺して埋めた大久保清。死刑囚になってからも反省することはなく、「被害者は俺のほうだ」とか「立派に死んでみせる」などと強がっていました。
しかし、死刑当日の朝、拘置所長から「お別れです」と告げられると、恐怖で腰を抜かし、2人の刑務官が腕をつかまえて引きずるようにして連れ出したといいます。そして、教誨師から「何か言い残すことはないか」と聞かれても身を震わせるだけで一言もしゃべれなかったそうです。
元無期懲役囚の合田士郎は、服役中に多くの死刑囚の最期を見ており、その内容を著書「そして、死刑は執行された」にまとめていますが、たとえば次のように書いています。
「出所してから俺は折にふれ、世間に出回っている『死刑に関する本』を読みあさった。
だが、どの本もきれい事ばかりだった。ほとんどの死刑囚は、罪を悔い、深く悟って、静かに処刑されていくかのように書かれている。塀の外からでは想像もつかないような現実だが、官を中心に中から漏れてくる話はほとんど、作られたきれい事だけで塗り固められている」
「午前十時前、死刑囚棟の鉄扉がギーと開かれでもしようものなら、死刑囚棟は、各房の扉越しに心臓の音が聞こえてくるほど、しーんと不気味に静まりかえる。咳音ひとつなく、息をひそめたら死刑囚たちの呼吸音さえ聞こえてきそうだ。ある者は正座し、両手を合わせて神仏に祈り、ある者は体を震わせ、心臓が破れんほどに鼓動を高鳴らせ、必死に死の恐怖におののいている姿が、痛いほどわかる。
鉄扉を開けたお迎え官や特警の靴音が自分の房の前を行き過ぎれば、『助かった』とほっとして、全身から力が抜け、ぐったりした次の瞬間、『今日一日生きられる』と、満面に狂喜の色が湧いてくる。
だが特警の靴音が、とある監房の前で止まり扉を開けようものなら、その瞬間から地獄になる。ほとんどの死刑囚は『死ぬのは嫌だ!』『助けてくれーっ!』と泣き叫ぶ。あるいは『ウォーッ!』と言葉にならない大声を張り上げて暴れまくる。腰を抜かして立たなくなり、瞳はうつろでよだれさえ垂らし、時には小便をもらしたり脱糞までしている死刑囚を見る。
それを、特警が後手錠をかけ、両脇からつりあげ、引きずるようにして、三途の川のトンネルをくぐり、雑木林の中の処刑場へと連行していく。連行されて行った後には、垂れ流された糞尿が、点々と続いていることもある。
静かに処刑されて逝った者などはほとんどいないというのが実情なのだ。死刑執行は、そんな甘く切なく悲しいものではない。まさにこの世の地獄なのだ」
「俺も死刑を求刑されていたときは、何を食ってもうまくなかった。大好物の焼肉を食っても、ゴムを噛んでいるみたいだった。好きなラーメンも、紙でも食っているような気がした」
「誰も知らない『死刑』の裏側」の著者である近藤昭二も、「今日は執行の日かもしれない」というプレッシャーから、食事には不自由しなくても、実際にはどの人も痩せ細り、生彩がなくなると語っています。
また、朝日新聞の取材によれば、大阪拘置所関係者が、オウム真理教の井上元死刑囚らの最後の日々を次のように証言したといいます。
「刑務官は皆、井上と新実は死刑執行が前提で移送されたとわかっていましたから、すごくピリピリしていました。井上は礼儀正しく、死刑執行が近いとは思えない様子でした。
しかし、井上、新実とも日が経つにつれ、顔色は悪くなり、異常に汗をかくなど、精神的に不安定になっていた。
しばらくすると、彼らのいる独房には臭気が漂いはじめた。2人とも毎晩のように失禁するようになり、ズボンや布団を頻繁に取替えるようになっていたのです。死刑の恐怖に怯えていたんだと思います。凶悪事件を起こしたとんでもない連中と思っていたが、2人とも普通の人間だったということでしょう。どうして道を間違えてしまったのか、残念でならない」
市川一家4人殺人事件の犯人である関光彦は、死刑は怖いかと聞かれ次のように答えていました。
