「聴」も「きく」で「聞」も「きく」と書きますが、真実の仏法を聞くことをいいます。

〇仏法は聴聞に極まる

「仏法は聴聞に極まる」といわれるぐらい、聴聞は重要です。

・聴聞でしかわからない

なぜ、これほど聴聞を重視するのかというと、仏教の一切は聴聞によってのみ理解できるからです。自己にしても、無常や罪悪にしても、死や地獄にしても、聴聞でしか知ることができません。つまり、苦悩の根本解決は聴聞でしかできないのです。

ですので、初めて仏教を聞いた人から「何をしたらいいのか」と聞かれますが、聴聞するよう勧めます。聴聞しないことには何も始まらないのです。仏教は聴聞で始まり、聴聞で終わります。

 

・目的は心が聞くこと

基本的には仏教を耳から聞くことを聴聞といいますが、これだけではありません。自己を知る行為はすべて聴聞になります。 

ですので、経典を読んだり(勤行という)、仏教を人に話したりすること(開顕という)も聴聞になります。

また、後述しますが仕事や恋愛といった世間的な行為も聴聞になり得ます。活かし方次第です。

 

・一切は手段

別な言い方をすれば、耳や目、口や鼻といった肉体は、あくまで心に聞かせるためのツール(手段)にすぎないということです。ですので、たとえ耳が聞こえなかったり、目が見えなかったりしても絶望する必要はありません(むしろメリットにさえなり得ます)。生きている限り救われる可能性があるのです。しかし、死ねば心が聞くことができず、救われる可能性がなくなります。

 

・人による

「自己を知る」「死の解決に近づく」「進歩する」「求道する」「善をする」「聴聞する」、これらはほぼ同義です。

「自己を知る行為」というのは大まかには決まっていますが、厳密には人によります。ある行為が、その人のその時の心理状態によって善にも悪にもなり、聴聞になったりならなかったりします。このあたりについては、これから詳しく説明していきます。

 

〇聴聞は難しい

聴聞は、聞くだけなので簡単なようですが、非常に難しいことです。真理のことを諦といい、真理を明らかに観察することを諦観、真理を明らかに聞くことを諦聴といいますが、様々な力が働き、諦観・諦聴することが難しくなっています。煩悩といった内からの力だけでなく、歪んだ情報や社会的な圧力といった外からの力もあります。ちなみに、現代で使われる「諦める」の語源はここから来ています。

・主観が入る

人間はでできています。これはつまり、自然をありのままに見ているということではなく、業を通して見ているということであり、どうしても主観が入り偏見が入るということです。

そして、人間は1人1人業が違います。業が違うということは、見ている世界が1人1人違うということです。

2015年に、あるドレスの写真が何色に見えるのか話題になりましたが(白と金のドレスなのか、黒と青のドレスなのか)、まったく同じ物を見たり聞いたりしても1人1人違う受け止め方をしているのです。

仏教には、一水四見(いっすいしけん)という言葉があります。「まったく同じものであっても、見る人によって異なる見方をする」という意味です。まったく同じ水であっても、天人は宝石、人間は水、餓鬼は苦しみの火、魚は自分の家と、それぞれの境涯によって4通りに異なって見るようなものです。

「手を打てば 鹿は驚き 魚は寄る 茶店の女中は 返事する」という古歌があります。

手を打つ音を聞いて、鹿は銃声だと思って驚き、魚は餌がもらえる合図だと思って近づき、茶店の店員は客が呼んでいると思って返事するという意味ですが、この歌も一水四見を表現しています。

「心は直接外界を見て認識しているのではなく、記憶回路の照合を介して認識しているということです。つまり、認識は推理・推論であって、これには常にいくらかの誤差と錯覚が混入する恐れがあるということを忘れてはなりません」(水原舜爾/岡山大学名誉教授)

 

「たとえ同じことを経験しましても、人が変われば記憶の背後にある経験も環境も同じではありません。ということは、同じ景色、同じ現象を見ましても、少しずつ異なった『過去の記憶』というフィルターを通してみているということです。すなわち、心に映るものは百人百様だということです。このようなことから唯識は、人はそれぞれ異なった世界に住んでいるというのです。異なった世界に住むとは、人それぞれが異なった主観をもっているということです」(泉美治)

 

「自然現象を最終的に認識する『人の脳』の情報処理が主観的なものであるということは、自然認識(すなわち科学)も客観的には行い得ない、ということを示している。客観的に行い得ているように思えるのは、自然現象の観測者側の学習体験を共通させることで、見かけ上の客観性が保たれているにすぎないのである」

「自然現象はこうである、と認識する時、人はそれまでの学習経験で作った脳の内部世界によってそのように認識しているにすぎない。それまでの学習経験が異なると、自然現象の観察や認識は異なるのである」

「人が共通した学習体験によって育てられない限り、自然現象として観察するものも大いに異なることを示唆している。そしてこのことは、普通の人と異なった環境に生育した人は、普通の人とは異なって世界を観察し認識するようになることを示している。人はみな個々に異なった内部世界をもち、それぞれ異なった自然と接しているのである」(松本元/脳科学者)

