仕事や恋愛など、無常の幸福はまったく価値がないかというとそうではなく、関わり方次第で手段として活かすこともできます。

たとえば、学ぶべき価値があります。無常の幸福で幸せになろうと思うから、つまり無常の幸福を無常の幸福と思っていないから、「裏切られた」と思ったり、恨んだり苦しんだりするのです。無常の幸福だと頭だけでもわかっていれば、裏切られても「仏説の通りだった」と学ぶことができます。

無常の幸福は幸せになるためにあるのではなく、死の解決という目的を達成するためにあるのです。手段の価値しかないともいえますし、手段として大きな価値があるともいえます。

〇自己を知る手段

様々な活かし方がありますが、死の解決は自己を知ることで達成できるので、特に自己を知るための手段として活かせることが重要です。

・自己を知ることに価値を置く

世間一般では無常の幸福に価値が置かれ、基本的に無常の幸福を得れば成功であり進歩であり幸せであり善であると考え、無常の幸福を失えば失敗であり後退であり不幸であり悪であると考えます。

しかし、求道は自己を知ることに価値を置きます。ですので、たとえば努力した結果、無常の幸福が手に入らなかったとしても、自己を知ることができれば、成功であり進歩であり善であるのです。逆に、無常の幸福が手に入ったとしても、自己を知ることができなければ、失敗であり後退であり悪であるのです。

 

・幸福の有無とは別

無常の幸福が無いより有ったほうが求道に有利だとはいえません。たとえば、「貧乏より金持ちのほうが有利」ということは言えないのです。求道の基準は自己を知ることであり、無常の幸福の有無や多少といったものとは別個の世界です。ですので、無常の幸福の有無や多少に関係なく、その人の置かれた環境下で求道を進めることができます。

 

・利他をする手段

 また、自己を知るためのキーファクターが利他ですので、利他をするための手段ともいえます(詳しくは第5巻「愛の限界と力」)。金も時間も肉体も人のために使うのです。

 

〇生活即求道

生活をするままが求道の一部とすることができます。これを「生活即求道」といいます。

・生活即聴聞

仕事をしたり、子育てをしたりと、普通の日常生活がそのまま聴聞のチャンスとなります。たとえば、失恋して爆発的な求道をした場合、失恋が聴聞となったということであり、一生懸命仕事をして自己が知らされたら、その仕事が聴聞になったということです。

 

・出家と在家

求道する方法には、出家と在家の大きく2種類あります。「家」は欲を意味しますが、これは家というのは欲の象徴のようなものだからです。文字通り、出家とは家を出て山奥で隠遁生活をしながら求道するような方法で、在家とは家にいながら求道する方法です。どちらも一長一短がありますが、現代は出家して修行できるような人はまずおらず、ほとんどの人は在家で求めます。

 

・常に自己を見つめる

常に自己を見つめながら行動します。仕事中でも恋愛中でも食事中でもトイレ中でも、幸せな時でも不幸な時でも、24時間365日、何をする時でも常に自己を見つめるのです。心の動きを見つめながら行動するというのは、最初は意識しないとできませんが、慣れると無意識に自己を見つめながら行動できるようになります。

 

・動機が違う

一見すると、求道者も世間の人と同じように仕事をしたり無常の幸福を求めているように見えますが、根本的な動機がまったく違います。心のベクトルがまったく違うのです。たとえば、世間の人は無常の幸福を手に入れるために仕事をしますが、求道者は自己を知るために仕事をします。

華厳経には、「求道者は、家においては、妻子とともに老いるけれども、しばらくも、さとりへの心を離れず、あらゆる智慧の境界を心に思い浮かべ、みずからにさとりに向かい、他の人々をも、そこへいざなう」と説かれています。

また、一見すると仕事を一生懸命したり世間事を重視しているかに見える求道者が死の解決をし、一見すると仏教用語をよく覚えたり仏教を重視しているかに見える求道者が死の解決をしていないということがあります。どうしてこんなことになるのか、心に目を向ければ仕組みがわかります。この場合、前者は仕事が聴聞になっていたのに対し、後者はただ仏教用語を聞いていただけで大して聴聞になっていなかったのです。

 

・非僧非俗

承元の法難(詳しくは第5巻)の際、親鸞は僧籍を剥奪され僧侶でなくなりましたが、かといって俗人でもないため、自身を非僧非俗と位置づけました。現代の求道者も非僧非俗の精神が必要です。

 

・世間と仏教は密接不二

「世間」と「仏教」は切っても切り離せない関係にあります。

仏教では、絶対的真理(真諦という)と相対的真理(俗諦という)は密接不二の関係にあると説きます。不二とは、紙の裏表のように、二つではないが一つでもなく、互いが密接に関連しあっているということです。

「大乗仏教では,真諦を説くにも世俗の言語や思想をもってせねばならず,世俗諦によらねば真諦へは至れぬとして,真俗二諦は不二と説く」(百科事典マイペディア)

「仏教」は世間の影響を受けているのです。

逆に、「仏教」も世間に影響を及ぼしています。

「仏教に興味がない」という人も多いですが、日本は仏教国なので、意識するとしないとにかかわらず、生まれた時から仏教の影響を受けています。そのことは、生活の中で多くの仏教用語が使われていることからもうかがえます。たとえば、次の言葉はすべて、元は仏教用語です。

「挨拶」「愛着」「諦める」「悪魔」「アバター」「阿弥陀」「ありがとう」「安心」「意地」「意識」「意地悪」「一大事」「引業」「因縁」「有頂天」「会釈」「縁起」「演説」「億劫」「開発」「餓鬼」「覚悟」「我慢」「勘忍」「甘露」「教授」「愚痴」「下品」「快楽」「玄関」「乞食」「言語道断」「金輪際」「懺悔」「三昧」「自覚」「食堂」「四苦八苦」「示談」「実際」「実際」「自然」「慈悲」「娑婆」「邪魔」「自由」「宗教」「執着」「修行」「出世」「修羅場」「正直」「精進」「小僧」「正念場」「上品」「成仏」「浄瑠璃」「所詮」「世界」「世間」「善哉」「相応」「退屈」「醍醐味」「大衆」「大丈夫」「沢庵」「他力本願」「旦那」「畜生」「知事」「道楽」「道具」「どっこいしょ」「とにかく」「貪欲」「内緒」「奈落」「人間」「ばか」「皮肉」「火の車」「平等」「不覚」「不思議」「不退転」「分身」「分別」「変化」「方便」「微妙」「無尽蔵」「迷惑」「滅相」「もったいない」「世も末」「立派」「利益」「流通」