「あまり考えません。毎日、灰色の壁に向かって、誰とも話さずに暮らしていると、頭がマヒしてしまうんです。鉄格子のはめられた部屋に入れられたらわかりますよ。1~2年でマヒしてしまいます」
しかし、「ただ、何かあると死と直面することもあります」と言い、その「何か」を具体的に説明してくださいと言われてこう答えています。
「一緒に暮らしている人がある日、突然、連れていかれるんですよ。ああ、死刑執行だな、とわかる。やはり、死ぬことを考えてしまいます。そういうとき、怖い、と思います。死ぬことはやっぱり怖いです」
さらに、オウム真理教の教祖である麻原彰晃・元死刑囚の裁判を傍聴してきたジャーナリストの青沼陽一郎は、麻原が死刑判決を言い渡された時の様子を次のように記しています。
「風貌も随分と変わった。とにかく痩せた。初公判の頃のでっぷりとして、どこかに自信を滲ませた余裕の姿は、跡形もなく消えていた。(中略)
『被告人は、そこに立ちなさい』
小川裁判長が言った。しかし、被告人は椅子の上にじっと固まったまま、無視している。全身の緊張の具合から、それが彼の意思表示なのだと察した刑務官が、直ぐさま彼の腕に手をやった。これを振り払うようにした被告人に、今度は両脇から腕を掴み、立たせようとする刑務官。ところが、教祖はこれにあくまで抵抗する。お尻に力を入れ、身体をくの字にしてまで椅子にしがみついていようとする。いやだ!主文なんて聞きたくない!現実なんて受け入れたくない!まるで駄々をこねる子どもだった。(中略)
こんなに精一杯の抵抗を示したのは、初めてだった。いつもは、刑務官の指図になすがままに従っていたはずだった。なんのことはない。この男、現実をちゃんと把握できていたのだ。それで、こんなに嫌がってみせるのだ。これが、死をも超越したと自負する最終解脱者の正体だった。日本を支配しようとした男の末路だった。あからさまな感情表現に、芸達者の側面も色褪せて消えていく。死刑を怖がる男の本性を、むき出しにしていた」
死に怯える人間心理は古今東西どこも同じです。
アウシュヴィッツ強制収容所所長のルドルフ・ヘスは次のような話をしています。
「いくつも前科のある一人の風俗犯が、ベルリンのある家の玄関で、18歳になる娘を誘惑し、暴行したあげくに、絞め殺した。(中略)彼は、銃殺のため、ザクセンハウゼンに送り込まれた。今でもよくおぼえているが、私は作業所の墓地の入り口のところで、彼が車から降りてくるのを見た。せせら笑うように顔をゆがめ、いかにもすさんだ感じの落ちぶれた年輩の男で、まったく典型的に反社会的人間だ。(中略)
私が銃殺を告げると、彼は、真蒼になり、吼えたけり、哀願して、荒れ狂った。それから、今度は、お慈悲を、と叫び出す始末で——じつに嫌悪すべき光景だった。この男も、杭にくくりつけさせねばならなかった。——こうした無道徳な人間どもでも、果して、『あの世』への不安を感じるのであろうか。もっとも、私には、そうとでもしか説明のしようがないのだが」
話はズレますが、大量虐殺に加担したヘスが「反社会的」「無道徳」と批判している点も注目です。己知らずも甚だしいのですが、人間の善悪観はヘスと似たり寄ったりで、この点については第4巻で詳しく説明します。
・医師
医師は仕事柄、多くの死に直面しているため、一見すると死に対する免疫がありそうに思えますが、果たしてどうでしょうか。
心療内科医の星野仁彦(福島学院大学教授)は、自分がガンと宣告された時の心理状態を、著書「末期がんを克服した医師の抗がん剤拒否のススメ」にまとめているので、いくつか抜粋します。症状から「もしかしたらガンではないか」と疑うところからです。
「ガンの可能性がある。後輩の内科医に症状を話して、判断してもらおう。万一、本当にガンであっても動揺してはいけない。いや、動揺することはない、これまでパニックに陥った患者を何人も診てきた私ではないか。そんな私が我を失い、取り乱すことなどあるはずがない」
「検査結果がどうであれ、すべてを受け入れる心の準備はできている。私は精神的に強い人間なのだ。そのときまでは、そう信じていた」