セスは次のような話をしています。

「情報は、人格のいくつもの階層から成る、ふるいを通り抜けなければならないのだ。神経系は、データを変換しながらも、そのデータに対して反応する。そういう意味では、中立の状態で存在するものは何もないのである。情報は受け取られると、必然的に神経系が処理し、解釈できる形態に翻訳されるのだ」

「どんな知覚でも、知覚する者の電磁気的、神経的機構を即座に変化させる。君たちの観点からすると、知覚とは神経的構造の変化なのである。受け取る機構そのものが変化し、受け取るものによって変化させられるのだ。私が今話しているのは、知覚の物質的性質のことだ」

「情報は、物質的に有効な人格構造全体と自動的に混ざり合い、絡み合い、それに溶け込むのだ」

「どのような知覚も行為であり、それが働きかけるものを変化させ、さらにそうしながら自らも変化する。ほんのわずかな知覚でも、君たちの体のすべての原子を変化させるのだ。そして次にはその変化がさざ波のように広がるので、最も微細な行為でも、あらゆる場所で感知されるのである」

 

・業に合わせて仏教を聞く

何より怖いのが、業に合わせて仏教を聞いてしまうことです。一水四見であるために、同じ言葉に触れても人によって受け止め方が変わります。自分の業にあわせて聞いてしまい、諦観・諦聴できず、釈迦の意図する通りには聞けないのです。

「仏、一音をもって説法を演説したもうに、衆生、類に随って解を異にする」(維摩経)

(訳:仏が一つの法を説いても、その人の業によって違う解釈をする)

衆生とは生きとし生けるものすべてを指し、もちろん人間も含まれます。

たとえば、一緒に聴聞した人に、どう理解したか後で聞いてみると驚くべき理解をしているということがよくあります。

源信は、自己の姿を「予がごとき頑魯のもの」と言っています。これは、「私のような頑固で愚かなもの」という意味ですが、すべての人間は「頑魯のもの」です。

 

・早合点

仏教は奥深い教えであるために、早合点してしまう人が多くいます。「群盲、象をなでる」という諺があります。これは次のような意味です。

「大勢の盲人が象の体をなでて、それぞれが自分の触れた部分の印象だけから象について述べたというたとえによる。凡人には大人物や大事業などの全体を見渡すことはできないものだ。元来は、涅槃経・六度経などで、人々が仏の真理を正しく知り得ないことをいったもの」(大辞林)

象の足だけを触った人は、象というのは柱のようなものだと思い、象の鼻だけを触った人は、象というのは太い綱のようなものだと思うという具合です。この話では、盲人たちはしまいには殴り合いのケンカをしてしまいます。

最初は意味がわからなくてもよく、聞き続けることが大切です。やがて、ところどころですべてがわかるようになります。

 

・「私」を捨てる努力

このように、内側からも外側からも様々な力が働き、諦観・諦聴することを妨げています。ですので、意識的に諦観・諦聴できるよう努力していく必要があります。

「研究結果から明らかになったのは、あなたが悟りを求めているなら、自分の通常のものの考え方や現実の体験の仕方を積極的に阻害することで、自ら意図的に悟りを求めていかなければならないということだ」(アンドリュー・ニューバーグ)

 

「『気づき』を促すためであれば、時に大きく感情を揺るがすような攻撃的言動も辞さないほどの姿勢が取られ、まさしく壮絶な苦闘が繰り広げられることもしばしば見られる。『気づき』という契機は、それほどの努力をもってして、ようやく得られる困難な過程であり、またそれほどの努力をしてでも手にするべき、重大なものであるともいえるだろう」(安藤治/精神科医/花園大学教授)

 

仏教を聞く時は「私」を入れてはなりません。「己を虚しゅうして聞く」などともいわれます。

「聖教は句面の如く心得べし、その上にて師伝・口業はあるべきなり、私にして会釈すること然るべからざることなり」(御一代記聞書)

(訳:聖教は一字一句加減せず、その文面に書かれている通りに頂くべきである。その上で、先生の言葉を頂くべきである。自分勝手な解釈をすることは決してあってはならない)

 

「親鸞におきては、『ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし』と、よきひとの仰せを被りて、信ずるほかに別の子細なきなり」(歎異抄)

(訳:この私は、「ただ聴聞して阿弥陀仏に救われるのである」という善知識の言葉を信じているだけであり、別の何かがあるわけではないのだ)

善知識とは仏教の正しい先生という意味です。

 

・自分で気づくしかない

真実の自己に気づかせるために仏教では様々な教えが説かれていますが、最終的には、自分で気づくしかありません。

ガリレオは「人を教えることはできない、ただ自悟させる手助けをするにすぎない」と言いましたが、自分で自分の欠点に気づいて自分で良くしていくしかないのです。

有名な「見えないゴリラ」と呼ばれる実験のように、気づけば必ず驚き、「なぜ、こんな当たり前のことに気づかなかったのだろう」と不思議に思うはずです。

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第2章 死の解決
2.1 死の解決と幸福
2.2 人間に生まれる有難さ
2.3 求道は自己を知る道
2.4 聴聞
2.5 無常の幸福は手段