 

〇正しい目的が必要

死の解決という正しい人生の目的を知って初めて、無常の幸福が手段として活きます。価値のないガラクタに手段としての価値が生まれるということであり、世間事から仏教に変わるといってもいいでしょう。

逆に、人生の目的を知らなければ、無常の幸福本来の価値を引き出すことができません。たとえるなら、どれほど高価な材料を手に入れても、料理人の腕が悪ければ台無しにしてしまうようなものです。せっかく努力して無常の幸福を手に入れたというのに、無常の幸福本来の価値を引き出せていないというのは実にもったいないことです。

百喩経にはこんな話があります。

ある愚かな金持ちの男が、友達の家に招待され驚きました。その家は、非常に見晴らしのいい立派な三階があったのです。それを見た男は「自分もこのような三階が欲しい」と思い、早速大工を呼びつけました。

しばらくして期待に胸を膨らませ様子を見に行くと、まだ基礎工事の段階でした。

「三階はまだできないのかね」

「はい、立派な三階を作るにはしっかりとした基礎工事が必要です」

それを聞いた男は、「私は一階や二階はいらないのだよ!立派な三階だけを早く作りたまえ!」と怒鳴ったといいます。

この話を聞けば、誰もが「バカな男だ」と笑いますが、人生の目的を知らずに無常の幸福を求める人間は、この愚かな男と同じです。

 

・手段が目的になってしまっている

「無常の幸福を手段に使っている」という人もいますが、目的も無常の幸福となっており、これでは意味がありません。たとえば、「仕事でもっと成功するために金を使う」とか「結婚するために恋愛する」「子供を産むために結婚する」という具合です。仏教者は死の解決をするために投資しますが、世間の人は無常の幸福を得るために投資します。幸せになることが目的であるのに、無常の幸福を求めることそのものが目的になっているのです。

 

・不純な動機

釈迦の弟子に難陀という人がいました。彼は、出家したものの美しい妻のことが忘れられず、修行に身が入っていませんでした。

その心を見抜いた釈迦は、難陀に天上界の美しい天女たちを見せました。すると、難陀は妻のことを忘れ、今度は天上界に生まれたいと願うようになり、そのために猛烈な修行をするようになりました。

次に、釈迦は難陀に地獄を見せました。そこでは多くの罪人が八つ裂きにされ、悲鳴をあげていました。すると、地獄の鬼が難陀に向かって言いました。

「難陀という男が、天上界で遊びほうけた後に地獄に堕ちてくるから待っているところだ」

これを聞いた難陀は真っ青になり、その後、心を入れ替えて死の解決を求めたといいます。

難陀は「天女に会いたい」という欲のために修行していましたが、これは不純な動機です。この話は、求道は死の解決のためだけにあるということを教えているのです。

死の解決以外の動機は、すべて不純な動機です。金や名誉といったものだけでなく、「精神を鍛練したい」「人に役立つことをしたい」「癒しを得たい」等々、一見すると立派そうに思える動機も同じです。これらはすべて無常の幸福にすぎず、死の解決を達成するための手段でしかありません。仏教に興味を持つ人は多いですが、不純な動機で求める人も多いです。

 

・目的を知らない恐ろしさ

自己を知ること以外は、死を解決できない行為、つまり地獄に堕ちる恐ろしい行為です。その恐ろしさがわからず、世間の人々は無常の幸福を求めているのです。人生の目的を知って、無常の幸福で幸せになろうとする生き方から、無常の幸福を自己を知る手段に活かす生き方へと、早く転換しなければなりません。

 

〇激しい無常を観じるような求め方

特に、無常を観じ、菩提心が生じるような求め方が大切です。つまり、幸せの中に寂しさや虚しさを感じるような求め方をすることが大切なのです。

本物の菩提心は、真剣に幸せに向き合わないと生じません。幸せを全力で求めた結果知らされる無常観や無力観、罪悪観といったものが爆発的な求道心につながります。

「魂が成長してくると菩提心が目を覚まして、今まで気がつかなかった人生の無常がまざまざと心眼の前に浮いてくる。生きることの価値が疑われてくる。それは科学によって与えられた、生きることの便宜によって慰められない要求である」(福来友吉)

最終的には「火の中をかき分ける真剣な聴聞」をすることが要求されますが(詳しくは第6巻)、仕事が聴聞になっているのであれば、「火の中をかき分ける真剣な仕事」、恋愛が聴聞になっているのであれば、「火の中をかき分ける真剣な恋愛」をすることが大切ということです。

 

・寂しさには2種類ある

寂しくて修行する人も多いですが、寂しさといっても、大きく2つあります。つまり、「幸福が手に入らない寂しさ」と「幸福が手に入る寂しさ」です。

前者の寂しさは生活苦であり、仏教で説く無常観とは違います。

後者の寂しさが人間苦であり、仏教が説く無常観です。その例として、先に、鬼塚勝也や芥川龍之介などを紹介しました。現代では「実存的な孤独やうつ」などといわれるのかもしれません。

「仏教の聖者たちの呈したノイローゼ様症候群は、主体的精神次元の世界における、現存在を超越せんとして発した実存的苦悶であります。これに反し凡人の陥るノイローゼは、客観的次元の世界における平均値より下降して、そこにもがく苦悩であって、まったく質を異にするものであります」(岸本鎌一/精神科医/名古屋大学名誉教授/「人間回復の道―仏教と精神医学」より)

心理学者のクラーク・ムスターカスは、「この世に生まれ、激しく生き、ひとりで死んでゆくことの本質にある孤独が、実存的孤独である」と言いました。

 

・無常の幸福の力

別な言い方をすれば、無常の幸福は、自己を知ることへつながる大きな力、絶対の幸福へつながる大きな力を秘めているともいえます。ですので、世間的な無常の幸福だからといって侮ることはできません。「相対的な苦や楽」「相対的な善や悪」を過小評価する人は少なくないので注意が必要です。