しかし、検査の結果ガンだと告知されると様子が一変します。
「ガンを告知された瞬間である。しかし、どんな患者の前でも決して内面をそのままには表さない医師の習慣なのか、平静を装うことができた。一度、頭の中で確認してみた。
『私は、大腸がんである』
動揺はない。私はやはり強い人間だった。
ホッとして足元に目を移すと足が震えている。デスクに手をついていなければ倒れていたかもしれないほど、激しく震えていた。動揺していることを自覚した私は、パニック状態に陥った。
『死ぬ危険性はどのくらいなのか』『残りの人生はどのくらいなのか』『手術で治るものなのか』『家族はどうなるのか』『私の将来は、ここで終わるのか』
浮かんでくる言葉は、すべてがネガティブなものだった。後輩が声をかけているようだが、何を言っているのか聞き取れない。聞き取れないが、平静を保とうとする私は頷くことでごまかそうとしている。
私はガンが発覚しても精神的に動揺しない自信があった。自分ほど精神的に強い人間はいないと思っていたからだ。精神科医として、うつ病やパニック障害、不安神経症などの心の病に悩む患者を数多く診てきた。精神科医としてのキャリアを積み重ねることで、強く冷静な自分、を確立していたはずだった。激しく足が震え動揺している私のどこが強く、冷静なのだろうか。私は弱い人間だった」
彼の妻は「抜け殻のようなあなたを見たのは、出会って以来、あれが初めてだったと思います」と言います。
他にも次のような描写が続きます。
「何も考えられない状態になっていた。頭が真っ白になるというのはこういうことなのだろう」
「私は・・・、『死』を恐れている。医師はその職業柄、死に接する機会が多い。ある意味、絶えず死と向き合いながら仕事をしているともいえる。だからこそ、医師は死の恐怖に強いと思っていた。
しかし、実際に対峙する死は自分のものではない。あきらかに距離感がある。私はガンであることがわかった瞬間、その距離感が消えた。死というものが観念的なものではなく、実感として意識せざるを得ない状況になったのである」
「わずかな身体の異変も気になって仕方なかった。
『頭が痛い。ガンが脳に転移したのでは?』
『横っ腹が痛い。肝臓に転移したのでは?』
『咳が出る。肺への転移か?』
『腹痛と便秘がある。ガン性腹膜炎かもしれない』
精神医学でいう心気症である。気にすれば気にするほど、ネガティブな想像力は増幅する。精神科医でありながら、その不安を抑え込むことはできなかった。心気症のメカニズムは理解していたが、どうすることもできなかった」
京都新聞に「わらじ医者、がんと闘う死の怖さ、最期まで聞いて」という題の記事がありました。
「わらじ医者」と慕われ、テレビドラマのモデルにもなった早川一光医師(91)は、老いや認知症を取り上げた著書も数多く、KBS京都のラジオ番組に28年にわたり出演し、講演も精力的にこなしてきたといいます。
多くの人を看とり、老いや死について語ってきたはずでしたが、自身が病気(血液がんの多発性骨髄腫)になると一変、心が千々に乱れ、布団の中では最期の迎え方をあれこれ考えてしまい、眠れなかったと語ります。そして、長年の友人である医師に「僕がこんなに弱い人間とは思わなかった」「初めて病む人の気持ちがわかった。死ぬ怖さを知りました」と嘆いています。
また、消化器腫瘍外科を専門にする船戸崇史医師は、妻に勧められた人間ドックでガンが見つかった時の心境を次のように語っています。
「私は、自分ががんになるなんて夢にも思いませんでした。私はがんに罹る人間ではなく、がんを治す側の人間なのだ、という勝手な思い込みと奢りがあったのです」
「私は現実を到底、受け入れられませんでした。
『違う違う!私じゃない。私ががんになるはずがないんだ!』
がんはもっともっとデリケートな人がなるんだ。繊細でストレスを抱えやすい、そして免疫的にも弱い人が罹る病気なんだ。私なんか正反対な人間なんだから罹るわけがないんだ!
何度そう言い聞かせても、足は宙に浮いている感じでした」
「医師ですからあらかじめ知識はあるのですが、改めて本を開きました。泌尿器系腫瘍の多くが悪性。良性は少ない。放射線も抗がん剤も効きづらく、手術でとってしまうしかない・・・・。あらかじめ知っていることを改めて確認していけばいくほど、心臓がバクバクしました。幸いなことにまだ私は手術が間に合うんだから・・・・いやいや、何を言ってるんだ、私はそもそもがんなんじゃない・・・・いや、がんなんだ・・・・でもきっと悪性じゃなくて良性なんだ・・・・いや、私はそもそもがんじゃないんだ・・・・いや・・・・。医師とて人の子。私は混乱していました」
「告知された日。私は少し泣きました。ふと『死』を意識して震えました。そして気がつくと呆然としているのです。まるで足がなくなったような、ふわふわ浮遊しているような感覚でした」
「多くのがん患者さんを診てきました。落ち込む患者さんには『大丈夫大丈夫』なんて励ましたことも多々ありました。
しかし、いざ自分が患者という立場になってみると、到底大丈夫だなんて思えないのです。がんになって助かるという保証はない、ステージ1でもダメなものはダメになる・・・・やっぱりがんになったらお終いだ・・・・そんな風に思い至って頭を抱えるのです。なんと無責任なことでしょう。どの口が患者さんを励ましてきたのか」
・超心理体験者
臨死体験など、神秘体験や超心理体験と呼ばれる体験をしたという人たちがいます。また、最近では、そういった分野を科学的に研究する人もいます。こういった体験や研究から死が怖くないと主張する人は多いですが、精神科医のエリザベス・キューブラー=ロスのように、実際の死がやってくると一変してしまう例もあります(詳しくは第1巻「良い臨死体験もある」)。
・僧侶
悟りを開き、死をも乗り越えた境地にいると自他共に認める仏教徒は少なくないですが、果たしてどうでしょうか。
時の福岡藩主、黒田斉清は菊をこよなく愛していたことで知られていました。
ある日のこと、黒田が大切にしていた菊を、小姓が誤って1本折ってしまいました。それを知った斉清は激怒、その小姓を処刑しようとしました。
この話を仙厓が耳にしました。すると、何を思ったのか、仙厓は夜に鎌を持って城内へ忍び込みました。そして、菊をざくざくと1つ残らず刈り取ってしまいました。物音に気づいた斉清が刀を手にして出ていくと、鎌を持った仙厓がニッコリと笑って立っていました。
「和尚、なぜこのようなことを」
斉清が迫ると、仙厓は「菊花と人の命とどちらが大切か」と言いました。その言葉で我に返った斉清は、自分の間違いを懺悔し、仙厓に感謝したといいます。
このエピソードだけ見れば、仙厓は死を恐れていないように見えます。
しかし、その仙厓が臨終を迎えた時のことです。弟子が最期の言葉を願いました。すると、仙厓は力なく一言こう言いました。
「死にともない、死にともない」
死を迎えても微動だにしない境地にいると思っていた弟子たちは、仙厓の意外な言葉に驚きました。
(とても天下の名僧の最期の言葉とは思えない・・・)
そう思い再び聞き直すと、今度は一言こう言いました。
「ほんまに、ほんまに」
ちなみに、一休も臨終に、「死にとうない」という言葉を残して死んでいったと伝わっています。
・成功者
世間的な成功者の中には、「やりたいことは全部やったから、いつ死んでもいい」などと言う人がよくいますが、果たしてどうでしょうか。
ビートたけしは、よく「いついつまでに死んでやる」と言っていました。
ところが、バイク事故の後になると、「自分がいろいろ背負っているものを投げ出したいってのが本音であって、それを格好つけて、もう数年で死ぬんだと嘘ぶいていたってことだろう」と語っています。
タレントのやしきたかじんは「60で死ぬと決めといて、いつ死んでもええと生きてきたのに、惜しくなるんは恥や」と言って死んでいきました。
浪曲師の桃中軒雲右衛門の孫である中岡俊哉は、恐ろしい臨死体験をきっかけに超常現象を研究するようになったという人です。