「無常の幸福を活かす」ということについて、まだよくわからないと思うので次巻以降でも説明していきます(特に第7巻以降)。

 

〇無常の幸福を捨てる覚悟

無常の幸福から死の解決に目的を変えるということは、別な言い方をすれば、より優れた道を選ぶということです。どんなことにもいえますが、より優れた道を選び向上するためには、劣った道を捨てる覚悟がどうしても必要になります。

「精神的進化の歩みは、それまで動物的欲求に執着していた心を一旦は否定することがどうしても必要である」

「不安定な地盤をしっかりとした地盤に作り替えるためには、どうしても、今まで作ってきたビルを一旦は取り壊さなくてはならない」(望月清文)

アインシュタインは「未来の自分のためなら今の自分を捨てる覚悟を持たねばならない」と言いました。

青春のすべてを蘭学に費やしていたという福沢諭吉は、世界の大勢が英語にあることを知るや、大きなショックを受けながらも、蘭学を捨て英語を勉強し始めたといいます。

世間の人間でも未来の幸せのためにこれだけ捨てるのです。未来の幸せといっても、彼らが求めるのは無常の幸福です。無常の幸福を手に入れるために無常の幸福を捨てたにすぎません。未来永劫救われる死の解決という幸せを手に入れようとする求道者は、一切を捨てる必要があります。

・仏教の価値

人間にとって「死にたくない」という願いほど強い願いはありません。肉体・家族・財宝etc.人間には大切なものが色々とありますが、命の危険が迫るにつれ、価値観は大きく変わっていき、自分の命以外のすべての価値がどんどんなくなっていきます。

そして、最後はそれらの価値がゼロになり、「死を解決する方法があれば、それらをすべて捨ててでも知りたい」と願うようになります。死を解決する方法である仏法の価値が本当にわかれば、経にあるように「ガンジス川の砂の数ほどの身命を捨てても一句の法門を聞くに如かず」ということになります。

「このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや」(持名鈔)

(訳:死の解決をして苦悩の輪廻から解脱することができるならば、一世の短い命を捨てることなど物の数ではなく、惜しくもない。まして財宝を捨てることなど言うまでもない)

誰でも臨終になれば強い無常を観じ菩提心が生じますが、それでは遅いので、平生元気がいい時に強い無常を観じ菩提心を生じさせる必要があります。そうすれば自ずと仏法の真価に気づくことができます。

 

・捨てるとは心根の問題

ここで重要なのは、世間を捨てる覚悟というのは物や形ではなく心根であり執着心であるという点です。いわゆる「世捨て人」のように、ただ捨てればいいというわけではありません。

たとえば、仕事や学校をやめればそれでいいかというと、そう単純な話ではないのです。初心者は特に「鵜の真似をする烏」になりやすいので注意が必要です。

 

・「自分にしかできない仕事」

また、世間事は、どれほど重要で責任あるものであっても代わりがいる世界です。

芥川龍之介は次のような話をしています。

「僕の書いた文章はたとえ僕が生まれなかったにしても、誰かきっと書いたに違いない。したがって、僕自身の作品というよりもむしろ一時代の土の上に生えた何本かの草の一本である。すると僕自身の自慢にはならない。僕はこう考えるたびに必ず妙にがっかりしてしまう」

自分がやらないことで一時的に困る人もいるでしょうが、結局、なんだかんだで世の中はまわっていきます。

しかし、死の解決は自分以外に代わりがおらず、死の解決をしないと死後は地獄です。

 

・すべてを捨てた釈迦

求道は総力戦です。すべてを捨ててかからないと達成できません。仏教の開祖である釈迦に学びましょう。

釈迦は、今から2500年程前の4月8日、インド(現在のネパールのルンビニ)にて、シャカ族の王子として誕生しました。

釈迦は幼少から人並み外れた才能を発揮します。7歳の頃、学問と武芸の先生として、それぞれバッダラニーとセンダイダイバーというインドで1番優れているとされる家庭教師がついていました。しかし、あっという間にこの2人の能力を上回ってしまい、2人が「太子には何も教えることが無い」と辞職を願い出たほどだったといいます。

やがて成長して16歳になると、隣国コーリ城主の娘ヤショダラ姫と結婚し子供を設けます。

何不自由ない生活を送っていましたが、「」「」「」といった人間の根本的な問題に悩み、その思いは日増しに強くなっていきました。

いつも憂慮している釈迦を見て、父である浄飯王も頭を悩ませていました。何とかして釈迦に王位を継承させたかった浄飯王は、「このままでは本当に出家してしまうかもしれない」と恐れたのです。そこで、三時殿と呼ばれる、夏期・雨期・冬期の3つの季節に対応した宮殿を建立したり、インド中の美女を集め贅の限りを尽くした宴を催すなど、様々な手段を用いて釈迦を思い止まらせようとしました。欲に耽溺させることで出家を阻止しようとしたのです。

しかし、何をやっても釈迦に変化はなく、それどころか火に油を注ぐ形となり、ますます出家への思いを強くしていきました。

「ここまでやってあげているというのに、お前は一体何が不満なんだ。願いは何でも叶えてやるから言ってみろ」

業を煮やした浄飯王が問いただすと、釈迦はこう答えました。

「私の願いは、『老』『病』『死』の苦しみがなくなることです。この願いを叶えて頂けるのなら王となります」

当然、この願いは浄飯王には叶えられません。浄飯王は何も言えなくなりました。

そして、29歳の時、死の解決をするため釈迦は出家しました。出家したということは、すべてを捨てたということです。家族も王位も捨てたわけですが、こういったものを大事にしていなかったわけではなく、むしろ非常に大事にしていました。それにもかかわらず捨てたということは、死の解決は、大事な家族よりももっと大事な問題であることを意味します。