「私はこれまで3度にわたってニア・デス(近似死)を体験し、死後の世界なるものを垣間見てきたが、私の脳裏に強く焼きついているのは、なんといっても死に対する恐怖であり、生への強い執着であった。”死にたくない”その叫びをいくどとなく繰り返した。死んでしまうことの恐ろしさ、生への願望は筆舌につくしがたいものがあった。私はこれまでに自分自身のニア・デス体験以外にも、友人、知人の死の瞬間に立ち会い、それをつぶさに見てきている」(中岡)
そして、「人はみな、安らかに死を迎え、極楽で成仏したいと思っている。しかし最期を迎えた人間はみな狼狽し、恐れおののく」と言い、祖父の最期について次のように語っています。
「こうした体験がその後の研究に大きく役立っていることはいうまでもないが、その中でも特に、死ぬ瞬間のことで強烈な印象を私に残しているのが、祖父の死である。
桃中軒雲右衛門。今の若い世代の人たちにはなじみが薄く、その名を知らない人も多いだろうが、祖父は一世を風靡した近代浪曲の聖と称される浪曲師であった。雲右衛門の死に際に立ち会った叔母の証言によれば、その死はまさに悲愴なものであったという。
雲右衛門は名誉も地位も功もほしいままにし、大教正という木曽御岳からの位をもらった、いわばその世界でも最高位についた人物である。人間としてすべての面で満ち足りた生き方をし、なにひとつ思い残すことのない生涯であったはずなのだ。
ところが人間の性であろうか、40余歳という若さゆえの生への願望からか、雲右衛門の死に際は、なんとも凄惨なものであった。雲右衛門は一時、莫大な財を築いていた。東京のどまんなかに三頭だての馬車を走らせるほどの広い土地を有し、数十人の門弟を住まわせる豪勢な生活をしていた。だが、雲右衛門の不徳が原因したのか、死ぬ時は谷中の借家の一間で、身内の者たった1人にみとられるという寂しい最期であった。
死期が近づいたとき、雲右衛門は狂ったように暴れた。枕もとに置かれてあったひとふりの刀を抜き、吐血しながら、死への恨みつらみを叫び散らした。”死んでたまるものか、俺は死なないぞ”と絶叫し、苦しみ悶えて息絶えた、というのである。
たしかに40余歳という年齢では、思い残すことは多かったろう。しかし、人間の持つすべての欲望を満たしきったような人生であったことを思えば、死というものを達観した状態で迎えても不思議ではなかったはずだ。
しかし、その病気が不治のものとわかっていても、また短いながら人生においてすべての欲望を満たしえた人間であっても、やはり生への願望は強く、死を怖れ死から逃れようとする狂心状態が起きてしまったのである。叔母の証言によれば、死ぬ瞬間はまるで阿修羅のようであったという。
私がここであえて雲右衛門の例を挙げたのは、死にのぞんで人がさらけだす、地位も名誉も財産もすべてを顧みず”生きたい”と渇望する人間の本性を知ってほしいためである」
・老人
「死は怖くない」と自信たっぷりに言う老人は多くいます。
国の統計によれば、年を取るほど「死は怖くない」と思う人が増えるようです。人生経験が豊富で、統計上は若者よりも死ぬ確率が高い老人がそのように言うのを聞いて、死は怖いものではないと思うようになった人も多いでしょう。果してどうでしょうか。
中岡俊哉は次のような話もしています。
「お年寄りの中に、もう充分長生きしたから早く楽になりたい、とか、こんな身体で生きていてもしかたがないから死んでしまいたい、という人がいる。
ところが、いざ動けなくなると、”先生、助かるんでしょうか、助かるんでしょうか”と哀願するようにいう。生命を絶ってほしいなどという人はまずいないという。やはり、人間というのは、いざ死に直面すると、生への執着は絶対に捨てきれないようだ」
そして、「いつ死んでもいいというのは健康な人のたわごと」だと言い、川口義人医師のインタビューを紹介しています。
「川口氏の見てきたかぎりにおいて、自分はいつ死んでもいい、というのは嘘だという。いつ死んでもいいというのは、健康なときにいう言葉。ところが、ちょっとでも具合が悪くなると、あと10年は生きたいとか、5年でいいから生かしてほしいという。あなたはやるべきことをすべてやり、隠居しているのだから、もういいじゃないですか、と冗談めかしていうと、私にはまだやり残したことがある、などというらしい。やはりみんな死が怖いのだ」(中岡)
こんな話もあります。