このように一切を捨てた釈迦ですが、釈迦は今生だけでなく、過去世から法のために一切を捨てています。ジャータカ(釈迦の前世物語)からも1つ紹介しましょう。

波羅捺国に梵摩達多という王がいました。王は国民のためを思い善政を敷いたため、国は豊かで国民は平和に暮らしていました。

やがて夫人が懐妊し、立派な男の子が誕生しました。立派な名をつけようと思い悩んだ末、求法と名づけました。

成長するにつれ、その名の通り法を求め、四方に良師を求めるようになりました。しかし、どんな人に聞いても心から満足いくものではなく、太子は懊悩していました。

しばらくして、1人の修行者が宮殿に現れました。

「私は真実の法を悟っている。誰かこの法を聞く者はいないか」

この言葉に慶喜した太子は、急いで出ていきました。そして、修行者を宮殿に招き入れ、丁重にもてなし、法を求めました。すると修行者は太子に尋ねました。

「法を聞くことは甚だ難しいことである。太子はどれほどの代償をもって聞こうとするのか」

太子は答えました。

「もし真実の法を聞かせて頂けるなら、私がもっている財産や地位、名誉、それだけでなく妻子も、すべてあなたに差し上げましょう」

「そういったものは私には価値がない」

「では、何をお望みなのでしょうか」

「深さ十丈の穴を掘り、その中に火を満たし、その中に身を投げれば法を説こう」

太子はこれを聞いて歓喜し、早速穴を掘って火を満たしました。

するとそこへ、両親や妻子、諸大臣が騒ぎを聞きつけやってきました。そして、修行者に出ていくよう命じました。それを聞いて修行者は憤慨しました。

「私が強要したのではない、太子が自分の意志でやろうとしているだけだ」

帰ろうとする修行者に太子は驚きました。

「お待ちください!あなた様のおっしゃる通りにいたします!」

いよいよ危機感を募らせた王は必死で太子を止めようとしました。

「お前には国を継ぐという大事な責務がある。親を苦しませて平気なのか」

妻子も泣きながら訴えました。

「あなたは子供が可愛くないのでしょうか。どうかおやめください」

諸大臣も嘆願しました。

「国民のためにもどうかおやめください」

皆、必死に止めようとしましたが、太子の心はぐらつきませんでした。

「私は、これまで無量の生死を繰り返してきたが、欲や怒りのために死に、法のために命を捨てたことがなかった。菩提を得るためにこの命を捨てるのだ。どうして私を止めようとするのか」

太子の言葉に、もはや誰も止める者はいませんでした。

「ただ、死んでしまっては法を聞くことができない。大師よ、その前に法をお説きください」

修行者は太子のために一偈を説きました。太子はこれを聞いて喜び、脱兎の如く火坑に身を投げました。両親、妻子、諸大臣が悲鳴をあげた次の瞬間、目を疑う光景が広がっていました。火坑が蓮華宝池に変わり、その中に太子が座っていたのです。

その時、大地は六種に震動し、空中からは妙なる音楽が聞こえ、諸々の天華が雨降らしました。

そして、修行者は帝釈天の本身を現し、太子の求道心を讃嘆しました。修行者は、太子の求道心を試そうとして現れた帝釈天の化身だったのです。

釈迦に限らず、善知識と呼ばれるような人たちの中には、その気になれば国の支配者となれるような力を持っていた人もいますが、そのような道を捨て死の解決を選んでいます。それぐらい大事な問題であり、すべてを捨てないと解決できない問題ということです。

「同行相親みて相離るること莫れ 父母妻兒百千萬なれども是菩提の増上縁に非ず 念念に相纏ひて悪道に入る 身を分ちて報を受くるに相知らず」(般舟讃)

(訳:同行は互いに親しんで離れてはならない。父母や妻子は百千万もの多い数があっても、これは真実の幸福を得るための良縁ではない。刻一刻と互いにまきついて悪道に入っていく。分かれてそれぞれの報いを受けるが互いに知らない)

同行とは、「極楽に行くために同じ行をしている人」という意味です。

 

・捨てれば活きる

仏教には、「捨てれば活きる」という言葉があります。捨てることで廃るのではなく、人や自分自身を活かすことになるのです。

「通さぬは 通すがための 道普請」という諺があります。道普請とは道路工事のことです。道路工事があると通れなくなるので非常に迷惑なことですが、それは、より快適な道路にするためです。

同じように、捨てることによって周囲に一時的に迷惑をかけるかもしれませんが、それはすべてを活かすためです。一切を捨てた釈迦が、その後どうなったかを見れば明らかでしょう。

歌人の西行は「惜しむとて 惜しまれぬべき 此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」と詠みました。

「惜しんでも惜しみ切れないこの世である。身を捨ててこそ、身を助けるのである」という意味です。

大正時代、広島駅で駅長を務めながら熱心に求道していた人がいました。

この駅長があるとき突然、「今晩死んだら・・・・」と後生に驚きが立ちました。今死んだら今から地獄が始まるということを体験的に感じたのです。何も手がつかなくなった駅長は、急いで手次ぎの寺へ駆け込み住職に頼みました。

「後生が心配になったので、すぐに仏法を聞かせてください」

「そうか。ところでお前、仕事辞めてきたか?」

「いえ、辞めていません」

「仏法を聞きたいのなら仕事をすぐ辞めてきなさい」

こう言うと、住職は奥へ引っ込んでしまいました。駅長は困りました。

(もし自分が仕事を辞めたら、家族の生活や駅長の責任はどうなるのか・・・・)

仕事を辞めるべきか、一晩中考えに考えましたが、結論が出ませんでした。

しかし、夜明けを迎えた頃です。

(そうだ、後生は一人一人のしのぎなりというではないか。家族が自分の後生を解決してくれるわけではない。自分で解決するしかないのだ)

こう決心した駅長は、辞表を書いて朝一番で上司に提出し、その足で寺へ向かいました。

「仕事辞めてきたか?」

「はい、辞めてきました」

「そうか、それでは本堂にあがりなさい」

冬の寒い日でしたが、住職は駅長のために真剣に法を説きました。駅長も瞬きもせず、食い入るようにして聞きました。

このような真剣な聴聞であったため、駅長はすぐに死の解決を果たしました。躍り上がって喜ぶ駅長に住職は言いました。

「よくぞ求め切った。すぐに辞表を撤回してきなさい」

住職の意外な言葉に驚きましたが、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

そして、喜びの涙で顔をくしゃくしゃにしながら会社に戻ると、幸いにも辞表はまだ受理されていませんでした。

その後、より一層仕事に励み、名物駅長として家族からも仕事仲間からも信頼を集め、幸せな一生を送ったといいます。

「道心の中に衣食あり」という言葉があります。道心とは求道心のことで、衣食とは現世利益(現在世での幸福)のことです。太陽に向かえば影もついてくるように、死の解決を求めて求道すれば、名利などの現世利益もついてくるということです。藁幹喩経には、「稲を求めれば藁も自ずと手に入るように、死の解決に向かえば現世利益もついてくる」とたとえられています。

「阿弥陀如来来化して 息災延命のためにとて 金光明の寿量品 ときおきたまえるみのりなり」(浄土和讃)

(訳:阿弥陀仏が現れ、災難を防ぎ長生きさせるために、金光明経の寿量品を説き、阿弥陀仏が現世利益を与える仏であることを教えている)

一生懸命求道すれば必ず現世利益があります。逆に言うと、この教えに従えば、現世利益がないということは、一生懸命求道していない証拠だということになります。

 

・仏教は金持ちになる教え

仏教に対するイメージとして多いのが、「金は無いけど笑顔がある」というものです。確かに、最終的に目指す境地は、金の有無に関係なく喜べる境地です。しかし、このように思っている人の腹底を尋ねると、「なんだ、金は手に入らないのか、残念」という具合に、欠点がある境地を想像してしまっています。ですので、こう思っている人にわかりやすく言えば、「金も笑顔もある」のが正しい仏教に近いイメージになります。

 

〇世間は捨て難い

そうはいっても、世間にどっぷり浸かって生きてきたこともあり、人間はなかなか無常の幸福を捨てられません。

・世間事が重くなっている

本願寺の蓮如は「仏法を主とし、世間を客人とせよ」と言いましたが、ほとんどの人は世間事に比重を置いて一生を終えてしまいます。

民俗絵画の大津絵の1つに、両端に釣鐘と提灯がぶら下がっている天秤棒を猿が担いでいる絵があります。

大津絵©大津絵の店

釣鐘のほうが重いので、普通は釣鐘が下に下がり提灯が上に上がっているはずですが、この絵は逆に、釣鐘が上がり提灯が下がっています。これは、本来重きを置くべき道理(仏教)が軽くなっており、軽いはずの世間事に重きを置いている、主客顛倒した世の人々の姿を表しているのです。

「何ぞ衆事を棄てざらん。おのおの強健の時に曼んで努力修善を勤めて精進して度世を願え。極めて長生を得べし。如何ぞ道を求めざらん。安所ぞ待つべき。何の楽しみをか欲わんや」(大無量寿経)

(訳:どうして世間事を捨てないのだろうか。健康な時に努力して死の解決を求めれば、限りない幸福が得られるのに、どうして求道しないのだろうか。何を期待しているのだろうか。どんな楽しみを求めているのだろうか)

 

「世人薄俗にして共に不急のことを諍い、この劇悪極苦の中において、身の営務を勤めて、もって自ら給済す」(大無量寿経)

(訳:人間の考えることは浅はかで、急がなくてもいいことを争っており、この激しい悪と苦が満ちた世界で、ただ生きるために働いているにすぎない)

 

「ただ今生にのみふけりて、これほどに、はや目に見えてあだなる人間界の老少不定のさかいと知りながら、ただいま三塗八難にしずまんことをば、露塵ほども心にかけずして、いたずらに明かし暮らすは、これ常の人のならいなり。浅ましといふもおろかなり」(御文)

(訳:ただこの世の一生のことのみ一生懸命で、これほどまで年齢に関係なく、いつ死んでもおかしくない身であると知りながら、今にも地獄に沈むということを少しも心にかけず、いたずらに明かし暮らしているのは世の常である。浅ましいという言葉では言い尽くせない)

コーサラ国の波斯匿王が、久しぶりに釈迦の説法を聞きにやってきました。

「王よ、法を聞くのを疎かにしてまで一体どこへ行っていたのか」

釈迦は少しきつい口調で叱りました。

「世尊よ、王というものは広い領土をかかえ、国民のためにいろいろと仕事があるのです。それで忙しかったのです」

王の言い訳に釈迦は悲しい顔になり、1つのたとえを出しました。

「王よ、ではこんな場合、そなたはどう思うか。ここに、そなたの信頼する家来がやってきて、『今、東西南北から大きな山がすべての生き物を圧し潰しながら迫ってきています』と言ったとする。そうした場合、何をするか」

「世尊よ、そんな事態になっては死から逃れるしかありません」

「王よ、これは単なるたとえ話ではない。死が今にも王に迫っているのだ。この事態において何をなすべきことがあると思うのか」

王は天を仰いで、「私のなすべきことは死の解決だけです」と反省したといいます。

国王のような地位にある人が仏教を聞こうとするのは珍しいですが、それでも世間事の比重が高かったことがわかります。

世間的な成功というのも喜ばしい出来事とは限りません。

八難といって、仏教を聞くことを妨げる八つの困難があると説かれますが、その1つに世智弁聡という難があります。世間事に長けているがために、仏教をそのままの意味に受け入れられなくなるということですが、要するに小賢しいということです。比較の問題ですが、たとえば政治家であるとか社会的地位が高いとされる人たちは転換が難しいです。

 

・仏法に1円の価値も感じない

もっと本心を抉り出せば、人間は仏法を聞いても1円もらったほども喜ぶことができません。「仏法のためには1円も使いたくない」というのが人間の本心であり、仏法のために金を使う時は、生爪が剝がれるような思いがします。名利をくだらないと思えないくだらなさがあるのです。

 

・恒狂の世界

世間は狂っていることもわからない狂い方をしており、経典には「恒狂の世界」と説かれています。世間にどっぷり浸かっていると、その異常さがわからないのです。釈迦が現代の風潮を見れば、きっと血の涙を流すはずです。

 

・根深い価値観

女優のマリリン・モンローは、心を軽視する医者を見て、「ああ、なんてことでしょう。人間は月にまで行こうとしているのに、脈打つ人の鼓動には関心がないみたい」と嘆き、トルストイは「誰もが世界を変革することを考える、だが誰も己を変えようとは考えない」と言いましたが、外に目が向きやすい人間が内(自己)に目を向けるのは難しいことです。

なぜ目が向かないのか、それなりの理由があります。無常の幸福で幸せになろうとすることは世間の常識であり、小さい頃から家庭や学校で教育されます。第1巻で説明したように、世間が信頼を置く科学が心を対象にしていないことも一因です。