毎日、寺へやってきては「生きるのが苦しくて死にたい」と阿弥陀像に訴えていた婆さんがいました。
ある時、それを見ていた寺の小僧がいたずらしようと思い、像の後ろに隠れて待っていました。いつも通り、婆さんがやってきて苦しみを訴えると、小僧はわざと声を荒げて言いました。「そんなに死にたいなら今晩迎えにいくぞ!」
婆さんは驚き、「ひえー、ここの阿弥陀さん、冗談も言えんわ」と言って逃げ出したといいます。
「うそくらべ 死にたがる婆 止める嫁」という句があります。
「いつも気遣ってくれてすまないね。迷惑ばかりかけているから早く死にたい」などと言う姑に対して、嫁は「そんなことありません。お義母さんがいなくなったら寂しくなります」などと言います。一見すると互いを思いやる仲の良い嫁と姑ですが、内心では「早く死んでくれんかな」などとまったく逆のことを思っているという人間の本性を表現した句です。
「死にたがる姑も、それを止める嫁も、あんなのは全部嘘やで」(河合隼雄/元文化庁長官)
・兵士
「戦時中の兵士たちは、国のために喜んで死んでいった」という話は多いですが、果たしてどうでしょうか。
巣鴨拘置所の教誨師だった花山信勝は、次のような話をしています。
「私は、死なねばならない境遇に置かれた27人の青年たちに接する機会が与えられた。
その語るところは、『戦争のときは、死ぬことを、なんとも思わなかったのですが——』ということに、一致していた。
中には、特攻隊を志願した人たちもあれば、しばしば弾丸雨下の死線を越えてきた人たちもある。身命を捧げて一途に必勝へと突進したその当時と、戦敗によって平和を迎え、過ぎし日の責任が問われて死に直面する現在とでは、その心境に大きな相違のあることを、彼ら自身が認めて、告白するのであった。
国家全体が異常に興奮した、その大きな、環境の中にあったときの自分の身命に対する考え方と、周囲のすべてがおちついて、平常の状態にかえった現在のそれとの、大きな相違を実証しているのである。
それは、戦時中の死はやすく、平時のそれは容易ではないという証左であり、人間は普通の状態にあるときは、決して死を欲するものではないという事実である」
太平洋戦争中に学徒出陣し、特攻隊員になった兄弟の岩井忠正さん(99)と忠熊さん(97)が、早稲田大学で講演した時の話が毎日新聞に載っていました。
「今はそれぞれ東京、滋賀と離れて暮らすが、どうしても若い世代に『最後の言葉』を伝えたいと顔をそろえた。これまでそれぞれ講演する機会はあったが、兄弟そろって話すのは最初で最後かもしれない。2人が伝えたかったメッセージとは——」
「辛くも2人は生き残ったが、多くの若者が特攻隊員として命を散らし、遺書が残されている。
『遺書には勇ましい言葉が書いてある。私は喜んで死ぬ、と書いてあるのを読んで感激する人もいるはずです。だけど、私は、待ってくださいと言いたい』
忠正さんは会場にこう呼びかけた」
「忠正さんは、命を落とした隊員の無念を代弁するように語気を強めて会場に訴えた。
『本当は死にたくない。でも(死ぬのが)嫌なのに殺されたと聞いたら家族も悲しむから、喜んで死んだと思ってもらおうと。もう一つは自分を励まさなきゃやれない。決して犬死にじゃないと自分を奮い立たせて慰める気持ちの表れなんです。そういうことを理解してやらないといけない。つらいんですよ、本人は・・・・』
忠正さん自身、当時、内心は戦争には批判的だった。海軍で上官から毎日のように暴力を振るわれ逃げ出したい一心で特攻隊員に志願した。『もし遺書を書くとすれば自分も同じことを書いていた』と打ち明けた」
他にも特攻隊員として出撃する直前になって暴れまわる人や、深刻な顔をして女を買いに行った人などの話もあります。
ちなみに、「天皇陛下万歳!」などと言いながら死んでいった人はほとんどいなかったようです(「お母さん!」と言って死んだ人は多い)。
・自殺者
自殺する人は、今より死んだほうがマシだと考え自殺を選びます。死にたいという欲求と死の恐怖を天秤にかけた末に、自殺しようと「最後の一歩」を踏み出しているので、一見すると死の恐怖を乗り越えられたように見えますが、果たしてどうでしょうか。
朝日新聞に、40代の女性が、13階から飛び降り自殺を図った時の体験談がありました。