「科学か主観性ではなく、科学と主観性なのだと言いたい。きちんと説明され承認が得られるのなら、私的な真実は客観性を損なうわけではない」

「科学者は、その習性として、客観性を重んじるあまり、目が外の世界だけに向いていってしまう。そして、その科学的成果が大発見であればあるほど、意識は、自らの内的世界を見ることよりも、外の世界を見ることにますます強く引きつけられてしまうのである」

「私は、ノーベル賞に代表されるような栄誉への科学者の憧れが、科学者1人1人の意識を客観性の虜にさせ、観念だけを肥大化させた機械的人間に科学者の心を歪ませてきてしまったように思う」(マーク・ベコフ/コロラド大学名誉教授)

物質中心の科学が生んでしまった悪しき面であり、心の科学の進歩を妨げる一因となっています。

このように、外側から「幸せになる方法は無常の幸福しかない」ということを暗に、あるいはあからさまに示したメッセージを24時間365日途切れなく浴びせられます。

意識するとしないとにかかわらず、ちょっとした行為で人間はすぐ影響を受けてしまうものです。たとえば心理学の実験では、ワインを選ぶ際にドイツ語の音楽が流れればドイツのワインを買う確率が上がり、フランス語の音楽が流れればフランスのワインを買う確率が上がることがわかっています。暴力的なゲームをすれば反社会的行為を助長し、向社会的なゲームをすれば、そういう行為を助長することもわかっています。

このような、現代心理学でわかることは表面的なごく一部のことにすぎません。一瞬見たり聞いたり思ったり、どんな些細な行為であっても1つの(行為)であり、阿頼耶識に記憶され必ず影響を受けています。まして、膨大な情報を世間から絶え間なく浴びているのです。その力は非常に強く、集団で洗脳されているようなものです。

「歴史を振り返ってみますと、マインドコントロールはオウムだけの問題ではありません。戦争のほとんどは、国民に対する為政者のマインドコントロールによって遂行されているといっても過言ではないでしょう。戦場で直接に何の恨みも憎しみもない人間どうしが殺し合うのは、マインドコントロールの結果です。オウムの事件はともすれば宗教的問題と一般に考えられていますが、戦争経験をもつ私からみると、国家の集団の本質を改めて問い直された事件ではないかと思います」

「私たちは故意に、あるいは無作為に、そして常に、マインドコントロールを受けていることを忘れてはなりません。情報が増えるほどにマインドコントロールされる機会も増えるので、これに応ずる術を身につけることがますます必要になっています」(泉美治/大阪大学名誉教授)

さらに、外側からだけでなく、内側からは強力な動物的欲求や煩悩、妄念といったものが逆巻いています(妄念については第3巻で詳しく説明します)。

経典もそうですが、2000年以上も前に書かれた書物にも、人間が外に目が向きやすいことがわかる記述があるので、これは人間に生まれつき備わっている性質なのでしょう。

そして、無常の幸福は実際に目に見えるものでもあり、多少なりとも手に入れた体験もあり、その喜びを味わってもいます。

このように外側からも内側からも強い力が働き、大抵の人は無常の幸福を求め続けて人生が終わっていきます。

「われわれはみな幼児の時から催眠状態にある。われわれは自分自身についても自分の周りの世界についても、それらがそうある通りに認識せず、それらを知るために信じさせられてきたやり方で認識しているのである」(ウィリス・ハーマン/心理学者)

長く生きるほど世間に浸かることになり、意識するとしないとにかかわらず、世間の「垢」がつきます。基本的に人間は年を取るほど様々なリスクが増えていきますが(詳しくは第3巻「老苦」)、これもその1つです。

アインシュタインは、「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションである」と言いました。

芥川龍之介は、「より文字の読める文科大学教授は往々、というよりもむしろしばしば、より文字の読めない大学生よりも鑑賞上にはメクラであります」と言いました。

ある番組で、水槽に栗を入れて見抜けるか実験したところ、子供は栗だと見抜いていましたが、大人はウニだと思っていました。

このように様々な世間の垢がつきますが、「幸せになる方法は無常の幸福しかない」という垢は、その最たるものといえるでしょう。もはや一種の宗教です。「宗教を信じない」という人は多いですが、すでに信じているようなものです。

「なぜ生まれたのか意味を知りたい」と言った子供に、「バカなこと考えてないで勉強しなさい」と叱った母親がいますが、自分の無知を棚に上げて、人生の根本問題に疑問をもつ人に、このように言う始末です。

ちなみに、いかに影響を受けていたか、距離を置くことで少しはわかる場合もあります。

「テレビを持たないというのは、入ってくる情報をこちら側からシャットアウトすることだろ。氾濫する情報をカットする方が、かえってものごとの本質をよくつかめる場合が多いんだよ。われわれみたいに、テレビだ、ラジオだと走り回っている人間にはほとんど嘘の情報しか入ってこないからね。嘘の情報をいっぱい身につけるよりは、ときどき入ってくるほんとうの情報を選んだ方がいいにきまっている」(ビートたけし)

 「SNSを1週間やめると幸福度があがる」といった研究も数多くあります。

・真逆の世界

基本的に、「世間」は仏教と真逆といっていいほどの違いがある世界であり、仏教に対する言葉として使われます(本来は仏教用語)。求道者と世間の人は、別の生物といっていいほどの大きな違いがあり、第1巻で説明したように死の解決をすると実際に違う種になります。

聖徳太子は「世間虚仮 唯仏是真」と、「世間は嘘偽りであり、ただ仏教だけが真実である」と言いました。「唯」は「只」とは違い、唯一という意味です。

「火宅無常の世界は、萬のこと、皆もって、空ごとたわごと、真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄)

(訳:苦悩に満ちた無常のこの世は、一切が偽りであり、真実であるものは何もなく、ただ死の解決だけが真実なのである) 

「のみぞ」と強調しています。

この世は嘘だらけですが、嘘というレベルで済むような甘い問題ではなく、死後の地獄へつながる非常に恐ろしいことなのです。

 

・コペルニクス的転回

世間を捨て死の解決に目を向けるには、人生観や価値観といったものを180度といっていいくらい、大きく変える必要があります。

「精神的進化を目指すには、それまでの動物的欲求に慣らされ、外の世界にのみ向けられていた意識を自分自身の中に向けるというコペルニクス的転回を必要とする」(望月清文)

 

・捨てるのは苦しい

一言で「捨てる」といっても、内実はピンキリで、大して価値のないものを捨てるのは簡単で楽ですが、大切なものを捨てるのは難しく苦しいことです。

 

・方便から真実へ

難しいことであるため、仏教では様々な「方便」が説かれています。方便とは、サンスクリット語のウパーヤーの中国語訳で、日本語では「真実に近づける」という意味です。

人間は迷い深いので、いきなり真実を説いたところで、すんなりと理解できる人はまずいません。真実に近づけるために、その人の機(能力や性質)に合わせて様々な方便が使われるのです。「仏教」の範囲は非常に広いですが、膨大な経典からも、方便を使わないと真実がなかなかわからない人間の迷い深さを伺うことができます。ちなみに「嘘も方便」とよくいわれますが、これは間違った使われ方です。

「仏教多門にして八万四なり、正しく衆生の機、不同なるがためなり」(教行信証)

(訳:仏の教えは無数にあるが、これは人間の素質や能力に違いがあるためである)

第1巻でも説明したように、科学が外から内(心)へ転換しつつあるので、それに合わせて世間も転換していくかもしれません。方便として科学は期待できます。

 

・わからない人はわからない

また、真実に近づけるための方便であるのに、方便に心を奪われ、方便が目的となってしまっている人は非常に多くいます。

「人、指をもって月を指して、もって惑者に示す、惑者指を視て月を視ざるごとし」(智度論)

これは、「善知識が指(方便)で月(真実)を指しているのに、指に心を奪われて月を見ないようなものだ」という意味です。

オンリーライフでも、メンタルヘルスや恋愛、ビジネスと様々な方便を使っていますが、死の解決まで求めようとする人は非常に少ないです。

わかる人は贅沢が活きますが、わからない人は欲に溺れてしまいます。

わかる人はわずかな幸せからすぐに転換できますが、わからない人はどんなに幸せを手に入れても転換できません。

わかる人は3歳でも仏教がわかりますが、わからない人は100歳でもわかりません。

第40代横綱・東富士が新弟子の頃の実話ですが、親方から「土俵の中には、金でもダイヤでも何でも埋まっている」と聞かされた彼は、夜中に土俵を掘って穴をあけ、親方に叱られたといいます。

また、仏教には「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」という教えがあるのですが、これを聞いた、ある年配の女性は本尊を持ち歩くようにしました。ただ掛けていたのでは破れないからだといいます。この教えは、もちろん破ることを教えているのではなく、それぐらい一生懸命求めよということです。

方便を方便とわからず、方便に心を奪われている人は、東富士や本尊を破ろうとした年配の女性と同じです。

 

〇本物に近づく努力

ベンジャミン・フランクリンは、「金は良い召使いでもあるが、悪い主人でもある」と言いましたが、無常の幸福は、良くも悪くも強い力があります。

しかし、人間は欲の動物なので、悪い方向に力が働きやすく、いつの間にか主従関係がズレてきます。つまり、無常の幸福を求めることそのものが目的となってしまうのです。すぐ世間寄りになってしまう自己であると自覚し、意識的に仏教に近づくよう努力する必要があります。

「仏法には、世間のひまを闕きて聞くべし。世間のひまをあけて、法を聞くべきように思うこと、浅ましきことなり。仏法には、明日と云うことはあるまじき」(御一代記聞書)

(訳:仏法は、世間事をかき分けて聞くべきである。世間事を優先し、暇ができたら仏法を聞こうと思うのは浅ましいことである。仏法には明日というのはないのである)

一切の世間事は幸せになれないため「暇事」です。

・浴びるように聞く

仏教は、間断なく聞くことが大切です。

「仏法を聞いている時は尊い話であると思うのですが、世間に戻ると、籠に水を入れるように、すぐに心が元に戻ってしまいます」

このようなことを言う人に対して蓮如は、「わが身を仏法の水の中にひたしておけばいいのだ」とアドバイスしたといいます。世間事の合間に仏教を聞くという姿勢ではなく、浴びるようにどっぷりと仏教に浸かるという姿勢が大切です。

 

・本物だけを見る

別な言い方をすれば、本物だけを見るということです。

「本物だけを見続けていれば偽物はすぐわかる」と言っていた鑑定士がいましたが、正しい教え(本物)を繰り返し聞けば間違った教え(偽物)はすぐわかります。

逆に、本物を見続けないと、熟練の鑑定士でも偽物を見抜けなくなります。精巧な偽物になるほど、その影響がはっきりとわかるでしょう。「偽物はすぐわかる」と思っているのは自惚れです。意識するとしないとにかかわらず、偽物に触れるだけで必ず影響を受け、知らず知らずのうちに偽物に染まっているのです。

この世は偽物に溢れており、偽物にすぐ影響される自己であることを自覚し、何度も何度も正しい教えを聞き続けなければなりません。もっと言えば、すでに偽物に染まっているのですが、それが自覚できないでいます。

「真贋の見分けに熟するためには『本物』ばかりを見なければならぬ。たとえ参考のためなどといっても、『偽物』に目をなじませると、かえって誤りやすいということであります」(芥川龍之介)

ちなみに、「何度も本物だけを見る」「何度も真実を聞く」、これを洗脳というのなら洗脳する必要があるということになります。「宗教で洗脳される」と聞けば悪いイメージを持つでしょうが、「宗教」も「洗脳」も、この言葉自体は善でも悪でもありません。

 

・捨てる訓練をする

死んでいく時には、一番大切な自分の命をはじめ、強制的に一切を捨てなければならず、その苦しみは筆舌に尽くし難いものです。その時に備え、日頃から捨てる訓練をする必要があります。

 

・体験は遅い

体験というのは強い力がある一方で、遅いという欠点があります。詩人のエッシェンバッハは、「若い時われわれは学び、年を取ってわれわれは理解する」と言いましたが、この流れでは遅いのです。たとえば、1億円を手に入れた幸福感を、手に入れて初めてわかっていたのでは遅いということです。

「経験は、あなたが禿げた時に手に入る櫛である」というアルゼンチンの古い諺もあります。体験して初めて理解するのは下の下です。

ですので、体験以外の方法で理解することが大切です。

たとえば、政治家のビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言い、芥川龍之介は次のように、これまでの自身の経験に照らし合わせることが大切であると言っています。