「いち、にの、さん——。
大阪市内のマンション13階の通路に腰掛けていた女性は心の中で数をかぞえ、重力に体を任せた。覚悟を決めたはずだったが、ゆっくりと落ちていく感覚の中、恐怖と後悔、絶望が襲ってきた。『死にたくない』」
骨盤を含む下半身の骨がすべて砕けたものの、落ちた場所が砂地であったことや、落ちる最中に木の枝を掴んだことなどから一命は取り止めたといいます。
一歩を踏み出す直前までは、死にたい欲求>死の恐怖、という心理状態でしたが、直後に、死にたい欲求<死の恐怖、へと変わったということであり、弱い死の恐怖から強い死の恐怖へと変わったということでしょう。
この事例では運よく助かり体験談を語れるまでになっていますが、強い死の恐怖を感じた時にはすでに手遅れで助からない事例も多いでしょう(つまり、死の恐怖の体験談を語れない)。
本物の強い死の恐怖がでれば、どんな自殺志願者も死にたいと思わないはずです。
飛び降り自殺を目撃した人の中には、「この世のものとは思えない、身の毛のよだつような断末魔の叫びをあげていた」と表現する人がいます。死を望んだ自殺者が、なぜこんな声を発するのでしょうか。
また、ある自殺志願者が、自殺しに行く途中で事故に遭いそうになり、咄嗟に逃げようとしたという話もあります。そのまま事故に巻き込まれれば労せずに死ねたかもしれないのに、なぜ咄嗟に逃げたのかということです。本能的に死は怖いと思っているということであり、本心は死にたくないということでしょう。
「首吊りをしようとしてロープが切れたら尻餅をついて『ああ、死ぬかと思った』と言った奴がいるというのは、現代人の死についての感覚がよく現れています。実感がないのです。ビルの屋上で『飛び降りるぞ』と騒いでいる奴を突飛ばそうとしたら、慌てて『危ないじゃないか』と言うようなものです。
いずれも、『死にたい』『死ぬぞ』という言葉で出てくる死は、自分の思い込みの中だけの死です。実際の死とは異なる。その人自身、死がどういうものかわかっていない。
しかし、『死ぬかと思った』『危ないじゃないか』ほうが、本当の死に近い感覚なのだと思います。現代人にとって『死』は実在ではなくなってきている。死が本気じゃなくなってきたといってもいい」(養老孟司)
ちなみに監察医の上野正彦は次のように述べています。
「監察医として長年、多くの死と向かい合ってきたからこそ、私は自殺というのがいかに酷いものであるかをよく知っている。どんな方法であれ、楽にキレイに自殺できるという方法はない。行為に及ぶ前に自殺の悲惨な結末を知るべきであるし、その上で冷静に考えて自殺を思いとどまってほしい」
仏教説話集の発心集には次のような話があります。
蓮花城という高名な僧が、体が弱って来たので入水して果てようと決意しました。
「死ぬ時には念仏を称え、心静かに死にたいというのが私の昔からの願いでした。ですから、私は心が澄んでいる時を見計らって入水して果てようと思っております」
これを聞いて親しい僧の登蓮が止めようとしますが、蓮花城の決心は固く、大勢の人が見守る中、彼は入水しました。立派な最後だったと皆が思い、登蓮は悲しみをこらえながら後にしました。
それから何日か過ぎた時のことです。蓮花城の霊が登蓮の前に現れました。驚いた登蓮が、「あなたはいさぎよい決心をして尊い臨終を迎えたじゃないですか。当然往生なさっていると思っていましたのに、どうしてそのような姿で現れたのでしょうか」と聞くと、蓮花城の霊は無念そうに言いました。
「実はそのことなのです。あなたが熱心に入水を思いとどまるように言ってくださったのに、私は自分の決心がどの程度のものかも知らず、取り返しのつかない死に方をしてしまいました。
まさか死に際に後悔するようなことになろうとは夢にも思っていませんでした。
どういう悪魔のなせる業か、まさに水に沈もうとしたそのとき、私は突然命を捨てるのが惜しくなってしまったのです。だからといって、あれほど大勢の人が見ている中でどうして自分から入水をやめることができましょう。今すぐにでももう一度私の入水を止めてほしいと思い、私はあなたに目くばせをしました。しかし、あなたは少しも気づかず、ただ手を合わせるばかりです。