「何よりも心得なければならぬことは、その作品の中の事件なり、あるいはまた、人物なりを読者自身の身の上に移して見ること、即ち体験に照らし合わせてみることであります」

こういったことも大切ですが、仏教では聴聞を勧めます。聴聞し、まずは頭だけでも理解することが大切です。

 

・行学

しかし、頭だけの理解は弱いので、行動して学ぶことも重要です。これを行学といいますが、行学でないと自己はとてもわかるものではありません。

 

・記録する

時間が経つにつれ、体験時の記憶が捻じ曲がっていくため、体験して感じたことや理解したことをすぐに記録しておくべきです。大きな成功や失敗をした時など、何度も体験できないことは特にそうです。

 

・出家の心がけ

在家は楽をしやすい環境です。誘惑に負けて求道から脱線していった求道者はゴマンといます。ですので、背水の陣という言葉もありますが、出家のように楽ができない環境に身を置くという視点は大切です。

 

・求道しやすい環境を作る

死の解決という目的を明確にしながら、常に求道しやすい環境を整えていく必要があります。また、「蛍雪の功」という言葉もありますが、やる気があれば環境は大抵どうにでもなります。

「情熱さえあれば、自分に能力がなくても、能力のある人を自分の周囲に配すればいいわけですし、資金や設備がなくても、自分の夢を一生懸命に語れば、応えてくれる人はあるはずです。ものごとを成就させていく源は、その人が持つ情熱なのです」(稲盛和夫/経営者)

 

・釈迦が嫉妬する人になる

世間的な成功を羨んでいる人ばかりです。無常の幸福を羨ましいと思えるところが子供ですが、死の解決を羨み、釈迦のような善知識が嫉妬するような生き方をする必要があります。善知識から「かわいそう」などと言われているようではダメです。

 

〇求道の楽しみと苦しみ

求道は苦しみの連続ですが、給料が出るわけでも誉められるわけでもありません。むしろ人のために金も時間も労力も使います。世間の価値観からすれば、「そんなことをして何が楽しいのか」と思うかもしれませんが、これまで説明してきたように、一時的な楽しみを求めているわけではありません。

また、求道中は楽しみがまったくないわけでもありません。

・五楽

たとえば、次のように五楽といって、求道する楽が説かれています。

 

出家楽:世俗を離れる楽

遠離楽:欲を離れる楽

寂静楽:心が澄む楽

菩提楽:求道が進む楽

涅槃楽:死の解決をする楽

 

マインドフルネス(mindfulness)というのが流行っていますが、元は仏教用語で、日本語では「気づき」という意味です。マインドフルネスや瞑想は、心身に良い影響を与えることがわかっています。求道は心身に良い影響を与えるのです。

 

・真実は本当の癒し

釈迦は「真実こそが最上の味」と言い、法句経には「真理を正しく観るならば、真の楽しみ得るだろう」と説かれています。無常を観じることは苦しいことですが、その中には楽もあり、苦と楽が一体になっているのです。

 

・浄土が見える

死の解決をしなくとも、一生懸命求道していると体験的に浄土(清らかな世界)があるということがわかってきます。こういった体験が求道を加速してくれます。逆に、こういった体験がないということは、一生懸命求道していないということです。

 

・苦しみしかない

しかし、求道が楽しいと思っている段階は、まだ初心者です。無常が深まり、求道が進めば死や地獄が眼前に迫ってくるわけですから、苦しみでしかありません。

 

〇絶対にしなければならない

死の解決をしなければ死後は地獄です。一度地獄に堕ちれば助かる方法はありません。ですので、死の解決は「絶対に」しなければならないものであり、「したほうがいい」とか「できたらいいな」というものではありません。

「それほど幸せでもないけど耐えられないほど苦しくもないので、このまま当たり障りなく生きていこう」と思っている人は多いですが、これはとんでもない間違いです。

人生に目的があるとかないとかいう問題ではなく、死の解決をして絶対に地獄を避けなければならないという問題です。どんなに苦しくても、どんなに年を取っても、ずってでも這ってでも求めてゴールする必要があります。どんなに真面目な求道者でも、ゴールしなければ意味がありません。

死の解決をして極楽に行く100点の人生となるか、死の解決をせず無間地獄に堕ちる0点の人生となるか、人生は2択です。

・急いでしなければならない

人間は死と隣り合わせであり、今日死んでもおかしくありません。今日死ねば、今日から地獄が始まるのです。今、幸せの絶頂にいようが、不幸のどん底にいようが関係ありません。ですので、一刻も早く死を解決する必要があります。

「ああ、夢幻にして真にあらず、寿夭保ちがたし、呼吸のあひだ、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失ひぬれば、万劫にも復せず。この時悟らざれば、仏、衆生をいかがしたまはん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれ」(教行信証)

(訳:ああ、この世は夢、幻であって真実ではない。命は保ち難く、吐いた息が吸えなければ死んでしまう。一度死んでしまえば、地獄に堕ち、永遠に抜け出すことはできない。生きているうちに死の解決をしなければ、仏でもどうしようもできない。どうか深く無常を問い詰めて、いたずらに後悔しないでほしい)

 

「一日も片時も、いそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定せよ」(御文)

(訳:一刻も早く急いで死の解決をし、極楽浄土への往生を決定せよ)

信心決定とは「しんじんけつじょう」と読み、死の解決のことです(詳しくは第6巻)。

 

「人生死出離の大事なれば、これより急ぐべきはなく、またこれより重きはあらざるべし」(御裁断申明書)

(訳:死の解決ほどの一大事より急ぐべきことはなく、これほど重いことはない)

 

・必ず後悔する

死の解決ができなければ、血の涙を流して後悔することになります。

「明日も知らぬ命にてこそ候うに、何事を申すも命終わり候わば、いたずらごとにてあるべく候う。命のうちに、不審もとくとくはれられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候う」(御文)

(訳:明日もわからない無常の命であり、何をしようとも死ねば意味がない。生きている間に死の解決をしなければ、必ず後悔することになる。よくよく心得なければならない)

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第2章 死の解決
2.1 死の解決と幸福
2.2 人間に生まれる有難さ
2.3 求道は自己を知る道
2.4 聴聞
2.5 無常の幸福は手段