そのとき、私は入水を宣言した後悔で胸がいっぱいで往生のことなどは少しも考えることができませんでした。そのため私は邪道に踏み込んでしまい、いまだに往生できずにいるのです。
これは私が愚かであったための過ちなのであり、あなたを恨むのは筋違いだということはよくわかっております。ただ、最後に残念だと思った一瞬の思いからこうしてやって来たという次第なのです」
宇治拾遺物語にも似たような話があります。
往生しようと思った僧侶が入水を決意、噂になって人だかりができますが、いざとなると恐怖でいっぱいになります。引くに引けず、最後はあまりの苦しさに「助けてくれ」と叫んで助けてもらい、大衆から石をぶつけられ重傷を負うという話です。
いずれも、さもありなんと思える話です。
以上、いくつか事例を紹介しましたが、他にも、平生元気がいい時には「死が怖くない」と言っていた人が、実際の死が近づくにつれ一変してしまう例はゴマンとあります。
私の父も、ずっと「死ぬときは死ぬときだ。皆死んでんだから。一緒に地獄に堕ちるさ」などと言って、まともに聞く耳を持っていませんでしたが、しばらくして「自分が死ぬとなったら怖いに決まってる」と180度変わった人間の1人です。祖母(父の母)が死んだり、年を取って病気をしたり、自分の死を実感したのでしょう。
私の母も、自他共に認める楽観的な性格の人で、そういう自分を誇っている感じさえありましたが、命にかかわる大病を患うと「恐怖で恐れおののき」、「何と能天気に生きていたのだろうか」などと口にするようになりました。
テロが起こった時の映像などを見ると皆、蜘蛛の子を散らすように必死で逃げています。統計的に、あの中には、「死が怖くない」と思っていた人もいたはずです。
一見すると「死が怖くない人もいる」「死ぬ覚悟ができている人もいる」などと結論づけたくなりますが、それは早計であり、観察不足です。人間に「死ぬ覚悟」などできません。できていないのにできていると自惚れているだけです。
「私たちが死に直面したとき、生来もっていた土着の死生観を捨て、『死は刹那生滅の一時にすぎぬ』として現実を素直に受け止めることができるでしょうか。あるいは最愛の者を失っても、『無常は世の常』といって流せるでしょうか。とても俗人ではできません。わが事(主体的問題)と他人事(客観的問題)は別次元のものです」(泉美治/大阪大学名誉教授)
「人間は他人の死ということについては、あくまでもそれを他人事として見る。人の死にざまなどは軽い気持ちで語り、ときとしてはジョークとして話すこともある。
だが、いったん、わがこととなったとき、その人は慌てふためき、見栄も外聞もかなぐり捨てて狼狽するものである。その狼狽ぶりは社会的な地位の違い、年齢の違い、財産の違いなどとはまったく無関係に露呈するものである。
人間が死に直面したとき、死と向き合ったとき、大会社の社長でも、平社員でもまったくおなじように慌てふためくのだ。『ええっ、ま、まさか、誤診では』」(中岡俊哉)
小説家の大佛次郎は、「死は救いとは言いながら、そうは悟りきれぬものである」と言いました。
ペスタロッチは、「臨終は完成した秋の木の実が成熟して使命を果たした後に、冬の憩いのために地に落ちるような趣はない」と表現しました。
平生元気がいい時に想像する死は、檻の中の虎を眺めるようなものです。「恐ろしい牙だなー、あれに襲われたらひとたまりもないな」などと言いながら、自分に襲い掛かってくることはないから安心して見ていられます。
しかし、実際の死は、山の中で突然虎に出くわすようなものです。心して眺めてなどいられません。
・誰もが死は未経験
世の中に、死を論じる人は多くいます。そういう人の話を聞いて「死は怖いものではない」と思うようになった人も多いでしょう。
しかし、どれほど人生経験が豊富な人であろうが、生きている人間は皆、死は未経験です。未経験者が死を論じていることに注意する必要があります。
「死は怖くない」と言っていた人が、その後どういう心理になっていくのか、最期までよく観察し続けることが大切です。
2.4死の苦しみ
〇死は最大の苦しみ
〇死はすべてを破壊する
〇死の恐怖
〇死にたくないという願い
〇死がある限り幸せになれない
〇「死は怖くない」